ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net
     メッセージ

〈30〉水がぶどう酒に変わる奇跡

聖書
 1三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。3ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。4イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、私と、何の係わりがありますか。私の時は、まだ来ていません」。5母はしもべ達に言った、「この方が、あなた方に言いつけることは、何でもして下さい」。
 6そこには、ユダヤ人のきよめの習わしに従って、それぞれ四、五斗(80-120リットル/新改訳による)もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。7イエスは彼らに「水がめに水を一杯入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまで一杯に入れた。8そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理頭のところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。9料理頭はぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこから来たのか知らなかったので、(水をくんだしもべ達は知っていた)花婿を呼んで 10言った、「どんな人でも、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回った頃に悪いのを出すものだ。それだのに、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」。
 11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現わされた。そして弟子たちはイエスを信じた。 ヨハネ2:1−11

T.主イエスと母マリヤとの対話
A.「ぶどう酒がありません」という母マリヤのことば

 ★主イエスは、下記のみ言葉にあるように、人の心の中にあることをご存じだったので、母マリヤが何を思ってこの言葉を発したかを正確に理解された上で、4節のように答えられました。
「婦人よ、あなたは、私と、何の係わりがありますか。私の時は、まだ来ていません」。

 
「しかし、イエスご自身は、彼らにご自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人について証する者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである」。 ヨハネ2:24,25

 ★主イエスはマリヤの言葉を「モーセのような預言者として、また来たるべきメシヤとして、今こそしるしを行って自分を世に現わすべき時では」という言葉であると理解されて、少々厳しい言葉でマリヤをたしなめられました。
 ★また、後世の人々がマリヤを神格化して崇めるようになり、聖母マリヤのとりなしを求めるようになることを予知されて、主イエスはマリヤの言葉に隠された要求を拒否されたのでした。

B.主イエスが母マリヤを「婦人よ」と呼ばれたこと
 ★主イエスの肉の先祖ダビデが、「ダビデの子」であるキリストを「わが主」呼んだように、主イエスはここで、母マリヤに「婦人よ」と呼びかけることによって、「あなたは、この私があなたの救い主、キリストであることを、今こそ知らなければならない」と諭しておられるのです。 参照:聖書に関するQ&A 
Q.12 主イエスは母マリヤに何故「お母さん」でなく「婦人よ」と呼びかけられたのか?

U.水をぶどう酒に変える奇跡
A.この奇跡の特徴
 1.大量であったこと

 ★80〜120リットル入り水ガメ6個分のぶどう酒は、平均をとって100リットルとして、その6個分600リットルは、灯油の容器としてなじみのある18リットル容器で34個分になります。
 ★この大量のぶどう酒は、1週間も続くと言われる当時のユダヤの結婚式での需要に答えて余りある量でした。その余りは、新婚さんが売って生活費の足しにすることが出来たことでしょう。主の祝福はあふれるばかりの気前の良いものでした。
 2.この奇跡は2人の証言によって確かめられたこと
 ★水がめに水を注入した人とぶどう酒に変化したものを賞味した人とを別にされたことによって、2人の証言によって真実は確かめられるという聖書の原則によって、この奇跡の信ぴょう性が確証されました。
 3.このぶどう酒は良質なものであったこと
 ★良質のぶどう酒は通常、醸造所の蔵に数年寝かす事によって造られます。この年季の入ったぶどう酒を主が一瞬にして造られたことには、重要な意義があります。
 ★進化論を信奉する人々や地質学者たちは、現代の科学的方法によって地球の年齢は46億年であると測定されているから、聖書学者が「地球の年齢はせいぜい何千年ほどでしかない」と言っているのは愚かな話だと言います。
 ★しかし、主が一瞬にして、年季の入った良質のぶどう酒を造られたことによって、父・子・御霊の三位一体の神が、はじめの天地創造の日に、すでに何十億年の時を経た十分完成し整えられた地球と宇宙を造られたことを容易に納得することができます。

B.インドネシアのリバイバルの時に起きた水がぶどう酒になる奇跡
 ★1966-74年にインドネシア宣教師であった奥山実師
(福音自由教会教師・宣教師訓練センター所長、筆者と同じ神戸改革派神学校卒)が昔、書かれた本の中にこのヨハネ2章の奇跡と同じ奇跡が1960年代のインドネシアの教会で起きた経緯が書かれていました。
 ★リバイバルによって地域全体が変えられ、町村から酒屋さんがいなくなりました。そのため、教会の礼拝での聖餐式はやむなくパンと水ですることになり、それでしばらく続けていましたが、そのうち誰言うともなく聖書にある通り、水がぶどう酒になるようにみんなで祈ろう、ということになり、熱心に祈り始めました。
 ★その後のある日の日曜日、聖餐式の時、水の入った容器を前に牧師が祝福の祈りを捧げ、その水を会衆に配った時、その奇跡は起きました。
 ★その日、欠席していたためにその奇跡を目撃していなかった教会役員が、その話を聞いても信じませんでした。しかし、次の主の日の礼拝の当番の時、自分で井戸からくみ上げた水がその場でぶどう酒に変化するのを目撃して、このインドネシアのトマスはただちに主の御前にひざまずいて懺悔すると共に、会衆の前で心からの悔い改めの証をしました。
 ★このような奇跡は、いつでも容易に見られるとは言いませんが、主が「私の時」と言われる時が来れば、主はいつでも容易に起こされるのです。

