〜雨の巻〜

 雨が、降っていた。

「雨、だ。」
岩黒王が、ぼそり、と言った。
「....は?」
だいぶたって、ようやくイツ花が訊いた。
刃と兆の兄妹は、それに気付かずそれぞれの物思いに沈んでいる。もしかしたら、連戦の疲れで居眠りしているのかもしれなかった。
「雨さま、ですね?」
「あぁ。」
そういうと岩黒王は筆と半紙を黙ってイツ花に押しやった。
本来なら、赤ん坊の名を書くのは父親であり、しかも当主でもある岩黒王の務めなのだが、岩黒王ときては面倒な事は何でもイツ花にやらせている。
「ハイハイ、坊っちゃま。」
イツ花は筆を取ると半紙いっぱいに大きく「雨」と書いた。
「あ。」
兆が、ようやく気付いて声をあげた。その声で刃も顔を上げる。
「兄さま、雨ちゃん、なの?」
「あぁ、そうだ。お前らと同じように一文字の名前だから親しみがわくだろう」
兆と刃はちょっと困ったように顔を見合わせた。
「名前も決めた事だし、みんな、もう寝ろ。」
「はい、兄さま。」
「おやすみなさい、兄さま。」
兄妹は素直に岩黒王の部屋を出てゆく。

「ふわぁぁ..今日はお子様の御来訪だってんで朝から待ってて疲れちまったなぁ。」
岩黒王は大きく伸びを一つするとごろりと横になった。
「イツ花、あとのいろいろは任せたぞ、俺はもう寝る。」
「あっ、あの、坊っちゃま、雨さまのご職業は..」
「なぁんだよ、今晩中に決めなきゃならんか?」
「いえ、まぁ、..いいんですけどもぉ」
「俺の子だから薙刀遣いだと思ってたが」
「ええ、坊っちゃまがそう思われるならそういたします。」
「あぁ。...いや、待てよ。」
天井を見ながら、岩黒王がつぶやいた。
と、ガバと跳ね起きる。岩黒王は何か思いついたらしい。
「イツ花、家系図を見せてくれ、それから..」
イツ花はそんな岩黒王の急な命令にも慣れているようで、岩黒王に命じられるまま、倉と屋敷のあちこちを走り回って様々な品を揃える。

 「刃のやつは、一人で奥義を全部編み出しちまいやがった。」
半ばブツブツと独り言のように岩黒王が言う。
「兆が弓の奥義を復活させた時は、まぁ、巻き物一式揃っていたわけだし、そういうもんかと思ってたが、何も無いところから刃が次々奥義を編み出したのにはたまげたよなぁ。」
「ハイ、イツ花も驚きました。」
部屋いっぱいに拡げた資料の書物の山の中に、ちょこんと正座して、イツ花はあいづちを打つ。
「ところで、..坊っちゃま?そろそろお夜食、お作りしてきますけどぉ..」
それまで難しい顔をして考え込んでいた岩黒王の目が急に輝き出す。
「おぉっ、夜食かぁ。..そういえば腹減ったなぁ。でっかい握り飯が食いてぇ。」
「ハイ、中身は、いつものシャケとおかかでいいですね?」
「ああ、多めに入れてくれよ。」
「ハイハイ、坊っちゃま。」
イツ花はニコニコしながら台所へ向かった。



 「まったくぅ、雨さまが生まれてお父さまになったと言うのに坊っちゃまは...ちっとも変わらないんだからぁ。」
いそいそと夜食の支度にいそしむ。
「シャケは三角、おかかは丸、っと。..坊っちゃまがおうちにいらっしゃる時は、いつお夜食を召し上がってもいいようにご飯を多めに炊いて残してあるんですよぉ。」
鼻歌混じりに、独り言を言いながら、イツ花は幸せそうだった。
「雨さまは、どんなお子に育つでしょうねぇ。坊っちゃまはどんなお父さまになるのかしらねぇ。..私の孫、ってわけぇ?やだぁーきゃはは..」
たった一人厨房に立つ気楽さも手伝って、イツ花はつい独り言を言って笑ってしまう。イツ花だって、岩黒王の娘が無事来訪して、何よりうれしいのだ。
「ん、でも、夕子母さまが雨さまのお母さま、って事はぁ、イツ花とは姉妹なわけでぇ..あれれっ、わかんなくなっちゃったわ、アハハ..何にしてもぉ、これから紅后の家はますますバーンとぉ、繁栄するわけでぇ..」

