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   主イエスのたとえ話

  
〈30〉粘り強いやもめのたとえ

聖書
 「1また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々にたとえで教えられた。
 2『ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。3ところが、その同じ町に一人のやもめがいて、彼のもとにたびたび来て、「どうぞ、私を訴える者を裁いて、私を守ってください」と願い続けた。4彼はしばらくの間、聞き入れないでいたが、その後、心の中で考えた、「私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、5このやもめが私に面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやって来て私を悩ますことがなくなるだろう」』。
 6そこで主は言われた、『この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。7まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しい裁きをしてくださらずに長い間そのままにして置かれることがあろうか。8あなた方に言って置くが、神は速やかに裁いて下さるであろう。しかし、人の子が来る時、地上に信仰が見られるであろうか』」。ルカ18:1〜8


はじめに
 ★
「サルでも分かる何々講座」というタイトルの本やホームページを見かけますが、「サルでも分かる、だからさるより賢い人間さまならなおのことよく分かる」と言うこの論法を主イエスもよく使っておられます。このたとえもこの論法が用いられています。
 
★不正な裁判官でも粘り強く訴えれば聞いてくれるなら、正義の神はあなた方の熱心な祈りに答えてくださらないはずがあろうかということです。

T.このたとえとパンを求める人のたとえとの比較
A.このたとえの要約

 ★神をも恐れず、人を人とも思わない不義(不正)な裁判官のもとに、あるやもめが来て、正当な裁きを求めて執拗に訴え続けた。そのやもめの攻勢に根負けした裁判官は、そのやもめの願い通り公正な裁きをしてやることにした。

B.このたとえとパンを求める人のたとえとの比較
 a.パンを求める人のたとえ(ルカ11:5〜8)

 ★「パンを求める人のたとえ」は主の祈りの教えに続いて語られた教えであり、主の祈りの中の「日ごとの糧を今日もお与えください」の祈りに込められた生活上の必要を求める時の心構えを教えるたとえです。
 ★「日ごとの糧」は肉体的物質的糧ばかりでなく、霊の糧「日々のみ言葉」も含まれます。

 「人はパンだけで生きるのではなく、神のみ口から出る一つ一つのことばによって生きる」(マタイ4:4)

 b.やもめのたとえ
 ★このやもめの願いは、主の祈りで言えば「我等を試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ」の祈りに属する願いであり、このたとえは私たちキリスト者の敵であるサタン・この世・自分の生来の肉の性質からの守りと救いを求める祈りに関するたとえ話です。
 ★このやもめの「どうぞ、私を訴える者を裁いて、私を守ってください」と言う願いは、原語の通りに訳すと「私の敵に対して私を弁護して(守り、正義を行って)ください」という願いになります。
 ★このやもめの主な願いは、敵に対する復讐よりも、自分を正当に裁き、正当な保護を与えてほしいという点にあります。

U.このやもめの状況と私たちキリスト者の状況との対比
 A.やもめが置かれている状況

 ★不正な裁判官に対して、賄賂もなく、弁護士もなしで一人で訴え出ている。この神を恐れず、人を人とも思わない裁判官から正当な裁きを期待出来る約束も、保障も何もない状況である。

 B.私たちキリスト者の置かれている状況
 ★やもめの絶望的状況の中での孤独な戦いに対して、私たちキリスト者の祈りの生活は、はるかに有利な状況です。
 ★祈り願う対象は、正義の神であり、私たちを愛する父です。天には私たちのあがない主であり、み父へのとりなし手としての主イエス・キリストが、私たちの心の中には弁護士として聖霊が共にいて下さいます。
 ★私たちはこのやもめのように一人で訴え出て行くのでなく、主にある兄弟姉妹・主にある家族と共に互いに励まし合いながら祈ることが出来ます。
 ★さらに、私たちには祈りが必ず聞かれるというみ言葉の約束があります。


 「私(キリスト)の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである」。(ヨハネ14:13)

V.このたとえで主が私たちに教えようとしておられること
 A.失望せずに常に祈るべきこと
 a.祈りにおいて失望しないこと

 ★「失望する」(ギリシャ語/エンカケオー)は落胆する、絶望する、疲れる、飽きるという意味があります。
 ★我が国は偶像礼拝が根強く支配している異教国ですので、キリストの伝道者はしばしば失望・落胆を経験させられます。福音伝道においては安易なインスタントな成果は期待できません。
 ★しかし、私たちが御心に従って祈り実践している限り、主は私たちを用いて実を結ばせてくださるのです。