V.この奇跡に表わされた主のメッセージ
 A.ぶどう酒が象徴する主の血潮によるきよめの予告

 ★その時使われた水がめはユダヤ教の清めの儀式や習慣のために用いられていたものでした。旧約聖書の教えに従って、ユダヤ人は手足や食器など様々なものを洗うために、大量の水を必要としていました。
 ★ぶどう酒は聖餐式の中で主イエスの血潮を象徴しています。主イエスはぶどう酒の入った杯を取り、感謝して弟子たちに与えて言われました、

 
「みな、この杯から飲め。これは、罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である」。 マタイ26:27,28

 ★主イエスは、ユダヤ教の清めの水がめの中の水をぶどう酒に変えることによって、主イエスこそユダヤ人が待ち望んでいたメシヤであり、罪の清め主であることを明らかにされました。

 
B.ぶどう酒の奇跡によって主は人類の営みとしての(特に主にある)結婚を祝福されました
 ★ネットの世界では、「キリスト教原理主義教会(米国福音派教会のこと)が人類絶滅を企み、促進させようとしている」という間違った情報が流されています。
 ★しかし、福音派教会が依拠する聖書はそれとはまったく逆のことを教えています。つまり、旧約聖書は人類に、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」
(創世記1:28)と命じており、新約聖書ではこの奇跡によって人類の結婚を祝福しておられるのです。

 「すべての人は結婚を重んずべきである(口語訳)」「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい」(新改訳)」。ヘブル13:4

 ★人類の絶滅を企みそれを喜んでいるのは、サタンであり、そのサタンと彼が教会に送り込んでくる反キリストとそれに惑わされた偽教師達でしかありません。とんでもない誤報です。

 
C.キリスト教会はキリストの花嫁であること
 ★聖書は教会を花嫁に、キリストをその花婿にたとえています。キリストの再臨によって実現する新天新地は、神と人とが共に住むところであり、花嫁であるキリスト教会が花婿キリストと新生活を始める場所です。
 ★キリスト再臨の日に実現する壮大にして荘厳、輝かしくして至福なるキリストと教会の婚礼を象徴する、一結婚式をこの奇跡で飾ることによって、主は世の終わりの日のその重大な出来事を預言しておられると共に、その新天新地で実現する大婚宴の基礎になる主の血潮を象徴するぶどう酒の奇跡によってご自分の十字架による贖罪の御業を予告しておられるのです。

 私はまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海も無くなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、み座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の御座が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐい取ってくださる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 黙示録21:1〜4

W.主イエスのこの最初の奇跡によって弟子たちは信じた
 A.主は、この奇跡によってご自身の栄光を現わされた

 ★そのご自身の栄光とは、御父と無関係な独自の栄光ではなく、御父のひとり子としての栄光でした。

 
「そして言葉は肉体となり、私たちの中に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。 ヨハネ1:14

 ★この御子としての栄光は、御父がお与えになった栄光であって、主イエスがご自分から求めたものではありませんでした。

 主イエスは答えられた、「私がもし自分に栄光を帰するなら、私の栄光は、空しいものである。私に栄光を与える方は、私の父であって、あなた方が自分の神だと言っているのは、その方のことである」。 ヨハネ8:54

 
B.弟子たちは主イエスのこの最初の奇跡を見て信じた
 ★弟子たちは主イエスを信じて洗礼を受けていましたが
(ヨハネ4:1,2)、この奇跡を見て、前より1ランク上の信仰レベルに成長したということです。
 ★しかし、奇跡を見て信じた彼らの信仰はまだ十分な信仰ではありませんでした。なぜなら、主イエスは、復活の主イエスに出会って信じたトマスに、次のように言っておられるからです。

 「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」。 ヨハネ20:29

 ★復活の主イエスを、自分の目で見ないで信じている私たち今のキリスト者は、見て信じた弟子たちより幸いな信仰を授かっていると言えます。



URL http://31church.net
キリスト紀元2008年4月 1日公開


30