〜人魚の巻〜

 麻奈は、美しい娘だった。
猟師のハヤは、山でとった獲物を塩と交換しに、久しぶりで海の近くまで降りて行った時、道端で飢えて倒れていた麻奈を見つけたのだった。顔の汚れを落として見たそのあまりの美しさに驚いたハヤは、身よりが無いというこの娘を家に連れ帰り嫁にした。

 だが、麻奈と暮らすようになってしばらくして、ハヤはふとした時折に違和感を感じるようになった。
 ある日ハヤが、山から帰った日の事。
家に入ると、一瞬、生臭さが鼻をついた。(腐るような物は置いて行った覚えはないのに。留守中に行商が来て、麻奈が干し魚でも買ったのだろうか?)ハヤはいぶかった。
だが、麻魚が花のような笑みを浮かべ迎えに出るとそれも消えた。
 麻奈はいつも、摘んできたばかりの花のような香りがする。
美しい長い髪は、どんな滑らかな絹よりもまだしなやかだ。その肌はどんな獣の毛皮よりもまだすべらかで柔らかく、そして暖かい。

(俺は、この世でもっとも美しい女を妻にしたのだ。)
麻奈のうれしそうな顔を見ると、幸福感が波のようにうねり湧いてくる。

 また、ある日の事。
ハヤは恐ろしい悪夢を見た。夢で金縛りにあって動けぬ自分の顔を、近々とのぞき込む顔は、思い出しても肌に粟を生じさせるものだった。
(なんだ。これは。..これは..サカナだ。)
ハヤは喘いだ。耳まで裂けた半開きの口からのぞくのは、2重3重にびっしり生えた、小さな尖った魚の歯だ。ギギ、ギギ、と、鳴く声をたてながら、半魚人のような怪物は生臭い息をハヤに吹きつけてくる。だが最も恐ろしいのは、その怪物の、まぶたの無い大きな目玉に、紛れもない知性の輝きがあったことだ。そう気付いた途端、ハヤは恐ろしさのあまり気を失いそうになった。
半魚人はなおも顔を近づけてくる。
(寄るな。やめてくれ。..)うわぁぁぁっ、と悲鳴をあげて跳び起きると、麻奈が心配そうにハヤの胸に手をかけて顔をのぞき込んでいた。

 「ハヤよ、お前、クマ撃ち犬は飼わねぇか?」
「そうだなぁ。最近、ここいらで兎やなんかがめっきり減った気がする。冬を越すためには大物をとらなきゃならんかなぁ。」
ハヤは犬を買った。子牛ほどの大きな、獰猛な猟犬だ。これで確実に獲物を仕留める事が出来る。麻奈のために、ハヤはもっと猟をしたかった。

 家に連れてきた犬は何かに怯えたようになり、狂ったように暴れた。
「おいおい、どうしたんだ。近くに熊でも潜んでいるか」
ハヤになついてきたはずの犬だが、言う事を聞くどころか牙を剥き出し、メチャメチャに暴れ回るばかりだ。
 その夜のうちに犬は縄を噛みちぎり、行方知らずとなった。

 ハヤが犬の死体を見つけたのは3日ほど経ってからだった。
「うっ..これは酷い。」
狩りをして、獣の死にざまを見てきたハヤでさえ、思わずたじろぐほど、犬の死に方は無残だった。
「熊、だろうか..?」
この犬を殺すほど獰猛な大熊が近くにいるのか。しかし熊では、こんな噛み傷は作らない。
噛み裂かれたノド笛についた歯型は、見たことのないものだった。
鋭い小刀の切っ先で何度もずたずたに切りつけると、こんな感じになるだろうか。
「!」
夢で見た半魚人の、ずらり並んだ鋭い歯。
ハヤはぶるっと身震いし、大急ぎでその場を立ち去った。全身の毛が逆立っていた。

