〜暗の巻〜

 その時、世界は一瞬にして暗転した。

 (なんだ、これは。..これは、首輪なんかではない。これは..)
もっと邪悪な、何かだ。
そう、何者かが何らかの意志で、邪悪な気そのものを練り固めて作った力場のようなもの。それが、装飾品の見せかけをとってこの現代までひっそりと生き延びて来た、..それが朱の首輪の正体だ。
首輪をはめた緑玉には、それが紛れもない事実だと、はっきりわかった。
(こんな物を、使ってはいけない。すぐ当主さまに知らせなくては。)

 緑玉は急いでそれを外そうと自分の首に手を回した。だが、もう遅かった。
ふいに首輪が、じわり、とその輪をせばめた。肌ににぴたりと吸いついてくる。
「うっ、..」
その感触に、緑玉は総毛立った。
首輪はなおもせばまり、緑玉の頚動脈をじんわりと締めつけてくる。
ドクン、ドクン、と、脈打つ音が頭の中に響く。
「やめろ、..やめてくれ..」
緑玉は必死で首輪をむしり取ろうと空しい努力をした。
首輪は、少しの間締めつけを強めた後、元の大きさに戻った。
「あぁ..。」
緑玉は全身にびっしょりと冷や汗をかいていた。
まさぐると、首輪は何事もなかったようにゆるく首にはまっている。 いつでもお前の命を取れるのだと、首輪は、緑玉に思い知らせたのだ。





 その昔、未だ神々がこの地に到着するよりももっと昔。
邪悪なる者たちが地上を支配していた。
地上には、邪悪なる者たちが作りしあらゆる悪がはびこっていた。
その邪悪を制圧するために、光ありし彼方より、神が遣わされた。
邪悪なる者と神との戦いは長きにわたった。が、やがて、邪悪なる者は破れ、地下に追われ、地上は神の支配するところとなった。

 天帝を頂点とする神々の繁栄は永遠に続くと思われたが、堕落した一体の神が地下に落とされ、地下の邪悪なる者の末裔を支配して天に反旗をひるがえそうと目論んだ。
 だが太古の邪悪なる者のほとんどはその支配をこころよしとせず、堕落神は彼らと闘って地下の支配権を得なくてはならなかった。
 その時、地下のさらに下層、「辺土」と呼ばれる場所に、太古の邪悪なる者は封じ込められ、永きの眠りについた。

 (なぜだ。なぜ、そんな事を俺に教える。)
緑玉は、首輪をつかみ、歯を食いしばって知識の奔流に耐えていた。
(なぜだ。..姿を現わせ。俺をどうする気だ。)
(我の名は、......。暗き者の末裔。)

 「うわぁぁぁぁぁぁぁっっっ」
絶叫と共に、緑玉は跳び起きた。
目覚めたそこは、座敷牢の中だ。紅后の屋敷の中に、こんな場所があったなどとは、ここに入れられるまで、緑玉は知らなかった。
鎖が、ジャラッと音をたてる。牢に入れた上で、念入りにも緑玉の両手は鎖でつながれているのだ。
 と。
「誰だ、そこにいるのは!」
緑玉は叫んだ。
無論、灯りなどない。明かり取りの窓もないこの暗闇の中で、緑玉は人影を察知したのだ。
今や緑玉の五感は異様に研ぎ済まされている。緑玉には、その人影の怯えた体臭までもが嗅ぎ取れた。
「金華竜か。」
「...はい..あの、..兄さま。」
金華竜は、その雄々しい名が不似合いな、内気で小柄な少女だ。おずおずと、その白い影が近づいてくる。
「どうした、ここへ来ては駄目だと言われていただろう?」
「だって、..兄さま、..うなされていたから..。」
「なんだ、お前、心配してくれたのか、済まないな。それは、鎖の鍵か?」
金華竜は、えっ、と驚く。この暗さで、緑玉の所からそこまで見えるはずがないのだ。
「兄さま、どうしてわかるの。」
「さぁ、な。..朱の首輪のせいだろう。こんなに力が充実した事はない、今ならどんな術でもできそうだよ。」
緑玉の落ち着いた物言いに、金華竜はほっと緊張をゆるめる。
「良かった。兄さん、あの、..私、鎖だけでも外して差し上げたくて。」
少女のひたむきな思いやりに、緑玉は胸が熱くなった。
「金華竜、済まないね。..でもそんな事していいのかい?」
「夜が明けたら一番で、私がお食事を差し上げに参ります、その時に、申しわけないけど鎖をまた、かけさせていただきますから。」
「そうか。..じゃぁ、外してもらおう。..ここへ来ておくれ。」
「はい。」
金華竜は牢の格子に近づき、手を差し入れて緑玉の鎖を外しにかかる。うんと手を伸ばさなければ鎖の根元をつなぐ錠前に鍵が届かない。自然と緑玉の胸の辺りに、格子を隔ててとはいえ頭をすり寄せる形になる。
兄と呼んで慕って来た異性の暖かい体温と息遣いを感じて金華竜の心臓はドキドキと高鳴った。
(兄さまと、こんなに近くにいられる。..うれしい。)
こんな事がなければこうして二人きりになれる機会など滅多にないのだ。だがこんな金華竜の想いは、真面目な兄のことだ、きっと迷惑なだけだろう。

