あなたへのメッセージ

〈18〉教会に躓(つまづ)かないために

 12
さて、兄弟たちよ。私の身に起こった事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなた方に知ってもらいたい。13すなわち、私は獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもその他のすべての人々にも明らかになり、14そして兄弟たちの中の多くの者は、私の入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言葉を語るようになった。15一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。16後者は、私が福音を弁明するために立てられたいることを知り、愛の心でキリストを伝え、17前者は、私の入獄の苦しみに更に艱難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。
 18
すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、私はそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。19なぜなら、あなた方の祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、私の救いになることを知っているからである。20そこで、私が切実な思いで待ち望むことは、私が、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめられることである。21私にとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。22しかし、肉体において生きることが、私にとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、私には分からない。23私はこれら二つのもの間に板ばさみになっている。私の願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。24しかし、肉体に留まっていることは、あなた方のためには、さらに必要である。25こう確信しているので、私は生きながらえて、あなた方一同のところに留まり、あなた方の信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。26そうなれば、私が再びあなた方のところに行くので、あなた方は私によって、キリスト・イエスにある誇りを増すことになろう。
 ピリピ1:12〜26


はじめに

 ★偶像礼拝者の国、異教国と言ってもよい当地淡路島ですが、教会に属していない元クリスチャンがわずかながらがいます。そういう人々は、誘ってもなかなか教会に来ません。日本全国レベルではかなりの数になることでしょう。こう言う人々の中には教会に躓いた人々もいることでしょう。

T.教会の中の肉的な人たち
 ★キリスト教会の頭であり主であるイエス・キリストが無実の罪のために、そして神の福音のために犯罪人と一緒に囚われの身となり、ついに十字架にかけられたように、キリスト信仰者もキリストと同様に福音のために犯罪人として捕えられ、牢屋にぶち込まれる時代がありました。また、そういう時代がまもなくやって来ます。そして、世界の一部の国々や地域では現在そのような事態が進行中です。
 ★ローマ書やピリピ書などの新約聖書の多くの書簡を神の御霊に感動して書いた使徒パウロも、上記引用のピリピ書をその獄中で著わしています(13節)。
 ★パウロを官憲に訴えて牢獄に送ったのは、キリスト信仰に反対する偶像礼拝者たちでした。この偶像礼拝者たちによる迫害は主イエスによる預言によって当然来るべき出来事として使徒パウロは予期していましたが、彼
にとって特につらかったことは、教会の仲間うちから、すなわちキリストにある同信の友の中から、パウロが囚われの身になった事をほくそ笑み、彼の入獄の苦しみに更なる艱難を加えようとたくらむやからがいたという事です。
 ★聖書注解者の中には、パウロの獄中の苦しみに更に艱難を加えようと謀
(はか)っていた輩は律法主義キリスト教と言われる呪わるべき異端信仰を宣べ伝えようとしていた人々のことだとしている人もいますが、パウロ自身が彼らの宣べ伝えようとしていたのがキリスト(福音)そのものであったのでそれを喜んでいると言っていますので、彼らが異端ではなく同じ教会の仲間であったことが分かります。
 ★彼らの間違っていた点は教えの内容ではなく、彼らが党派心やねたみから福音を伝えていたという動機の点でした。
 ★「党派心やねたみから福音を伝える」とはどういうことでしょうか。それは、神を喜ばすために、そして人を救うために神と人へのまことの愛の心から福音を伝えるのではなく、自分ないしは自分たちのグループ・教派の栄光や名誉のために宣べ伝えていたということです。言いかえれば、彼らは、自分たちの教派の教勢を大きくし、自分の名誉を高めるために伝道していたのです。残念ながら、こういう心の姿勢が今日のキリスト教会の中にも見られます。
 ★このような牧師、伝道者、信徒はパウロが到達していたキリストにある成人の域に達していない霊的な未熟児教会の未熟児信者であるか、または、聖書を十分学んでいないために父なる神の御心を悟らない肉的信徒であるということができます。
 ★このような教会の牧師や長老をはじめ信徒たちは、多くの求道者や信仰生活の浅い信徒をつまづかせ、教会を離れさせています。
 ★しかし、使徒パウロは、上記のような出来損ないのクリスチャンでも、彼らが正しい福音を伝道しているので、彼らを受け入れ、良しとしている、と言うのです。
 ★その理由は、神様が彼らの働きをさえ用いて救われて真のクリスチャンになる人々を生み出して下さると信じているからです。共産圏にある政府公認の政府の監督下に置かれた教会の肉的牧師たちの説教の中で読まれる聖書の御ことばを真の聖徒たちは、飢え渇く心で聞きそれに養われているのです。神は悪をさえ善に変えることの出来るお方ですから、欠陥伝道者や欠陥クリスチャンを用い、その働きをきよめて、人々の救いを生み出すという良い結果を生み出してくださるのです。
 ★広い世間には、善意
(のつもり)で人を滅びに導く異端信仰や偶像礼拝宗教を宣べ伝えている人々もいます。それに比べれば、動機は不純であっても、正しい福音が宣べ伝えられる方が、はるかにましなことだとパウロは判断しているのです。