その夜は岩黒王の部屋の明かりは遅くまで消えることがなかった。



 歴代の当主の中でも、岩黒王の功績は抜きん出ていた。
名うての敵の首領を討ち取り、巨大竜7体のうち残る3体を退治し新たな敵地に乗り込み、一族年代史を華々しく飾る戦果の数々を、この角を生やした太照天昼子の最初の息子は果たしていた。
その討伐隊には刃と兆の兄妹の力も大いに貢献していたのはもちろんである。

 が、当主として岩黒王がしたのはそれだけではない。
親から子へと受け継がれる職業の一子相伝を、大胆にも廃止したのだ。

 雨が来訪した晩、岩黒王が考え抜いて下した結論だった。
「なぁ、奥義奥義って、そんなにお大事に伝えなくたって、ウチの奴らなら勝手に使えるようになるんじゃねぇのか?」
その時の岩黒王の生き生きした瞳を、イツ花は忘れない。
「なぁ、そうしたら、体がでっかいやつはそれに向いた武器を選ぶし、逆に例えば女が無理やり壊し屋を継いだりしなくてよくなるんだ。そしたらよ、親父だって無理して俺に薙刀なんぞ押しつけなくたって、..俺に、壊し屋をさせりゃぁ良かったのよ。刃は、あれはあれで初代壊し屋を楽しんでる、だが、大槌を扱うなら怪力の持ち主の方がやっぱり有利に違いねぇんだ。」
思えば金雲母から代々受け継がれた薙刀遣いの血筋も、岩黒王を最後にとうとう薙刀遣いでなくなる。雨は、弓遣いだ。
初代当主のたった2人の子供のうちのもう一人、弓遣いであった焔珠の血は、すでに失われている。
イツ花にはそれらの出来事が未だ昨日の事のように思える。
(時の経つのは早いものだ..。)
限りない感慨に、イツ花はそっとため息をついた。



 時は誰の上にも平等に、そして残酷に過ぎゆく。
岩黒王が、今、死を迎えようとしている。
浅黒い岩黒王の顔色が、ここのところ紙のように白い。咀嚼する力さえも急速に衰えてきたようで、食事を受け付けなくなって丸一日経つ。
侍女たちもほとんど下がらせ、屋敷には今はイツ花と岩黒王の二人きりだ。イツ花はもう片時も岩黒王のそばを離れず、その息遣いを見守っていた。
「なぁ、..イツ花..」
「ハイ、坊っちゃま」
「あいつらが出かけて今日で何日目だ?..いや、帰るまであと何日、俺は生きてなくちゃいけないだろうか」
イツ花は、涙をこらえながら健気に笑顔を作り励ます。
「坊っちゃま..なぁにをおっしゃるんですか、坊ちゃまみたいに丈夫な方がこれきしの病で死ぬだなんて。」
だが、岩黒王の命の灯が消えかかっているのは今や明らかだった。

「..なぁ...」
「ハイ?坊っちゃま」
少し間があって、それからようやく岩黒王が口を開く。
「..次の当主のこと..みんな当然わかっているだろう、イツ花、お前からみんなに..言ってくれ..」
岩黒王はそこで言葉を切り、ぐったりと目を閉じた。いかつい顔に、くっきりと死相が現れている。
はっとしてイツ花が呼びかける。
「坊っちゃま、いけません、死なないで。..坊っちゃまっ」
イツ花の呼びかけに、岩黒王がいかにも大義そうにゆっくりと目を開ける。
「フフ、..あわてるなよ、...まだ、死んでねぇよ。..なぁ、次の当主は雨だ。あとのいろいろはイツ花、..頼む。...そうしたらよ、..俺は、あいつらの帰りを待たなくたっていいんだろ..」
「坊っちゃま、坊っちゃまぁっ、イヤです!死なないで..」
イツ花は岩黒王の枕元ににじりより、その頭を夢中で膝にかき抱いていた。
「坊っちゃまっ」
「あぁ..あったけぇなぁ。...かぁちゃんって、こういうもんなのかなぁ..」
岩黒王が何とも安らかな笑顔で目を閉じる。
「..かぁちゃん。」
甘えるように、安心したように、岩黒王は言った。
「えっ...。坊っちゃま、もう一度呼んでくださいまし。」
「..かぁ..ちゃん..」
「坊っちゃま..坊っちゃま...もっと呼んで..坊っちゃま」
もう、岩黒王は返事をしなかった。

イツ花は我が子の骸に身を伏せて号泣した。

















関連のある他の巻:角の巻(岩黒王、刃、兆) 槌の巻(岩黒王、刃、兆)

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