「麻奈ッ、..無事か?!」
「おかえりなさい、どうしたの?」
部屋の奥から麻奈の声がする。あぁ、良かった。怪物は麻奈を襲っていなかった。
どっと安堵のため息をつく。あぁ、麻奈の声はきれいだな。まるで鈴を転がすようだ。天女の声というのはこういう声をいうのだろうな。
空気が生臭く、どんよりと重苦しい。どうした。麻奈、お前は海辺の生まれだったな。また行商を呼び止めて干し魚を買ったのか?こんな山奥へ連れてきて、お前には可哀想な事をしているのか?
「あぁ、眠くなった。」
なぜか急に眠気を感じ、ハヤはその場に崩れ落ちるように横になった。
急速に遠のいてゆく意識の向こうで、麻奈の美しい姿がゆらり、と部屋に入って来たのが見える。
ぺたりぺたりと、麻奈の足音がする。
(あぁ..どうした。妙な足音がするな。お前、魚を食べ過ぎて足が魚のひれみたいじゃないか..)
頭の奥で警鐘が鳴っている。起きろ、起きろ、何かが変だ。起キロ、起キロ。

ハヤが最後に見たのは、くわっと開いた、大きな口だった。小さな尖った歯が何重にも生えた、魚の、口。

 「あぁ、お前さまが犬を買ったりするから。」
犬を殺したのはまずかった。だがもう、こうするしかなかったのだ。
麻奈はため息を一つつくと、半分まで食い尽くしたハヤの胴体を、先がひれになった手で押しやった。食いちぎられた首がゴロリ、と転がる。
「あぁ、また違う土地へ行かねば。」
そうひとりごちる麻奈の言葉はだがもう、ギギ、ギギ、という鳴き声にしか聞こえなかった。





 「あぁぁ、許して..私のせいじゃない、私が進んでした事じゃない..」
「真名、真名っ、..真名姫!!」
名前を呼ばれ、激しく肩を揺すられて、敦賀ノ真名姫はやっと悪夢から逃れた。
「..あ...私...。」
「どうしたんだい、また怖い夢をみたのかぃ。」
優しい、柔和な顔がのぞき込んでいる。
「あぁ、白珠。」
「うなされていたよ。...また、思い出したんだね、昔の事を。」
あやすように、あたたかな大きな手が真名姫の背をゆっくりとさする。
「真名姫、..あなたは死ねない体だ。人であればもうとっくに死でもって何度もあがなわれてもおかしくないほど、辛い事、苦しい事を、幾つも幾つも、このたおやかな身一つに引き受けてきた。..どんなに苦しかったろうね、俺などで良かったら代わりたい。もしもあなたが、俺の肉を食らいたいならば、それでもいいんだ。真名、愛してる..。」

 白珠は、人魚の秘密を知っている。真名姫からそのおぞましい習性を告げられてなお、真名姫と結ばれることを望み、もしもの時は我が身を差し出す覚悟で真名姫との蜜月に臨んでいるのだ。

 「あぁ、白珠..私、大丈夫。私はもう、あの浅ましい怪物ではないわ。もう人の肉を食べなくても平気よ。」
「だけど真名、あなたは今度は子供を身ごもり育てなくてはならない。やはり食わなくてはいられないのでは..?」
「いいえ、天上神となった私は霊的な力だけで充分...嫌だ、白珠あなた、それともそんなに私に食われてしまいたいの?」
「い、いやいやそういうわけではないんだが、一応の覚悟はして来たわけで..。」

短い沈黙の後、突如、真名姫は白珠に襲いかかった。
「...あぁっ、やっぱり食べたいっ!!」
「うわーっ」
白珠はのけぞったものの、いよいよ覚悟を決め、目を閉じる。その裸の胸にがっぷりと、人魚の尖った歯が...。
「う...ううっ、やめてくれ..くっ...くすぐったいっやめてっ!」
「うふふ。」
真名姫は、舌の先でちろちろと白珠の肌を舐めながら上目づかいに白珠の顔を見て笑っていた。
「こらーっ真名っ、だましたなぁっ。」
「アハハ、アハ..きゃぁっ。」
「ええい、俺が真名を食って不老不死になってやるっ、覚悟しろっ」
「きゃぁ、いやぁんっ」
笑い崩れる真名姫を抱きしめ、白珠が口づけの雨を降らせる。
真名姫の笑い声が、次第に甘え声に変わっていった。

 甘やかな時間がゆっくりと過ぎてゆく。
幸せな、幸せな、二人の蜜月は始まったばかりだ。  









 










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