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   みことば黙想

〈17〉天国を激しく襲う者たち


聖書

 11「あなた方によく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。12バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。13全ての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。14そして、もしあなたがたが受け入れることを望めば、この人こそは、来るべきエリヤなのである。」 マタイ11:11〜14

 ★28「あなた方に言っておく。女の生んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。 ルカ7:28

 ★16「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々はみなこれに突入している」。ルカ16:16


はじめに

 ★このマタイ11章11節のみことばを読んだ人の誰もが、「バプテスマのヨハネより大きい人物はいたんじゃないだろうか。モーセがそれではないだろうか。また、『天国で最も小さい者もヨハネより大きい』と言うことは、ヨハネを天国から締め出すことにならないだろうか。」と一度は考えたことでしょう。
 
★12節の「天国を激しく襲う者たち」はバプテスマのヨハネのもとに洗礼を受けようと押しかけて来た大勢の群集
(マタイ3:5,6)のことだと解釈する人たちが多くいます。彼らは、激しい情熱と熱意をもって天国を奪い取っているというのです。しかも、日本語聖書がそういう意味にしか取れない訳になっています。
 ★しかし、この12節で主が言おうとしておられることは、そういう事でしょうか。聖書のみ言葉は、聖書全体の教えの中で理解されなければなりません。

T.バプテスマのヨハネより大きい人物とは
 ★まず、マタイ11:11のみことばから黙想することにしましょう。この節の「女が産んだ者の中で」とは、「地上の人間の中で」ということであり、その偉大さの評価は、人間による評価ではなく、キリストによる、神による評価だということをはっきり覚えて置きたいと思います。
 ★我々人間は、モーセがイスラエルをエジプトから導き出し、荒野で統率し指導した、偉大な指導者であると評価し、その実績からヨハネより偉大である、と考えます。しかし、そのモーセよりヨハネの方が偉大であると主イエスは評価されるのです。
 ★モーセはある時、荒野で「岩に命じて、民のために岩から水が出るようにしなさい」と主に命じられた時、その命令に背いて、手にしていた杖で岩を二度たたいて水を出しました。この時のモーセの主に対する不従順によって、約束の地カナンへの入国を許されませんでした
(民数20:2〜13)。この時、主は彼に「あなたは民の前にわたしが聖であることを示さなかった」と言われ、イスラエルの指導者としての罪を指摘されました。
 ★バプテスマのヨハネはキリストの到来を予告した並み居る預言者たちと違い、自らの出現を旧約聖書の中で預言されて現れた人物であり
(マラキ3:1;マタイ11:10)、キリストを目の当たりにして、この方がキリストですと人々に紹介した唯一の預言者でした。しかも、彼は謙遜であり、

「私はこのお方のくつをぬがせてあげる値打ちもない者です」(マタイ3:11)「あの方はますます盛んになり、私は衰えなければならない」(ヨハネ3:30)

と言ってキリストを崇める態度に終始していました。
 ★このヨハネも正義のために、ヘロデ王の手に掛かって投獄されるや、「このイエスと言う方は、間違いなくキリストだろうか、それとも他のメシヤを待望すべきなんだろうか」という疑問にさいなまれました
(マタイ11:2,3)。恐らく、イスラエルの待望するメシヤであるなら、今すぐ力でこの世を治め、私を獄から解放してくれるはずなのだが、と考えたものと思われます。
 ★女から生まれた者の中で最大の人物も、新約聖書に登場しながら、その信仰は旧約聖書時代の信仰でしかなく、新約聖書の時代の最小の信徒の信仰にも及ばなかったことを暴露しました。
 ★この11節のみことばから学ぶことは、われわれ人間の人物評価と神の評価とが全然違うということ、次に神の評価、つまり絶対的に真実の評価によって人間の中で最大の人物ヨハネも、天国の最小人物程には高く評価されていないと言うことです。すなわち、主と共に十字架にかかった強盗で、悔い改めて主を信じた男は
「今日あなたはわたしと共にパラダイスにいる」と言われた(ルカ23:43)結果、地上の人間としてのヨハネより大きい人物となったのです。

11節のみことばはヨハネを天国から締め出す言葉か
 ★次に「天国で最も小さい者もヨハネより大きい」と言うことは、ヨハネを天国から締め出すことにならないだろうか、と言う疑問に答えて置きましょう。
 ★この疑問に対する答えは次ぎの聖句にあります。

 
「あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国に入っているのに、自分達は外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」(ルカ13:28)

