2000年11月23日(木曜日)


 ネタ帳は約3ヶ月ぶりの復帰となりました。皆さんお元気ですか?私は思った以上に元気です。思ったというのは、この生活を始めるようになったころに予想していた、そろそろ冬を迎える時期の私にしては、と言う意味です。私は自分がこのくらいの時を経た頃には、もっともっと犯罪者的になっているものと踏んでいました。

 今回は主に、自分のことを書こうかと思います。秘密のネタと言うにはなかなかに相応しい内容になるのではないでしょうか。


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 辞めた理由

ジャンル:実話
危険度:中

 私は幼少の頃から学生時代まで、意外といろいろなことをやってきたように思います。小学校の頃は超定番のサッカー部にも所属していたりしていますし(むらちを高校時代ぐらいから知る人間には意外な事実なのかも^_^;、中学まで続けてきた少年剣道、ピアノの個人レッスン。中学ではテニス部に所属し、高校では吹奏楽部。塾に通っていた時期もあったし、大学に入ってからは部とサークルに掛け持ちで参加したり、学友会などという生徒会じみたものに配属されたり、なんだかんだで結構忙しい学生生活だったのではないでしょうか。傍から見れば(笑)。

 そんなものの中にはちゃんと最後までやって卒業したもの、途中で投げ出してしまったもの、納得の行くまでやり遂げられたもの、そうでないもの、いろいろあります。そんな中で、特に卒業と言う形を迎えることなく辞めてしまったものを、若い頃から順にピックアップしてみよう、と言う企画なのであったりするのです。

 それでは行ってみましょうか。私が今まで辞めたもの。そして、辞めた理由。

 小学校1年のときに、2年生の男の子に鼻っ面を蹴っ飛ばされて鼻血を流したときに通い始めた耳鼻科医院で、なぜか言い渡された病名は、アレルギー性鼻炎でした。詳しくは鼻血治療を参照のこと。
 いつまで通っていたかもよく覚えていませんが、辞めた理由は面倒くさくなったからに決まってます。行っても散々待たされるし。病院の空気は臭いし。遊びのための貴重な時間があんな場所で無駄に費やされたのかと思うと、本当に途中で投げ出して正解だったとつくづく思いますよまったく。

 確か小学校4年だか5年だかの頃に通い始めた、子供向けの英語塾。年に2回とかのペースでこども英語検定と言うのがあって、合格するとかわいいピエロのバッチがもらえたりする。授業はそれなりに楽しかったけど、通っている連中と折り合いが悪くていつもいじめられたりけんかになったりしていたような気がする。地元のスーパーの集会場で行われていて、帰り際に寄っていく屋台の焼き鳥屋さんの、1本60円のモツにはまっていた記憶だけは鮮明に残っていたりする。
 小学生のうちに辞めたはずだから、確か辞めたのは6年生の冬とかだったと思う。辞めた理由は、集会場が使えなくなってしまうとかで、場所が移動になってしまったため、ちょっと通い辛くなるし、それにそんなに熱心に続けようとおもうほどの価値を感じていなかったから。

 中学1年にあがったときに通い始めた学習塾。中学生ぐらいまでの私は兄貴がやっていた習い事やらなんからをなんでもかんでも後を追うようにやっていったのです。ピアノにしても、剣道にしても、イングリッシュ・プランにしても。
 で、この塾と言うやつもやっぱり兄貴の後を追うように入ったわけなのですが、中学2年の終わりのときに、学校の宿題もまともにやらないのに熟でたくさん宿題出されてキリキリ舞になっているのはおかしいと言うか不健康だ!という我ながらにいかにも私らしい理由で(笑)辞めたのであります。
 周囲の人間がこれから受験と言うこの時期になって慌てて塾に通いだしている中で、私は塾から解放された豊富な時間のほとんどを、BASICでゲームを作るために費やしていたような気がします(爆)。

