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   主イエスのたとえ話

〈13〉真夜中に友人の家の戸をたたいてパンを求める人のたとえ

  
〈12〉畑に隠された宝のたとえと
    よい真珠を探している商人のたとえ


聖書
 
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びの余り、行って持ち物をみな売り払い、そしてその畑を買うのである。
 また天国は、良い真珠を探している商人のようなものである。高価な真珠一個を見出すと、行って持ち物をみな売り払い、これを買うのである」。マタイ13:44,45


 ★二つのたとえの相違点と共通点
 これらの二つのたとえ話の相違点は、前者がたまたま宝を発見した人であるのに対して、後者は一生懸命探した末に良い真珠を手に入れている点です。共通点は共に持ち物をみな売り払って買っているところにあります。
 ★天国の宝は隠されている
 宝は畑に隠れていました。良い高価な真珠は、生産者の手元にある物の中から、いわば隠れていた掘り出し物として、真珠商人に発見されたのでしょう。天の御国はキリストと共に地上に来ているのに、人々の目から隠されています。キリストはベツレヘムの貧しいうまやにひっそりとお生まれになり、30歳位で公生涯入られてから、ごく少人数の弟子たち以外の人々から排斥されて、ついに十字架に架けられました。
 ★天国の宝、キリストが宝・最高の真珠である理由
 キリストのうちに、罪の許し、それから来る心の平安と喜び、永遠のいのち、キリスト再臨後再創造される新天新地で復活のキリストと同じ栄光のからだを与えられる、キリストのために捨てたすべてが百倍になって戻ってくる、などです。
 ★この宝を見つけた人はこれを手に入れるためすべてを捨てる
 この貴重な宝である天の御国とその主イエス・キリストを発見し、その絶大な価値を知った人々は、自分の持ち物のすべて、その時まで持っていた宝のすべてを売り払って、手に入れようとするのです。それは、たまたま見つけた人でも、一生懸命探して見つけた人でも何ら変わりません。
 ★求めよ、さらば与えられん
 たまたまこの宝を見つけた人が、畑で農作業中に見つけたように、ある人は職場の同僚や取引先の人にさそわれて行った伝道集会で、思いも寄らないキリストの救いという宝を手にします。またある人は、ビデオや小説がきっかけで求道を始めたかも知れません。良い真珠を真剣に探し求める商人が、ついにそれに出会うように、天国の宝は隠されてはいても、謙虚にへりくだって、しかも真剣に求める者によって見出されるのです。
 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。探せ、そうすれば、見出すであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。」マタイ7:7
 ★使徒パウロの場合
 使徒パウロはキリストの伝道者となったことによって、学者、民の指導者としての地位も名誉も一切を失いましたが、それらを糞土のように思っている、と言っています。この世の地位や名誉や富は、キリストという宝を手に入れるためには、糞土のように無い方が良いもの、邪魔物だと述懐しているのです
(ピリピ3:8〜9)
 ★金持ちの若い役人と弟子たち
 ある時、一人の金持ちの若い役人が主イエスの前に走りよって、ひざまずいて「永遠のいのちを得るために何をしたらよいでしょうか?」と尋ねました。主は人それぞれにふさわしい答えをされます。この人には、「帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい(注・下記ご参照)。そうすれば、天に宝をもつようになろう。そして、私に従って来なさい」。すると、この人は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。財産をたくさん持っていて、それをキリストのために捨てられなかったからです。これをごらんになって、主は「金持ちが神の国(天国)に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」と言われ、さらに「人には出来ないことも神にはできる。」つまり、「金に執着している人の心を変えることは、人には出来ないが神にはできる」と言われました。
 弟子たちがこれに答えて、「私たちは、一切を捨ててあなたに従って参りました」と言うと、主は「誰でも私のために、また福音のためにすべてを捨てた者はその百倍を受け、来るべき世で永遠の命を受ける」と答えられました
(マルコ10:17〜34)
 ★私たちキリスト者がキリストにすべてを捧げている理由
 私たちキリスト者が天国のため、キリストのためにすべてを捨てることが出来るのは、キリストの死からの肉体の復活が事実であり(1コリント15:20)、キリストの復活が、新天新地の再創造と私たちの救いの保証であり(1コリント17:31)、私たちの心に与えられた神の御霊が「これは真実だ」と証言してくださるからです(エペソ1:13,14)
 ★私たちがキリストを宝とする時、神は私たちを宝の民と呼ばれる
 このようにして、私たちがキリストのためにすべてを捨てて、キリストを宝とする時、神の側でも私たちキリスト者を宝の民と呼んで(出エジプト19:5,6)、私たちを特別扱いしてくださり、三位一体の神さまが私たちの中に共に住んでくださるのです(ヨハネ14:23)。かくして、「神が私たちと共におられる」(インマヌエル)の約束が実現したのです
(マタイ28:20;同1:23)