 旧約時代の真の預言者たちと共に、当然バプテスマのヨハネは天国に入っているのです。

 ★アブラハムは自分の子孫の中から救い主が生まれるとの主なる神の啓示を信じた結果、その信仰が義とされ、彼は救われました
(創世記15:6;ローマ4:1〜12)。バプテスマのヨハネもアブラハムと同じ信仰によって義とされたのです。

U.天国を激しく襲う者たちとはどのような人達か
 ★主イエスは、天国は

「心の貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、哀れみ深い者、義のために迫害されて来た者たち」
(マタイ5:3〜10)
のものであり、幼子のように天国を受け入れる者たちのもの(マタイ19:14)、パリサイ人のように自分を義とする者でなく、自分の胸を打って自分の罪を認める取税人のような者たち
(ルカ18:9〜17)の国であると語っておられます。
 ★主はこのマタイ11章の終わりの方25節で

 
「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼子に現して下さいました。父よ、これはまことに御心にかなった事でした。」
 
と言われ、更に
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませて上げよう。」
(マタイ11:28)

 と言われて、天国は知恵ある者、賢い者を自認する強い者達のものでなく、重荷を負って苦しむ者、へりくだった者達のものであることを明らかにしてしておられます。
 ★それでは、天国を「激しく襲って奪い取る(新改訳/激しく攻める者達が奪い取る)」者達とは誰のことなのでしょうか。「激しく襲う(襲って)」ビアゾマイ(ギリシャ語)は「力で押し進む、無理に押し入る」という意味で、受動態では「暴力を受ける、乱暴な扱いを受ける」と言う意味です。
 ★同じ内容を語るルカ16:16は次のように訳されています。

 
「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している(新改訳/無理にでもこれに入ろうとしている)」。

 この聖句の
「皆これに突入している(新改訳/無理にでもこれに入ろうとしている)」と訳されている語はマタイ11:12で「激しく襲う」と訳されている語と全く同じ「ビアゾマイ」です。
 ★聖書協会口語訳も新改訳も共に、これら二つの聖句が「バプテスマのヨハネのもとに洗礼を受けようと押しかけて来た大勢の群集」のことを指しているとの解釈に立って訳されています。
 ★しかし、12節の「奪い取っている」ハルパゾマイはヨハネ10:28の
「キリストの手から羊を奪い去る者はない」の「奪い去る」と同じ言葉です。そして、「キリストの手から羊を奪い去る」のはサタンの仕事です。
 ★従って、12節の「天国を激しく襲う者たち」はバプテスマのヨハネのもとに洗礼を受けようと押しかけて来た大勢の群集のことではなく、ヨハネを「悪霊づかれ」と呼び、主イエスを「食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間」とさげすむパリサイ人や律法学者たち
(マタイ11:18,19)のことだと言う事が分かります。
 ★律法学者、パリサイ人たちは
「天国を閉ざして人々を入らせない。自分も入らないし、入ろうとする人々を入らせもしない」 (マタイ23:13)人々です。彼らは、種まきのたとえのまかれた種を、ついばんで奪い去って行く鳥(マタイ13:4,19)に象徴されるサタンのような「マムシの子ら」(マタイ12:34)と呼ばれた人々です。
 ★「天国を激しく襲う者たち」と誤解されたほど熱心に天国を求めたはずの大勢の群集たちは数年の中に心変わりをして、祭司長、律法学者の扇動に乗って「彼を十字架に付けろ」と連呼した人々なのです。


結び
 ★私達が天国に入って驚かされることは、金持ちとラザロの話のラザロのような人々がアブラハムのふところに抱かれている(つまり重要ポストに着いている)ということです。上位にいると思っていた人が下位におり、あるいは天国にいると思っていた人が見当たらず、下位にいると思われた人物が上位にいることを発見して眼の覚める思いをすることでしょう。
 ★また、天国は生来の人間的熱意(新約聖書が描く〈肉〉の力)で強引に入る所ではありません。謙遜な主と共にへりくだって自分の十字架を負って
(ルカ9:23)、主と共なるくびきを負って(マタイ11:28〜30)入るところです。クリスチャンになるとこの世で成功し、金持ちになれるからと、人々に間違った希望を与えて、無理に天国に押し込むことが出来るようなところでは決してありません。

 「それから、みんなの者に言われた、『誰でも私に付いて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従って来なさい』」。 ルカ9:23




URL http://31church.net
キリスト紀元2006年 4月 10日公開


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