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〈10〉キリスト者が救い(永遠の命)を失うことがあるのか? ―聖徒の堅忍の教理について―

 
「わたしは彼らに永遠のいのちを与える。だから、彼らはいつまでの滅びることがなく、また、彼らを私の手から奪い去る者はない。」(ヨハネ10:28)。
 
「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである」(エペソ4:30)。
 
★「私はぶどうの木、私の父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれを取り除き、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れをしてこれをきれいになさるのである」(ヨハネ15:1,2)
 
★「私はあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、生ぬるいので、あなた方を口から吐き出そう」(黙示3:15,16)。

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「あなた方のうちに良い業を始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるに違いないと、確信している」(ピリピ1:6)と言っている使徒パウロが、同時に「自分が失格者にならないように、自分のからだを打ちたたいて従わせている」(1コリント9:27)とも言っています。つまり、「キリスト者の救いは永遠に失われない」という命題(主張)と、「キリスト者が救いを失うこともある」という相反する命題とをパウロは語っています。
 ★真理はダイアモンドのように多面的であると、聖書は言っています。
「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる(新改訳『すべての』)真理(原語のギリシャ語「アレーセイアン」は単数形)に導いてくれるであろう」(ヨハネ16:13)真理の多面性を無視して一面の真理だけを強調すると、聖書の真理も福音もゆがめられます。
 ★パウロが語る上記の二つの命題は聖書全体が証言する真理です。キリスト者が救い(永遠の命)を失うことがあるという命題も真なのです。「聖徒のもつ永遠のいのちは失われることがない」といういわゆる「聖徒の堅忍の教理」は、聖書が教える限りでは「キリスト信仰者の救いは、その信徒がいかなる生活を送ろうとも失われない」という意味ではありません。キリスト教界の中で一般にそのように誤解され、キリスト者の放縦・気ままな生活が容認されている向きがないとはいえません。
 ★しかし、聖書は
「キリストが現れる時、私たちは、自分たちが彼に似る者となることを知っている。・・・キリストについてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」(1ヨハネ3:3)と説いています。聖書が教える「聖徒の堅忍の教理」は、キリストに似た者になる(ローマ8:29)という人生の目標に向かって「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ10:22)という意味であり、その道を完成にまで主は守り導いてくださると言う意味です。
 ★この聖化(きよめ)の道を歩んでいないキリスト者の安全を聖書は決して保障していません。
「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊に与る者となり、また、神の良きみ言葉、来るべき世の力とを味わった者たちが、その後堕落した場合には、もはや神の御子を、自ら十字架につけて、さらし者にするわけであるから、再び悔い改めに立ち返ることは不可能である」(ヘブル6:4〜6)この御言葉は、キリスト者が罪を犯した場合、救いを回復することは不可能、悔い改めても無駄だと言っているのではありません。ダビデやペテロが悔い改めて立ち直ったように、信仰者の罪は悔い改めることによって赦されます(1ヨハネ1:8,9)
 ★上記のヘブル書ばかりでなく、聖書は数多くの箇所で(
1テモテ1:18,19;2テモテ2:16〜19;マタイ25:1〜13)キリスト者が救いを失うことがあることを警告しています。
 ★カルビン主義者は「永遠の命を持つ者は決してこれを失うことはない」「途中で信仰を失った者たちは、初めから本物の信仰を持っていなかったのだ」
(1ヨハネ2:19)と言うかもしれません。確かに、神の眼から見れば、それが真実かもしれません。しかし、人の眼から見た場合、他者の信仰が本物か否か最終的に判定することは出来ません。
 ★
「ある人がイエスに、『主よ、救われる人はすくないのですか』と尋ねた。そこでイエスは人々に向かって言われた、『狭い戸口から入るように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだから』」(ルカ13:23,24)。「愛する者たちよ。・・・恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(ピリピ2:12)
 ★ペテロの水上歩行の奇跡の時、ペテロが主イエスから眼を離さない間は歩けましたが、主から眼を離して、弱い自分を意識し、周囲の波風という環境に眼が行った時、彼は沈み始めました。私たちキリスト者の信仰の歩みは、主ご自身とその御言葉に眼を留め、眼をそらさない限り安全なのですが、自分と周囲に眼をやると絶望以外ないのです。
 ★パウロのような模範的キリスト者が「救いの失格者とならないように、自分のからだを打ちたたいて従わせていた」のなら、私たちにはなおの事、油断している余裕はないのです。

 聖書のことば
 
「『わが義人は信仰によって生きる。もし信仰を捨てる(原語ギリシャ語では、彼、その義人が信仰を捨てる)なら、私のたましいはこれを喜ばない。』しかし、私たちは信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、命を得る者である」(ヘブル10:38,39)



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キリスト紀元2003年 6月 1日公開


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