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     メッセージ


〈28〉信仰と行い

聖書
1:5あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」ヤコブ1:5

19愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきである。20人の怒りは、神の怒りを全うするものではないからである。
 21だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植え付けられている御言葉を、素直に受け入れなさい。御言葉にはあなた方の魂を救う力がある。
 22そして、御言葉を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。23おおよそ御言葉を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようである。24彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
 25これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない(新改訳/離れない)人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」 ヤコブ1:19〜25

3:17しかし、上からの知恵は、第一に聖(きよ)く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。18義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである」ヤコブ3:17,18



序「御言葉にはあなた方の魂を救う力がある」
 ★ローマ書はローマの教会に、コリント前後書はコリントの教会に宛てて書かれていますが、このヤコブの手紙は新約聖書の時代広くローマ帝国各地に散らされていた霊のイスラエルであるキリスト者全般に宛てて書かれています。
 ★いつの時代でも、どこに住むキリスト者にとっても、信仰と行いの問題は、根本的で重要な問題です。
 ★この書が信仰生活における行いの重要性を説いているからと言って、ローマ書やガラテヤ書の説く「信仰義認」の教理に対抗して「行いによる救い」を説いているわけではありません。上記21節の
心に植え付けられている御言葉を、素直に受け入れなさい。御言葉にはあなた方の魂を救う力がある」という聖句から、ヤコブが「人の救いはみ言葉とそれを信じる信仰によるのだ」という立場にあることは明白です。
 ★キリストの再臨が近い今日、その日「私はあなた方を知らない。永遠の滅びに入れ」(ルカ13:22〜30)という厳粛な宣告を聞く者たちの一人とならないために、行いの伴った信仰とは何かをしっかり聖書によって確認しておきたいと思います。

1、み言葉を聞くだけの人と聞いて行う人

日常生活の鏡とみことばの鏡
 
★上記23〜25節で「み言葉に聞く」ことが、鏡を見ることにたとえられています。鏡が私たちの顔を映し出してくれるように、み言葉の鏡は私たちの内面性(霊と心の状態・罪の性質)を映し出してくれます。そればかりでなく、この霊の鏡は私たちに罪からの救いの道(キリスト)を示し、私たちの礼拝すべき真の神を指し示してくれます。

 
★「23おおよそ御言葉を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようである。24彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。」

 ★自分の身だしなみを整えるために鏡を見る場合は、用が済んだら鏡の前を立ち去り、自分の顔を忘れてしまうことの方が自然です。
 ★しかし、霊の鏡の場合は、それではだめなのです。

25これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない(離れない)人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」

 ★霊の鏡に自分を映し出して、霊の身だしなみを整え、「主イエスの恵みと知識に成長」
(Uペテロ3:18)したいと願う者は、霊の鏡の前を離れず、「一心に見つめてたゆまない(新改訳/離れない)人」でなければなりません。口語訳が「たゆまない」と訳し、新改訳が「離れない」と訳した原語のギリシャ語「パラメノー」は「そこに留まる」という意味ですから、「一心に見つめ続ける」という意味になります。
 ★旧約聖書詩篇1:1,2に次の様なみことばがあります。

「悪しき者のはかりごとに歩ます、罪人の道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人は幸いである。このような人は主のおきてを喜び、昼も夜もそのおきてを思う」。

 ★鏡の前を離れて、見ていた自分の顔を忘れる人のように、聞いて行わない人にならないためには、み言葉を一心に見つめ、調べ、学び、思い続ける人でなければなりません。

「そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤに送り出した。二人はベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。そこにいるユダヤ人たちはテサロニケの者たちより素直であって、心から教えを受け入れ、はたしてその通りかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった」 使徒17:10〜12


自由の律法とキリストの律法

 ★そして、その私たちが学ぶべきみことばは、25節で「完全な自由の律法」と呼ばれ、2:12では「自由の律法」と呼ばれています。
 ★この「自由の律法」はTコリント9:21では、「キリストの律法」と呼ばれています。

「律法のない人には―私は神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法に中にあるのだが―律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである」(Tコリント9:21)。

 ★Tコリント9:21のこのみ言葉の中の「キリストの律法」は福音のことですから、「完全な自由の律法」も「キリストの福音」のことです。
 ★山上の説教の締めくくりのところで、主イエスは「みことばを聞いて行わない者は愚かな人で、聞いて行う人は賢い人だ」と言っておられます。ですから、ヤコブ1:5で著者が「知恵に不足している者は、それを神に求めよ」と言っているその「知恵」とは、頭の良し悪しを決める知恵ではなく、「みことばを聞いて行う人の知恵」であることがわかります。
 ★なぜなら、キリストのみ言葉を聞いて行う人は、自分の中にキリストが住んでおられ、そのキリストご自身が「神の知恵」だからです。

「あなた方がキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、私たちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」(Tコリント1:30)

知恵ある生活

 ★ですから、ヤコブ3:17は

「しかし、上からの知恵は、第一に清く、次に平和、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない」(ヤコブ3:17)