 「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださる事が出来る方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アーメン」 エペソ3:20,21

 ★スウェーデンのある宣教師は希望に燃えてアフリカ伝道におもむきましたが、妻が現地での出産時に死亡し、たった一人の少年の救いと言う成果を得ただけで、失意の内に帰国し、信仰をも失いました。しかし、彼はその後、彼の妻が導いた現地ザイールのその少年が主に用いられる高名な伝道者になり、多くの人々をキリストに導いていることを知らされ、悔い改めて主の下に立ち返りました。この話はディビッド・ウィルカーソン師のウェブサイト上の説教集日本語版に書かれています(World Chalenge Pulpit Series 日本語版)。

 ★我が国での福音伝道の仕事は、時には水の上にパンを投げるような空しさを覚えさせられる仕事ですが、主は確実に共に働いておられるのです。


 「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後、あなたはそれを得るからである」伝導の書10:1

 ★キリスト者生活も伝道者生活も共に、この世にあってはサタン・この世・自分との戦いの生活です。やもめの根気強い、執念深い祈りに学んで日々主の御前で祈りの格闘を続けて行かなければ持ちこたえることの出来ない生活です。

 「あなた方のうちのひとりで、キリスト・イエスの僕エパフラスから、よろしく。彼はいつも、祈りのうちであなた方を覚え、あなた方が全き人となり、神のみ旨をことごとく確信して立つようにと、熱心に祈っている(ギリシャ語/祈りの中で格闘している)」コロサイ4:12

 b.常に祈るべきこと
 ★使徒パウロはTテサロニケ5:16〜18で
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなた方に求めておられる事である」


 と勧めていますが、パウロが「絶えず(常に)祈るべき」事を学んだのは彼の「肉体のとげ」が取り去られるように主に三度祈った時の主のお答えによりました。
 ★その時主は、このようにお答えになりました。

 「ところが、主は言われた、『私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に現れる』。それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。Uコリント12:9

 ★パウロの「肉体のとげ」が何であったかは諸説があって定まりません。肉体と訳されているギリシャ語サルクスは、古い人間性のすべて、霊に対する「肉」と同じ語です。つまり、肉体だけでなく精神をも表わします(ローマ8:1〜17)。ですから、その「肉体のとげ」とは私たちの肉体と精神をチクリチクリと悩ませ、自分の弱さを自覚させるすべての個人的障害物(弱点)と見てよいでしょう。
 ★その個人的障害物のためパウロは絶えず常に主に祈って主から力を頂かなければ一時もやってゆけない事を知ったのです。
 ★パウロは高名な律法学者ガマリエルの門下生であり、ユダヤの社会では誇り高い家柄の出であり、将来を嘱望される人物でしたが、キリストのためにすべてを捨てて、キリストの福音の使徒となりました。彼はモーセと共に、この世の富や名誉を捨て、キリストの民と共に苦しむ道を選択しました。
 ★このパウロが天の栄冠への道を歩み通すためには、生来の人間的誇りやうぬぼれが砕かれなくてはなりません。そう言う訳で、パウロの肉体のとげは、彼自身のキリスト者生命のために必要欠くべからざるものであることを彼は知ったのです。それゆえに、パウロにとって「肉体のとげ」は彼の誇りとなったのです。


 「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。私から離れては、あなた方は何一つ出来ないからである」。ヨハネ15:5

B.粘り強い祈りは信仰の証であること
 ★上記聖書テキスト18:8の後半で主は「しかし、人の子が来る時、地上に信仰が見られるであろうか」と言っておられますが、その「信仰」には新改訳の欄外の注にあるように、定冠詞が付いています。つまり、「このやもめのように祈る『その信仰』」と言う意味です。
 ★主はご自身の再臨の日に、私たち主の民が聖書に示された御心を信じて、忠実に実行している様子を見たいと願っておられますが
(ルカ12:35〜48)、その生活を実現する前提条件は「やもめのように祈る信仰」です。

結び
 ★主はこのやもめのたとえとパンを求める人のたとえの二つのたとえを用いて、根気よく祈り続けることの大切さを説いておられます。そして、祈りこそ信仰の表れであり、祈りのない生活には生きた信仰が欠如していること、祈りによって人の信仰は成長することを教えておられます。


URL http://31church.net
キリスト紀元2006年 11月 20日公開

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