ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net
     メッセージ

〈12〉信仰による祈りは病む人を回復させる


 
「あなた方の中に、苦しんでいる人があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる人があるか。その人は賛美するがよい。あなた方の中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老達を招き、主の御名によって、オリーブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈りは、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ち上がらせてくださる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それも赦される。
 だから、互いに罪を告白し合い、また、癒されるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。
 エリヤは、私たちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈りを捧げたところ、3年6ヶ月の間、地上に雨が降らなかった
(1列王17:1〜18:1)。それから、再び祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実を実らせた」(ヤコブの手紙5:13〜18)



はじめに
 ★
主イエスが語られた金持ちとラザロの話のように、この世では健康と繁栄を満喫しながら、来世では火炎地獄で永遠に苦しみ続ける人生もあれば、生涯、病気と貧困と闘いながら主に寄り頼むのことを止めず、来たるべき世にあっては永遠のいのちを楽しむラザロのような人生もあります。
 ★しかし、主は私たちキリスト者が皆ラザロのように病気で苦しみ続ける人生を送ることを求めて居られるわけではありません。「私は主、あなた方を癒す者である」
(出エジプト15:26)、と言われ、また「あなた方の中に宿っている御霊によって、あなた方の死ぬべきからだをも、生かしてくださる」(ローマ8:11)という約束もあるのです。

病気と罪

 ★
アダムの罪の結果としての病気と死
 人類の始祖・代表者アダムの罪の結果、死と病気とあらゆる悲惨なことが世界に入って来た、と聖書は語っています。それでは、私たち一人一人の病気と死が、全てその人の自身の罪の結果かと言うと、そうではないと聖書は言います。
 旧約聖書ヨブ記には、この世では自分の罪とは関係なく人が病気になり、災いに会うことがあることが記されています。このヨブ記は、罪の無い聖い神の御子キリストが苦しみを受けられることのを予告する預言の一つでもあります。
 このように、人類に病気と死が入って来たのは、人類の代表者アダムの罪のためであり、そしてその罪の性質を受け継いだ全人類の生来の性質が病気にかかりやすい性質なのです。聖書の登場人物の中には、ヨブのように義人であるにも拘わらず病気になった人や自分の罪のために病気になった人などいろいろのケースがあります。

キリスト者と病気の癒し
 ★上記ヤコブ書の御言葉はキリスト者が病気になった時の対処法を記しています。「あなた方の中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老達を招き、主の御名によって、オリーブ油を注いで祈ってもらうがよい」とあります。「教会の長老達」とは、今の教会では牧師・長老・執事・役員などを指します。 今の教会の中には、信仰と祈りによる癒しを信じない教会もあります。そういう教会の信徒は自分で祈るか共に祈り合うグループを作っておくと良いでしょう。
 ★「オリーブ油を注いで」(新改訳は「オリーブ油を塗って」)
祈る事については、マルコ12:13に12使徒が主イエスに遣わされ、「大勢の病人に油を塗って癒した」
とある記事が思い起こされます。
 ★オリーブ油は良きサマリヤ人が強盗に襲われた隣人を介護する時に傷口にぶどう酒と共に注いだ
(ルカ10:34)とありますから、当時医薬品として用いられていたようですが、ここヤコブ書やマルコ12:13では、御霊の油・聖霊の象徴として用いられています。
 ★「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」という聖句の「義人」は「信仰による義人は生きる」(ローマ1:17)の義人です。福音信仰によらない、自分の行いによる義人はイエス・キリストお一人の他にいないからです。ですから、キリスト者はみな、「信仰による義人」として、病を癒す信仰による祈りを捧げる資格と、その祈りが聞かれて、病気からの快復の喜びを味わう資格があります。

義人の祈りは100%聞かれるのか
 ★2テモテ4:20で著者パウロは友人トロピモが病気であったため、ミレトに残して来たと証言しています。また、1テモテ5:23では、弟子のテモテに「たびたび起こる腹痛を和らげるために少量のぶどう酒を用いなさい」と勧めています。これら二つの聖句はパウロのこれら二人の病人のための祈りが聞かれなかった可能性を示しています。
 ★また、使徒パウロが自分に与えられた肉体のとげが取り去られるように3度祈ったが、聞かれなかった、とあります
(2コリント12:1〜10)。これは、主イエスが十字架にかかる前、ゲッセマネの園で「御心ならば、この杯(十字架)を去らせてください」と3度祈られたが、聞き届けられなかったことと類似しています。
 ★使徒パウロの肉体のトゲ(単数)が何であったか特定することは困難ですが、それは2コリント12:10に記されている、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難のどれか一つか、或いはその全てにかかわる一つの問題かも知れません。病気は弱さ、苦痛をもたらすものですから、病気も「肉体のとげ」と呼ばれる十分な資格があります。
 ★パウロが3度祈った後、主は彼に何と答えられたかというと、主のお答えは「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さの内に完全に現れるからである」
(9節)でした。

病気の効用
 ★「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたのおきてを学ぶことが出来ました」
(詩篇119:71)、と聖書の詩人が歌っています。健康な時には学べない色々な真理を病気の時に、人は学ぶことができるのです。

祈りによる癒しと医薬の助けによる癒し
 ★信仰の祈りによって、医薬の助けを借りずに家族の病気やけがを次々に克服した強固な信仰の人々は少数ですが、実在します。筆者はそのような強烈な信仰をもっていませんでしたし、今も持っているとは言えません。筆者の3人の子供の一人が生後何ヶ月かの時、股関節脱臼と診断され、両足を固定するバンド状のサポーターを装着させられました。窮屈な思いをさせられ、泣き叫ぶ子がふびんで、祈った末医者に行く時だけ付けることにして、普段ははずしてやることにしました。これは、医者の言いつけに反することでしたが、主の守りと癒しを信じてそうしました。子供が喜んでピョンピョン飛び跳ねる度にはらはらしながら祈り続けました。その結果、順調に快復し、予定より早く医者通いから解放されました。
 ★祈りつつも、適切に医療の力を借りることは、信仰と祈りによる癒しに反することではなく、健全で穏健な道だと思います。

主に祈らず、医者だけに頼ることはキリスト者としては落第生です
 ★旧約聖書の南北王朝の時代、南王朝ユダの王アサは、自国の防衛のために主に寄り頼むことをせず、外国の王に寄り頼み、予見者ハナニの叱責を受けました。更に病気の時も、主に祈ることをしないで、医者を求めたことが非難されています
(U歴代16:7〜12)
 ★主ご自身が私たちに「病気の時は私に祈るように」と命じて居られるのですから、まず祈った上で更に医者の手を借りる必要を感じる時は、祈りつつ医者を利用すべきだと思います。

結び
 ★信仰の祈りによって重病から快復させて頂いたとしても、この世にいる限り、いずれはまた病気か何かで死ぬのです。ですから、主を知らない人々のようにこの世の幸せと健康に心を奪われて、天に国籍を持つ者の幸いを忘れないようにしたいものです。

聖書
 「私はまた、新しい天と新しい地を見た。先の天と地は消え去り、海も無くなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共に居まして、人の目から涙を全く拭い取ってくださる。もはや、死も無く、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」
(黙示21:1〜4)



URL http://31church.net
キリスト紀元2005年 8月 20日公開


12