(せめてこのまま、ずっとこうしていたい..)
金華竜の望みも空しく、鎖はすぐに外れた。
その時。
一瞬にして緑玉は、少女の細い手首をがっちりと掴んでいた。
「あっ、兄さま。」
そして金華竜は、普段の緑玉からは想像もつかない言葉を聞いた。
「金華竜。兄さまの事、好きか?」
「ええっ。..痛い、放して兄さま..」
「お前は、俺の事を案じて、ここまで来た。鎖を解いた事がわかったら、どんなに叱られるか知っていながら、だ。..どうなんだ、金華竜。」
兄にじっと見つめられて、金華竜は耳まで真っ赤になった。
「では俺が言おう。俺はお前の事が好きだ。」
「えっ、兄さま...あっ。」
金華竜の手首を放さないまま、一体どうやったのか、緑玉は金華竜が持っていた鍵束を一瞬にして奪い取っていた。その中には、牢を開ける鍵も入っている。
「兄さまっ」
ガチャリ、と、錠前が開く音がした。牢の戸が素早く開いて、次の瞬間、金華竜は緑玉に抱きしめられていた。
「あっ..」
「俺が牢を開けて逃げると思ったか? どうだ、兄さまは逃げないだろう、俺はマトモだろう?紅后の家のために強くなって術を覚えるため、こうして朱の首輪をつける苦しみに耐えているんだよ。..金華竜、お前の事をずっと好きだった。牢を開けたのは、こうしてお前を抱きしめたかったからだ。」

「兄さま..」
兄の優しい笑顔が、こんなに近くにある。恐怖が徐々に薄らいでくる。金華竜の中で、幸福感が羞恥心を抑え込んだ。
「兄さま、..あぁ、兄さま、私も兄さまが好きよ、大好き。」
「金華竜..」
緑玉は金華竜の唇に唇を重ね、その体をゆっくりと押し倒した。

(...やめてくれ。これは俺じゃない。俺の意志じゃないんだ。駄目だ、金華竜、頼む、俺を押しのけて逃げてくれ、気付いてくれ、俺はこんな事はしたくない、お前はもっと大切なんだ、..駄目だ、..やめろっ、やめてくれえぇっ..)
緑玉は、己の行動を、まるで他人が見るように傍観する事しかできなかった。唇が勝手に言葉をささやき、大切な妹の無垢な唇を奪い、清らかな体に触れるのを、どうすることも出来なかった。それは、いっそ発狂してしまえれば、と思うほどの責め苦だった。





 (これが、真に邪悪であるという事なのか。これが..)
全てが終わった後、緑玉は一人、頭を抱えうずくまっていた。金華竜は何も知らず、身仕舞いをして自分の部屋へ戻って行った。その去り際の、涙に濡れながらも愛する男に笑顔を見せようと、いじらしい気遣いを見せた様子を思い出すと、緑玉は罪の意識に体の震えが止まらなかった。
(恐ろしい..俺は、恐ろしい忌むべきモノに変わってしまった。)
自害は許されなかった。その決心をし、行動を起こそうとした瞬間、首輪はそれを察知し、緑玉が気を失うまで頚を締めつけて戒めたのだった。





 月が変わり、当主の手によって首輪が外された時、緑玉はそれまでの事を何も覚えていなかった。
 朱の首輪により見違えるほど力をつけた緑玉は、忠誠を取り戻すと後は、めざましい働きをしたが、もう二度と、笑顔を見せる事はなかった。
 金華竜は、緑玉があの夜の事を覚えていないのを知ると、一人、泣いた。が、その事を決して緑玉に知らせず、密やかな思い出を胸に、やがて寿命を迎えた緑玉の後を追うように、消え入るように亡くなった。



 朱の首輪は、紅后家の蔵に、今もひっそりと息づいている。    









 










関連のある他の巻:朱の巻(朱の首輪) 光無の巻(金華竜)

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