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   主イエスのたとえ話

〈14〉主イエスの弟子たる者が支払うべき犠牲

 〈聖書〉 
 大勢の群集が付いてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「誰でも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて(原語・新改訳共に「憎んで:ミセオー」)、私のもとに来るのでなければ、私の弟子になることはできない。自分の十字架を負って私に付いて来る者でなければ、私の弟子になることは出来ない。
 あなた方のうちで、誰かが邸宅(新改訳は「塔」)を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金をもっているかどうかを見るために、まず、座ってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ている皆の人が、『あの人は建てかけたが、仕上げが出来なかった』と言ってあざ笑うようになろう。
 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの1万人をもって、2万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力に余れば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。
 それと同じように、あなた方のうちで、自分の財産をことごとく捨て切る者でなくては、私の弟子になることは出来ない。塩は良いものだ。しかし、塩も効き目がなくなったら、何によって塩味が取り戻されようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のある者は聞くがよい。」
    ルカ14:25〜35 

 ★はじめに 
 現今の牧師・伝道者たちの中には多くの弟子たちを作ろうとして、十一献金(中には十一返金と呼ぶ教会もある)を忠実に実行すれば金持ちになれるとか、「キリストを信じないで死んだ親・兄弟が地獄にいるなら、自分だけ天国に行くなんてヤダ」、と言っている人々をなだめて、「地獄にいる親族のために執り成しの祈りを捧げれば地獄から救い出せる」などと、聖書の教えてない事を教えている人々がいます。
 ★ 主イエスはご自分の元に集まってきた大勢の人々を、そのような甘言で誘って無理やりに弟子にしようとはされませんでした。群集がドキッとして後ずさりしかねないほどのショッキングなこと(上記太字のみことば)を言われました。
 ★ 復活の主イエスは、「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われました(マルコ16:15)。また、聖書には「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」(ローマ10:13)とあります。教会はすべての人々に福音を宣べ伝える責任があります。しかし、聖書は「福音を聞いたすべての人々が信じる」とは言っていません。福音を聞いた人々の内、信じて救われるのは「少数の人々」(マタイ7:14)であり、他方、「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者は多いのです」(マタイ7:13)と言っています。

 ★
主イエスの弟子の条件
 親・妻・兄弟や全財産、更に自分の命までも「捨て」(原語・新改訳共に「憎む:ミセオー」)なくては、主イエスの弟子になることは出来ない。
 親、兄弟や自分の命を「憎む」とありますが、親・兄弟・自分を愛することは正当なことであり、聖書の他の箇所に教えられていますから、この「憎む」と言うことばは、優先順位の問題であることは明白です。親・兄弟・自分を愛する道と主イエスを愛する道の二つの道のどちらかを選べと迫られた時、即座に主イエスを選び取る姿勢を堅持する者であれ、と言う意味です。現代においても、毎年、世界規模では15万人以上のクリスチャンがキリストのために殉教の死を遂げていると報告されています。共産中国、イスラム教諸国、ヒンズー教国インドなどの純粋なクリスチャンたちが主イエスの教えに従って福音のために命を捧げているのです。

 ★塔を築く人のたとえ話
 聖書協会口語訳は「邸宅」と訳していますが、29節の原語のギリシャ語は新改訳の通りに「ピュルゴス・塔」となっています。
 クリスチャンは「地の塩」であると共に「世の光」であると言われています
(マタイ5:13〜16)。闇夜の星のように輝いて、船舶の水先案内をする灯台のように、クリスチャンは闇の世にキリストの光を輝かすことを主から期待されています。塔の土台をすえただけで完成することができず、見ていた人々からあざ笑われる人のたとえで主が言おうとしておられる事は何でしょうか。あるクリスチャンが無神論者だった頃、聖書の教えを実生活に生かしていないクリスチャンを見て、「クリスチャンが真剣に信じて居らず、実践もしていない聖書を未信者の私が真剣に学ぶ必要は無かろう」と考えていたと証ししています。このように、中途半端なクリスチャンは世の人々のあざけりを自分にばかりでなく、聖書やイエス様に向けさせることになるのです。

