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<柏崎刈羽原子力発電所>
(かしわざきかりわげんしりょくはつでんしょ)

<基本データ>
所在地
新潟県柏崎市青山町16
運転開始
1985年9月
事業主体
東京電力

<原子炉設備の概要>
  
原子炉形式
営業運転開始
定格出力
備考
1号機
沸騰水型軽水炉(BWR)
1985.09.18
110万kw
  
2号機
沸騰水型軽水炉(BWR)
1990.09.28
110万kw
  
3号機
沸騰水型軽水炉(BWR)
1993.08.11
110万kw
  
4号機
沸騰水型軽水炉(BWR)
1994.08.11
110万kw
  
5号機
沸騰水型軽水炉(BWR)
1990.04.10
110万kw
  
6号機
改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)
1996.11.07
135.6万kw
  
7号機
改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)
1997.07.02
135.6万kw
  


<柏崎市・刈羽村・柏崎刈羽原発の概要>
 秋田から新潟にかけての日本海側は明治期以来、日本の石油採掘業の中心地であり、柏崎・刈羽もかつては石油で栄えた地域であった。しかし小規模な油田は次々に淘汰され、現在は柏崎市東部に一カ所ガス田が残るのみで他は全て姿を消した。そして地域復興の切り札として原子力発電所に目が向けられる。1969(昭和44)年、柏崎市と刈羽村の議会が相次いで誘致を決議。1978(昭和53)年に1号機着工。1985(昭和60)年には1号機の営業運転が開始された。
 「柏崎刈羽原子力発電所」は敷地面積は420万平方メートル、およそ東京ドーム90個分で、そのうちのおよそ4分の3が柏崎市、4分の1が刈羽村の市村域となっている。1997(平成9)年7月に7号機が営業運転を開始したことにより発電設備の合計出力は821万2千キロワットになり、一カ所の発電所としては世界最大になった。

<新潟県中越沖地震(2007年)>
 2007(平成19)年7月16日10時13分、中越沖を震源としたマグニチュード6.8の地震が発生。柏崎市・刈羽村では震度6強を観測。新潟県内で死者15人を出した。震源から柏崎刈羽原発までの水平距離は約16km。地震発生時2号機は起動中、3,4,7号機は運転中だったがすべて自動停止。翌日朝には全炉の冷温停止状態が確認された。6号機では海中に、7号機では大気中に放射性物質の放出があったが、ごく微量で環境への影響はなかったとされている。3号機の変圧器が火災を起こし、地震直後の混乱や不手際もあって鎮火までに2時間近くかかった。
 各建屋に設置された地震計では軒並み設計時の耐震基準を超えた加速度を観測しており、その後の運転再開にあたり耐震強化工事を実施している。またこの地震の教訓として震度7の地震にも耐えられる「免震重要棟」が建設され、対策室や通信・電源などの重要設備を集合させ、緊急時にも対応できるようにする。東京電力は他の原発にもこの「免震重要棟」を設置するが、福島第一の事故で混乱を極めるなか、最後の砦としてこの免震重要棟が活用されたことは記憶に新しい。


<地図で見る柏崎刈羽原発付近の変遷>
1968年8月発行の地形図より

海岸沿いに県道(北陸道)が延びているが、1689(元禄2)年『奥の細道』の旅で松尾芭蕉が歩いたのもおそらくこの道筋だと思われる。現在原発が立地する付近は「荒浜砂丘」と呼ばれる不毛の荒れ地だった。300年近く大した変化もなかったこの道と荒れ地が、原子力発電所の建設が決まるや否や数年で大化けすることになる。図の右下に三軒茶屋という集落(刈羽村内)があるが、この左側から国鉄越後線の線路沿いにかけて、四隅に突起のある四角マークがある。これは油井(ゆせい)のマークで、この付近はかつては石油の産出地だった。石油の村から原子力の村へ変貌したのである。赤枠で示したのが現在の原発建屋に対応する位置。
2012年現在の電子国土基本図より

地図中の黄色い線が市・村の境界で西側(左側)が柏崎市、東側(右側)が刈羽村。1〜4号機は柏崎市の市域にある一方で、5〜7号機は柏崎市・刈羽村にまたがる形になっている。両市・村に公平にお金が落ちるようにしたからというのは穿ち過ぎであろうか。北陸道は国道352号線となり、原発敷地を大きく迂回する形に付け替えられた。この国道352号は2007年7月の中越沖地震の際、土砂崩れや路盤陥没が起き、原発の北側の区間で不通となった。日本の原発は崖の迫る海岸沿いに立地することが多いが、大地震発生時の緊急路の確保という点で疑問符が付く。かつての荒浜砂丘は原発用地として整地するため岩盤に達するまで35〜45メートルも掘削されたという。

