99年2月2日(火曜日)


 先日の児童ポルノ特別号について、1通だけメールが来ています。
 私はあの中で、売春を禁止する法律がすでにあるのに敢えて児童売春を禁止する法律を作ろうとしていることを書きましたが、このメールで量刑が違えばそういった法の存在意義もあり得るということを教わりました。
 この点に関しては、私がもっとしっかり調べるべきなのでしょう。ご指摘、どうもありがとうございます。

 私は法律に関してはあまり詳しくありません。
 そのほかのことでも、特にこのコーナーに記述する内容には知識の伴わない文章もあり、また今後もそういった文章が増えてくることと思います。
 知識の伴わない文章はまさに恥さらしですが、私はその恥を忍んででも、文章を書くことを畏れることなく今後も書き続けたいと思っている次第です。
 ですから、私の文章において、知識が伴っていないために一部の方に強い不快感を与えるような内容を見つけた際には、容赦なくご意見・苦情のメールをお送り下さい(除く>「キ」メール^_^;)。

 ところで先述のメールの中で、私が何かと政治のいい加減さと行政のいい加減さを論拠なく結びつける記述を指摘する節がありましたが、もとより三権分立の目的として立法が行政の活動の方向付けをしているわけであり、現状として新法設立や法改正がその時々の社会問題への応急処置にしかなっていないことを考えれば、誰もがそう結びつけてしまってもおかしくはないのではないかと思うのですがいかがでしょう?


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 鼻血治療

ジャンル:実話
危険度:無

 こりゃあもう病院に行かないとダメだな、と本格的に決心が付いたのは、祖父の喜寿のお祝いのために振り替えで入れてもらった日曜日のバイト中、発注してもらう商品のリストを作るためにPOS端末の前で調べものをしているときに、前触れなく鼻血が大量に出てきたときだった。
 特にその時の鼻血はその前日までとは様子が違い、丸めたティッシュを詰めておけばすぐに止まっていたものが、その日ばかりはティッシュの鼻詮を5、6回交換する必要があったほどで、これほどまでに出血されると精神的にもかなり参ってしまいましたよ。
 その日はたまたま行くときに雨が降っていたため電車通いだった私は、同フロアーの社員の方に、電車が来るまでの待ち時間、千葉駅構内のとあるお店でラーメンをごちになりまして。その時に鼻血の話題になったとき、彼は知り合いに同じように鼻血をよく出す人がいて、その人は鼻の奥を焼いて出血を止める治療をしたら鼻血が出なくなった、と言うことを話していました。

 電車が来る時間を気にしながらラーメンをすすっていたその時には、まさかそれと同じ治療を翌日受けることになるとは思いもしませんでしたよ。

 月曜日は補講期間で私は授業がなかったので、その日の午前中に耳鼻科に行ってみることにした。寝坊した私は込むだろうからと先に診察券だけを置きに行き、いったん帰って残り物の冷凍ピザを食した後、時間を見計らってまた病院へと出かけていった。
 自分の順番が来るまでの約40分間、私は待合室で「パイナップルヘッド」(吉本バナナ/幻冬舎文庫)を読みふけっていた。ちょうど読んでいたのが「こんにちはヘルペスくん」というお話で、自分が疲れの溜まりすぎでヘルペスにかかってしまったときの体験が描かれていたんだけど、病院の中でTVで病院のドラマを見たという記述で自分も今病院の待合室で他人の病気のネタを読んでるよと苦笑いしてみたり。
 とにかくこの本は結構まともに面白くて、節々でついつい顔に出して笑いながら読んでいたらいつの間にか自分の番が回ってきた。

 耳鼻科には歯科の椅子のような診察台があって、高さと首の位置と微妙な角度が機械仕掛けで調整できるようになっている。椅子の周りには様々な器具が据え付けられていて、2つの診察台の間のテーブルにはいくつかの薬品とアルコールランプ、ピンセットやはさみなどのような道具が規則正しく並べられている。
 私がその診察台に掛けると看護婦さんが私の症状を聞いてきたので、鼻血がよく出るようになってしまったこと、以前も鼻血でここに通院したことがあること、くしゃみが出る以外はこれと言ってアレルギーや鼻炎の症状はないことなどを告げた。
 隣の診察台での診察が一段落つくと和田先生(仮)はカルテに目を通し、この人特有のイントネーションで「また出るようになってしまいましたかぁ」と言った。

