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   みことば黙想

〈16〉エリ エリ レマ サバクタニ


聖書

 
「さて、昼の12時から地上の全面が暗くなって、3時に及んだ。そして3時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは、『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』と言う意味である。」マタイ27:45,46

はじめに
 ★カトリック教会の十字架には、復活が無かったかのように、キリストの苦悩する像が添えられています。神父たちは「キリストはご自分を十字架にかけた、あなたがた罪人に怒っておられるから、聖母マリヤに執り成しの祈りをお願いしなさい」と教えています。はたして、聖書はそんなことを教えているでしょうか。
 ★キリスト像なしの十字架はプロテスタント教会のシンボルです。主はすでによみがえられ、十字架上にも墓にも残って居られないからです。キリスト者にとっては、十字架は救いと永遠の命のシンボルです。
 ★キリスト者でない多くの方々が十字架を飾りとして、アクセサリーとして愛用していますが、十字架は非キリスト者にとっては実は地獄での裁きのシンボルなのです。


〈キリスト者にとってのこの言葉の意味〉

 
1.私たちの受けるべき罪の裁きと呪いを主イエスが身代わりに受けてくださったことの証明であるということ
 ★
「誰が彼(神)の憤りの前に立つことが出来よう。誰が彼の燃える怒りに耐えることが出来よう」 (ナホム1:6)

と言われる人類の罪に対する神の怒りを、キリストが身代わりに真正面から受けてくださったということを証しする言葉が、この「エリエリレマサバクタニ」なのです。

 ★
「神は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、私達が、彼(キリスト)に在って神の義となる(罪を赦され、神の前に正しい者とみなされる)ためなのである」(Uコリント5:21)

 ★私たちの罪に対する神の呪いを、罪のない聖よい神の御子が、十字架上で受けてくださったのです。

 「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを十字架の呪いからあがない出してくださった。聖書に、『木にかけられる者は、すべて呪われる』と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、私達が信仰によって受けるためである」 (ガラテヤ3:13,14)

 
2.エリエリレマサバクタニはキリストの私たちへの愛のことばです
 ★キリストが自ら進んで十字架刑を受けられたのは、私たち信じる者に対する愛のためでした。
 「しかし、まだ(私達が)罪人であった時、私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、神は私達に対する愛を示されたのである」 
(ローマ5:8)

 
3.「エリエリレマサバクタニ」のこの言葉は旧約聖書詩篇22篇1節にあるダビデ王の詩の中の一節です
 ★主イエスは

「私は律法と預言者を成就するために来た」
(マタイ5:17)
と言われたように、ここで主はメシヤ預言の成就のために、この言葉を口にされました。
 ★この詩篇22篇は「十字架の詩篇」とも呼ばれ、十字架より1000年も前に書かれたものでありながら、詩人が主イエスの十字架の前で目撃していたかのような正確さで、その情景を描き出しています。
 ★この22篇は「エリエリレマサバクタニ」の言葉で始まっていますが、あくまでも神への賛歌であり、

 「主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろの末よ、主をおじ畏れよ。主が苦しむ者の苦しみを軽んじ、いとわれず、またこれに御顔を隠すことなく、その叫ぶ時聞かれたからである」 (詩篇22:23,24)

 という賛美のことばに満ちています。
 ★主はこの言葉を十字架上にありながら、「大声で叫」ばれました。主は十字架上の暗黒の時間にも、「我が神、我が神」と神への絶対的信頼を表明されたのです。

 
4.主イエスはこの言葉によって、逆境と迫害の時にも父なる神に信頼することを私達に教えておられます
 詩篇は23:4で

 
「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです」

 と歌っています。これこそ、主の「エリエリレマサバクタニ」の心でした。


〈キリストを信じない者にとってのこの言葉の意味

 1.キリストが十字架上で耐え忍んだ6時間の苦悩は、キリストの救いを拒否する全ての人々が受ける地獄での永遠の苦悩の象徴であるということ

 ★神が最愛の罪の無い一人子イエス・キリストを十字架上で苦しませるほどに人類の罪を憎まれ、ご自身で父子共に苦悩されて、痛みに耐えて提供された救いの道・十字架を拒否する者には、神は地獄の硫黄の燃え盛る火の池を用意しておられるのは至極当然のことです
(黙示21:8)

 
2.万人救済主義者は、「神は愛であるから、たとえ罪人でも地獄に落とすようなことはするまい」と空しい希望を抱いています
 ★しかし、主の救いは「主の十字架と復活」を「私のためだった」と信じる者にだけ与えられるものであって、決して「信じない者」に与えられることはありません。

 
「彼(キリスト)を信じる者は、裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の一人子の名を信じることをしないからである」 (ヨハネ3:18)
 「神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」
 (Tコリント1:21後半)


結び
1.主イエスの十字架の死は、自発的死でした

 ★主イエスは、

 
「私はよみがえりであり、生命である」 (ヨハネ11:25)

と言われ、更に、

 「(私が)命を捨てるのは、それを再び得るためである。誰かが、私からそれを取るのではない。私が、自分からそれを捨てるのである。私には、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かった定めである」 
(ヨハネ10:17後半〜18)

と言われました。

 ★その言葉の通り、主は十字架の上で「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで息を引き取られました(
ルカ23:46)。十字架に掛かってから、6時間後でした。十字架に掛かった人は、2〜3日後に死ぬのが普通でした。十字架上の死刑囚を多く見て来たピラトが、主イエスの死が余りにも早く驚いた程です(マルコ15:44)

2.主イエスは死の力に勝利し、3日目に、死なない栄光のからだによみがえられました
 ★私たちキリスト者の希望はこの復活に掛かっています。

 
「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなた方の信仰は空虚なものとなり、あなた方は、今なお罪の中にいることになろう。・・・・・しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」 (Tコリント15:17〜20)

 ★私たちキリスト者の復活信仰は、論理的科学的証明によるのでなく、聖書を読み、祈るうちに心の中で語りかけてくださる神の御霊の証言によるのです
(エペソ1:14)



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キリスト紀元2006年 3月 30日公開


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