 高校へ上がる時に両親と約束していた入学祝のうんずを入手したとき、「もうこれ使わないでしょ?」と言われてあっさり捨てられてしまった。某ニチデンの時代の名機、PC-8001mkIIだ。このマシンのBASICで作ったゲームのデータはカセットテープに収められたまま、実は津田沼に引っ越す直前ぐらいまでひっそりと机の引き出しに保管されていたのだが、さすがにもうこいつが甦ることはないだろうと、引っ越す前に燃えるゴミに出してしまいました。
 理由はうんずが手に入ったからでも、8ビットマシンに飽きてしまったわけでもなくて、捨てないで保管してもらう良い理由が、思いつかなかったから。本当は子供ながらに、もったいねぇなぁ、なあんて思っていたりもしていたんだけどね。
 それで当のうんずでプログラムバリバリ組みまくったかと言うとそんなことは全然なくて、結局こいつが私に与えてくれたのは、作品作りの面白さという、かなり違った角度からの視点によるものだったのです。

 幼稚園の年長さんの頃から始めたピアノ。中学校3年の冬まで続け、受験を理由に一時お休みにしたまま、結局再び通うことなく辞めてしまいました。
 高校に上がった私は結構いろいろと迷った末、結局吹奏楽部に入部することになるわけですが、その吹奏楽部の活動と言うのが結構大変で、毎日帰りはそれなりに遅くなっていたし、休日も当然のように練習はあったので、家でピアノを練習する時間が取れなくなってしまったのです。って言ってももともとそんなにピアノは真面目に練習する人ではなかったような気もしますが(^_^;)
 そんなわけで、ピアノの先生のところに挨拶に行くわけでもなく、なんとなく月日は流れて、やがてようやく引っ越しになるという秋がやってきて、家の中も慌ただしくなっていったある日のこと。郵便受けに、切手の貼られていない、1枚のはがきが入っていました。
 はがきはピアノの先生が書いたものを直接郵便受けに入れていったものでした。実は今でもまだ実物が残っています。こんな内容です。突然ですが、12月23日に、発表会を行います。よければ演奏してみませんか。連絡がないまま月日は流れましたが、ずっと気になっていました。その気があれば1ヶ月で弾ける簡単ですてきな曲を選んであげます。少しでもその気持ちがあるなら連絡をして下さい。
 嬉しくて嬉しくて、涙が出ました。結局、引っ越し前であると言うことで、せっかくのお話もお断りしてしまいました。でも本当は、演奏会、弾きたかったです。
 そんなわけで、辞めた理由は、充実した高校生活に満喫しきってしまったことと、引っ越しが迫っていたこと。でも。私が辞めた思い出の中では、もっとも苦い思い出だったような、そんな気が、するのです。

 …白川先生、お元気ですか?

 もともとここにはちゃんと入部した記憶もないのですが。でもまぁ本命のジャズサークルがここを練習場所として使っていた関係で、私も若干中途半端に参加することにはなったのです。
 当時の私には高校3年間みっちりと吹奏楽をやってきたという驕りがありました。態度もさぞかしでかかったことでしょう。本当に当時の私は厭な奴だったと今では自覚しています。人生最大の汚点です、はっきり言って。
 しかし大学生活最初の学園祭を控えて、私はもともと本命にしていたジャズサークルのほうに活動場所の的を絞り、吹奏楽部のほうの練習にはほとんど参加しませんでした。だから学園祭でも吹奏楽部のほうの演奏には参加しないつもりでいました。
 しかし当日、たまたま通りかかった吹奏楽部員の女性に、「何で来ないの?いっしょに演奏しようよ」と誘われ、それがとても嬉しくて、それじゃあ午後の演奏は顔だけでも見せようかと吹奏楽部のブースに行ってみたのです。そしたら今度はパーカッションパートの人とかが私をひどく歓迎してくれて、是非ドラムを叩いてくれ、と誘ってくれました。私はまた嬉しくなって、本番前の時間を使って楽譜を見ながらドラムを叩き始めました。
 そのとき、当時の副部長の人が私の前に現れ、こう言いました。君は一度も合奏に参加していない。合奏に参加していない人にリズムの核になるドラムを演奏してもらうわけには行かない。今まで練習してきたことがみんな無駄になってしまうから。
 私は、その意見はまったくその通りだと思いました。だから私は手にとったスティックをその持ち主の人に返し、ドラムセットから離れました。結局飛び入りという形で小物楽器をいっしょに演奏させてもらったのですが、演奏しながら、もうこの人たちといっしょに音楽することはないんだろうな、と思うと、少し切なくなりました。