 私が鼻血を頻繁に出すようになったのは小学校1年の時だ。きっかけは、ふざけ合っているうちに一年上の子に勢いよく鼻を蹴られたことだ。
 当時私は今で言う美浜区に住んでいて、その鼻血の治療のために通った検見川の耳鼻科で「アレルギー性鼻炎」を言い渡された。鼻血の原因も蹴られたこととは関係なく、アレルギーのためにくしゃみをしたり激しく鼻をかんだりするときに粘膜が弱くなってしまい、鼻血が出る、と説明された。
 その地域は埋め立て地で工場が近く、確かに鼻炎にかかる子供も多かったので、その診断に説得力がないわけではなかった。しかし何となく引っかかるものを感じていたのも事実かも知れない。

 やがて市原に引っ越し、大学に通うようになってしばらく後、ある日風呂場で大量に鼻血を出し、ろくろく体も洗えないまま風呂を出て、血の飲み込みすぎで吐き気を催しつつあまりの事態に涙目になりながら無理矢理布団に潜り込んだことがあり、その翌日に初めてこの「和田医院(仮)」に通った。
 その時まずびっくりしたのが、採血をされたことだった。
 検見川の耳鼻科では採血など一度もされなかったからである。
 しかもなかなか止まらない鼻血を体験したその翌日であっただけに、「こりゃあもしかするといよいよ白血病か?」と内心不安で精神的にもかなりへろへろになってしまいました。
 しかし実際には、血液検査でアレルギーのすすみ具合が調べられると言うことを説明され、結果的にもアレルギー反応も特になく、白血球の数も正常でした。
 アレルギー反応がない?
 アレルギーと言えば、渡された薬にもちょっとびっくりしました。検見川の耳鼻科では鼻に直接噴霧する薬を渡されたのですが、ここではアレルギー用の飲み薬を渡されました。確かにそれを飲むようになって鼻のかゆみや鼻血は収まったので、こりゃまたびっくりたまげもんでした。

 「以前も鼻血でここに通院した」時のエピソードはこれぐらいにして、話はつい先日に戻ります。
 和田先生(仮)は手慣れた手つきでいつものように耳の穴、鼻の穴を掃除しながらのぞき込むと、鼻血が出る方の鼻の穴をのぞき込みながら「あー、やっぱりそうだ、これだねぇ、ここに傷跡がある」と唸った。そして看護婦に言って新聞の切り抜きのコピーを持ってこさせ、赤ペンで印を付けながら看護婦に「うん、これをやろう、これ」と言ってから、私に説明を始めた。
「鼻の奥のですね、一番毛細血管が集まって出血しやすい所に傷があるんです。それで鼻血が出るんですねー。だから何の心配もいらないんですけど、普通に生活していて突然鼻血が出るのはうっとうしいでしょ。だからこの傷を、電気でもって焼いてふさいでしまいますから。いいですね?」
 僕は「お願いします」と言って了承した。
 麻酔液をたっぷりしみこませた脱脂綿を鼻血が出る方の左の鼻の穴に押し込まれ、さらにその上から綿を詰めてふたをした。あんまり奥に押し込むのでそれだけでむせ返りそうになった。
「それじゃあ麻酔が効いてくるまでに10分ぐらいかかりますから、その間これを読んでいて下さい」  そういって和田先生(仮)は、さっき赤ペンで印を付けていた新聞のコピーを僕に手渡した。

 鼻の中央にある隔壁、つまり鼻中隔の前下方にあるキーゼルバッハ部位というところが一番多く、約80%を占めます。

 赤線が引かれている部分には、こんな文章が書かれていた。
 「電気凝固法で血管を固めたり」「キーゼルバッハ部位」と書かれているところにも赤で丸く囲いがされていた。
 キーゼルバッハ部位とは鼻の軟骨の両脇辺りの部分のことで、毛細血管が非常に密になっている。80%というのは、つまり鼻血患者の80%はこのキーゼルバッハ部位から出血しているということだ。
 電気凝固法、というのは、おそらくこれからする治療のことだろう、と言うことはすぐに想像できた。
 渡されたコピーは内容的には治らない鼻血を治す治療法はないかという悩める読者の投書に対して大学教授がお答えしますというもので、鼻血が出る原因にはどのようなものがあるか、具体的な治療法としてどんなものがあげられるか、などと言ったことから、普段どのようなことに心がけたらよいかといったアドバイスも書かれていて、なかなかタメになりました。

