その16  ついに信濃へ

日野春駅→牧の原台ヶ原宿教来石宿→下蔦木→(バス)富士見駅

旅行日 '00年12月13日
所要 約9時間

 日野春駅、標高609m。すばらしい駅である。大好きな駅である。(下り列車を利用した場合)車窓左手には山の団十郎、甲斐駒ケ岳(2966m)。私の歌舞伎の知識は皆無に等しいが団十郎がどんな俳優か分かる気がする。車窓右手には裾野を広げた八ヶ岳(主峰は赤岳・2899m)。その昔は富士山のような成層型の火山だったが大爆発により山頂部が吹き飛び、現在のようなギザギザの山容になったとも言われる。爆発前のその標高は現在の富士山のそれを凌いだとのことであるが、裾から稜線をたどりどの程度の高さがあったか想像するのも楽しい。
 私の好きな駅なのであるが、この日野春駅、地元では冷遇されている(らしい)。鉄道のもたらす恩恵は多大だった(少なくとも昭和のある時期までは)ろうに、どういうことかというと「信玄公、旗掛の松」なる名木が駅前にあったがこの松が汽車の煤煙が原因で枯れてしまった。怒った土地の人が裁判に訴えて見事勝ったのことである。近代化の象徴、鉄道よりも、いにしえの郷土の英雄、信玄なのである。そういえば明治37年開業と古くからある駅なのに駅前には商店も少なくやけに侘しい。
中央本線のこの辺り、甲州道中からは逸れるので最寄の「牧原」まで2.0kmほど坂を下ってゆく。



 牧原(まぎのはら)の集落。バイパス(現在の国道20号)が作られ、旧街道は静寂な街村となっている。ここで考えたいのが歩道橋なるもの。私のように歩いてばかり旅をしている者にとって、歩道橋ほどイヤらしい存在は無い。人間は太古より歩いてきた。クルマよりも歩行者の方が通行する権利を先取しているのである。なのに何故歩行者の方が大回りをさせられ階段の昇り降りを強制されにゃならんのだ。確かに実態はクルマ対歩行者の割合は100対1とか1000対1とかそんな割合であるので、我々歩行者に勝ち目は無いような気はする。それでも最近は「バリア・フリー」とかでお年寄りや身体の不自由な方に優しくない歩道橋の見直しが徐々にではあるが行われているようだ。
 このような歩道橋であるが、昇るとなかなか面白い写真が撮れる事がある。写真、左側は旧甲州道中の牧原の街並。右側は現在の甲州街道、国道20号。こんな対比ができるのであります。


 牧原から少し行った下三吹のあたり。歴史の道調査報告書・甲州道中(山梨県教育委員会編)によるとこの付近がかつては一里塚があった場所であるはずなのだが今では何の痕跡も見られない。代りにあったのがご覧のとおり採石場の砂利の塚(?)である。高山に囲まれ河川に恵まれている山梨県。東京という大消費地にも近く、このような産業が発達するのであろう(正確なデータは無いが)。


 国見坂を登りきると台ヶ原(だいがはら)の集落。この付近、国道20号にはバイパスがあるのでクルマも少なく街中は極めて静かである。ここ台ヶ原は日本の道百選にも選ばれているとかで、私も期待して行ってみたのだがはっきり言って大した事ありません。町ぐるみで古い家屋を保存しようとか、新築するにも昔風情のある建て方をしようとか、そういう運動は一切無いらしい。逆説的に言えばそういった「わざとらしさ」が無い分、訪れる観光客も甚だ少なく、静けさが保たれている。昨今はなまじ「昔風情」なんてものが残っていると「るるぶ」を片手にしたお気楽なコーラク客の絶好のターゲットとされてしまうのである。
 そんな台ヶ原宿の家並で唯一「らしさ」を残すのが七賢酒造の店構え。酒店のシンボル酒林(さかばやし・杉の葉を玉状に寄せ集めたもの)を入り口上部に掲げている。




 台ヶ原の少し先、白須の集落。山梨県は独特の形態の民家が多いのであるがここでまたヘンな家屋を発見。言うまでも無く「蔵」は通常、収納庫として使われるものであるが、この近辺では何故か蔵の形態で居住用となっている家屋が処々見られるのである。考えれば漆喰で塗り囲んだこの家屋、盆地の夏の烈暑と冬の厳しい寒さを防ぐには都合が良いのかも知れない。なおものの本によると地方の大屋敷でやはり蔵の形態をした座敷蔵なるものがあるらしいが、これは金持ちの道楽ためのもの、といったところで、日常の居住を用途としている本件とは別種と考えるべきであろう。


 甲州道中42番目の宿、教来石(きょうらいし)。「い」の字がひとつ足りないように思うかも知れませんが「キョウライシ」で正しい。変わった地名だがその昔日本武尊(ヤマトタケルノミコト←一応カナふっときました)が甲府の酒折宮にいた頃にこの地へ来てこの石の上で休んだので、村人が(へ)て来石(こいし)と呼び、のち「経」の字を「教」と書き誤って「教来石」になったとのこと。
 変わった地名なのでどんな所かと楽しみにしていたのですが…。現在の町並みについて特に語ることはありません。ならば地名の由来の経来石を紹介したい所なのですが、手元の資料が少なくよく分からず。宿の中心から南へ800mほど行った田圃の真中とかで、それらしいのが写真の巨石。周囲は荒れ放題。つい20年ほど前までは祠(ほこら)も建ち信仰の対象となっていたようですがまさかこれが…?



 江戸日本橋から信州下諏訪まで、甲州道中の全長は220kmに及ぶ。甲斐(山梨)路はそのうちの約半分100km強。長かった甲斐路だがいよいよここまで。国界橋(旧橋)で釜無川を渡ると信濃に入る。記念すべき…と行きたい所だが時計の針は既に5時をまわっている。来週はもう冬至というこの時季、辺りはすっかり夜の闇に包まれている。いちおう写真を撮ったのですが露出補正の強力なデジカメでもどうにもなりませんでした。肝心な所ですみません。ペコリ。
 本当は信濃境の駅まで歩くつもりだったのだが例によって計画どおりにはゆかず。この日は国境(県境)を超えて下蔦木へ。「道の駅」の温泉にさっと浸かってバスで富士見まで。師走の慌しい一日でした。



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