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〈26〉ダニエル書に学ぶ―異教世界でのキリスト者の生き方

聖書
 
「ネブカデネザル王は彼らに言った、・・・『私が立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。一体どの神が、私の手からあなた方を救う事ができようか』。
 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、『ネブカデネザル王よ、このことについて、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、私たちの仕えている神は、その火の燃える炉から、私たちを救いだすことがお出来になります。また王よ、あなたの手から私たちを救いだされます。
 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません』」 
 ダニエル3:15〜18


T.ダニエルと3人の友人達、偶像礼拝を拒否する

 ★ダニエル書は、バビロン捕囚としてユダヤの国から強制移住させられたユダヤ人のダニエルとその3人の友人達の体験談と、未来の世界に関するダニエルの黙示録的預言からなっています。
 ★バビロンの王ネブカデネザルの夢とその内容を全く知らされないまま、聖霊の力によってその夢を解き明かすことによって、ダニエルが一人、国の高官に任命された後、彼の友人達3人は、王が建てた高さ27メートルの巨大な金の像を拝むことを拒否したために、通常の7倍の高温に熱せられた溶鉱炉に着衣のまま縛られて投げ込まれました。
 ★その時、神は御使いを遣わして、3人を炎から守り、彼らは炉の中から着衣もろとも無傷で救出されました。炉の中で3人がどうなるかを観察していた王は、縄目を解かれた3人が一人の御使いと4人で火の中を歩き回っているのを目撃しました。

 ★代が替わって、ダリヨス王の治世に、国の高官であったダニエルをねたんだ役人たちが王をそそのかして、30日間限定で「祈りは王にだけ捧げよ。違反者はライオンの穴に投入されなければならない」という法律を作らせました。
 ★ダニエルは、その法律が出来て、施行されたことを知りながら、堂々と窓を開け放して、天地の主なる神の御名を呼んで礼拝を続けました。この時を待っていた敵たちは、すぐさま王に通報し、王はダニエルを失うことを悲しみつつ、法令通り彼をライオンの穴に投入しました。
 ★王は食事ものどを通らず、一睡もせず朝を迎え、穴の入り口に急行し、悲しげにダニエルの名を呼びました。王の呼びかけに、穴の中からダニエルが答えました。
 「王よ、私の神はその御使いを遣わして、ライオンの口を閉ざされたので、ライオンは私に害を加えませんでした。これは私に罪のないことが、神のみ前に認められたからです」 (ダニエル6:22)。


U.聖書は偶像礼拝を重大な罪として禁止している

 ★上記のダニエルとその3人の友人達のように命をかけて偶像礼拝を拒否することを、聖書の神は私たちキリスト者に求めておられます。
 ★ダニエルと3人の友人は神の助けを当てにして、超高温の炉やライオンの穴に投げ込まれたのではなく、「たとえ、救出されなくても、断固として偶像は拝みません」と彼らは断言しているのです。
 ★主イエスが十戒を2つに要約された時、その1つ神に関して
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい」(マタイ22:37)
 と教えられたこの言葉の意味は、「命をかけて偶像礼拝を拒否しなさい」ということでもあります。
 ★偶像礼拝は姦淫、殺人、偽証と並ぶ罪として火と硫黄の池の報いを受けると聖書は明確に断罪しています。

 
「しかし、臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」 黙示録21:8


V.筆者の体験談
 A.異教の冠婚葬祭出席体験

 
★40数年前、筆者が神学生であった時、妹が神道形式の神前結婚式を挙げました。その式の最中、式進行役の巫女が参列者にむかって「礼拝(らいはい)してください」と叫びました。親族一同が頭を下げる中、筆者と筆者の後部の座席に座っていたクリスチャンの兄夫婦が頭を下げないので、巫女はけわしい表情で我々の方をにらみ付けて同じ言葉を繰り返しました。
 ★筆者は断固として式の終わるまで、背筋と頭をまっすぐに立て続けました。あの時は、あたかもサタンが筆者の頭を後ろから抑えつけて拝ませようとしているかのような強力な力を感じました。筆者にとっては、まさに悪霊との対決の瞬間でもありました。

 ★それから数十年後、叔父の葬儀が仏式で行われました。もちろん、焼香はしませんでしたが、尊敬していた叔父の葬儀ということで式に参列しましたが、僧侶の読経の声を聞いている内に、葬式仏教に対する言い様のない怒り(今にして思えば、我が内なる聖霊の怒り)が込み上げてきたので、中座させてもらいました。
 ★このような体験を経て、最近は仏式・神道式など異教の儀式には、丁重な挨拶だけにして、出席は遠慮させてもらっています。


 B.当地での町内会長体験

 ★当地淡路市には数軒からなる極小町内会から数百軒の大世帯からなる大町内会まであります。当方の世帯が所属する町内会は24軒の小町内会の一つです。我が家の周りに、これだけしか家がないという訳ではなく、昔からの歴史的いきさつによって小さく分かれてしまったという事です。
 ★当地に来てから5年目になった去年、順番で町内会長の役が当方に回ってきました。そこで、当方の出した条件を飲んでもらうことで、引き受けることにしました。
 ★その条件とは、
(1)神社関係費を町内会費から分離させること、
(2)町内会員の葬儀の時には出席しても焼香をしない、という2点でした。
 ★(1)については、当地の神社に限らず、日本全国の神社は町内会そのものを氏子すなわち信者団体とみなしており、毎年神社の維持・管理・営繕費の名目で各町内会に割り当てて来ます。そのためクリスチャンでも町内会費という形で、強制的になにがしか神社に寄付させられることになります。
 ★日本全国でこれまでに何度もこの神社と自治会(町内会)の問題は法廷に持ち出され争われてきました。最近では九州佐賀県鳥栖(とす)市で自治会神社費訴訟が起き、不当を訴える原告・仏教浄土真宗僧侶の勝訴が確定しています(2002.4)。
 ★当町内会では、年3600円の町内会費の中1500円の神社関係費を信仰上の理由で支払を免除してもらうことを了承してもらいました。これは憲法で保障された当然の権利ではありますが。
 ★我が国は信教の自由が憲法で保障されていますが、現実は日本全国の自治会(町内会)において、クリスチャンも町内会費を通して強制的に神社に寄付させられています。
 ★自民党森善朗元総理が「日本は神の国だ」と発言したのはこの意味もあります。日本の教会とクリスチャンが戦って勝ち取って行かねばならない領域がまだまだ残っています。
 ★(2)の葬儀の焼香問題については、葬儀には副会長が代理出席することで決着しました。昨年の任期中、2回の仏式葬儀が行われ、約束通り副会長が代理出席してくれました。