 一通り読み終わってぼーっとしていたら、やがて看護婦さんに名前を呼ばれた。お、いよいよか。  診察台の隣には、何だか大学の実験の時にも見たような気がする(気がするだけだ、、、実際にはあるはずがない)機械が用意されていた。
 診察台に座ると、麻酔の染み込まれた綿を抜き取られた。看護婦の一人にコードがつながった金属の棒を差し出され、「これを握っていて下さい」と言ってきた。「え、これは何ですか」あまりにも電極チックなそれに一瞬躊躇した私は思わず聞き返したが、その看護婦さんは何故か一言たりとも説明せずに「とにかく握って下さい!」と無理矢理差し出してきたので、余計恐くなってしまった。
 私がそれとなく「これって、、、電極?」と和田先生(仮)に訪ねると、先生は「これはアースです。治療中に突然雷が落ちてきたり、機械が壊れてしまってとんでもない電圧がかかったりしても心臓がやられないように、ここから電気を逃がしてしまうんですねー」と説明してくれた。なるほど。カンペキだ。
 そんな完璧な説明を受けた直後に、隣でパニクっていた看護婦連中が「コードが機械に入らないんですけど」などと言う訳の分からないことを言い出してきた。せっかく安心しかけた私の心はまた一気に不安の渦に足を取られ、思わず「え、もしかしてこれって、しばらく使っていなかったんですか?」と聞いてしまった。看護婦さんは多少苦しそうな笑顔で「そんなことないですよー」と言いつつ僕の左手の金属棒を取り上げ、後ろの方で「これ、ここに差すんでしたっけ?」「何か間に器具がいるんじゃありませんでしたっけ?」と恐ろしくも間抜けな格闘を再開した。
 3,4分ぐらい経ってやっと器具の準備がほぼ整い、看護婦の一人が和田先生(仮)に先程私が握らされたあの金属の棒を差し出した。先生は「お、お、お、お、お、、、」と言いながらブルブル震えていたが明らかにふざけていることは分かった。
 「そんなことより、麻酔、まだ大丈夫ですよね?」と私が念を押すと、先生は満面の笑顔で「あ、ごめんなさい、今ので麻酔、完全に切れてしまいました」と答えた。

 鼻の穴を無理矢理広げる器具を、鼻血が出る左の鼻の穴に挿入し、中をのぞき込みながら、「いいですかぁ、ちょっと痛いかも知れないけど、我慢して下さいねぇー」とまったく緊張感のない声で先生が念を押してきた。
 機械からのびているコードがつながった、細長いピンセットのような器具が、先生の手によって鼻に挿入されていく。これは私の勝手な想像なんだけど、多分このピンセットのようなものの両先端が電極になっていて、これで患部を挟み込むように接触させて火花を飛ばし、患部を焼き潰す、と言うことなのだろう。
「ぱちんといきますからねー、はい、ぱちん」相変わらず緊張感のない先生の声。
 カツンッ! 鼻の中で、電気の火花が散る音。
 痛っ……!!
 ある程度の痛みは予想していたが、予想以上だった。麻酔していたからと思って、ちょっと甘く見ていたのかも知れない。思わず顔をしかめてしまう。
「痛いですねー。でも麻酔しているから、これでも痛くない方なんですよー。はい、ぱちん」
 カツンッ!
 痛っ……!!!
 2発、3発と続けるうちに、鼻孔は自分が焼け焦げる煙の臭いで充満した。えも言えぬ、不快な臭い、、、。
 どうでもいいけど、何でこの先生は治療をする瞬間、その時出る音の擬音詞を口に出さずにいられないんだろう。そんなことを考えながら。

 7発ぐらい火花を散らしてやっとこの痛い治療は終わった。
「これでもう、出ないはずですから」と先生が念を押した。
 そうか、もうこれで、出なくなるのか。
 そう思うと、何だか無性に嬉しくなってきた。
 もう、もうこれで、変な誤解を受けたり冷やかされたりもないんだ。
 まるで、新しい人生の幕開けではないか。
 こんな簡単なことで、長年のコンプレックスが解消されてしまうとは。
 本当に嬉しくて、先生にその場で3回ぐらいお礼を言ってしまいました。

 さて、あれから約一週間が経って、今この文章を書いているわけですが、今のところ、アレルギーは残っていて未だにくしゃみは出るものの、鼻血は一度も出ていません。なかなか好調です。
 どうやらやはり鼻血の原因はアレルギー性鼻炎ではなく、傷口にあったようです(アレルギー自体はやっぱりあるみたい、、、未だにくしゃみは出やすいし)。
 打撲などがきっかけで鼻血にお困りのみなさん、一度耳鼻科で鼻の穴の中を焼いてもらってみてはいかがでしょうか? 私がしてもらったような「電気凝固法」の場合、治療後2時間ぐらいは痛みが残るし鼻の焼ける臭いも少々気にはなりますが、それだけで鼻血が永久出なくなると思えば治療費\4,000-も安いものです。


