みことば黙想

〈5〉人間の三位一体性

 「また、あなたがたの霊
プニューマと心プシュケーとからだソーマとを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にして下さるように。」(1テサロニケ5:23後半)
 「神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭くて、精神プシュケーと霊魂プニューマと、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いと志とを見分けることができる。」
(ヘブル4:12)。

 ★このテーマを論じる前に、参考としてカルヴァンの注解書を読みたかったのですが、上記のテサロニケとヘブルのそれが手元にありませんでした。しかし、最近英語のウェブサイトの世界に上記の註解書がそのまま無料で読める形で存在することがわかり(Reformed Resource: Commentaries of J.Calvin )、それを読んだ上でこの小文を修正・更新することに致しました。
 ★上記二つの註解を読んでカルヴァンが霊と心
(テサロニケ)、霊魂と精神(ヘブル)とを同一の一つの霊魂の二つの性質あるいは働きだとしている事が分かりました。つまり、彼が言うには、霊は理性・知性の座であり、心は感情と意思の座であり、霊と心は同じものの二つの面を表しているという訳です。
 ★心の座が頭ではなく腹にあることが最近の精神医学の研究によって次第に解明されつつあるように
(御ことば黙想〈10〉腹から生ける水の川が)、精神と霊とがヘブル書が言う通り、密接に結び合ってはいても切り分けることの出来る別ものであることが、当今のキリスト教心理学者たちの臨床体験から次第に明らかになりつつあります。聖書が明記していない物質科学の分野が、人類の研究・探索の結果次第に明らかにされ、しかも聖書の御ことばの真実性が立証されて来ているように、未開拓の領域であった精神世界の真理も人類の研究の進歩と共に明らかにされると同時に、聖書の真実性も明確に立証されつつあります。
 ★カルヴァンが人間は心
(または霊)とからだの二部分から成っているという人間の本質二元論の立場に立っているように、キリスト教会では霊と心は霊魂(英語はsoul)という一つのものであるという説が主流を占めていました。
 ★しかし、この立場に立つと聖書の記述に矛盾が出てきます。たとえば、「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(2コリント5:17)とあります。しかし、現実の新生したクリスチャンたちを見ると、受洗の時の喜びと感謝が失われ、入信前の心の傷が癒やされず悶々とした日々を送っている病めるクリスチャンが少なからずいます。牧師が講壇から「後ろのものを忘れて前に向かって前進しよう」(ピリピ3:13)と叫んでも、前に進めない人々がいるのです。
 ★このような人々は信仰がない、あるいは弱いためでなく、霊は救われているのに、精神の傷が完治していない人々なのです。精神は顕在意識と潜在意識
(この潜在意識=霊ではありません)の二重構造になっていることが精神科学の研究の進歩に従って明らかになっていますが、その潜在意識上の傷が、新生後霊が新しくされたキリスト者に依然残存して、当人を悩ませている場合が多いのです。
 ★牧師はこのような人々を「あなたの信仰に問題がある」と責めないで、聖書の人間の三位一体性論を理解し、主イエス・キリストの癒しが霊とからだの癒やしであると共に精神
(顕在・潜在両面)の癒やしであることを認識して心(主に潜在意識)の癒やしに本腰を入れなくてはならないのです。
 ★次に、前回この項で「主に付く者は主とひとつの霊になる」
(1コリント6:17)との御ことばから、新生した霊は罪を犯さない(1ヨハネ3:9)、つまり、「罪を犯すのは精神であって霊ではない」と書きましたが、その後、この説が「肉と霊との一切の汚れから自分をきよめ」(2コリント7:1)と言う御ことばと矛盾していることに気付きましたので、この点をお詫びして訂正いたします。1ヨハネが「新生したキリスト者は罪を犯さない」という意味は、新改訳が訳しているように「罪の中を歩まない」つまり、習慣的に罪を犯し続けないという意味と取ります。ローマ7:15でパウロ自身が「私は自分の欲することは行なわず、かえって自分の憎むことをしている」と言ってクリスチャンが罪を犯すことがあることを告白しており、私達自身の経験がそのことを知っているからです。ウェスレイの完全聖化論は聖書に合致しない上、キリスト者自身の体験にそぐわないからです。完全聖化の標準をパリサイ人の外面的基準に引き下げるなら話は別です。内面的聖化は地上生活では達成不可能であることは聖書と体験が教えるところです。だからと言って心の聖化をあきらめよと言っているのではなく、完全聖化を達成したと勘違いしてパリサイ人のように人を見下す者になるな、あくまでもパウロように、生きる限り完全聖化を目標に生きよ(ピリピ3:10〜12)ということです。
 ★精神と霊の区別がカルヴァンのように付かない人は、年を取ると、「私は年と共に、精神も弱り信仰も弱って来た」と愚痴ることに成ります。パウロのように、「私達の外なる人
(肉体)は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされて行く」(2コリント4:16)という体験を自分のものとすることはできません。



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キリスト紀元2005年 1月 10日更新


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