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〈32〉アナニヤ・サッピラ事件から学ぶ

聖書
 1ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、2共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持って来て、使徒たちの足元に置いた。3そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。4売らずに残して置けばあなたの物であり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人をあざむいたのでなく神を欺いたのだ」。5アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常な怖れを感じた。6それから、若者たちが、立って、その死体を包み、運び出して葬った。
 7三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、入ってきた。8そこで、ペテロが彼女に向って言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。その通りか」。彼女は「そうです。その通りです」と答えた。9ペテロは言った、「あなたがた二人が、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口に来ている。あなたも運び出されるであろう」。10すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちが入ってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。11教会全体並びにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。 使徒5:1〜11

はじめに
 ★アナニヤ・サッピラ事件は当時のキリスト教会の人々にとってショッキングな出来事でしたが(5,11節)、今日の私たちにとっても同じです。この出来事に表わされた神の御心を学ぶことにしましょう。

T.アナニヤとサッピラの罪は何であったか

 ★この記事が書かれている使徒5:1〜11の直前の4:34〜36に「地所や家屋を持っている者たちは、それを売り、売った物の代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。・・・バルナバと呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金を持ってきて、使徒たちの足元に置いた」とあります。
 ★これに対して、アナニヤとサッピラとは、「共に資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持って来て、使徒たちの足元に置いた」(5:1,2)のでした。
 ★それに続くペテロの言葉から、彼ら二人は売った代金の一部を差し引いた残りを、使徒たちの前に、つまり教会と神の御前に捧げて、「この献金は売った物の代金の全部です」とウソをついたことが分かります。
 ★彼ら二人は、仲間の教会員たちが自分の持ち物を売り払って全額を献金しているのを見て、自分達はしたくないけれど、しなければならないと思ったのか、或いは、立派なクリスチャンと仲間に思われたかったのか、二人で共謀して、自分たちの献金について偽証したのでした。
 ★彼らが、正直に「これは代金の一部です」と言って捧げたならば、何の問題もなかったし、裁かれることもなかったことが、使徒ペテロの4節のことばから分かります。
 ★彼らの罪は「人を欺いたのではなく、聖霊を、神をあざむいた罪」でした。3節で「聖霊を欺いた」と言われているのと同じことが、4節では「神を欺いた」と言われています。すなわち、使徒ペテロは聖霊を神と同一視していることに注目する必要があります。聖霊は単なる神の力ではなく、神の三位一体の第三位格の(ペルソナ=人格をもつ)聖霊なる神であることを、ここで聖書が明確にしています。異端の「ものみの塔」(エホバの証人)が聖霊なる神の人格を認めず、聖霊は神の単なる活動力に過ぎないとしているのは神の呪いと滅びを招く異端思想です。

U.アナニヤとサッピラの死は永遠の滅びであったか
 ★アナニヤとサッピラはこの時、永遠の滅びに落とされたのだと考える聖書注解者もいます。3節でペテロが「あなたはサタンに心を奪われて」(原語のギリシャ語の直訳は「サタンがあなたの心を満たして」)と言っていますから、この二人はもともとキリスト者の名に値しない人物らであったのかも知れません。
 ★しかし、主イエスの
「毒麦のたとえ」で、主は農園の主人の口を通して、毒麦を引き抜く作業は収穫の時(世の終わりの日)までしないと言っておられます。
 ★また、罪を犯した人たちにその罪を悔い改めさせる間も与えず、いきなり地獄に突き落とすことは聖書の神のやり方としては過激過ぎるとも思えます。
 ★また、彼らの「聖霊を欺いた罪」は重大な罪ですが、永遠に赦されない「聖霊を汚す罪」
(マルコ3:28)とは区別することができるのではないかとも思えます。

 ★この事件とTコリント5:5のみ言葉との関係について考えて見ましょう。

 「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主の裁きの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである」(口語訳)。
 「このような者をサタンの引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです」(新改訳)
 Tコリント5:5


 ★このみ言葉は、教会の戒規(除名などの罰則)のことだと言われます。大罪を犯した者を教会名簿から除名し、教会というめぐみの領域からサタンが強力に支配するこの世に追放することです。しかし、除名され、教会を追放されて世に放り出された者がそれによって肉の欲から清められ、主の日に救われるに値する聖なる者に変身できるでしょうか。その逆にますます悪の道に進むのではないでしょうか。
 ★ですから、このTコリント5:5のみ言葉は、寿命前の早めの死によって天国に送られることを意味しているように筆者には思われます。そして、アナニヤとサッピラの場合がその実例なのではと思うのです。
 ★聖餐式に関連したTコリント11:27〜30のみ言葉もこのことを指して言っていると思われます。