 正確にはここの1階にあるレストラン。あ、名前忘れた(^_^;)。気になる人は自分で調べましょう(笑)。
 大学1年の間約1年間続けていたアルバイト。早朝5:30に出勤し、ホテルに泊まっているお客さんの朝食の準備と配膳をする仕事。夏休みの間だけ、ドラムセットを購入する資金を稼ぐために、夜の飲み屋の仕事も掛け持ちでやっていたこともある。
 辞めた理由は、当時大学を受けなおすことを考えていたため、本格的に受験勉強を再会しようと思ったから。ではありません(笑)。従業員のおばちゃんならびにホテル経営者の皆様、嘘をついてしまって本当に申し訳ありません(^_^;)。本当の理由は、あのホテルの営業部長の田中というおっさんが気持ち悪くて生理的に受け付けなかったからです(爆)。やっぱりセクハラって、あると思うのよね。うん。世間一般の女性たちの声が分かる気がする(笑)。やっぱり気安く肩に手とか置かれたら、おいらだって厭だもん(-_-)......*~●

 ジャズサークル時代後半のバンド名、確かこれで合ってたと思う。はっきりいって、私にとってはすでにどうでも良い思い出。ジャズサークル「Milk Bar」は素晴らしいサークルだったと思うけど、Snow Jobに関しては何の感慨も感じていない。
 吹奏楽部のことが心に引っかかっていたのか、あるいは1回目の学園祭の直前に慌ててドラムを購入してしまったことが私の心と財布を痛めていたからなのか、その冬を越えて、春を迎えた頃から、ジャズサークルの方にもだんだんと、あまり練習に参加しないようになってきてしまいました。
 夏休みに日大政経学部(だったかな?)の「モダン・ジャズ研究会」の人たちとの合同合宿があり、それには参加した。本当はお金がないから迷ったんだけど、キャンセルするタイミングを失ってしまってね。おかげでM・バレーの皆さんにも巡り逢うことが出来たわけで、それはそれで良しとしようかとも思う。
 で、その後迎えた学園祭。なぜか当日、そのモダン・ジャズの人たちがやってきて、我が物顔で楽器を演奏していた。あのサークルは後夜祭のステージでエンディングの演奏をするという、まさに学園祭の最後を飾る華の舞台があったりするんだけど、そこでやる予定だった4曲のうちの、3曲をモダン・ジャズのドラムの人が演奏した。私は最後の、ムーンライト・セレナーデだけを演奏した。演奏しながら、悔しくて涙を落とした。

 もしこのタイミングで、私がこのバンドに対してはっきりと辞意を表明していればそんなこともなかったんだろうと思うのだが。実はこの話には後日談がある。
 結局その日以来ほとんど彼らの前に顔を出さなくなった私だが、大学3年になった春にサークルの練習場所が、体育館の玄関から体育館の3階通路に変更となり、新入部員も何人か入ったということで、ドラム希望の新入部員の人にドラムを教えるために、再び何度か足を運んだことがある。ドラムを教える気になったのは、後継ぎを作ることで完全にこの人たちと縁が切れると思ったからに他ならない。
 で、一回か二回ぐらい教える機会があったんだけど、それ以来彼もめったに来なくなってしまい、私もいい加減この人たちと一緒の空間にいるのが耐えられなくなり、すぐにそんな無駄な努力はぷっつりと打ち切られてしまった。
 その年私はサークル会の副会長として、学友会でも確固たる地位を与えられており、授業の空き時間や放課後のひと時を、居心地のよい学友会室でぬくぬくと過ごす日々がそれからしばらく続いた。そんなある日。
 大学生活3回目の学園祭は、もはや裏方の役員としての参加となった。学友会の役員は鷹鳴祭実行委員会のお手伝いとしてボランティアしなければいけないのである。とはいっても、屋台の並ぶメインの広場に集まって、日向ぼっこをするだけだったりするのだが。
 私はどうせ暇になるだろうと、QY70という携帯用シーケンサーをもってきて、秋の日向の中でまぶしそうに目をしばたかせながら作曲活動をしていたのだが、そのとき向こうの方から、見覚えのある人影がこちらに向かって歩いてくるのがわかった。
 残念ながらもう名前は覚えていないんだけど、その年のSnow Jobの新入生の一人だった。
 私は誘ってくれてもジャズサークルの方には行かないよ、と突きはねると、彼はむしろ私を同情してくれた。何でもその年も性懲りもなくモダン・ジャズの人たちはやってきていて、やっぱり昨年と同様に、態度がでかくて困っている、と言うことだった。