 芸術

ジャンル:フィクション
危険度:大

 かつて一世を風靡した日本人画家板倉潤子も、ついに刑務所にぶち込まれた。
 容疑は、児童ポルノの制作・所持・陳列。
 彼女は、自分の13歳になる愛娘恵美が、夜中部屋に閉じこもって自慰行為中の所を偶然見てしまい、たまたま持っていたデジタルカメラでその様子を納め、その写真画像を元にキャンバスに最高傑作「思春期の娘」を描きあげた。
 作品は、彼女の個展の中で堂々と公開され、公開期間中、すなわち個展が開かれて三日目の逮捕となった。これまで彼女の作品の中に前衛的なものが存在しなかっただけに、この事件は非常にショッキングなものとしてマスコミに報じられた。

 刑期は3年。情状酌量の余地なく、執行猶予も与えられなかったという。

 刑が執行されて半年経った日のことだった。牢に食事を届けに来た看守の男が潤子に話しかけてきたのである。
「俺はあんたのファンなんだ」
 薄ら笑いを浮かべながら、ぞんざいな態度と口振りで、看守は言った。背は高くもなく、低くもなく、面長で細身だが、体はわりかしがっしりとしている。
「画家になろうと思ったこともあった」
 男は続けた。潤子はよこされた食事のスープを、表情を変えずにすすっている。男の話に、耳を傾けるでもなく。
「いいニュースが2つある。聞きたいか? どっちもあんたにとって、とんでもなく重要なことだ」
 男は自分が持ちかけた話題についてよほどの自信があるらしく、まったく無視して食事を続けている潤子にめげずに話し続けた。
「一つは、あんたの娘のことだ」
 そう男が言ったところで、潤子は視線を扉越しの男の方に初めて向けた。

 裁判の時、潤子は弁護士の言うことにもいっさい耳を傾けず、自分の思うとおりのことを正直に告げた。
「私は、あのときの恵美のしていることが、とても美しいと思った。脳裏に焼き付いて、離れないものだった。だから描いたんです」
 潤子は法廷で、はっきりとした口振りでそう告白した。
「個展で公開したのは、私の最高傑作を皆にも見て欲しかったから。私の絵が好きな人達なら、きっと理解して下さると思ったからです。やましい気持ちなんてこれっぽっちもなかった」
 事実上のモデルとなった娘、恵美も、法廷に立っている。彼女も淡々とした口調で、次のように陳述している。
「母がキャンパスに描き入れていく私の姿を見て、自分がこんなにも美しく描かれていると言うことに、正直感動したのです。これが私の、正直な姿だって。これが私の、本当の姿なんだなって。だから私、あの作品を、個展に出してもいいよって、ちゃんと母に許可をしたんです。だから母は何にも悪くない。どうして母は、罰を受けなければならないのでしょうか?」

「恵美ちゃんなぁ、施設に入れられたらしい」
 看守は吐き捨てるように、そういい放った。
「……何ですって!」
 それまで死んだような目をしていた潤子が、形相を一変させて、初めて言葉を口にした。
「もっとも施設と言っても、少年院みたいな危ない所じゃない。文部省が最近開いた、国営のカウンセリングセンターみたいなところでな」
「要するに精神病院じゃない」
 潤子は話を続ける看守にかみつくように言ってきた。自分の愛する、たった一人の娘、恵美。潤子は夫を早いうちになくし、恵美の身寄りが警務所に入った彼女にとって最大の関心事の一つであった。
「まぁな。あんたの気持ちもよく分かるさ。しかし法律にあるんだ。ポルノに使われた児童は必要に応じて保護し、指導しなければならないんだとさ」
 看守は本当にばかばかしいことであるかのようにそう吐き捨てた。
「俺もな、あんたらがまともなのはよく分かる。この国はいつまで経っても、いい物をいいとは言えない呪縛から抜け出せずにいるんだ」
 潤子は気を落ち着かせ、スプーンを取って糊のようになっている粥を食べ始めた。
 看守の男はため息を一つつき、咳払いをして、また話を続けた。
「そう、もう一つのニュースだ。こいつは本当にいいニュースだぜ」

