幕末維新ミュージアム・京街道G  京都三条



 東海道53次京都三条界隈は数多くの幕末事件の舞台になりました。
  たとえば、明治維新を数年遅らせたという「池田屋事件」は、池田屋という「旅籠」を舞台にしています。広い京都においても街道関連の旅籠が歴史舞台になりうる必然がありました。 京都に潜入した浪士たちが最も目立たないところが街道関連空間でした。旅籠はその典型です。旅籠や料亭が集中する街道関連地域は、人の動きが激しいスクランブル空間という条件を備えていたからです。
  坂本竜馬暗殺事件の現場「近江屋」もこのスクランブル空間に所在していました。
  幕末の京都三条界隈は、いまでいうなら、大沢在昌氏のミステリー舞台「新宿」のような存在だったのでしょう。

      
           三条大橋西詰から東方を見る 
   

 上洛した旅人は三条大橋を渡って京都到着を実感というところでしょうか。
  さらに大坂方面へ向かう場合、起点は五条大橋(伏見街道の場合)でした。

 

          ミステリー舞台三条界隈探訪
   
           数多くの事件から「池田屋事件」を取り上げ、謎にせまります   

                     
                


  ≪1≫ 池田屋事件とは・・・
 
    

 元治元年6月5日。三条小橋の旅籠池田屋における尊攘派浪士と新選組の争闘を中心にした一連の事件。多くの浪士が捕殺され、その後の幕末情勢に多大な影響を与えることになる事件です。新選組はこの事件によって幕府警察隊として大きくクローズアップされます。
 池田屋事件余波ともいうべき出来事で特筆すべきは、まず長州軍の京都進撃のきっかけになります。池田屋事件は一大挑発事件になり、長州軍の京都進撃と敗退、そして二次にわたる長州征伐につながっていきます。明治維新を数年遅らせたというよりも、むしろ事態の進展をはやめたように思われます。

 池田屋事件は、文久3年の政変による劣勢を挽回しようとする尊攘派と幕府治安警備隊との結節点ともいうべき衝突です。
 池田屋事件の前から京都潜入の浪士の動きが目立ち、幕府側も動きを知り警戒を強めつつあったようです。浪士たちの組織的潜入は当然のことですが、目的があるわけで、それ以前から京都の巷間に流れていた風聞とつながり、事態の切迫を告げる役割を果たしたに違いありません。幕府側がナーバスな動きを見せる局面といえるでしょう。 6月に入り、それを裏書するように、幕府側の動きの激しさが目立ちます。いやおうなく高まる緊張のなかで、古高俊太郎捕縛から池田屋の激闘に終わる祇園祭宵宮(元治元年6月5日)を迎えます。 元治元年6月5日。三条小橋の旅籠池田屋における尊攘派浪士と新選組の争闘を中心にした一連の事件。多くの浪士が捕殺され、その後の幕末情勢に多大な影響を与えることになる事件です。新選組はこの事件によって幕府警察隊として大きくクローズアップされます。
 池田屋事件余波ともいうべき出来事で特筆すべきは、まず長州軍の京都進撃のきっかけになります。池田屋事件は一大挑発事件になり、長州軍の京都進撃と敗退、そして二次にわたる長州征伐につながっていきます。明治維新を数年遅らせたというよりも、むしろ事態の進展をはやめたように思われます。

 池田屋事件は、文久3年の政変による劣勢を挽回しようとする尊攘派と幕府治安警備隊との結節点ともいうべき衝突です。
 池田屋事件の前から京都潜入の浪士の動きが目立ち、幕府側も動きを知り警戒を強めつつあったようです。浪士たちの組織的潜入は当然のことですが、目的があるわけで、それ以前から京都の巷間に流れていた風聞とつながり、事態の切迫を告げる役割を果たしたに違いありません。幕府側がナーバスな動きを見せる局面といえるでしょう。 6月に入り、それを裏書するように、幕府側の動きの激しさが目立ちます。いやおうなく高まる緊張のなかで、古高俊太郎捕縛から池田屋の激闘に終わる祇園祭宵宮(元治元年6月5日)を迎えます。 

      
  ≪2≫ 
事件ポイントと地理的位置


        下方 池田屋位
  

 西詰から西に進むとすぐ高瀬川。高瀬川にかかる三条小橋を渡ってすぐが池田屋です。
  東海道を上洛した人々は、このあたりで草鞋を脱ぎ旅籠に落ち着きました。写真右端に長州藩邸(現京都ホテルオークラ)、高瀬川にそって加賀藩邸、対馬藩邸、岩国藩邸、彦根藩邸、土佐藩邸などがあり、また、浪士が住み着くなどして、幕末独特の状況を呈します。このために、このあたりは、多くの幕末争闘事件の舞台になっていきます。佐久間象山、坂本竜馬・中岡慎太郎、本間精一郎など多くの人が命を落としているのもこのあたりです。
      

            文久3年古地図
                左(北) 池田屋位置  中央に三条大橋
  
   
  ≪3≫ 2005年の現場
         
            

      @ 池田屋跡


                     
            池田屋跡前の三条通                           三条小橋
               

        ◆ 船入 池田屋の北に高瀬川の四之船入がありました(現存しない)

