池田屋事件考察3 吉田稔麿
        
≪桂小五郎の不可解な行動≫

 池田屋事件の不可解さは、こんなことまでと思われる問題で、はっきりしないことが少なくないということでしょう。桂小五郎の行動もそのひとつです。ここから、池田屋事件について考えてみることにしました。

                      桂小五郎像(京都ホテルオークラ)

  ≪1≫ 局面の変化と会合
  

 古高俊太郎捕縛により、幕府治安機関と攘夷派の対峙がいっきに進んだ、と先に述べました。武器弾薬を貯蔵した活動拠点は、組織的活動が武装蜂起の類であることを実証しています。また、その日のうちに生起した武器弾薬の何者かによる奪還は、それらの武器で武装した集団の存在を具体的に示すものでした。つまり、武装蜂起を目指す組織的集団(軍隊)の至近の存在は、新選組にとって、これからの緊急捜索活動における衝突がこれまでの浪士狩の次元をこえたものになりうる可能性を示すものでした。

 攘夷派にとって、武器弾薬を保管した拠点の発覚と幕府側による押収、またその奪還により、幕府側との対峙が先鋭化したと考えてよい情勢です。

 池田屋における会合に緊急の議事が加わるなど新しい情勢に対応した変化があって当然ですが、議題の変化は局面全体の厳しい臨戦的変化の一部であるわけで、会議開催そのものが問われてしかるべき段階でした。
 事実、新選組は、幕府諸機関との連携を視野においた作戦を立て、自らも緊急スクランブル態勢に入っていました。京都に集まっていた浪士たちの大坂引き揚げなどという新しい情勢に対応した動きも一部で指摘されていますが、変化に対する対応の甘さは否めないようです。会合の必要性と危険性のバランスは、会合の必要性に傾いたということなのでしょう。予定された会合という事情が考慮されたのかもしれません。       
 



  ≪2≫ 池田屋からの脱出

   

  近藤勇は、9名の隊士のうち5名を池田屋の表と裏に配置し、残り4名の隊士をひきいて会合の場に乗り込みました。この段階での尊攘派は新選組を圧倒する量的な戦力でした。初期段階におけるこの戦力の落差に注意するべきでしょう。なぜならば、表2名、裏3名の包囲は彼我の戦力差を考慮すると不十分なもので、脱出は比較的容易ではなかったかと推測できるからです。また、池田屋を脱出しさえすれば、諸藩などによる包囲態勢ができあがるまでの空白時間がありえた可能性があります。土方隊の到着、会津桑名彦根などの藩兵による包囲態勢ができあがった段階では重囲を切り抜けての脱出は困難でしたでしょう。また、長州藩邸でもかかわりを防ぐという政治的判断から門を閉ざして藩邸内に入ることはある段階から困難になっていました。脱出者を受け入れることは敵対行為とみなされたでしょうから当然の措置といえました。望月亀弥太、吉田稔麿などが長州藩邸隣接地で倒れたケースはこのような状況を示しています。

  池田屋の裏は高瀬川船入に面した路地で河原町通りを北に向かって少し走れば長州藩邸でした。脱出はもっぱら裏に集中したのではないでしょうか。裏を警備した新選組の3人がすべて死傷していることもそれを裏書するでしょう。初期段階にすばやく脱出したケースのみ生き残る可能性があったということでしよう。桂小五郎の場合もそのケースと思われます。事実、桂小五郎は対馬藩邸にたどりついています。対馬藩邸は池田屋のほんの近くですから、初期段階の場合は、簡単に藩邸に入ることができたでしょう。

 

    

  ≪3≫ 吉田稔麿の死

   

 吉田稔麿の死についても諸説があります。諸説に共通しているのは、脱出して長州藩邸に向かいたどりついたということでしよう。そこからいくつかのエピソードにわかれます。

 @藩邸に急を知らせ槍をとって再び池田屋を目指したが加賀藩邸近く(長州藩邸隣接)で会津藩兵と戦い討ち死にした。

 A藩邸に急を知らせ槍をとって再び池田屋に駆けつけ、沖田総司と戦い敗れた。

 B藩邸に急を知らせたが、藩邸の門を入ることができないで加賀藩邸近くで会津藩兵と戦い討ち死にした。

  結論からいえば、私はBが最も真相に近いのではないか、と考えています。望月亀弥太のケースと同様、門を閉ざした長州藩邸に入ることができなかったのでしょう。隣の加賀藩邸近くでの討ち死にはそこに幕府側がすでに存在して、長州藩邸の動きに厳しい監視の目を向けていた事実を物語りますし、池田屋からの脱出者を受け入れることは不可能でしたでしょう。