 問題の絵画は、裁判のあと、焼却処分される予定であった。
 当然処分するためには国の許可が必要であり、その申請が降りるまでに相変わらず手間取っていた。
 事件はそんな折りに起きた。
 本来焼却されるはずであったその絵画が、何者かによって盗まれてしまったのである。
 絵画を管理していたのは警察であった。警察にしてみれば、裁判が終わった件の証拠物件などこれっぽっちも価値がないもの。しかしそのような中にも、たとえば武器や薬物のような危険なものもあり、しっかり管理されなければならない。盗難などもってのほかなのである。
 しかしそういったものが保管できる場所が、いくらでもあるというわけではない。従って、どうしても危険物とは言えないものに関しては、管理が甘くなりがちな傾向にはあったのだ。
 そしてなんと言ってもこの物件、いろんな人間がほしがる可能性の高いものである。板垣潤子ファンの人間はもちろんのこと、世間一般に言うところの「ロリコン」な人達もほしがるわけで、そうなれば裏市場でかなりの高額で取り引きされるのはほぼ間違いない。つまり、もともと誰がこれを盗んでいってもおかしくはない物件だったのである。

「そう、、、盗まれたのね。私の作品」
 潤子は力無くそう答えた。
 看守は潤子を元気づけるように? 励ますような口振りで言った。
「もっと喜べよ。あんたの最高傑作は、とりあえずは焼かれずに済んだんだからよ」
 しかし潤子はあまり嬉しそうではなかった。
「どうせお金が目的なんでしょう。私の絵は私の絵を理解してくれるたくさんの人達のためにあるの。大金はたいて自分だけのものにして、それも話題性だけで手を出して。芸術なんてちっとも理解できないくせに。そんな奴の手に渡るくらいなら、燃やしてくれた方がよかったわ」
 潤子はあまり食が進まないらしく、粥は椀に半分ぐらい残ったまま、もうすっかり冷め切ってしまった。
「そんなこともないさ。この話にはまだ続きがあるんだ」
 潤子はほとんど手つかずの食事が乗ったお盆を、扉の下の口から差し出した。看守は「もういいのか?」と言ってそれを受け取り、そして話を続けた。
「絵画が盗まれたあとには、封筒が一つ落ちていたんだ。中には予告状が入っていた。これがまた面白いんだ。何て書いてあったと思う?」
 看守の男はもったいぶるように間を一拍おき、得意満面にこう言い放った。
「次は、施設に閉じこめられたあんたの娘を盗むってさ」

 それからさらに2年が経って、予定より半年早く、潤子は刑務所を出ることになった。
 刑務所入りして1年目辺りに、施設で生活していた娘の恵美が突如、行方不明になったことが伝えられて、ノイローゼにかかることが多くなったのが大きな原因の一つだと言われている。
 ノイローゼは刑務所での生活の中でそれでもいくらか回復は出来たが、その分口数は減り、体調も思わしくなく、残り半年という段になってようやく刑期の短縮が認められた。
 刑務所の門で見送り役を担当したのは、あのとき話した看守の男だった。
「あんたもやっと自由だ」
 そういって男は、笑顔で門を開けた。
「見てみな。最高のお出迎えが、待ってるようだぜ」
 男が指を指し示した先には、行方不明になったはずの恵美が、小柄で優しそうな男と二人、立ちつくして待っていた。
「…………恵美!」
「お母さん!」
 感動の対面シーンである。敢えて細かく描写する必要はないだろう。
「お母さん、この人ね、」
 恵美がそういいかけると、男は挨拶をした。
「盗んだものをお返しに参りました」
 盗んだもの……潤子は少し考えて、そして思い出したように口を開いた。
「それじゃあ、あなたが……!!」
「この人は私を逃がしてくれたの」
 恵美がかばうように割り込んできた。
「この人は私の私らしさが壊されないうちに、あの忌まわしい施設から逃がしてくれたの。そして戸籍だとかいろいろ誤魔化して、中学も卒業して」
「それからは彼女に、ずっと身の回りの面倒を見てもらってしまいました」
 男が付け加えた。
「それはともかく。私が返すべきものは2つある。わかりますね」
「ええ……。わかるわ」
 潤子の顔に、ようやく生気がよみがえってきた。
「どっちも私の一番大切なものですもの」
 そういうと、男は横を向き、少し恥ずかしげに上向き加減で言った。
「あなたの家に戻れば、もう飾ってあります。……すばらしい絵でした。出来れば手放したくはなかった」
「ありがとう」潤子は笑顔で答えた。「私の作品を理解して下さって。とても嬉しいわ」

 服役後の板垣潤子は、やはり画家であることを貫き通した。しかしかつての作風とは若干異なり、どちらかというと前衛的な作品が多くなった。
 恵美は結局高校には通わず、美術関係の専門学校でモデルの勉強をするようになった。彼女はいつか、偉大な母のために、母の絵のモデルになるんだとその夢を膨らませ、毎日に意気込んでいるという。