ゴスペル よい知らせ キリストをあなたに @31church.net
   主イエスのたとえ話

  
〈2〉種まきのたとえ

 ★聖書 「イエスはまたも、海辺で教え始められた。おびただしい群集がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群集はみな海に沿って陸地にいた。イエスは喩えで多くのことを教えられたが、その教えの中で彼らにこう言われた、『聞きなさい。種まきが種を蒔きに出て行った。蒔いているうちに、道端に落ちた種があった。すると、鳥が来て食べてしまった。他の種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。他の種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。他の種は良い地に落ちた。そして、生えて育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった。』そして言われた、『耳のある者は聞くが良い』。
 ★イエスが一人になられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらのたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた、『あなた方には神の国の奥義が授けられているが、他の者たちには、すべてが喩えで語られる。それは、「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めて赦されることがない」ためである』。また彼らに言われた、『あなた方はこの喩えがわからないのか。それでは、どうしてすべての喩えが分かるだろうか。
 ★種まきは御言を蒔くのである。道端に蒔かれたとは、こういう人達のことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンが来て、彼らの中に蒔かれた御言を、奪って行くのである。同じように、石地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。その後、御言のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまづいてしまう。また、いばらの中に蒔かれたものとは、こういう人達のことである。みことばを聞くが、世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とが入ってきて、みことばをふさぐので、実を結ばなくなる。また、良い地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことである。みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである。」
 マルコ4:1〜20 参照マタイ13:1〜15; ルカ8:4〜10


 ★種まきのたとえの要点

 A.はじめに
○種をまく人は人の子(キリスト)である
(マタイ13:37)
○種は御国のことば(福音)である
(マタイ13:19)
○土地は人の心である
(マルコ4:15)
 B.4種類の土地
(1)道端に落ちた種は鳥にたべられた。
(2)岩地に落ちた種はすぐに芽を出したが、日が昇ると枯れた。
(3)いばらの中に落ちた種は、いばらが伸び、ふさいで実を結ぶに至らなかった。
(4)良い土地に落ちた種は、30倍、60倍、100倍の実を結んだ。

 ★解説
(1)道端の心をもつ人々
 これは、聞いても悟らない人々です
(マタイ13:19)。信じて、救われる事のないように、サタンがその人達の心からみことばを持ち去ってしまう人々(ルカ8:12)です。人の足で踏み固められた道端のように、心のかたくなで傲慢な、パリサイ人、律法学者のような人々です。
(2)岩地の心をもつ人々
 喜んで信じるが、長く続かず、みことばのために困難や迫害に出会うとつまづく人々です。岩地のため根がない。みことばが心の奥深くまでしみ込んでいない人々、頭だけの信仰、または、その時の気分で信仰を告白したけれど、後で困難にぶつかってつまづく人々、心の奥にみことばを受け付けない岩をかかえている人々、すなわち、進化論思想や偶像など異質なものを固く握って離さない人々です。
(3)いばらで心をふさがれている人々
 みことばを聞いて信じるが、生活上の心配や富の惑わしやいろいろな欲望が心に入り込んでいる人々で、ルカ8:14には、「実が熟するまでに至らない」とあるように、信仰が未熟なまま、信仰の成長がストップした人達です。上の2つのタイプがキリストにあって新生していない人々であるのに対して、このタイプと次のタイプは新生したキリスト者にみられるタイプです。10人の乙女の中の愚かな5人のように
(マタイ25:1〜13)、終りの日に天国から閉め出される危険性のある人々です。主は「神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われました。主は二心を憎まれます。このような人は、日々自分の心を十字架にかけ、古い自分に日々死んで、キリストの復活と共に日々新しく生まれる訓練を信仰と祈りによって積んで行く必要があります(ルカ9:23)
(4)良い地で豊かに実を結ぶ人々
 ルカ8:15には、「良い地に落ちたのは、みことばを聞いた後、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人々である」とあります。「正しい良い心」は「高貴で善なる心」とも訳せます。その「善なる」とは主イエスが、「神以外に善なる方はいない」
(マルコ10:18)と言われるです。そのような心は自分で造れるものではなく、御霊によって生まれ、生かされている心です。この人々はベレアの人々のように「素直であって、心から教えを受け入れ、果たしてその通りかどうかを知ろうとして、毎日聖書を調べている」(使徒17:11)人々です。
 良い地の人々が結ぶ実は、御霊の実
(ガラテヤ5:22,23)、神のみこころにかなった良い行い(マタイ7:15〜23)、人をキリストの救いに導くこと(ダニエル12:3;マタイ5:16;2コリント5:20)などです。

 ★このたとえが教えていること

 A.何をどう学ぶべきかを教えている
 私たちの学ぶべきものは、神の国の福音であり、神の言葉・聖書であることを、このたとえ話が明示しています。「耳のある者は聞きなさい」とは、「みことばをどう学ぶかに注意しなさい」ということです。異端の人たちのように、教理的偏見や生来の肉の心で、神のことばを理解したつもりでも、実は何も分かってないのです。
 このたとえ話の中で、主イエスは、声を上げて「聞く耳のある者は聞くが良い」と何度か叫ばれたとあります(ルカ8:8)。主はこのたとえ話に限らず、神の国の福音を後で意味を尋ねてやって来た弟子達のように、謙虚にまた熱心に聞き、学んで欲しいと、すべての人々に切望しておられるのです。
 B.人々と自分とにおける神の国の福音の成長には、時間と苦難に耐える忍耐とを必要とすることを教えています。
 私達はインスタント時代に生きています。何でもすぐに結果が出ることに慣れています。しかし、ここで自分自身と人々の心に神の国を建設するわざが、農作業にたとえられていることに注目してください。「桃栗三年、柿八年」の諺が暗示している忍耐が、農作業同様、福音伝道と信仰生活とにも求められるのです。
 C.他のたとえ話の解釈の基本を教えている
 このたとえ話は、主ご自身が解釈を語っておられる二つだけのたとえ話の一つです(もう一つは、毒麦のたとえ・マタイ13:24〜43)。主イエスはマルコ4:13で、このたとえ話の解釈を求めてきた弟子達に「あなた方はこのたとえが分からないのか。それでは、どうしてすべての喩えが分かるだろうか」と苦言を呈しておられます。この御言葉が、このたとえが他のたとえ話の解釈の基本であり、基礎であることを暗示しています。


URL http://31church.net
キリスト紀元2004年 6月 30日公開

3