聖書に関するQ&A


   Q.13 聖書のユニークなところと聖書の読み方について語ってください。

 Q.12 主イエスはヨハネ2:4で母マリヤに何故「お母さん」でなく「婦人よ(新改訳は『女の方』)」と呼びかけられたのですか?

 A.もし、主イエスが救い主キリストでなかったら、マリヤを「お母さん」と呼ぶのが自然であり、子の礼儀と言うべきでしょう。しかし、主イエスはこの時、ナザレの一村民からキリストとしての公生涯に入っておられたのです。主イエスの先祖ダビデ王が自分の子孫の中から出るメシヤ・キリストを主と呼んだように
(詩篇110:1;マタイ22:41〜46)、主イエスはマリヤにとっても主であることを宣言する意味で「婦人よ」と呼びかけられたのです。
 マルコ3:31〜35で、主イエスの母と兄弟たちが来て、群衆のために中に入れず人をやって主イエスを呼ばせた時、主は「私の母、兄弟達とは誰のことですか。神の御心を行なう人は誰でも私の兄弟、姉妹、また母なのです」と言っておられます。キリストとしての公生涯に入られた主にとっては、肉親との血の関係より神の御国における霊の家族関係の方がより重要になったのです。
 上記の質問にあるヨハネ2章4節は、主がカナの婚礼において大量の水をぶとう酒に変えて神の御子としての栄光を現された主の公生涯初期の出来事の中の1節です。この後、地上の公生涯最後の十字架上で主は再びマリヤを「婦人よ」と呼んでおられます。二度目は、ご自分が世を去られた後の母マリヤの世話を愛弟子ヨハネに託す時に「婦人よ、ここにあなたの息子がいます」と言われました
(ヨハネ19:26)
 この「婦人よ」と言う主イエスのマリヤへの呼びかけと、「私の母とは誰か」と言われた上記マルコ3:33のみことばから、マリヤを特別視してカトリックのように偶像扱いすることは主の御心に背く行為であることは、聖書の素直な読者なら誰にでも分かることです。
 今日のローマ・カトリック教会の中のマリヤは聖書の中のキリストの地位を完全に横取りした状態です。主イエスは勿論聖書の中のマリヤは今天国でカトリックの暴挙を嘆いていることでしょう。


