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   主イエスのたとえ話

  
〈31〉忠実なしもべと不忠実なしもべのたとえ

 聖書 「35腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたく時、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕たちは、幸いである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。38主人が夜明けごろに帰って来ても、そうしているのを見られるなら、その人たちは幸いである。39このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。40あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」

  41するとペテロが言った、「主よ。このたとえを話しておられるのは私たちのためなのですか。それとも、みんなの者のためなのですか」。42そこで主が言われた、「主人が召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったい誰であろう。43主人が帰って来た時、そのようにつとめているのを見られる僕は、幸いである。44よく言っておくが、主人はその僕をたてて自分の全財産を管理させるであろう。45しかし、もしその僕が、主人の帰りが遅いと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、46その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってくるであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実な者たちと同じ目にあわせるであろう。47主人の心を知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。48しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」
    ルカ12:35〜48 参考マタイ24:45〜51


はじめに
 ★世の終わりと主の再臨をテーマにした、このようなたとえ話を取り上げるのなら去年の年末の時期にしてくれたらよかったのにと言われそうなので、ここで一言弁明させていただきます。
 ★ヘブル書1:2を読みますと、キリスト受肉の世界最初のクリスマスからキリスト再臨の時、つまり世の終わりの時までが、聖書の視点に立つと「終わりの時」 なのです。 旧約聖書の時代が過ぎ去り、新約聖書の時代にはいている今の時代を、聖書は「終わりの時代」と呼んでいるのです。

 「神は、昔は、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この『終わりの時』には、御子によって、私たちに語られたのである」。
ヘブル1:1,2

 ★従って、ここに取り上げたたとえ話は新年でも年末でもいつでも覚えていなくてはならない話なのです。

 ★41節のペテロの質問「主よ。このたとえを話しておられるのは私たちのためなのですか。それとも、みんなの者のためなのですか」に対する主のお答えが、ルカのこの箇所には記されていませんが、その答えは同じテーマを述べているマルコ13:37に書かれています。

 「目を覚ましていなさい。わたしがあなた方に言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」マルコ13:37

 ★信者、未信者、キリスト者、非キリスト者の別なく、すべての人々に上記のたとえ話は語られているので、すべての人はこのたとえ話に注意深く耳を傾けるべきなのです。

T、主人の帰りを目を覚まして注意深く待つ忠実なしもべのたとえ
 ★この主人とは、世の終わりの日にこの世に再び来られる主イエス・キリストのことです。初めの到来の時は人々を救うためにこられましたが、今度来られるときは世の人々を裁き、救われて天国への入国を許可される人々と、入国を拒否されて、永遠の裁きの火の中に投入される人々に選別するために来られます。
 ★再臨の主がいつ来られてもいいように、聖書に記された主の御心に従って、忠実な生活を守る人々と言えば、信仰と行いの伴った真面目なクリスチャン以外に考えられません。なぜなら、キリストの救いは行いによるのでなく、救い主キリストを信じる信仰によるのであり、その信仰なしには忠実な僕の生活を全うすることはできないからです。
 ★地上で忠実な信仰生活を守り通したキリスト者は、主が弟子たちの足を洗われたように、天国では私たちの必要のために仕えて下さる心やさしい主のみ姿を拝することになるのです。
 ★また、ヤコブの子ヨセフが神の御手の中で従順な僕の生活を守り通した時、エジプトの宰相としてエジプト王の財産の管理人に任命されたように、天国の神の資産と住民の管理者となるのです。
 ★クリスチャンの中でも、天国は永遠の安息の場だからいつまでも永遠に安らかに眠っている場所としか理解していない人々もいるかもしれませんが、聖書が描く天国生活は神の財産と神の国の市民を毎日楽しく管理し、彼らに奉仕する場なのです。

U、不忠実なしもべのたとえ
 ★不忠実な僕は、3種類の人間に分類できます。第1は不信仰者です。第2はクリスチャンの中の不忠実な人々です。第3は牧師・伝道師・長老・執事などのキリスト教会の要職に就いている人々の中の不忠実な人々です。

 A. 不信仰な人々
 ★不信仰な人々とはキリスト再臨の時点で、キリスト信仰者として生きていない人々です。この人々の中にもいろいろいるでしょう。

 ★うっかり、ぼんやり、のんびり、のほほんと人生を送って来たために、キリストの名を聞いたことはあっても、この方の十字架と復活の福音が自分と関係があるとはつゆ知らずに一生を終えた人々がいます。
 ★こういう人々は罪のない人々でしょうか。そうではありません。この類の人々について聖書はこう言っています。

 「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。
 従って、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである」。
 ローマ1:18〜23


