59題灘本・師岡論争―部落差別と天皇制

 

灘本・師岡論争とは?

 京都部落問題研究センター所長の灘本昌久氏が、「部落解放に反天皇は無用」(同研究センター機関誌『Memento』12号2003年4月)という論考を発表した。このセンターは、天皇制を差別の元凶として対決するというスローガンを掲げる部落解放同盟京都府連と協力関係にあるので、この論考はかなりの波紋を呼んだようだ。

 これに対し、元京都部落史研究所所長の師岡佑行氏が「反天皇制は部落解放の核心である―灘本昌久『部落解放に反天皇は無用』を批判する」(同誌13号2003年7月)という反論を発表した。その内容はかなり激しい批判で、罵倒とも思える表現すら出てくるものである。

 

灘本昌久「部落解放に反天皇は無用」(Memento』12号)

http://www.asahi-net.or.jp/~qm8m-ndmt/memento/m_12/yomimono.html

師岡佑行「反天皇制は部落解放の核心である」(『Memento』13号)

http://www.asahi-net.or.jp/~qm8m-ndmt/memento/m_13/yomimono.html

 

灘本氏の主張

灘本氏の所論については、そのさわりを濃緑色で紹介する。

 

本当に部落差別の元凶が天皇・天皇制であり、部落解放運動がそれへの反対・対決を中心的スローガンとしてかかげつづけていなくてはならないものだろうか。

中世から近世にかけての天皇と河原者の関係は、決して単純な支配・被抑圧の関係ではなく、庇護・奉公の関係であって、そこに部落の天皇への親近感の一端が根ざしていること。解放令以後、「天皇の下での平等」は国の基調として終始一貫しており、水平社の糾弾闘争もそれを基盤になされたもので、水平社運動を担った人が、内発的な動機から反天皇になることはなかったこと。戦前に松本治一郎が反天皇の急先鋒であったことはなく、戦後も天皇の存在を一定認めたうえでの、限定的な批判であったこと(私的にはともかく、公的には)。戦後、解放同盟が反天皇を綱領に明記したのは1960年からで、しかも運動の中に広まるのは、1980年代後半以降の短い歴史しかないこと。こうした経緯をふまえ、また普段の生活の中での差別問題の具体的像を考えると、部落問題の解決という点からみて、反天皇の運動を先鋭に繰り広げる必要は、どこにも見出せない。現在の部落解放運動に散見される極端な反天皇主義は、極端な天皇神格化と同様危険な発想であり、足が地についていない思想なのである。

 

私は部落問題の歴史には詳しくないのだが、彼の文章には違和感なく読むことができた。

 

師岡氏の反論への感想

 これに対する師岡氏の反論であるが、これはさらに長文である。内容は彼自身の生い立ちに始まり、天皇の責任を問い、部落問題における天皇について「部落差別と闘う運動にとって天皇制を廃止することは根本的課題」と説く。しかし私には違和感を持つ部分が多かった。

いま彼の部落問題の文章(第3章以降)の中からさわりを濃青字で紹介し、私なりの感想を書きたい。

 

天皇制が実践的な課題の対象として登場するのは、灘本も援用する国際共産主義運動の総本山コミンテルンが1932年5月に発表した「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」、略して32年テーゼとよばれる文書においてであった。」‥

33年3月開催の全国水平社第11回大会にさいして左派の全水解消派が作成した「運動方針討議委員会の意見書」‥この「意見書」には「天皇制の打倒なくして部落民の解放はありえない」とはっきりと「天皇制打倒」がうたわれている。部落のなかではじめて天皇制にふれた文書には反天皇制の旗が高々と掲げられていたのである。

 

部落問題で天皇制が登場するのは、コミンテルンの1932年テーゼからである。従って部落の生活経験から反天皇の思想が生まれたのではなく、国際共産主義運動から反天皇が持ち込まれたということについては、師岡・灘本両者ともに事実として認めるところである。

 

 

「意見書」は「日本における政治的反動と封建制の一切の残存物と強力な主柱である天皇制はすでに吾々が述べた如く、特殊部落民を封建的身分関係に束縛する根拠である」と述べている。つまり天皇制こそが部落差別の原因ととらえてその打倒をうったえている。
 部落解放運動のなかで天皇制が登場してくるのは、「意見書」にみられるように部落差別が存在する根拠をそこに見出したからである。‥