  さて、このような状況を前提にエピソードを検討してみましょう。

  藩邸に急を知らせることは門外からできますが、槍をとってという行為は、入邸しなければできません。つまり、いったん藩邸内に入り、武装強化して藩邸から出動ということになります。そして、出動したところで幕府側に捕捉されて戦闘行為におよんだということになれば、長州藩にとって大問題です。@説の可能性は全くないでしょう。
 A説の可能性は、沖田総司が喀血して倒れる前、藩邸との往復に障害がない時間帯、そして長州藩邸が門を閉ざす前などの諸条件を考慮すると、事実上不可能でしたでしょう。

 このように考えると、問題は、槍を持って引き返し壮烈な討ち死にというエピソードが生まれた事情ということになります。エピソードの核心は、脱出が、藩邸に急を知らせるという使命からなされたものであり、逃げたわけではないことにおかれています。槍を持って戦場に引き返したという行動がそれを鮮やかに語ります。新選組最強の戦士沖田総司との対決はこのエピソードに添えられたシンボリックな華といえるでしょう。士道の典型として描かれています。

 このようなエピソードは、池田屋事件で生き残った少数の人々≪うまく脱出しえた人々≫にとって、一種の重圧になったであろうことが十分予想できるでしょう。このあたりにエピソードが生まれた事情があると私には思われます。

 政治的判断から門を閉ざした藩邸、もちろん救援はありえない。
 さっと消えた幹部。というような問題が、このエピソードに照らされて浮かび上がるということになりはしないでしょうか。

    


  ≪4≫ 桂小五郎の立場
 
   

  桂小五郎は池田屋事件についてほとんど語らなかったようです。無理もないと思われる事情を「吉田稔麿の死」の項で考えてみました。おそらく語ることができなかったのでしょう。

  この日、古高捕縛に加え、封印された武器弾薬の奪還により、局面の急激な先鋭化が予想できました。事実、新選組は緊急スクランブル態勢に入り、会津藩などの出動要請を行うとともに、組織を上げた出動準備に入っています。
 急激な事態の展開は、当然、池田屋における会合の役割を変え、この日会合を開かねばならない必要性は弱まっていた可能性があります。桂小五郎の幸運は、偶然というよりも、政治的組織的中枢にいて、このような事態の変化を承知していたからこそ、すばやく冷静に対応できた結果といえるかもしれません。桂小五郎はすばやく脱出して、最短位置にある対馬藩邸に駆け込んだというところが真相ではないか、と私は思っています。

       

 


  ≪5≫ 池田屋事件とは

     

 池田屋事件は、狭小な家屋内における戦闘を軸にした大変狭い地域における戦いでした。
 幕府側が包囲網をひきやすい条件がありました。そのために、包囲態勢が整わない初期段階はともかく、包囲網が完成してからは脱出は困難であったものと思われます。結果的にも会合参加者の大半が捕殺されることになりました。ただし、詳細は不明な点も多く、不可解な問題が少なくありません。
 理由のひとつは、捕縛された人々が禁門の変のどさくさに殺されてしまったことでしょう。もうひとつは、新選組関係者はもちろん、生き残った尊攘派の人々にとっても池田屋事件について語りにくい事情があったのではないか、という問題です。謎の謎とでもいうべきでしょうか。 

     
        


    お知らせ
    

 1年以上かかりましたが、「幕末維新ミュージアム・京街道」ようやく完了です。補強取材、全体の再構成、参考資料、書籍の紹介などを行い、次の課題「義経の時代と地域」に移ります。新選組関連では、もっとたくさん魅力的な謎、対象、地域があるのですが、後日の楽しみにしたいと思います。ありがとうございました。
                                                       2005年6月4日