その9  本当の長く険しい道


大月駅→下花咲宿上花咲宿下初狩宿中初狩宿白野宿阿弥陀海道宿黒野田宿→笹子駅

旅行日 '01年4月2日
所要 約5時間


 昔の大月宿の本陣があった辺り。今でも大月の町のメインストリートであり中心部であるがそれにしても、閉店してしまった商店、テナントの無いビル、朽ち果てた建物とさびれている。この街中を走る2車線の道路が現役の国道20号であり、交通量は多い。大型トラックも頻繁に通る。クルマを止めるスペースは無い。客は郊外の大形スーパーに取られ客の数も大きく減ってしまったのであろう。江戸の頃から何百年と続いた賑わいだったろうが、完全なクルマ社会となったこの十年か二十年の間に状況は激変してしまった。この町にかつての賑わいがよみがえることは果たしてあるのであろうか。




 交通の激しい国道20号を、大月の町から歩くこと20分あまり。下花咲宿である。ここにはかつての本陣建物が残っており国指定重要文化財に指定されている。重文に指定され、永く保存される(当然のこと火事にでもならない限り、取り壊される事は無い)のはうれしい限りだが、我ら古街道ファンなら真っ先に注目するこのひときわ立派な建物も、一般の人の目がこの古びた建物に目を向けることは無い(目を向けるのは隣のファミリーレストランの看板の方であろう)。
 この下花咲宿は一般に公開されており私も中を覗かせてもらった。のだが、家の中には誰もいない。人が生活している様子は無い。ガランとした家の中、外を爆走するクルマの音ばかりが聴こえてくる。大型車が通るたびに"ドスドス"と振動が伝わる。イヤひどいものである。住宅難の都会でない限り、こんな所へ住む必要もないのであろう。おそらく家は人は別の所に居を構えているのであろう。そしてこの観光客が訪れるわけでもない国指定重要文化財の建物を持て余しているに違いない。どうも今回の旅は虚しさばかりがこみ上げてくる。



 甲州道中を完歩してみようと思い立って1年近くになる。趣味の上のことなので歩くことは苦にならないが日本橋から下諏訪までアタマからシッポまで繋げにゃならんので、歩きたくないような所まで歩かなくてはならぬ。今回はその歩きたくない所である(地元の方、ごめんなさい)。この区間はバイパスが整備されておらず、クルマの行き交う国道20号をそのまま歩くしか手立ての無い個所がほとんど。
 写真はかつての中初狩宿のあたり。軒を張り出した昔風の家がポツリポツリと残るのはうれしいが、その軒をかすめるように大形車が走り去ってゆく。
 小仏峠や笹子峠の峠道にはもちろん難所相応の苦しさがあるが、成し遂げたとき(頂上に達したとき)達成感がある。しかるに今回のこの区間は家屋と国道の間の50cmばかりの幅のドブ板の上をひたすら歩くしかない。甲州街道ももう随分と歩いたが、本当の長く険しい道はまさにこの区間でありました。




 かつての白野宿の辺り。この付近は旧街道と現国道20号とが離れており、今回の旅では唯一の「静かな」宿場街となる。この写真は中央本線の車中から撮ったもの。ホントはもっときれいな家並が見られるのですがシャッターチャンスを逃し、中途半端な写真しか撮れませんでした。次回またトライするつもり!



 今回の旅の終着点、笹子駅まであと数百メートルという所。かつての阿弥陀海道(あみだかいどう)宿のあった付近である。アミダカイドウ、漢字で書いても言葉に出してもヘンな地名である。あまりに長いのでイヤになったのか、現在の地名は阿弥陀海と、最後の"道"の字が消えてしまっている。そんな由緒のあるところであるが、国道は見事に拡幅され、どこにどうやって過去の宿場の姿を偲べば良いのだろう。商店どころか民家も数えるほどしかなく、私は笹子郵便局の建物を見ながら懸命に想像力を働かすのでありました。


 阿弥陀海道宿から12町(約1.3km)。笹子駅を少し過ぎた辺りにあるのがかつての黒野田宿。先の白野宿、阿弥陀海道宿とこの黒野田宿とが合宿で、3宿で1宿分の役務を担っていたと言うのだから、よほどにひなびた所であったのだろう。
 以下は江戸の絵師安藤広重が天保12年(1841)4月4日にここ黒野田の若松屋へ一泊したときの道中記より
 「むさいこと言はん方なし。壁崩れ、ゆか落ち、地虫座敷をはひて畳あれどもほこり埋(う)み、蜘の巣まとひし破れあんどん、欠け火鉢一ツ…」(「続々日本列島地図の旅」大沼一雄著、東洋選書より)
 いやはや、である。写真はかつて本陣のあった場所。この先間もなく笹子峠へ差し掛かるが、今回はここまで。不完全燃焼のまま今回の旅を終えたのでありました。




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