当時、「天皇制の打倒なくして部落民の真の解放はありえない」と認識したのは、少数の北原泰作や朝田善之助ら全水左派だったと考えられる。‥

天皇制問題がはじめて部落解放運動のなかで登場したとき、わずかな左派の活動家が提起した課題だったのであって、最初から広範な部落大衆の支持を受けたのではなかった。

 

師岡氏は左派の人たちの具体名(北原泰作・朝田善之助)を挙げて、彼らが反天皇を持ち込んだことを指摘する。そしてそれは天皇制を差別の原因として打倒の対象とすることが正しい考え方であったとするものである。これが灘本氏との最も大きな違いであり、主要な論争点である。

 

 

1936年2月衆議院議員に当選した松本治一郎は政府に対して「華族制度改正に関する質問主意書」を提出した。‥

灘本が、この文書で注目するのは「政府当局者は機会ある毎に『我国は同一種系の民族の血を成せるものにして上御一人下万民の国体なるが故に一国一家族の邦なり』と説いてゐる。若し当局のいへる所が真実であるならば、一国万民の我国に何等差別待遇はない筈であり、またあってはならないのである」と述べている箇所である。そして、ここから「まさに、戦前の水平社は、天皇の下の平等を終始一貫求めてやまなかったのである」と結論づけるのである。これは、なんという文書の読み方であろうか。あまりの甘さ。‥

「戦前の水平社は、天皇の下の平等を終始一貫求めてやまなかったのである」と灘本が強調することこそ、歴史の偽造であろう。たしかに西光万吉はじめ、天皇に親近感を持つ水平社の幹部はいたし、糾弾のさいに明治天皇の五カ条の誓文が持ち出されたことも少なくなかった。しかし、水平社創立宣言が「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で結ばれて、天皇陛下万歳で終わらなかったのはなぜなのか。宣言が「過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事実」と痛烈に指弾したのは、主要には解放令とそれ以後の政府による部落にたいする施策に対してなのであった。‥
 十分にこれらの史実を知っている灘本が、「天皇の下の平等」を水平社が追い求めてやまなかったと強調するのは、部落と天皇のあいだの親密な関係を明らかにすることにつとめてきたあまり、ひとつの価値観をつくりあげてしまったからであろう。事実は大きく歪められてしまっている。

師岡氏は灘本氏を「あまりの甘さ」「歴史の偽造」「事実は大きく歪められた」と激しく批判している。

しかし師岡氏の文章をいくら読んでも、戦前の水平社がもともと反天皇であったとはとても思えない。灘本氏への批判は当を得ていないように感じるのだが、どうであろうか。

 

 

灘本は北原がすでにこのとき転向して「天皇制打倒の方針に完全に絶縁しているので、出獄してから天皇制に反対する理論武装を手伝う理由はまったくない」という。しかし、これはあまりにも転向を字義通りに受け取り過ぎている。転向の内容はさまざまで、完全に方向を転換したものも居れば、偽装転向もある。北原の場合、後者ではなかったか。

1940年5月、北原泰作・朝田善之助ら全水左派は部落厚生皇民運動全国協議会の結成をめざした。皇民運動では、部落差別とは「反国体的矛盾」の一つで「一君万民、君民一体の日本国民の冒涜である」とされた。

 

師岡氏は北原泰作について、一方では偽装転向としておきながら、その彼が軍国主義の時代に皇民運動に努力したことを紹介している。これでは偽装転向とは言えないのではないか。矛盾した記述のように思える。

また戦前の水平社の活動家が、左派を含めて天皇の下での平等を目指していたのは事実であろうことが、ここからも窺える。

 

 

部落解放人民大会の主題は天皇制であり、解放委員会のリーダーたちは天皇制との対決、打倒をうったえ、聴衆はこれに賛成した。これが戦後部落解放運動開始のさいの情景であった。

 

これは戦後の1946年2月19・20日に京都で開かれた部落解放全国委員会結成大会とひきつづき開催された部落解放人民大会でのこと。戦後の部落解放運動の始まりは共産党の大きな影響下にあったことを示すものだ。ただし師岡氏はこれが正しいことだったとしている。

 

 