 
 「全財産を捧げる」すなわち「キリストへの献身」は本人とキリストとの個人的関係の問題であって、「教会に全財産を捧げよ」と言う命令ではありません。そういうことを要求する教会があれば、その教会は聖書の基準を逸脱した異端に堕ちた教会です。
 「あなた方の身体を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それが、あなた方のなすべき霊的礼拝である」。ローマ12:1




〈13〉真夜中に友人の家の戸をたたいてパンを求める人のたとえ

聖書
 
イエスは弟子達に言われた、「あなた方のうちにの誰かに、友人があるとして、その人のところに真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友達が旅先から私のところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒を掛けないでくれ。もう戸は閉めてしまったし、子供たちも私と一緒に床に入っているので、今起きて何もあげるわけには行かない』と言うであろう。しかし、友人だからと言うのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要な物を出してくれるであろう。
 そこで、私はあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。探せ、そうすれば見出すであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、探す者は見出し、門をたたく者は開けてもらえるからである。
 あなた方のうちで、父である者は、その子が魚を求めるのに、魚の代わりに蛇を与えるだろうか。卵を求めるのに、サソリを与えるだろうか。このように、あなた方は悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。 ルカ11:5〜13


 ★このたとえ話の文脈
 このたとえ話は「祈りを教えてください」と言う弟子たちの願いに答えて、今日私たちが『主の祈り』と呼んでいる祈りの手本を教えた直後、引き続き主イエスによって語られた祈りの姿勢または精神に関するたとえ話です。このたとえ話に続く父子関係を基にした比喩もこのたとえ話に深い関係があるので、一緒に学びます。
 ★このたとえ話とそれに続く比喩によって主が私たちに教えたいと願っておられることは、
〈1〉
何はさて置き祈るべきこと。祈りなさい、そうすれば与えられます。
〈2〉
厚かましいまでに執拗に祈るべきこと、
〈3〉
神の子供とされた者たちの一人として、善なる御父の愛を信じて祈るべきことです。

 ★〈1〉何はさて置き祈るべきこと。祈りなさい、そうすれば与えられます
 主イエスとキリスト者との関係はぶどうの幹とその枝との関係にたとえられています(ヨハネ15:5)。枝が幹から切り離されたら、枯れるしかないように、キリスト者の命はキリストを離れるなら死にます。「あなた方は私から離れては何もすることができない」と主は言われました(ヨハネ15:5の後半)。その主としっかり結びつく方法の一つが祈りです。聖書は、この祈りと信仰を同義語のように語っています
(ルカ18:1〜8)