 ★戦いを交えようとする王のたとえ話 
 クリスチャンは聖書によると、来るべき世にあってはキリストと共にとなるために召されています
(黙示2:26)。キリスト者の人生は地上にあっては戦いの人生です。サタン・この世・自分の生来の性質(肉)という3つの大敵との戦いに召集されています。
 ★サタンは私たちの父祖アダムとエバを誘惑して罪に陥れて以来、人類の敵として数千年の間、実戦を通して手練手管を磨き続けています。救い主イエス・キリストを離れては、私たちの側に勝ち目は全くありません。この世は色々な快楽や富を用いて私たちの心を奪い去ろうとしています。また、私たちの生来の肉の性質は、暇な時期のダビデ王が人妻バテセバのとりこになったように、またペテロが恐怖のために「主を知らない」と三度も言ってしまったように、一寸でも油断すると、信仰者としての私たちの歩みを躓かせようと待ち構えています。
 ★私達キリスト者がこれらの三強敵に勝利する日常生活を送るためには、ブドウの幹である主イエスにしっかりつながった枝になることであり、そのためには自分の十字架を背負って、日々主と共に歩むことです。十字架を背負って歩くとは、この世では主の囚人として主の受けられた侮辱と迫害を共に受けて歩み続けるということです。そして、日々主の十字架に合体して古い自分に死んで、主の復活と共に「新しい自分」によみがえって、聖化されるのです
(ガラテヤ5:24;6:14)。これを聞いただけで、多くの初心者はしり込みしたくなることでしょう。
 ★「杞憂」という言葉があるように、人はまだ見ぬ将来に希望を抱くより、疑心暗鬼になりやすいものです。しかし、実際は「案ずるよりは生むがやすし」で、心配したことは「取り越し苦労」に終わることが多いのです。実際、主が与えてくださる十字架のくびきは思いのほか「負いやすく、軽いのです」
(マタイ11:30)、主がその大部分を背負っていて下さるからです。

 塩気を無くしたクリスチャン
 聖書の世界であるパレスチナ地方の人々は、死海沿岸から採掘される岩塩によって塩を生産しています。砂漠の強烈な太陽光線に焼かれたり風化によって表面部の岩塩は、塩気を失った役立たずの岩塩であって、それらはまとめて道路の舗装などに使われるそうです。
 「塩気を無くしたキリスト者は、何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけだ」
(マタイ5:13)と主は言われます。では、その「キリスト者の塩気」とは何を指すのでしょうか。
 ★まず、塩の効能を考えて見ましょう。T、生命の維持と健康に欠かすことができません。U、腐敗防止作用があります。V、それに、料理の味付け効果があります。
 これを霊的な意味に置き換えると、T永遠の命と内なるキリストの光です。Uこの世の汚れに染まらない聖さです。Vキリストにある平安と喜びです。
 ★キリスト者がT永遠の命と内なるキリストの光、Uこの世の汚れに染まらない聖さ、Vキリストにある平安と喜び、といった塩気を失ってしまうなら、人間社会から嘲られ、神にものろわれて永遠の裁きを受けることになります。
 ★マルコ9:49に「すべては火によって塩気を付けられる」とあります。その「火」は何を表しているのでしょうか。T、「聖霊」です
(使徒2:3)。「聖霊は御国を受け継ぐことの保証です」(エペソ1:14)。また、聖霊は主イエスの血潮によって私たちを清めます(2テサロニケ2:13)U、みことばです。「主は言われる、私の言葉は火のようではないか」(エレミヤ23:29)。「真理によって彼らを聖めてください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17)V、御名のための患難・試練です。「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを絶ちました」(1ペテロ4:1,2)
 ★イスカリオテのユダのように、主の弟子となりながら、途中で変心して裏切り者となり、主から「人の子を裏切るような者はのろわれます。そういう人は生まれなかった方がよかったのです」と言われるよりは、金持ちの青年官僚のように、弟子になる前に主イエスのもとを去って行く方がいいのです。彼は「全財産を売り払って貧しい者に分け与えて、その後で私に従って来なさい」と言う主の言葉を聞いて、悲しげな面持ちで去って行きました。金への執着心を捨て切れなかったのです
(マタイ16:19〜23)

 ★塩気のあるクリスチャンの秘訣
 主イエスの弟子となるためのこれらの過酷なまでの犠牲を払って最後まで耐え忍ぶことのできるキリスト者はどのような人々でしょうか。旧約時代のモーセは、「彼は、キリストの故に受けるそしりを、エジプトの宝に勝る富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである」
(ヘブル11:26)と聖書は言っています。
 初代教会の異邦人の使徒として数々の迫害と苦難に耐え、御名のために投獄されても、獄中から人々に「喜びなさい、繰り返して言うが、喜びなさい」
(ピリピ3:1)と書簡を書き送ったパウロは、何と言っているでしょうか。彼は、「私にとって益であったこれらのもの(名誉・家柄・学歴といったもの)を、キリストの故に損と思うようになった。私は更に進んで、私の主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値の故に、一切のものを損と思っている。キリストの故に、私はすべてを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている」(ピリピ3:7〜8)といっております。彼もまた、モーセのように「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:14)と言っています。
 モーセやパウロや私達ばかりでなく、私たちの信仰の創始者であり、完成者であられる主イエスご自身も「ご自分の前に置かれた喜びの故に、十字架を忍ばれたのです」
(ヘブル12:2)。聖書がキリスト者に約束している天の御国(マタイ5:1〜16)と主の復活のからだと同じ栄光のからだを与えられること(ピリピ3:21)の絶大な価値を知った私達キリスト者は日々新たな心で主と共に十字架を背負って歩み続けるのです。

聖書のことば
 
「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信じる人はさいわいです」(ヨハネ20:29)
 
「あなた方は、イエス・キリストを見たことは無いが、彼を愛している。現在、見てはいないけれど、信じて、ことばにつくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである」(1ペテロ1:8,9)


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キリスト紀元2005年 6月 20日公開

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