使用地形図・左:1/25000宮川(1968年8月30日)、柏崎(1969年3月30日)国土地理院発行
右:国土地理院のページ「地図閲覧サービス」より

<交通>
●信越本線「柏崎」駅より越後交通バス「椎谷行き」または「出雲崎車庫行き」
「東京電力前」下車、徒歩2分(所要25分、1日7便)
※長岡駅から出雲崎までバスを利用、さらに「柏崎駅行き」のバスに乗り継いで行くことも出来る。
右手に日本海を見る旅情豊かなルート。バス便僅少につき注意。
※JR越後線には「刈羽」という駅がある。徒歩30分ほどでサービスホールへ行けるが急な登り坂が続く(ということはサービスホールから駅に行くならば下る一方で楽である)。


<東京電力「柏崎刈羽原子力サービスホール」訪問記>
旅行日 2011.10.26

出雲崎の町に残る良寛や松尾芭蕉の史跡を訪ねた後、原発という世にも無粋なものを見に向かうことにする。旧宿場町の面影を残す細い道を1日4便しかないバスがやってくる。旅行をしていてゾクゾクとする瞬間
↑日本海を右手に見ながらバスに揺られること30分。「東京電力前」というバス停で下車すると、目指す「東京電力サービスホール」はすぐ。お馴染み「テプコ」のマークと「黄色いなにやら」が目につく建物。
↑一般向けのPR館「サービスホール」の同一敷地内に「技能訓練施設」というのがある。今なお収束しない福島第一向けの人材もここで教育されるのであろう。
↑さきほどの「黄色いなにやら」の正体は、このサービスホールのキャラクターで「エコロン」という。原子力のPRに関係する方々はなぜか「エコ」という語を好んで使う。
↑なぜかすぐに高い所に行きたがる私。とりあえず最上階の展望コーナーへ。肝心の原子力発電所は建屋の上部がちらっと見えるだけです。3号機と4号機でしょうか。お天気が良ければ佐渡島も望めるそうです。
↑原発の建設が始まる以前のこの付近の写真。「荒浜砂丘」と呼ばれる何もない不毛の地に一筋延びるのは北陸道でしょうか。農耕にも適さない二束三文の土地だったと言われます。
↑このサービスホールの目玉は、何といっても5分の1サイズの原子炉の模型。格納容器の上部から中をみます。
↑1階に降りると原子炉模型の内部に入れます。上を見上げるとこんな感じ。
↑1985年に運転開始した1号機原子炉格納容器が据え付けられた時の写真。「マーク2」と呼ばれる形式で、「円すい型」をしている。1980年代前半の形式であり、柏崎刈羽原発では、1号機のみこの型を採用している。
↑同じく原子炉格納容器が据え付けられた際の写真で、これは1990年に運転開始した5号機。「マーク2改良型」という形式で、ずんぐりむっくりした「つりがね型」をしている。1980年代中盤以降の形式で、柏崎刈羽原発では2号機から5号機までに採用されている型である。
↑柏崎刈羽原発の原子炉7基は全て「沸騰水型軽水炉」という形式だが、1〜5号機までは「従来型」(写真左)、6,7号機は「改良型」(写真右)となっている。「改良型」はインターナルポンプというものを採用し配管を簡略化することにより圧力容器の位置を低くし格納容器をコンパクト化、さらに格納容器鉄筋コンクリート製にし建屋と一体の構造としたことが特徴。
放射線のコーナー。左側の男女2人は福島県浪江町から避難してきた夫婦だそう。福島第一原発の北西にあたる浪江町は特に放射線量の高い地域です。まだ3.11から1月半しか経ってない頃で放射線による影響については諸説入り乱れている状態でした(今でもそうか?)。係員のオジサンが「線量にはしきい値というものがあって・・・」と不安の解消に懸命になっていました。
↑来館記念のティッシュ
↑「TEPCO」のロゴの入った緊急車のミニカーチョロキュー。土産物屋で売っていたので思わず購入してしまいました。



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