 ★〈2〉厚かましいまでに執拗に祈るべきこと
 友人を意味する新約聖書ギリシャ語は二つあります。一つは友愛で結ばれた友人「フィロス」であり、もう一つは仲間・同僚と言った意味の「ヘタイロス」です。厚かましくパンを借りに行った人が戸をたたいた家の住人である「友人」も、真夜中に旅先から到着した「友人」も同様に、友愛で結ばれた友人「フィロス」が用いられています。
 このたとえ話の主人公は遠方から真夜中に訪ねてきた友人をもてなすために、厚かましいのを承知の上、真夜中にパンを借りに行ったのでした。この主人公は突然の訪問客に出すパンの備えがないほど貧しい生活の中にありながら、聖書時代の普通の人が持つ旅人をもてなす精神を大事にしていました。
 パンを求められた友人が始め断っていたように、常識的には望みの無い状況にありながら、主人公が厚かましくも頼み続けたので、その求められた友人は重い腰を上げたのでした。このように、友人だからと言う理由では腰を上げなかった人が、厚かましく執拗に要求されたため、言う事を聞き入れてくれました。口語訳が「しきりに願う」と訳し、新改訳が「あくまでも頼み続ける」と訳している言葉の原語は、新改訳の欄外の注にあるように「厚かましさのゆえに」あるいは、「厚かましいまでの執拗さ、恥知らずの執念深さのゆえに」と言う意味を持っています。
 ★旧約聖書の創世記32章22〜32に描かれているヤコブと御使いと格闘のように、キリスト者が神の祝福を祈る祈りは、時として神様との格闘の様相を呈するものであることを聖書は物語っています。ヤコブはこの御使いとの格闘に勝利して「神と共に支配する者・神と共にある王子」と言う意味をもつ「イスラエル」と言う新しい名前を神さまから与えられました。同32:28で御使いがヤコブに「あなたは神と戦い、人と戦って勝った」と言っておりますが、この格闘の中で御使いがヤコブのもものつがいに「さわった」だけで(新改訳は「打ったので」)股関節がはずれたとありますから、この戦いは初めから赤子と巨人の戦いであったことが明らかです。神はヤコブの祝福を求める祈りの厚かましいまでの執拗さに免じて彼に勝利者の栄冠を授けてくださったのでした。
 ★神は御民イスラエルをエジプトと言う名の溶鉱炉で焼を入れ、40年間シナイの荒野で鍛錬されました。このように、神は新約時代のイスラエルであるキリスト者をも同じく鍛える方です
(ヘブル12:5〜13)。キリスト者もヤコブのように苦難の中でうめきながら祈る祈りの生活の中で、神と共に支配し、神の王子として整えられた者となるために鍛えられなければなりません。
 ★子供のどんな要求でもホイホイとかなえてやる父親が子供をだめにすることをよくご存知の天の父は、愛する子らがうめきながら執拗に食い下がって来る格闘のような祈りの中で霊的に成長してくれることを願っておられるのです。

 ★〈3〉神の子供とされた者たちの一人として、善なる御父の愛を信じて祈るべきこと
 最近の親の中には子に対して冷酷な振る舞いをする者もいますが、普通の親はパンを求める子に石を(マタイ7:9)魚を求める子にへびを、卵を求める子にサソリを与えるようなことはしません。上記13節の「あなた方は悪い者であっても」というところは、「あなた方は悪い者であるが」とも訳せます。この「あなた方」とはキリストの弟子たち・クリスチャンたちのことです。世間から敬虔なクリスチャンと呼ばれるクリスチャンもキリストの聖(きよ)さの前には、日々血潮で清められる必要のある罪赦された罪人でしかありません。この罪ある人間の父が子に対してよくしてくれるなら、善のそのものであられる天の父が私たち神の子供らに最善の配慮をして下さらないわけがありません。

 ★「天の父が、聖霊をくださらないはずがあろうか」と主は、私たちに聖霊を求めることを期待しておられます。今日、多くのキリスト教会が、クリスチャンになった時、人は自動的の聖霊を受けているのだから、改めて聖霊を求める必要はない」と信じ、そう教えています。そう教え、信じる教会は死せる正統主義の伝統に縛られた教会です。
 ★絶えず新しい油を注入されることもなく、使用されることもない車がさび付き故障するように、絶えず新たな聖霊の油注ぎを受けて、与えられた信仰を生かして用いないキリスト者はその霊性がさび付き、調子が狂うのは言うまでもありません。今は聖霊降臨後の時代ですから、聖霊は信じて求める者には誰にでもすぐに与えられます。

 ★「
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります(マルコ11:24)。
 「
あなた方が、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう(ヨハネ14:14)。



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キリスト紀元2005年 4月 20日公開

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