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     メッセージ

〈23〉あなた方は地の塩、世の光である

聖書
 
13「あなた方は、地の塩である。もし塩の効き目がなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。もはや、何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。
 14あなた方は、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
 15また、明かりをつけて、それを枡の下に置く者はいない。むしろ燭台の上に置いて、家の中のすべてのものを照らさせるのである。
 16そのように、あなた方の光を人々の前に輝かし、そして、人々があなた方のよい行いを見て、天にいますあなた方の父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:13〜16)


あなた方は地の塩である

 ★キリスト者が「地の塩」であることの意味については、主イエスのたとえ話の
〈14〉主イエスの弟子たる者が支払うべき犠牲 
中に書きましたので、ここではキリスト者の地の塩としての聖(きよ)さとその働きについて触れておきます。
 ★キリスト者は地の塩としてこの世の腐敗を防止し、この世の汚れに染まらぬ(きよ)さをもつ者としての使命があることをたとえ話〈14〉で学びました。
 ★今の社会(この世)は国内海外共に急速にいろいろな意味で腐敗の度を増している事実を否めません。私たちキリスト者は自らがこの世の汚れに染まらないだけでなく、世の腐敗を食い止める使命があります。
 ★世の汚れを食い止める働きには、伝道と祈りがあります。伝道とはキリストの福音(ゴスペル・良い知らせ)を周囲の人々に宣べ伝えることであり、祈りは周囲の人々がキリスト信仰による救いに導かれることと国の為政者たちが御心にかなう善政をしく者となるように祈ることです。
 ★自殺者の数が7年連続年3万人を超えていることや、幼児・児童殺害事件や耐震強度偽装事件やそれに類する暗い事件の頻発・続発の様相を呈する今のわが国の世相は、つい十数年前まで世界一安全な国と言われていたことがうその様です。
 ★現在私たちが居住している淡路島もつい数年前までは人々は外出時に家に鍵をかけずに出かけていましたが、今や多くの家が在宅時にも鍵をかけています。
 ★このような人心の変容は為政者の悪政と決して無関係ではあり得ません。聖書は上に立つ人々為政者たちのために祈ることを私たちキリスト者に命じています。

 
「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈りと、とりなしと、感謝とを捧げなさい。それは私たちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、私たちの救い主である神のみ前に良いことであり、また、御心にかなうことである。神は、すべての人々が救われて、真理を悟るに至る事を望んでおられる」 (Tテモテ2:1〜3)

あなた方は世の光である

 ★主イエスは、「私は地の塩である」とは言っておられませんが、「私は世の光である」と言っておられます(ヨハネ8:12)。主イエス固有のこの「世の光」という名称を、主は私たちキリスト者にも与えておられます。
 ★同じ「世の光」と呼ばれても、主イエスの光を太陽とするなら、私たちの「世の光」は太陽光線を反射する夜空の月の光程度と思いがちですが、月の反射光と私たちの「世の光」とは光り方に違いがあります。

 
「『やみの中から光が照り出でよ』と仰せになった神は、キリストのみ顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、私たちの心を照らしてくださったのである。しかし私たちは、この宝を土の器の中に持っている。その計り知れない力は神のものであって、私たちから出たものでないことが、現れるためである」 (Uコリント4:6,7)

 ★私たちキリスト者の「世の光」は、私たちの人間性という土の器の中に盛られた「救い主イエス・キリスト」という宝から発する光です。
 ★私たちの人間性が「キリストの福音」によって砕かれて、へりくだった者になることによって、内なるキリスト・内住の御霊の光が、その砕かれた割れ目から漏れ出した光です。
 ★私たちの「世の光」は、太陽の光を反射する月光ではなく、内住のキリスト・神の御霊の光なのです。
 ★キリスト者は、この内住のキリストの光を人々の前に輝かせ、良い行いに励むことを奨励されています。
 ★プロテスタントキリスト教会の中には、信仰による救いを強調する余り、行いを不要視する教会があります。
 ★「キリスト信仰によって救われた」者は、その後も「キリスト信仰」以外何もしなくて良い。と、彼らは言いますが、それは聖書の教えではありません。
 ★聖書の中で「信仰による救い(信仰義認)」を説くパウロの教えと(ローマ3:28;4:5)、「行いのない信仰は死んでいる」と主張するヤコブの教えが(ヤコブ2:26)一見対立・矛盾しているように見えますが、この二人の教えは決して矛盾していません。
 ★キリスト信仰が真に生きた信仰であるならば、その信仰は必ず良い行いという実を結ぶのです。
 ★初代教会のキリスト者たちはみな良い行いに熱心であったし、聖書も良い行いに励むことを読者に勧めています。

 「私たちは善を行うことに、うみ疲れてはんらない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会があるごとに、誰に対しても、特に信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」 (ガラテヤ6:9,10)

 ★旧約聖書のダニエルについてこう書かれています。バビロン帝国の高官としてダリヨス王に重用されていたダニエルをねたんで、彼を落としいれようと企んだ敵たちは、ダニエルを攻める口実を一生懸命探しましたが、何一つ見つかりませんでした。
 ★ダニエルを失脚させるには彼の聖書の神信仰を口実にする以外に手がないことに気づき、敵たちはダリヨス王に「一月の間王以外の何者をも拝んでも祈ってもいけない」と言う勅令を出させることに成功し、ダニエルは有罪となり、刑罰としてライオンの穴に投げ込まれました。
 ★しかし、主はライオンの穴にみ使いを遣わし、ライオンたちの口を封じられたので、ダニエルは無事にその穴から救出されました。他方、敵たちは王の怒りを買い、ライオンの穴に投じられ、ライオンの餌食になりました(ダニエル6章)
 ★私たちキリスト者もダニエルのように、キリスト信仰以外に世の人々に攻撃の材料なしと見られる世の光・地の塩でありたいものです。



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キリスト紀元2006年 6月 20日公開


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