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  メッセージ

〈27〉キリストの中に見出される者となるために

聖書
 「8私は、更に進んで、私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故に、一切のものを損と思っている。キリストの故に、私はすべてを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている。
 それは、私がキリストを得るためであり、9律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基ずく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見出すようになるためである。10すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難に与って、その死の様と等しくなり、11何とかして死人のうちからの復活に達したいのである。
 12私がそれをすでに得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。13兄弟たちよ。私はすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向ってからだを伸ばしつつ、14目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである。
 15だから、私たちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなた方が違った考えを持っているなら、神はそのことを示して下さるであろう。16ただ、私たちは、達し得たところに従って進むべきである。
 17兄弟たちよ。どうか、私にならう者になってほしい。また、あなた方の模範にされている私たちにならって歩くひとたちに、目をとめなさい」ピリピ3:8〜17。

T.キリストと使徒パウロとを模範とする

 ★使徒パウロは上記17節や下記のみ言葉のように、

 
「私がキリストにならう者であるように、あなた方も私にならう者になりなさい」(Tコリント11:1)。

 と何度も語っています。
 ★使徒パウロを通して聖霊なる神が語る言葉ですから、私たちはこれらのみ言葉が教えるように、パウロがキリストに習うように、私たちもキリストにならい、同時にキリストにならって生きているパウロの生き方にもならって行きたいと思います。

使徒パウロの生き方
 ★彼は、「キリストのうちに自分を見出すようになるために、・・・キリストの苦難にあずかって、その死の様に等しくなり、何とかして死人のうちからの復活に達したい」と言っています。
 ★彼は、キリスト信仰によって義とされた(罪を赦され、永遠の命を与えられた)という事実に満足して、そこに留まることなく、実生活の中でキリストの死に合体することによって復活(栄光・不死)にも合体したいと熱望しています。
 ★キリストが地上生活にあっては苦難と恥辱と十字架の死を通られたように、パウロは自分もこの世の名誉・富・宝を捨てて、御名のため福音のため迫害を受ける道を歩む決意を固め、それを実践して来ました。
 ★このパウロの生き方は「キリスト信仰によってこの世での成功と富を獲得できる」とする現代の数的に栄えているキリスト教会が教える生き方と何と違っていることでしょう。

U.キリストを知る知識の絶大な価値の故に
 ★キリストを知ってキリストの死と復活(永遠の重い栄光/
Uコリント4:17)にあずかることの絶大な価値に比べるなら、この世の名誉・地位・宝・富は損失であり、がらくたであり糞土であると言っています。
 ★それら世の富・宝(得・益)を損失とする理由は、富める若い役人が「財産を売り払って、貧しい人々に分け与えて、私に従って来なさい」と言われた主の御言葉を拒否して主のもとを去って行ったように
(マタイ19:16〜22)、富への執着がこの青年を永遠の命から遠ざけたように、この世の富・名誉が永遠の命の妨げ、すなわち損失になるからです。
 ★8節で糞土と訳されているギリシャ語スキュバロンは、「糞、排泄物、汚物、ごみ、がらくた」と言った意味があります。新改訳の「ちりあくた」も聖書協会口語訳の「糞土」も共に正確な訳です。使徒パウロはこの世で価値のある名誉地位身分ばかりか、財産・富・宝も一切は、キリストを知る知識の絶大な価値の前に「糞土」に等しいと言っているのです。
 ★パウロがこの世の宝・富・名誉・地位
そのものを、がらくた、糞土としているのでなく、キリストを知る知識の絶大な価値と比べるならば、「がらくた・糞土」に過ぎないと言っているのです。その違いは実物とモデル、本物と偽物との違いをはるかに超えた、まさに天と地の違いなのです。
 ★私たち一般の信仰者は、その絶大な価値を新生体験やみ言葉と御霊の助けによる礼拝や聖書研究や祈りによって、その一端を味わってはいますが
(ヘブル6:4,5)、使徒パウロは実際に天に引き上げられる体験によって、その絶大な価値、永遠の重い栄光の何たるかを実感的に体験しています(Uコリント12:1〜10)。
 ★キリストの再臨後、世の終わりが来て、新天新地が再創造された日に、そこに入国を許されたすべてのキリスト者はパウロの言葉が間違いない真実であることに気づくことでしょう。

V.キリストにある成人(全き人)
 ★12節でパウロは自分が「まだ完全の域に達していない」と言っていますから、15節の「私たちの中で全き人たち」とはキリストにある成人でありたいと願い、その実現を目指している人々を指していることになります。
 ★そのような人々はパウロのこのキリストにある生き方・考え方を見習ってほしいと彼は願っているのです。
 ★水中生活をしていたヤゴ(トンボの幼虫)が脱皮してトンボになった後は、もう水中生活には戻れません。トンボは水中生活に戻りたいとも思いません。空中を思いのままに滑空する新しい生活が始まったからです。
 ★パウロに習って、キリストの死と復活に合体した私たちキリスト者はキリストにあってこの世に死んだのですから
(ガラテヤ6:14)、キリストにある新しい命(永遠の命)を犠牲にすることなしにこの世の富と栄誉を愛し追い求める道に舞い戻る事はできません。

 「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか」(マルコ8:36)。

W.キリストにある者と認められるために(新改訳)

 ★9節後半の「キリストのうちに自分を見出すようになるため」の「見出す」(ヒューレソー)は受動態ですから、「私がキリストの中に
見出されるために」という意味になります。
 ★つまり、世の終わりの日に神に、キリストに属する者と認められるためばかりでなく、今、この世の生活においてもキリストに生き、キリストを生きる者(「生きるはキリスト」
ピリピ1:21)となるために、パウロにならって、キリストの死に合体する(御名のために苦しみ、迫害される)生活が求められます。
 ★悪い者が支配するこの世
(Tヨハネ5:19)は、敬虔に生きようとする者たちにとって、決して住み心地の良いところではありません。聖書の預言の通り、世界は確実に悪い方向へ向かっています(話の泉《14》「新世界秩序とキリストの再臨」ご参照)。聖書に忠実に生きようとするクリスチャンが迫害される時代が確実にやってきます。神の与える武具を身に付け、み言葉の剣をもって悪魔に立ち向かえるように、日々心を備えて行きましょう(エペソ6:10〜18)

 ★使徒パウロはこのテキスト・ピリピ人への手紙をAD60年頃、ローマの牢獄で執筆したと言われています。牢獄の中からシャバの人々に書き送った手紙にもかかわらず、この手紙には「喜び」「喜べ」という言葉が多く出て来ます。この手紙の1:21と上記テキストの3章冒頭部分を以下に記します。

 
「私にとって、生きることはキリスト、死ぬことも益(ギ語/ケルドス利益・得・獲得)です」(ピリピ1:21)

 「最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなた方の安全のためになることです」(ピリピ3:1)。




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キリスト紀元2007年 7月 20日公開


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