 中学2年のときに発足した非営利団体で、基本的にはパソコンでプログラミングしてゲームを作るために結成された団体。メンバーが高校を卒業した1996年、1997年にパソコン通信で草の根BBS、電撃快速京葉線を発足するも、1998年3月26日に敢え無く解散。解散なので「辞めた」というのとはちょっと違う気もするがまぁそれはそれとして。詳しい経緯は団体の方を読んで欲しい。
 辞めた理由は、これといって特になし。いろんな出来事があって、いろんな思いがぶつかり合って、そうするしかないと判断したから辞めました。そうとしか言いようがないです。他に言葉が思いつかない。
 でも、あのままだらだらと狎れあいごっこを続けていたならばと思うと、少しぞっとします。多分、あの団体は、結果的には解散してよかったんじゃあないかなぁと思うのです。
 結局、あの団体で作品らしい作品を作れなかったのは今でも悔しいけれど。

 ただ、当時あの団体に所属していた人間のうちの誰かとは、また一緒に作品作りをする日が来ることもあり得るのではないかなぁとは、個人的には思っていたりもします。

 タヌメディアが発足したパソコン通信の草の根BBS。「インターネットする」とか言ってるようなパソコン初心者・ネット初心者の皆さんは「草の根」とか言ってもピンと来ないんでしょうが(笑)、MS-DOSで動作する通信ソフトを使って通信をやっていた当時はインターネットなんてモノは一般的ではありませんでしたから、パソコン通信をやるとしたら大手の商業ネットであるニフティーサーブやPC-VAN(現BIGLOBE)辺りにでも入会するか、ホスト用の通信サービスソフトを入手して電話線を介して直接ホストマシンに電話で繋ぐというやり方でやり取りするしかなかったんです。で、後者のようなやり方で一部の人間の間だけで繰り広げられるパソコン通信の形態のことを「草の根」なんて呼んでいたのだけど。もともとはタヌメディアのサークル活動を円滑にするために、その連絡手段として活用するために立ち上げたのが、草の根BBSであるところのERKなのであります。
 ERKという名前で出発したのは私がSYSOPを勤めるようになってからだから、高校を卒業した1996年の春から。翌年1997年の春に家庭の電話回線から独立、タヌメディアで1本の電話回線を所有し(名義は個人ですが…)、24時間体勢で本格操業を始める。その頃からタヌメディア以外の人間も招き入れての一般公開を始めたんだけど、そのさらに翌年には親玉であるタヌメディアが解散してしまって、それを期にERKの方もだんだんと書き込み件数も接続件数も減っていってしまった。
 最終的には家からインターネットには接続しない@DRKとおいらの二人だけの専用連絡線となる。寂しい結末…。
 2000年を迎えると思った通り2000年問題で不具合が生じ(笑)、そうでなくともフロッピードライブが使えなくなってログの管理すらまともに出来ない状態になった。そして2000年の2月いっぱいを以って、ついにERKも落城。ただ、実のところ本当は、インターネットERKが発足するまでERKは活動を休止する、ということになっている。
 そんなわけで辞めた理由は、新しい生活が私を待っていたから(笑)。いやまぢで、16ビットマシンと外付けHDDが夜な夜な点けっぱなしになっている部屋で寝るのは、本当に苦痛なんですってば(;_;)/

 M・バレーでのバイトを始めたのが大学2年の夏。オープニングスタッフであったとは周囲の人間の間ではとんでもなく有名な話。
 大学卒業後、3月の半ばに終了。3月いっぱい分を有給に充ててもらいました。辞めた理由はもちろん就職するから。仕事に卒業という概念は存在しないので(退職はあるけどバイトには関係ない)、一応やっぱり辞めたということになるわけです。
 おそらく再びまたここで働くということはまずないでしょう。今の会社を早いうちに辞めてしまう可能性はないわけではありませんが(笑)、再び販売員の仕事をする気には到底なれませんし、それにそういう時期がきてしまうまでにこのお店自体が存続しているかどうかも怪しいし(^_^;)