<多賀城 壺碑>
(たがじょう つぼのいしぶみ)宮城県多賀城市

旅行日 '94/12 '01/04

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 現在の仙台中心部から北東へ約10km。多賀城(たがじょう)は、陸奥国(むつのくに)を治める国府(こくふ)、つまり役所で、西暦724年に仙台平野を見渡す小高い丘に造られました。
 大きさは約900m四方で「大垣」とよばれる築地塀(ついじべい)で囲まれていました。中央には政庁が置かれ、そのまわりに事務を執る建物、工房、倉庫などもありました。この多賀城は10世紀の後半にはすたれました。


 多賀城の中核をなすのは政庁。約100m四方の築地塀に囲まれ、中央に正殿(せいでん)、その両脇に脇殿が有り、正殿の前には広場がありました。政庁は国司の事務決裁の場であり、儀式の場でもありました。
 
以上「東北歴史資料館」発行の資料より抜粋。



壺碑(つぼのいしぶみ)?

 壺碑(つぼのいしぶみ)は陸奥のおくの方にあると伝わる古い石碑。歌枕として多くの和歌に詠み込まれました。
 ここ多賀城の跡で芭蕉はついに壺碑(少なくとも当時はそう思われていた)を眼前にします。『奥の細道』の旅は、すなわち歌枕の地を訪ね歩く旅。千年と変わらずその姿を残す石碑を前に、芭蕉の感銘も並々ならぬものでした。

 むかしより、よみ置ける歌枕、多くかたり伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木に変れば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬ事のみ。ここに至りて、うたがひなき、千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に、古人の心を閲(けみ)す。


 芭蕉も「つぼの石ぶみ」と記しているこの石碑、じつは別物。奈良時代中頃に多賀城を修造した時の記念碑で多賀城碑と呼ばれています(偽作説もある)。
 この碑が発見されたのは1660年ごろで、芭蕉が訪れる約三十年前。これが歌枕の壺碑と混同され世に広く知れ渡ってしまいました。古い石碑であることには変わりはないのですが。
 では、真の壺碑はといいますと・・。その所在も実体もいまだもって謎のままなのです。


 現在、碑は多賀城南門跡付近に建ち、覆い屋によって保護されています(上の上の写真)。上写真は格子越しに無理矢理撮った(←いけませんね)多賀城碑。左上の「西」の文字、判読できるでしょうか?
 以下「多賀城 去京一千五百里(京を去ること一千五百里) 去蝦夷国界一百廿里(蝦夷の国の界を去ること一百廿里)・・略・・天平寶字六年(注:西暦762年)十二月一日」
と刻まれている(はずです)。

 行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、覊旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり。

<現代語訳>(壺碑を見られたのも)行脚をしたおかげであり、生き長らえてこその喜びであると、旅の苦労を忘れて、涙もあふれ落ちるほど感動した。

 芭蕉も曽良もこれが壺碑であると信じ切っていたようです。文学と史実とは違う所にあるのだから、これはこれで構わないことなのでしょう。



上、多賀城碑実測図は国立歴史民俗博物館「古代の碑」展の目録より


 このページは東北歴史資料館で頂いた資料をもとに作成しました。ここでは東北の歴史がいろいろと学べますので、皆さんも是非足を運んでみてください。
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 東北歴史博物館が500mほど移転の上、大変に立派な施設となってオープンしました。真ん前にJR(東北本線)の新駅も開業し便利に。
 東北歴史博物館のホームページへ。多賀城跡の詳しい資料、解説が見られます。

東北歴史博物館('01/04現在)

開館時間:午前9時30分から午後5時
休館日:月曜日、12月29日から1月3日
交通:JR東北本線 国府多賀城駅よりすぐ
   JR仙石線 多賀城駅から徒歩20分
   多賀城碑より南へ歩10分
 


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