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   主イエスのたとえ話

  
〈26〉パリサイ人と取税人

聖書
 9「自分を義人だと自任して他人を見下げている人達に対して、イエスはこのたとえをお話になった。
 10『二人の人が祈るために宮に上った。その一人はパリサイ人であり、もう一人は取税人であった。11パリサイ人は立って、一人でこう祈った、「神よ、私は他の人達のような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。12私は一週に二度断食をしており、全収入の十分の一を捧げています」。
 13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った、「神様、罪人の私をお赦しください」と。
 14あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう』。」
 ルカ18:9〜14


T.このたとえ話について
 ★主イエスのたとえ話は「種まきのたとえ」のように寓話的なものばかりでなく、現実の人間社会の出来事から拾った話でできているものもあります。このたとえ話とこれの直前の「不正な裁判官とやもめのたとえ」などがそれです。
 ★このたとえ話は「やもめのたとえ」と共に、「祈る時の心構え」を教えるために語られました。すなわち、先の「やもめのたとえ」では、この章のはじめの18:1に記されているように、「失望せずに常に祈るべきこと」を、そして、このたとえでは、「へりくだって祈るべきこと」を教えています。

U.パリサイ人と彼の祈り
 ★パリサイ人とは当時のユダヤ教の三大会派(パリサイ・サドカイ・エッセネ)の一つのパリサイ派に所属する人々で、彼らは律法の表面的・外面的遵守
(じゅんしゅ)を重んじ、律法の心である正義・憐れみ・誠実・善意・謙遜といった内面をおろそかにしていました。
 ★パリサイ人の典型としてのこの人の祈りは、自己義認の宣言であり宣伝でした。彼の祈りは「祈り」と呼べるものではなく、自分は神から罪の赦しを祈り求める必要のない完全に清く善良で正しい人間であるという確信に満ちた自己宣伝でした。
 ★彼が主張している「私は他の人達のような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもなく、週に二度断食をしており、全収入の十分の一を捧げています」 という証言は彼らが理解する律法の表面的意味では真実かもしれません。
 ★たとえ話〈24〉「新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえ」で書きましたように、イスラエル民族全員が守るべき断食は、年に一回だけ第7の月の10日の「あがないの日」に行うように律法に規定されています(レビ16:29)。それなのに、彼は週2回の断食をしていたと言っています。更に、全収入の十分の一を献金していること、また、彼らが軽蔑する取税人・罪人が日常的に行っていた貪欲・不正・姦淫などの外面的な罪に手を染めていないこと、これらは善良なユダヤ国民の模範とすべき生活態度であったかもしれません。
 ★しかし、聖書の神が求める義なる生活とは、そのような外面的な、行いだけの義ではないのです。心の内側が清められ、清い心からにじみ出る聖く義しい生活なのです。
 ★そのような義は神から来るのであり、イエス・キリストの十字架のあがないを信じる信仰から来るのです。このパリサイ人が神に義とされなかったのは当然のことです。

V.取税人とその祈り
 ★これに対して、取税人は 「遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら、『神様、罪人の私をお赦しください』と言った」 とあります。
 ★取税人とはローマ帝国の高級税務官に雇われて税の徴収業務にあたる下請けのユダヤ人集金人で、同胞のユダヤ人からは異教国ローマの手先と見られ、また彼らの中には法定以上の税金を徴収する者もいて、軽蔑と嫌悪の目でみられていました。ユダヤ社会は彼らを売春婦と並ぶ罪人とみなしていました。
 ★パリサイ人が自分を、罪の赦しを必要としない義人であると見ていたのに対して、この取税人は自分の罪を深く自覚していました。
 ★「自分は神のみ座に近づく資格はもちろん、天を見上げる資格もない、全く罪深い人間です」と胸を打ちたたきながら、ただ一言「神様、罪人のこの私をお赦しください」との祈りの言葉を口にしただけでした。

 ★主イエスは言われました、「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった
(14節)

 ★「義とされる」とは聖書の用語で、「信仰によって、キリストの聖さ義しさが、その信仰者のものとみなされる」ことです。つまり、ただ単に「罪を赦される」ことに留まらず、「キリストのように聖く義しい人と、神の法廷で宣言される」ということです。そうです!「信仰による義認」とはとてつもなく大きな神の恵みなのです。
 ★私たちキリスト者はみな、神に対する巨額の借金6000億円(罪)をキリスト信仰のゆえに免除された者たちなのです(ご参照/
主イエスのたとえ話〈18〉仲間を赦さないしもべのたとえ)。

 
「キリストは神に立てられて、私たちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りである」。 Tコリント1:30後半〜31

W.高ぶる者は退けられ、へりくだる者は恵みを受ける

 ★聖書の神様ご自身が「謙遜な、心のへりくだったお方」なのです。

 「イエスは言われた、・・・『私は柔和で心のへりくだった者であるから、私のくびきを負うて、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう』」。マタイ11:29

 「・・・あなた(主)の助け(新改訳・聖書協会文語訳/謙遜)は私を大いなる者とされました」。

 ★また、聖書の神主は高ぶる者を退け、へりくだる者と共に住むお方です。

 「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『私は高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心を生かす』」。イザヤ57:15

 「また、みな互いに謙遜を身に付けなさい。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜うからである」。Tペテロ5:5

 
★だから、主は私たちにへりくだって主と共に歩むことを求めておられます。

 「人よ、彼はさきに良いことの何であるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義を行い、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」。ミカ6:8

X.悔い改めと救いの条件としての罪の自覚
 
★行いによる義を追求するユダヤ人には、心の中の罪が分かりませんでした。心の中の罪が分からないと罪の悔い改めもキリスト信仰による救いも分かりません。
 ★私たちの同胞である日本人も、国家の法律違反以外の罪を知りません。聖書の神である天地創造の神とそのことばの聖書を聖霊によって教えられる時、そして心が砕かれへりくだる時、人は目からうろこが落ち、罪の何たるかを知り、キリストによる救いを求めるようになります。
 ★多くの同胞は、法律違反の罪でも人の目に隠れていさえすれば問題ないと考えています。しかし、隠れたところで見ている神がおられることをまじめに考え、信じるなら取税人のようにこうべを垂れ、胸を打ちたたいて、「神よ、罪人の私をお赦しください」と叫ぶ者となるでしょう。

 ★今精神的に荒廃している日本人の心に必要なものは、隠れたところで見ておられ、心の中の思いを裁かれる神を知り、キリストによる罪の赦しと清めを求めることです。


 「主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう」。 Tコリント4:5の一部

 「隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださる」。マタイ6:4



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キリスト紀元2006年 9月 10日公開

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