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     メッセージ

〈22〉平和を造り出す者と義のために迫害される者の幸い


聖書
9「平和を造り出す人たちは、幸いである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10義のために迫害されて来た人たちは、幸いである、天国は彼らのものである。

11(キリスト)のために人々があなた方をののしり、また迫害し、あなた方に対し偽ってさまざまな悪口を言う時には、あなた方は、幸いである。
12喜び、喜べ、天においてあなた方の受ける報いは大きい。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 (マタイ5:9〜12)。



平和を造り出す者の幸い
a.平和をつくりだす者とは

 ★旧約聖書箴言にこう言うみことばがあります。「人の道が主を喜ばせる時、主はその人の敵をもその人と和らがせられる」
(箴言16:7)
 ★このみことばの意味は「人が神と和解すると、その人はその人の敵とも和解する」と言うことです。つまり、人と人との平和(和解)は神と人との平和(和解)から生まれると言うことです。
 ★ですから、平和を造り出す人は、まず自分自身が神と和解している人でなければなりません。そして、その平和を造り出す人は人を神と和解させる人であるということになります。

b.神との平和はキリストによってもたらされた
 ★
「神は御旨によって、御子のうちにすべての満ち満ちた徳(新改訳/神の本質)を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させてくださったのである」 (コロサイ1:19,20)

 ★生来の人間は神に敵対する性質を持っています
(ローマ8:7)。ですから、人はキリストなしには、どんなに努力しても神に喜ばれ、認められる人間になることは不可能です(ローマ9:30〜32)
 ★十字架のキリストを見上げることによって、人は初めて義とされ(罪を赦され)神との平和を得ることが出来るのです(Uコリント5:17〜21)

c.キリスト者は人々に神との平和(和解)をもたらす者であることを主から期待されています
 ★そして、和解の福音を人々に日々伝えつつ、同時にいつでも伝えることの出来る備えをすることが、私たちの敵であるサタンに勝利するための重要な秘訣の一つであることをエペソ書6:10〜20が私たちに明示しています。

 
「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、固く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰に締め、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手にとりなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができる。また、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神のことばを取りなさい」 (エペソ6:13〜17)

d.彼らは神の子と呼ばれる

 ★原語のギリシャ語で、キリストが神の御子であるという時、それは神の「息子(単数)」であり、キリスト者が神の子と呼ばれる時の神の子は神の「息子たち(複数)」となっています。
 ★聖書は男性中心の表現法をとっていますが、女性を軽視したり、無視したりしてはおりません。
「主にあっては男も女もない」(ガラテヤ3:28)とはっきり宣言しています。
 ★キリストは唯一のまことの神の一人息子(実子)であられ、私たちキリスト者は信仰によって法的に神の家族に養子縁組された神の子供らの一員なのです。


義のために迫害されている者の幸い
a.義とは

 ★義とは神の御心にかなったきよく正しい生活であり、聖くただしい命であると言えます。この聖く義しい命である新しい命は、キリスト信仰によって私たちキリスト者に、行いによらず、ただで与えられたものです(エペソ2:8,9)。生来の罪人である私たちにキリスト信仰によって罪の赦しと聖くただしい永遠の命が与えられたのです。
 ★ですから、私たちキリスト者にとっては、キリストご自身がわたしたちの義なのです。
「・・・キリストは神に立てられて、私たちの知恵となり、と聖とあがないとになられたのである」 (Tコリント1:30
 ★
義のために迫害される」とは私のために迫害されることだ」と主イエスご自身が11節で解説しておられる通りです。

b.迫害される者の喜び
 ★「迫害されること」と「喜ぶこと」との相反する事がキリスト者において、同時に成就する真実を強調するために、主はこの幸いだけ特別に3節にわたって論じておられます。
 ★事実、この世でキリスト者として生きることは二つの相反する内的状況の中で生きることでもあるのです。

 
「私たちは人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死に掛かっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている」 (Uコリント6:8後半〜10)

 ★主が「私のために人々にののしられ迫害され、偽りの悪口を言われる時は、『喜び、喜べ』」と言われる時の、2番目の「喜べ」(ギリシャ語/アガリアーセ)は、新改訳が「喜び踊りなさい」と訳しているように、「喜びのために大きく飛び上がる」という意味でもあるのです。
 ★「迫害される者の喜び」は、御名のために迫害され、今は天におり、変貌山で主イエスと共に現れたモーセやエリヤ(ルカ9:28〜36)と同じ扱いをこの世と主とから受けていることを知り、天での大いなる報いを期待することを許された喜びなのです。

c.この世の人の生活とクリスチャン生活
 ★この世の人(未信者)の生活はアブラハムの孫ヤコブの双子の兄エサウのように、この世の楽しみ第一として、天にある永遠の命を軽んじる生活です(創世記25:27〜34;ヘブル12:16)。他方、クリスチャン生活は、モーセのように、この世のつかの間の快楽よりも、キリストと共に迫害され、苦しむことを選び取る生活です。

 
「信仰によって、モーセは成人した時、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝に勝る富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである」 (ヘブル11:24〜26)

結び

 ★キリスト者は、この世にありながら、すでに天の命(永遠の命)を生きているのです
(エペソ2:4〜6)。キリスト再臨と共に始まる新天新地での栄光の生活の前に、この世という人生道場でキリストのために少々苦しみながら(Uコリント4:17)準備している者たちなのです。



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キリスト紀元2006年 6月 10日公開


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