U.その肉的人々につまづく人々

A.クリスチャンは二種類に大別される

 ★肉の性質、つまり生来の罪の性質は、全てのキリスト者の中に大なり小なり残存しています。偉大な使徒パウロでさえこの罪の性質に悩まされていました(ローマ 7:7-25)。
 ★キリスト者は大きく二種類に分けられます。すなわち、み言葉に従って「日々自分の十字架を負ってキリストに従い続け、み言葉と聖霊に助けられて日々きよめられ、キリストの形に変えられつつある人々」と、「み言葉と御霊と祈りによって全面的に主に頼る信仰者の基本が身についていない人々で、あたかも自力(つまり生来の肉の力)で信仰生活をまっとうしようとしているかのような生き方をしている人々」の二種類です。

B.教会につまづいている人々へ
 ★教会につまづいている人々にお願いしたいのは、人ではなくイエス・キリストに目をとめてほしいということです。人となられた神、イエス・キリスト以外の人間にはみな欠点があります。
 ★イエス・キリストではなく、クリスチャンという人を見て入信した人は、なるべく早くキリストに目をとめる信仰者になってください。
 ★使徒パウロのように立派なクリスチャンでも、キリストのように完全でない自分を日々自覚させられ、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。しかし、地に落ちて死ねば、30倍、60倍、100倍の実を結ぶようになる」と言われた主イエスのみ言葉(ヨハネ12:24;マタイ13:23)に従って、日々自分の罪の人間性を祈りの中で十字架にかけて磔殺(たくさつ)する日々を送っているのです。
 ★すべてのクリスチャンは、遅かれ早かれ、まず自分の尊敬していたクリスチャンが完全な人でないことに気付き、次にクリスチャンになって清められたと思っていた自分の中に完全に聖化されてない罪の性質が残存していることに気付くのです。
 ★三浦綾子の小説に描かれたクリスチャンは美化されていて、霊と肉の戦いの中で苦悩している姿は描かれていなかったと筆者が読んだ範囲では記憶していますが、このようなキリスト教文学を読み、感動して教会に来た人々の多くは失望することになるでしょう。
 ★ペテロは主イエスの招きに答えて、小舟の上から水の上に足を下ろし水上で待っておられる主のもとに歩き出しました。しかし、強風のため波が立って来るのを見て、イエス様から目を離すと水中に沈み始めました
(マタイ14:22〜33)。イエス様から目を離すと誰でも沈没するのです。
 ★人につまづいて、天上天下唯一の救い主イエス・キリストを見失い、永遠の滅びを刈り取ることになるなどという不幸な人生の選択をすることのないように、この文章を読んでいるあなたに切にねがいます。

V.クリスチャンの心の中の霊と肉の戦い
 ★ジョン・ウェスレーの流れをくむホーリネス教会やインマヌエル教会では、クリスチャンは地上生活で完全聖化を実現できるとしていますが、聖書は完全聖化を目指すべきであるとしながらも、その実現はこの世を去った後に来ることを明らかにしています
(ピリピ3:13,14)
 ★ウェスレー主義者が主張する完全聖化のレベルは、キリストの標準から見てはるかに程度の低い聖化なので、達成できたと錯覚しているに過ぎません。
 ★非キリスト者、未信者の心の中にも善と悪の戦いがありますが、その未信者の善はいくら頑張っても天国の命(永遠の命)を獲得するに値するものではありません。言いかえれば、世界中で誰一人としてイエス・キリストによらずに自力で天国に行ける人はいないのです。神からの救いを獲得する方法はただお一人完全無欠の生涯を歩まれ、その罪のないきよい命を人類の身代わりとして十字架上に捧げられた、人となられた神、主イエスのあがないを信じる以外にないのです。

結び
 ★獄中で死が間近であることを予感していた使徒パウロは、「生きるにしても、死ぬにしても私の身によってキリストがあがめられることであり、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と述懐しています。
 ★「死ぬことは益である」と訳されている「益」(ギリシャ語でケルドス)は獲得、取得、儲け、賞金、報酬、得点などの意味をもっています。
 ★つまり、クリスチャンにとっては、死ぬこと(この世をさること)は天国の命の獲得であり、永遠の価値を持つ、朽ちることのない命の宝を頂くことなのです。
 ★キリスト再臨後実現する新天新地に入国を許された時にインタビューを受けたとするなら、その時、私たちは「こんなすばらしいところだとよく分かっていたら、もっともっと熱心に伝道していただろうに」とか、「永遠の命と言う信仰の報酬がこんなに偉大で栄光に満ちた至福であるなら、信仰のために失ったすべては数えるに足りない事柄だった」などと答えることになるでしょう。使徒パウロは地上に生きていながら、すでにその心境に達していて、次のように告白しています。

 
私は更に進んで、私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故に、一切の物を損と思っている。キリストの故に、私はすべてを失ったが、それらのものを、糞土(ギリシャ語「スキュバロン」ごみ、ちり、人糞、人骨)のように思っている。それは、私がキリストを得るためであり、、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見出すようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難に与かって、その死のさまに等しくなり、何とかして死人の中からの復活に達したいのである。 
ピリピ3:8〜11


 ★滅びることを承知の上で造られた現在の私たちの住処としての宇宙が、学者の研究によってその精巧にして美しくそして住み心地良く、適正に造られていることが徐々に明らかになってきています。それなら、主イエスが今用意しておられる
(ヨハネ14:1〜4)永遠になくならない新天新地は今の世界よりはるかにすぐれた、入国を許された人々を有頂天にさせるものであることは間違いありません。
 ★また、当然天国に来ていると思っていた人が来ておらず、あの人は振るい落とされているだろうと思っていた人が悔い改めて天国に来ていたなどと言う番狂わせなことがあることでしょう。



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キリスト紀元2008年 11月 1日公開


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