部落解放同盟が綱領に「天皇制の廃止。一切の貴族的特権の完全な廃止」をかかげたのは1960年のことである。灘本は「戦後の左翼的言論が横溢した敗戦直後にあっても天皇制反対が綱領に書かれなかったのに、1960年になって、天皇制反対が現れるのはやや奇異の感がする」という。「左翼的言論」を評価の基準に置くのはいかにも灘本らしいが、そんなものを顧慮することなくすすめられたのが部落解放運動の魅力だったはずだ。

師岡氏によれば、1960年までの部落解放運動は綱領に天皇制の廃止を掲げなくても反天皇を進めてきたし、それが「魅力」ということである。解放運動が左翼運動の一環であったことを認め、それを是としている。社会主義の破産が明らかになって十年以上も経っている現在、なぜそれが「魅力」という評価になるのだろうか。

 

 

わたしは、部落解放運動の歴史を通観しつつ、ここに来てようやく天皇制が綱領のうえに現れるにいたった経緯を思わないではいられない。1933年の全水11回大会の「運動方針討議委員会の意見書」で非合法的に述べられた、部落差別の根拠としての天皇制の認識が、1936年の松本治一郎の政府に対する「質問主意書」にゲリラ的に現れ、敗戦後の1946年、部落解放人民大会ではじめて公然と語られはしたものの、そのまま沈み込んでいったものが、1960年になってようやく形をとって現れたのである。 ‥

天皇制について綱領にまで明記することができなかった部落解放同盟が、勤務評定反対闘争、安保闘争、三池闘争などの高揚する国民的な闘いに参加するなか、天皇制への関心の高まりのなかで、天皇制を綱領にとりあげようとしたのは自然の動きだった。いままでの迷いを踏み切り、「天皇制廃止」を綱領にかかげた。そして、その綱領を変えることなく、21世紀の現在にいたっているのである。

 

これが師岡氏の主張の主眼点である。左翼としての部落解放運動が正しいものとする考えからすれば当然のことであろうが、部落民を含めて日本国民には左もいれば右もいるという現実を考えれば、いかがなものであろうか。左と右、一方が正しくて他方は誤りとする時代では今はない。

 

 

まず、灘本に聞きたい。レトリックの巧みさには舌をまかされるが、「先鋭に繰り広げる」反天皇の運動とは具体的になにを指しているのか。また「極端な反天皇主義」とはどのような考え方、主張をいうのか。寡聞にして知らないが、まさか読者をして反天皇の運動に尻込みさせるために、このような言葉をパソコンから招き寄せたのでないことを祈るのみだ。そして、最後に尋ねたいのは、ずいぶんと部落と天皇との親密な関係について述べられているが、ではなぜその部落に部落差別が向けられるのだろうか。この肝心のところに一言もふれていないのが気になるのである。

 

ここは灘本氏に是非ともていねいに答えてもらいたいところである。

 

 

天皇を特別の存在として、高貴なものとして自認し、崇める見方はいぜんとしてつづいている。このように高貴な存在を認めることは、おのずから他方における卑賤なものの存在を認めることことになる。つまり、象徴天皇制そのものが、いぜんとして差別構造であり、古い歴史に由来する部落差別をくりかえす大本となっている。‥

部落差別と闘う運動にとっては、部落差別をはじめ社会的差別をうみだす構造としての天皇制を廃止することはさらに根本的な課題である。

 

世界には日本と同様の象徴としての君主制をとる国は、イギリスやスウェーデン、オランダ、タイなどがある。数え方にもよるだろうが、二十数カ国だそうだ。こういった国々では、王様は特別な存在である。師岡氏の論が正しければ、これらの国々では差別構造が共通して存在し、そして共和制をとる国々ではそれが無くなっていなければならない。従って日本が天皇制を廃し共和制になると、差別問題が根本的に解決するということになる。果たしてどうであろうか。

天皇制=差別構造とする考えには疑問を抱かざるを得ない。

 

 

この運動は、明仁天皇をもこちらの側に立つことがもとめられる長く、容易ではない、道義性の高い道のりではある。

 

師岡氏は反天皇を強く主張している。ところがその人が結論部分で「明仁天皇をもこちらの側に立つことがもとめられる」と説く。そしてそれが「道義性が高い」ことになるという。それまでの主張とは反対の方向の言い方で、あまりにも唐突な印象を受ける。ギャグかジョークなのだろうか。結論としては相応しくないように思う。

 

 

(参考)

拙論では 天皇制については下記の論考で触れています。

第1題 「名目的権力と実質的権力」

第45題 天皇制と首領制の比較

 

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