池田屋事件考察2 坂本竜馬池田屋事件


            
       ≪ もうひとつの戦い

      

  池田屋事件は、開設されたばかりの神戸海軍操練所の行方を左右する歴史的役割を果たすことになります。

   

  
≪1≫ 神戸海軍操練所

  

  5月21日 神戸海軍操練所設立
  5月29日 諸藩から修行生を募集、坂本竜馬以下勝海舟の塾生90人も応募 
  6月 2日  坂本竜馬京都(お竜訪問)を経て幕府軍艦で江戸へ
 
  池田屋事件の半月ほど前に神戸海軍操練所が設立され、直前の29日には修行生募集がスタートしています。摂海防衛の一翼を担うこの動きは、尊皇攘夷の確かな歩みであり、摂海(大阪湾)の制海権に大きくかかわる布石でもありました。
  このような動きの中で勝海軍塾からも大挙入所し、また坂本竜馬は運営の中心的存在として多忙極まりない状況であったと推測できるでしょう。
  6月2日、坂本竜馬は京都に出て「お竜」に会い、あわただしく幕艦で江戸に向かっています。池田屋事件3日前のことでした。 

   




  
≪2≫ 望月亀弥太

      

  池田屋の会合に望月亀弥太が加わり死去しています。

  坂本竜馬と望月は勝海軍塾生としても行動をともにしてきましたが、
坂本竜馬は、攘夷派浪士の動きを知らなかったようですから、望月は、この動きを竜馬には知らせなかったのでしょう。もちろん、相談をするようなこともなく、独自に京都に出向いたというところなのでしょう。

  始動したばかりで大事な時期にある海軍操練所の運営に竜馬不在だからこそ他の塾生とともに力を入れる、という選択はなされなかったようです。四カ国連合艦隊による長州攻撃に関連した勝海舟の長崎行に竜馬とともに同行するなど、望月に対する信頼は低くなかったものと推察されるのですが、基本的なところですれ違いがあったようです。 



1 望月参加が語るもの
 

 @ 操練所始動という重要かつ多忙な状況で操練所を離れて参加
 A 坂本竜馬に秘匿しなければならない事情がある参加
   
 @Aから、

 B 会合は、緊急的なものではなく、あらかじめ参加者に周知された予定の会合

  会合が古高捕縛対策として開かれたという見方がありますが、その日早朝に生起した捕縛対策の会合に参加するために、神戸に連絡をとり望月が参加するということは事実上不可能でしょうから、 古高捕縛問題は、主題に関連した緊急事項というものであったかもしれませんが、そのために会合が開かれたというものではないでしょう。望月が神戸を離れるためには、少なくとも開催日は明らかでなければならないし、会合目的も明示される必要がありましたでしょう。
  そして、会合目的は、坂本竜馬に話せないもので、反幕攘夷の決起に類するものであり、その手段が竜馬をとうてい納得させられないものであった可能性が高いのではないでしょうか。そのために、望月は竜馬に秘して上洛したというところでしょう。
  
  望月は、当日、池田屋から脱出したものの長州藩邸へ入れず、北隣の角倉邸前で幕府側に捕捉され割腹して果てました。           


2 勝海舟日記



 
「当此時、京師、当月五日、浮浪殺戮の挙あり。壬生浪士輩、興の余、無辜を殺し、土州の藩士、また
わが学僕望月生など此災に逢ふ。長藩も又然り」
       
 「無辜を殺し」、つまり罪の無いものを殺戮したという判断をしていますが、事情がもっと複雑であったことは周知のとおりです。
 土州藩士とは、北添のことでしょう。彼らは、勝海舟の支援で竜馬が提唱した浪士による蝦夷地開拓のための調査を行っています。

  池田屋事件後の一ヶ月たった7月、海舟の妹婿佐久間象山が暗殺されました。 
 
  戦争は政治の一形態というクラウゼビッツの指摘のとおりです。また、政治的目的と武器を所持し、戦略戦術レベルでの計画を持つ組織的集団は軍隊であり、これとの正面きった戦闘行為が予想される場合、衝突は戦争の形態を示していると考えられてもおかしくありません。古高捕縛による局面の劇的転換と先に述べましたが、少なくとも新選組側からはそのように意識されたのではないでしょうか。池田屋事件はこのような意味で多くの幕末暗殺事件とは次元の異なるものでした。無辜を殺すことを前提にしているのが戦争ですから、無辜を殺し、という海舟の批判はこの場合的外れであったと私には思われます。しかし、日本人同士の殺し合い(無辜同士の戦い)を避けたいというのが海舟の視点とするならば、忌避すべき事態ではありました。
 


      
  
≪3≫ 池田屋事件余波

  

  神戸海軍操練所の開設は、諸藩から広く練習生を募集していますように、藩をこえた視界をもち、同時にグローバルな展望をもった試みでした。 

  しかし、先を見通したこのような動きの弱点は効果(結果)を確かめ難いことでした。これに比べて、武装蜂起して、京都焼き討ちの混乱の中で、要人暗殺などを行うという計画の弱点は、結果がすぐに見えることでした。未熟さを刺激することで手軽な行動を引き出しやすいからです。池田屋事件後生起した佐久間象山暗殺事件は後者の弱点を鮮やかに示しています。

  神戸海軍操練所は池田屋事件、禁門の変の余波で閉鎖されますが、訓練生の一部が攘夷派の行動に加わったからとはいえ、手軽に閉鎖の結論を引き出したことは、政治的暗殺といえました。この措置は、主導した勢力の意図に反して反幕的な措置といえるものでした。次のような見方ができるからです。

  池田屋事件は、神戸海軍操練所閉鎖を引き出すことで、政治的ポイントをむしろ攘夷派に与えたように思われます。次のようにです。

  @ 操練所の存在と活動が、坂本竜馬たちにとってもうひとつの戦いでもあった
未熟さとの戦いを大いに前進させることになった可能性があります。知見を広げる環境として働くからです。
  A 摂海で活動する海軍拠点として操練所の存在と制海能力が幕末情勢に能動的にかかわりえた可能性があります。
  B 北辺防備(攘夷)の一環でもある蝦夷地開拓計画が前進するというような問題も含めて、操練所の政治的役割の拡大と発展があるならば、坂本竜馬たちと薩長とのかかわり方も異なる可能性もありました。

  幕府派と反幕攘夷派という対峙の裏で神戸海軍操練所は、両派の未熟から挟撃される形で崩壊することになりました。ここでは、先見的視野に対する未熟さの連合が力を発揮しえたということがいえるでしょう。坂本竜馬にとってはもうひとつの戦いでした。
                     
                                    2005年5月16日
                                                       


    ちょっと休憩

  どこに敵がいるのか。坂本竜馬が対峙した敵とは、実は「未熟さ」ではなかったかという問題を池田屋事件を通して問題提起してみました。すると、表面的対決の形とは別に未熟という強敵が双方を深部で連携させて先見的活動を攻撃するという展開が見えてきました。

  坂本竜馬暗殺事件も表面的な敵味方という視点ではとらえきれない複雑さを有しているようですが、池田屋事件の分析においてもそのような予兆が見られます。

    竜馬とお竜さん

   

  神戸海軍操練所開設がなり、大いなる一歩を踏み出した竜馬ですが、江戸への公務出張に先立ち京都のお竜さんを訪ねています(6月2日)。もうひとつの区切りをしたのでしょうか。興味深い、親しみのもてる竜馬の行動です。これからのプロジェクトについて、お竜さんに大いに語ってみたかったのかもしれません。