 「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。誰でもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきだある。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなた方の中に、弱い者や病人が大勢おり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。」 Tコリント11:27〜30

 ★上記のみ言葉はパンとブドウ酒の意味をわきまえないで聖餐式にのぞんだ(すなわち神聖冒涜の罪を犯した)人々の中から、病人や眠った人(死人)が出た事実を明らかにしています。
 ★現代のキリスト教会で同じ理由による病人や死者が大勢出ているか否かは知りません。
 ★日本には「佳人薄命」という言葉があり、教会内でも優れた人物が早死にする事例の方が、問題児の早や死にの事例より現代では多いのではないかとも思います。
 ★それなら、アナニヤとサッピラ事件や聖餐式への不敬虔な参加による死や病気というこらしめは初代教会独特の現象で現代のキリスト教会にはかかわりのないことなのでしょうか。
 ★そうではなく、アナニヤとサッピラ事件と同様のことが起きていないとするならば、それは主の忍耐と憐みのためです。すなわち、アナニヤとサッピラのような罪をひそかに或いは公然と犯しているクリスチャンに対して主は忍耐しておられるのであり、このアナニヤ・サッピラ事件から教訓を得て、彼らが今すぐ悔い改めて、主の日に救われるきよい者となることを願っておられるのです。
 ★聖書を日々読んでいるはずのクリスチャンがアナニヤ・サッピラ事件から学ぶことを怠り、不真面目な信仰生活を送って悔い改めることをしないなら、世の終わりの日には間違いなく地獄に落とされることでしょう。
 ★しかし、アナニヤとサッピラが永遠の滅びに、すなわち地獄に落とされたとする解釈も完全に捨て切ることは出来ません。キリスト教会は主イエスの血潮で買い取られた、キリストのきよいからだです。そこには偽り者の占める場所があってはなりません。キリスト教会に対する神の裁きの前触れとして、また特例として(「例外のない法則はない」とも言いますから)このアナニヤ・サッピラ事件が起きたと見ることも出来ます。この事件に対する当時の信徒たちの驚きと恐れの反応
(5.11節)がそのことを物語っているとも解釈できます。
 ★いずれにしても、この事件はキリスト再臨の日までキリスト教会に対する警告として、すべてのキリスト者が深く心に刻み込んでおくべき出来事です。

V.この事件は現代のキリスト教会とその会員に何を教えるか
 ★当サイトのキリスト教案内の
(19)献金についてのところで十一献金や十一返金について書きましたが、全収入の十分の一を捧げることの出来ない人やする気のない人に十一献金や十一返金とあらかじめ印刷された献金袋で献金することを要求するなら、その教会はアナニヤとサッピラの罪を犯すことを多くの教会員に強いていることになります。
 ★現代日本は格差社会であり、その気になれば十分の九捧げても楽々と生活できるリッチな人々がいる一方、十分の一を捧げることはもとより50分の1や100分の1でも大変という人々もいます。収入が下がることはあっても上がることがなく、物価も税金も上がる一方の生活苦の中にうめき苦しんでている人々の多い世の中にあっては、献金が重荷となって教会を離れる人もいることでしょう。
 ★今は教会内の経済的に貧しい人々への配慮が求められる時代であると言えるでしょう。十一献金を信徒に強制する教会は貧しい信徒が十分の一でも何とか捧げられる収入のレベルに達するように、生活支援金を補助する責任があります。
 ★何度も書きますが、新約聖書の中で教えられている献金は旧約聖書の律法の時代とは違って、ペテロも言うように自由に自分で決めた額を捧げればいいのです。100分の1しか捧げられない人はそれでいいし、10分の9でも喜んで捧げたい人はもちろんそうしてもいいのです。
 ★ただし、献金は天に宝を蓄える行為の一つです。また、金銭愛(貪欲=偶像礼拝)に傾きやすい私たちの肉の生来の性質と力を弱め克服する効能があります。献金を軽んじる人々はその報いを必ず受けることになります。

結び
 ★キリスト教会は単なる社交場や聖書研究会ではなく、天地の主である神を礼拝する場です。一般的な人の集まりなら大目に見られることでも、聖なる神の怒りを買うことになる場合もあります。
 ★「私が聖いように、あなた方も聖くあれ」と主は言っておられます。私たちキリスト者はキリストのきよい血潮によって買い取られ、神の所有の民とされた者として、主に習って日々み言葉と御霊と信仰と祈りによってきよくなれるよう努めたいものです。

 
聖書に「私が聖なる者であるから、あなた方も聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。Tペテロ1:16、 レビ記11:45

 
自分の宝は天に貯えなさい。そこでは虫もさびも付かず、盗人が穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。マタイ6:20,21



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キリスト紀元2008年 6月 1日公開


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