W.焼香とクリスチャン
 ★日本基督教団所属の某教会員が、「私は仏式葬儀に出席する場合、焼香します。但し、その際、聖書の神様に祈ります」と言っていました。しかし、そのような行為と祈りを聖書の神が喜び、聞き入れてくださるでしょうか。

 A.朝鮮戦争時代の出来事
 ★焼香に直接結びつく話ではありませんが、朝鮮戦争時代(1950.6-'53.7)の韓国のキリスト教会で起きた出来事です。
 ★北朝鮮共産軍が日曜礼拝中の教会を襲いました。北朝鮮軍の部隊長が教会の壁に掛けてあったキリストの肖像画を床に置いて、信徒に一人ずつ前に出てそのキリストの絵を踏みつけるように命じました。「踏んだ者は右に、踏まない者は左に分かれよ。踏まない者はただちに射殺する」と宣告したのです。
 ★まず長老が前に出てきて、その絵を踏み付けました。彼は「これはただの紙切れだ。これを踏んだからと言って、私はキリスト信仰を捨てたのではない。私はこんなことで犬死にはしたくない」と考えたのかも知れません。次に執事が出て来て踏み付けました。次々に、信徒がその絵を踏んで行く内に一人の少女が泥まみれのキリスト像を手に取り、ハンカチで汚れを拭き取り、「私は主イエス様のために死ぬ用意が出来ています」と言って、踏まなかった人々のいる左側に行きました。
 ★この光景を見ていた部隊長の気が変わりました。彼は絵を踏んだ右側の人々に向かって言い放ちました。「お前たちは、自分の信念に対して不誠実だ」。そう言うと、彼は絵を踏んだ人々全員をその場で射殺しました。

 ★教会の壁にキリストの絵を掛けておくことは、聖書的ではありません。教会学校の子供の教育のためにキリストの絵を使うことは、一概に悪いとは言えないかもしれません。しかし、大人の信徒の教育にキリストの絵が必要とは思えません。また礼拝堂の壁は、聖画を含めた芸術絵画で飾り立てる必要性も、妥当性もないでしょう。
 ★しかしながら、突然起こった緊急事態の中で、キリスト像を踏むことで不信仰を、踏まないことで信仰を神と人の前で告白することを要求されているならば、絵の汚れをハンカチでぬぐい、「私はイエス様のために死ぬ用意が出来ています」と告白した少女の態度は信仰者として極めて健全であり、尊敬に値する行動であったと思います。

 B.聖書を踏み付けた宣教師の話
 ★ここで踏み絵という話題で思い出したのは、あるプロテスタントの日本人牧師が若い頃、宣教師(ドイツ系宣教団)に教えられた時の話です。
 ★その宣教師は「私たちキリスト者は聖書の神を崇めるが、聖書そのものを神のようにあがめることはしない。聖書は神のことばが印刷された紙であって、神ではない」と言って、彼の目の前で聖書を踏みつけて見せたということです。この話を、筆者は超教派の牧師会でその日本人牧師の説教の中で聞きました。この牧師は、この宣教師の教え方は適切だったと信じ切っている様子でした。
 ★しかし、ただの教科書でさえ踏み付けることは学生にとって不真面目な行為です。まして神の言葉の記された聖書を踏み付けることは、日本人クリスチャンにとってばかりでなく、全世界のクリスチャンにとっても不真面目で不誠実な行為でしかありません。尊敬する「人間」から来た手紙でも、ただの紙切れだからと踏みつけることはしないでしょう。まして、神からの手紙・聖書ならなおさらです。聖書を大事にすることと、聖書を偶像視することとは全く別問題です。


 C.二心を捨てよ
 ★「心をつくし、思いをつくし、力を尽くして神を愛する」キリスト者であるなら、すなわち「全身全霊をもって主に仕えようとしている」信仰者であるなら、人の目を恐れてのその場しのぎのために偶像に頭を下げたり、焼香したりするようなことは断じてやらないでしょう。
 ★聖書の中に「二心(ふたごころ)」という言葉が出て来ます。神と富との両者に仕えようとする信仰態度を指します。
 ★主イエスは

「誰でも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)

 と言って二心の信仰態度は神のみ前では是認されず、かえって憎まれる態度であることを明らかにされました。
 ★従って、焼香しながら、聖書の神に祈っていると主張する人々は主イエスの前ではクリスチャンと認められないということになります。
 ★焼香しながら、「私はクリスチャンです」と自称する二心の人々よ。手遅れにならない内に、その罪を悔い改めなさい!!!

聖書
 「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなた方から逃げ去るであろう。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださるであろう。罪人共よ、手を清めよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。苦しめ、悲しめ、泣け。あなた方の笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。主のみ前にへりくだれ。そうすれば、主は、あなた方を高くしてくださるであろう」ヤコブ4:7〜10




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キリスト紀元2007年 6月 30日公開


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