 と言い、上からの知恵が知能のことではなく、キリストに似た品性のことであることを明示しています。
 ★従って、キリストの福音を聞いて、これを一心に見つめて実行する者は、神の知恵であるキリストに似た者となり、行いのない「偽物のクリスチャン」とはっきり区別できるということになります。
 ★ここに、行いのともなう信仰を説くヤコブの手紙が、すべてのキリスト者に上からの知恵を熱心に求めることを勧めている理由があるのです。
 ★また、旧約聖書箴言9:10が「主を恐れることは知恵のもとである(新改訳/知恵の初め)」と言っている意味も同じです。旧約の「主を恐れること」は、新約の「主イエスの福音を信じること」と同じ意味になります。ですから、箴言9:10は「主イエスの福音を信じることは知恵のもと(知恵の始まり)である」ということです。

2.み言葉を行う人はその行いによって祝福される(25節後半)

旧約聖書の人物二人の場合
 ★ヤコブ書2:21〜26には、信仰を実行に移したことによって祝福された、旧約聖書の二人の人物が取り上げられています。
 ★その一人はアブラハム(選民イスラエルの代表)です。彼は、約束の最愛の一人子イサクを「燔祭(はんさい)として捧げよ」と命じられて、迷うことなく、ただちにその命令の実行に取りかかりました
(創世記22:1〜15)。彼が指定されたモリヤの山でまさに息子イサクに手をかけようとした時、天からストップが掛けられ、息子を殺さずに済みました。この信仰と従順の行為によって、アブラハムは以前に受けた神による信仰の義(創世記15:4〜6)に対する更なる確証を得ました。
 ★もう一人の(異邦人の代表)遊女だったラハブは、天地の主である神に対する信仰を、イスラエルの斥侯(スパイ)たちをもてなし、別の道から安全に送り帰えすことにより、その行いによって義とされ、救いを受け、主イエスの系図の中にその名を連ねる名誉を受けました
(ヨシュア記2:1〜21;マタイ1:5)

新約聖書の人物二人の場合
 ★新約聖書の中から、実例を二人取り上げたいと思います。一人は12年間長血を患っていた女性です
(ルカ8:43〜48)。この人は、主イエスの衣に触れさえすれば自分の病気は治ると信じて、実行するチャンスを狙っていました。ついに、チャンスが到来し、主イエスの一行とそれに群がる群衆の中にまぎれこみ、主イエスの後ろからひそかに御衣に触れることに成功しました。すると、その瞬間彼女は自分の病気がただちに癒されたことを知りました。
 ★この時、主はご自分の体から力が出て行ったことに気づかれ、振り向いて「私に触れた者は誰か」とお尋ねになりました。ペテロは「こんなにたくさんの群衆があなたのまわりでひしめいているのです。それでも『誰が触ったのか』と問われるのですか」と異議を唱えました。
 ★そこで、観念した女性が、衣に触れて癒された事情を証しすると、主は「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。

 ★信仰を実行に移して祝福された新約聖書のもう一人の人物として、ヨハネ福音書9章に登場する元盲人だった人を取り上げます。彼は主イエスに癒される前、生来の盲人でした。主イエスは泥を盲人の目に塗って、「シロアムの池で洗いなさい」と命じられました。彼が、その言葉を信じて、シロアムの池に行って洗うと、彼の眼は見えるようになりました。
 ★その盲人が癒された日は安息日でした。ユダヤ人の多くは安息日に「病人を癒すという仕事」をすることは罪だと考えていました。そこで、ユダヤ人たちは安息日にも病人を癒しておられる主イエスをキリストとは認めず、イエスをキリストと告白する者たちをユダヤ教会から破門にすることに決めていました。
 ★ユダヤ人の役人から「あなたの目を開けた人についてあなたはどう思うか」と問い詰められた時、この元盲人は「あのお方は神から来られた方だと思います」答えました。そのため、この人は教会から破門されました。彼の破門の知らせを聞いて、主は彼のもとに来られ、ご自分がキリストであることを明かされました。その元盲人はただちに主を礼拝しました。
 ★この元盲人は、主イエスについての十分な知識を持たないまま
(ヨハネ9:25)、まぶたに泥を塗ってもらい「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたその言葉を信じて洗うことによって癒されました。
 ★さらに、ユダヤ教会からの破門の脅しにも屈することなく、自分を癒してくれたお方は神から出た方だと、人々の前で信仰告白することによって、実際破門されましたが、主イエスが直接彼に出会って、ご自分がキリストであることを個人的に明確に啓示してくださったのでした。
 ★すなわち、十分な知識を持っていなかった段階から、み言葉に服従し、その信仰と服従によって、受けた恵みを大胆に証ししているうちに、彼の信仰は成長し、ついに主に出会い直接、礼拝する光栄に浴したのでした。

 ★この新約聖書に登場する二人の人物が教えてくれることは、小さな信仰でもそれを実践し、さらに人々の前で自分の信仰を告白し、証しをすることによって信仰は確かなものへと大きく強く成長し、祝福されるということです。
 ★ダニエルと3人の友人は、異教の王に仕えるために召された時、まだ少年たちでした。その神信仰も知識も小さかったことでしょう。しかし、小さい信仰ながら、偶像礼拝を拒否するという重要な神のみ旨を勇気をもって実践した時、彼らの信仰は飛躍的に成長したのです。
 ★信仰と行いは車の両輪のようなもので、どちらか一方が欠けると他方は役に立たなくなります。



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キリスト紀元2008年 2月 1日公開


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