 Q.13 聖書のユニークなところと聖書の読み方とについて語ってください。

 
A.
T.聖書のユニークなところ
 
始めの「あいさつ」に書きましたように、筆者が信仰をもってから48年間に48回以上聖書を読んで来ましたが、聖書は真実で、頼りがいがあって、まことに有り難く、不思議で、賛美すべき書物です。
 〈1〉登場人物たちについて、包み隠すことなく真実を語っています。
不信仰な人達についてばかりでなく、信仰の偉大な私達の先輩達についても正直にその失敗談も書いています。例えば、箱舟を造ったノアは洪水から救われた後、ぶどう酒に酔って裸になっているところを息子の一人に見られています
(創世記9:21,22)。イスラエル民族の始祖アブラハムは美人の妻のために自分が異邦人に殺されるのを恐れて、妻サラに「アブラハムの妹」と言わせています(サラはアブラハムの異母姉妹でしたので半分は真実でした。
創世記12:10〜20;同20:11〜13。人間イエスの先祖ダビデ王は家来ウリヤの妻バテセバを寝取った上、その家来を戦場の第一線に送って戦死させています。すなわち、姦淫と殺人の二重犯罪です(2サムエル)。しかし、ダビデ王の他の王達と違うところは預言者ナタンにその罪を示されて素直に懺悔している点です(2サムエル11:2〜12:15)。ローマ書の中で、信仰によって義とされた(罪をゆるされた)人の旧約時代の実例の一人として挙げられています(ローマ4:5〜8)。キリストの一番弟子とも言うべきペテロは捕らえられて裁かれようとする主イエスの前で人々から「イエスの仲間だ」と言われて、「主を知らない」と三度も否認しています(ルカ22:54〜62)。この様に、聖書は信仰の偉人達を美辞麗句で飾り立てることを一切していません。また、神の存在についても、その論理的証明を試みることは一切せず、「初めに神は天と地とを創造された」の一言で片付けています。
 〈2〉主イエスが「聖書は私のことを語っている」と証言しておられる通り
(ヨハネ5:39)旧約聖書は来るべきキリストを予告しています。過ぎ越しの子羊の犠牲は罪を取り除く神の子羊キリストのひな形(モデル)です。預言者ヨナは大魚の腹の中に3日3晩いた後、海岸に吐き出されることでキリストの死と三日目の復活のモデルになりました(マタイ12:40)新約聖書はすでに来られたキリストの弟子達による目撃談です。聖書は「二人または三人の証言によって真実は判定される」と語っていますが(申命記19:15)、受肉者キリストについての目撃談は四人の福音書によっていろいろな視点から立体的に万全に証言されています。聖書全体としては千数百年にわたって互いに面識のない人々もいる著者達が自由に書きながら全体が調和していて矛盾がなく一致してキリストを語っているところが、不思議なところです。これは聖書が証言している通り聖霊が預言者たちを通して語っているためです(2ペテロ1:21)。聖書は聖霊が預言者を通して語ったロゴス(神の言葉)であり、キリストは受肉して地上を歩まれたロゴス(「ことばなる神」ヨハネ1:1)です。
 〈3〉聖書は闇夜の光のように信じる私達の心を励まし、希望を与え、戒め、力を与えてくれます。
今、キリストにあってすでに天の御国に生かされている私達キリスト者にとって
(エペソ2:5,6)、キリスト再臨後の新天新地での新生活は今の生活の続編のようなものであり、自分の死後の世界を思う時、私達キリスト者は新学期を前にした小学一年生のような気分です。
 〈4〉聖書はクリスチャンの信仰生活に似ています。
レビ記を読む時のように単調でやや眠くなる時期もあります。また、旧約の創世記、列王記や新約の福音書を読む時のようにわくわくとして楽しい時期もあります。最後まで耐え忍ぶ者が救われるように、何度も何度も聖書を読み返し続けることによって、信仰者の信仰・希望・愛は成長するのです。

U.聖書の読み方

 聖書は聖霊によって書かれた神のことばですから、キリスト者はみな聖書を読む時、聖霊の助けと導きを祈りながら読みます。聖霊が日常生活や仕事で必要な御言葉を思い起こさせてくださいますから
(ヨハネ14:26)、筆者は毎日規則的になるべく沢山読むように心がけています。
 ★聖書の学びにコンコーダンス(聖書用語索引)が欠かせません。日本語でもありますが、筆者は神学校時代から英語のコンコーダンス(Young's Analytical Concordance To The Bible) を愛用しているので、これを使いこなすためという必要に迫られて、英語の聖書を読み続けて来ました。英語の聖書を読むことの利点は、翻訳の種類が豊富なので、新しいヴァージョンに移る毎に、より新鮮な気持ちで聖書に立ち向かえるという点があります。難点は一種類だけを読み続ける場合に比べ、聖句の箇所の記憶をとどめるのにやや不利になります。ヴァージョンによって書かれている場所が違って来るからです。それで、ますますコンコーダンスの助けが不可欠になっています。
 ★聖書を満遍なく読むために、筆者の場合は、現在は一日旧約を四章、新約を二章合計六章読むことにしています。旧約は創世記〜ルツ記、Tサムエル〜箴言、伝道者の書〜マラキ、詩篇に分けて、それぞれから一章づつ。新約はマタイ〜使徒、ローマ〜黙示の各々から一章づづです。この読み方ですと、年に旧約は1回以上、新約は2回以上読むことになります。とはいえ、現実生活では、予定通りきっちり読めない日も出てきます。それでも、旧約は年一回、新約は2回は読めます。勿論、受洗直後からこういう読み方をして来たわけではなく、初めの頃は旧約を創世記から、新約をマタイから順番に読んでいました。こういう読み方ですと、旧約は毎日レビ記、新約は毎日黙示録という時期が出て来て、霊の糧として片寄りますので、四苦八苦の試みの中から以上のような読み方を編み出した訳です。あなたも、無理なく一年で全巻通読できる自分なりのやり方で、計画的に読み続けてください。



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キリスト紀元2007年 3月 10日更新


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