  船入は高瀬舟の船溜で荷揚げ場です。池田屋の裏庭が四之船入に面していました。裏木戸を開けると道があり、その先が掘割でした。浪士たちは二階から裏庭に脱出し、そこから木屋町通か河原町通を北へ、長州藩邸(走ればすぐ)に向かったのでしょう。
  奥沢栄助・安藤早太郎・新田革左衛門、裏庭に配置された隊士全員が死傷していますが、これも裏庭における激闘を物語ります。 

                                 
            高瀬川一之船入(唯一現存)西から東方(高瀬川)を撮影
             

      A 古高俊太郎捕縛地 

             桝屋跡

     B 長州藩邸跡


            左高層建物が京都ホテルオークラ(長州藩邸跡)
            右旧角倉邸(現日本銀行京都支店)
     

     C 加賀藩邸跡 


            加賀藩邸跡碑 加賀藩邸は現在「御池通」
             
  

      D 対馬藩邸跡   現在、京都ロイヤルホテルと京都カトリック教会
          池田屋事件当日の桂小五郎の行動にかかわります。


  ≪4≫ 探索ファイル   

        

   
 1 池田屋事件、その日の動き          

                       

6月5日早朝
新選組による古高俊太郎捕縛  武器貯蔵の発覚
その後  新選組屯所における取り調べと古高俊太郎の自白
何者かが新選組管理下古高邸武器奪取
新選組による会津藩への連絡調整(出動と集合時間などが決まる)
長州藩邸で尊攘派会合し古高奪還などを断念
新選組隊士屯所を出て集合地「祇園会所」へ
6月5日夜
祇園会所に集合して会津藩などの出動を待って待機する新選組だが、刻限になっても動きがなく独自出動
尊攘派池田屋に三々五々集合桂小五郎集合状態をみていったん退去し対馬藩邸へ
新選組二隊にわかれて「御用改め(捜索活動)」を開始
近藤隊が池田屋に到着争闘開始、後刻土方隊到着
会津藩なども出動、厳戒態勢がしかれ、池田屋脱出浪士もほとんど捕殺
6月6日
厳戒態勢持続

  
    2 池田屋事件の謎
           

  坂本竜馬暗殺事件などと異なり関係者が多数存在したにもかかわらず謎が少なくない事件です。たとえば、池田屋での浪士たちの会合目的の不可解。桂小五郎の動き。古高俊太郎の自白にからむ謎。尊攘派の目的の謎。このようなあいまいさが特徴であり、これも謎の亜種、あるいはもろもろの謎のベースにある謎とでもいうべきでしょうか。

  明治になって、池田屋事件は、悪役新選組と勤皇の志士の歴史的受難であるという基本的に設定された流れの中で、どうやら客観的究明の意思を欠いた結果のようです。
  だから、たとえば、明治も半ばになってから探索方山崎蒸が池田屋に潜入していたというような話も登場してくることになります。
山崎蒸が紹介状をもってきたために池田屋では断わりきれず、薬屋に変装した山崎は何日も逗留して尊攘派の動きを探っていたというように極めて具体的なエピソードです。このような話が堂々とまかり通る社会的流れ(悪役新選組)の強さを物語るものとして異色の史料価値がありますが、どうやらそこまでのものでしょう。目的のためには執拗で手段を選ばない殺し屋集団新選組がここでも意図的に強調されていて、池田屋事件が勤皇の志士の一大受難事件になってしまうという単純な構図です。この構図の中で多くの謎があいまいなまま放置されたということなのでしょう。


    考察編では、このような不可解な問題を整理してみたいと思います。
     
          
             考察編構成            
考察編 @ 古高俊太郎という存在 ≪新選組の情報活動と土方歳三≫
考察編 A 坂本竜馬の池田屋事件 ≪もうひとつの戦い≫
考察編 B  吉田稔麿の死 ≪桂小五郎の不可解な行動≫
                                     
     
                     

  ちょっと休憩  
 
 @ 三条大橋西詰の像・・・・東海道中膝栗毛(十返舎一九作)の主人公「弥次さん喜多さん」の旅姿です。東海道中膝栗毛は、江戸っ子ふたりのいたずらの限りをつくした旅のようすを描いた滑稽本ですが、いまでも楽しめます。淀川の川下りのようすも出てきます。京都見物後、伏見から三十石舟に乗船しますが、枚方のくらわんか舟でひともめします。児童書も多く、手軽に楽しめるでしょう。ぜひどうぞ。

 A 船入・・・・高瀬川の西側の掘割を船入といい数ヶ所設けられたが、高瀬舟が運んだ荷を上げ下ろ しするための船溜です。

   高瀬舟
   平底で舷側が高いのが特徴の舟で高瀬川を伏見まで運行して人と物を運びました


  交通と観察のポイント(交通・街道と事件の関連)

 鴨川の散策が楽しい地域です。また、高瀬川沿いの散策も風情があります。また、伏見・淀方面探訪の予定でしたら、三条通りを西に向かい、「京都文化博物館」で予備知識を得られると良いでしょう。とくに淀地域は幕末当時と現在の地理的変化が激しく、鳥羽伏見戦の攻防を理解するためには往時の地理的データが不可欠ですから、参考になるでしょう。

  ※ フィールドノート 高瀬川をご参照ください。

 @ 池田屋跡・長州藩邸跡など 京阪線三条駅歩 
 A 桝屋跡など 京阪線四条駅 阪急線河原町四条駅歩