 ★つまり、この人々は、建造物が地面から生えてきたのでなく、人間が造ったものであることが分かるように、宇宙・世界が、学者が唱えるような「ビッグバン」とやらによって自然に人手によらず、神の御手によらず、自ずとわいてきたものではないことが当然分かるはずなのに、まことしやかな「ビッグバン」やら「進化論」やらの奇怪にして珍奇な学説によって、聖書の教える創造論に逆らい、これを無視して自分が知者であるかのように振舞いながら、実は人の作った神々に頭を下げる愚か者になり下がっているのです。この類の人々が神の裁きを免れることができようはずがありません。

 B.
不忠実なクリスチャンたち
 ★キリストを一度信じて洗礼を受けたことに満足して、信仰者として上を目指して成長しようとの向上心を失い、人の書いた新聞雑誌は熱心に読んでも、聖書通読に意欲を示さないクリスチャンたちが、主に是認される信仰生活を送れるはずがありません。
 ★いばらの中に蒔かれた種のように芽を出しても成長できず、世の思い煩いや肉の欲望に惑わされて、再臨のキリストに「タラントを地に埋めた人々」と審判される人々は災いです。
 ★聖書という霊的宝物に目をくれず、朽ちる地上の宝に目をくらまされたクリスチャンは哀れです。

 
C.牧師・伝道者・長老など教会の指導者の中の聖書の教えに不誠実な、偽善的教職やリーダーたち
 ★上記42節の「主人が召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令」という表現は主のしもべたち(信徒たち)に定期的に霊的食事、すなわち礼拝の中で説教と礼典(洗礼と聖餐式)という形で霊的パンを提供する牧師の姿を想起させます。おそらく、ここで主は牧師の働きを第1に考えておられたと思われます。
 ★この牧師たちがキリストの代理人として、キリストが願うように、聖書に忠実に働いてくれれば、主も文句の付けようがないのですが、45節「もしその僕が、主人の帰りが遅いと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば」、主は彼らを厳しく罰せられます。
 ★「主人の帰りが遅いと心の中で思い」とは主がいつ来られてもいいように準備万端整えている姿勢が出来ていないことを示しています。み言葉の光と聖霊の油の備えのできた賢い5人の乙女のような準備ができていない牧師たちです。
 ★「男女の召使たちを打ちたたき」とは、置かれた立場を悪用して、権威を乱用して、自分に任された羊たちを霊的に虐待したり、脅したりして、あってはならない苦しみを彼らに与えるような権力乱用型の、霊的に横暴な、みことばからそれた牧師たちの行動を表します。
 ★「そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば」とは自分がまず神の言葉を霊的に十分に反すうして、自ら霊的に養われ満たされていなければならないのに、この世の欲望を満たすことに熱心であっても、霊的には貧困極まりない牧者たちのことです。
 ★主は、彼らに対して怒りを爆発させて、「彼らを厳しく罰せられる」こととなります。
 ★46節の彼を「厳罰に処し」と訳された言葉に注目したいと思います。このことばを原語のギリシャ語を見ると「彼を2つに分断する、切って2つに分ける」という意味になります。日本語と英語の聖書をこの部分だけで比較してみますと、不思議なことに、キングジェームス版をはじめ、手近にある現代語版英語聖書を見るとほとんどすべてが原語に忠実に過激に「彼を2つにカットする、寸断する」などと訳しています。これに対して、日本語聖書は文語訳も口語訳も新改訳も「厳罰に処す、厳しく罰する」などと比較的穏やかな、緩やかな表現となっています。
 ★主のみ心をわきまえていながら、そのみ心に従わず、地位と権威を乱用する牧師たちは、上記46節では「不忠実な者たちと同じ目にあわせるであろう」と言われ、同じ話を記しているマタイ24:51では「偽善者たちと同じ目にあわせるであろう」となっています。
 ★偽善者とは不義を心に隠していながら義人を演じる二心の者たちです。彼らに対する裁きは、二心の者らに対する報いに相応しく、その身体も二つにぶった切られることとなります。この言葉には主の怒りの爆発が感じられます。

結び
 ★一般の未信者の方々に言います。死んだ後、「しまった。こんなことになるのだったら、キリストの福音に真面目に耳を傾けておくべきだった」と後悔することになる前に、今、唯一の救い主イエス・キリストのもとに来てください。
 ★一般のクリスチャンの方々に言います。同じく、死後あるいは死ぬ直前になって、「もっとまじめに聖書を読んでおくべきだった」と歯ぎしりさせられる前に、心を入れ替えて、謙虚に聖書を学び返してください。
 ★牧師の方々に言います。身体を真っ二つに切断された哀れな牧師にならないように、神学書や注解書ばかりに頼って、聖書そのものの語る真理に耳を傾けることを怠って、「復活は無い」とか、「死後にも救いのチャンスがある」とか、「聖書にも間違いがある」など反聖書的教えによって、人々を滅びに誘う悪行を悔い改め、キリストの正道に立ち返ってください。お願いします。



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キリスト紀元2010年 1月 8日公開

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