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    話の泉


     〈10〉祈る責任と祝福

〈9〉ビリー・グラハム師とフリーメーソン

 小石 泉牧師の説教集内の荒野の声No5「クリスチャンの奇妙な論理」を読んでいましたら、「ビリーグラハムはフリーメーソンである」という文章が目に飛び込んで来ました。師が言うには「クリスチャン仲間は誰もそれを信じようとしないが、自分で調べて見ればすぐに分かることだ」ということで、早速、筆者は英語のウェブサイトで調べて見ました。すると、フリーメーソンの公式サイトにB.グラハム師の名が誇らしげに掲載されていた事実が判明しました。

 ★しかし、カッティングエッジというサイトによるB.グラハム伝道団への問い合わせの結果、「グラハム師はフリ−メーソンとは係わりがない」という公式の回答がありました。その後、同伝道団からの圧力のためか、フリーメーソンのサイト上の会員名簿からグラハム師の名が消えました。
 ★それでも、「グラハム師とメーソンとの関係の疑惑は完全に消えた訳ではない」とカッティングエッジ側は考えています。その理由の一つに、米国南部バプテスト教会協議会には近年F・メーソンに毒された人々がいて、保守的ファンダメンタリストの人々と反目し合っているにもかかわらず、B.グラハム師はその絶大な指導力を発揮してF.メーソン・グループを説得して黙らせる姿勢すら示さないことがあるようです。
 ★さて、そのフリーメーソンFreemasonとは何か、について簡単に触れて置きます。「メーソンmason」の語義が「石工」であるように、元来は石工の職人組合であったものが変化して、現在は石工とは関係のない世界規模の秘密結社となったものです。フリーメーソンは女神を崇拝していて、その女神はサタンの妻とも呼ばれているとあるウェブサイトが論じています。
 ★こんな怪しげな秘密結社とプロテスタント・キリスト教の世紀の大伝道者ビリー・グラハム師とが、師の伝道団の公式回答の通り「無関係」であることを信じたいのですが、グラハム師は初期の純粋な福音主義から近年は可なり変節していると関係ウェブサイトは指摘しています。一つには、プロテスタント福音派の伝道者でありながら、ローマ教皇を世界の指導者と絶賛し、もう一つは伝道大会で回心して生まれたばかりの信徒をキリストの肉体の復活を信じない現代(近代)主義の教会に大量に紹介しているなどの福音主義教会指導者としては考えられない言動があるようです。
 ★聖書が指摘する世の終りの兆候である戦争や大地震に加えて、ニセ預言者の多発している昨今は、キリストの再臨が近いことを思わされます
(マタイ24:1〜44)。大伝道者がニセ預言者に変節する可能性すらある世の中ですから、我々普通のキリスト者はより一層目を覚まして祈って(マタイ26:41)、みことばに親しんでサタンにだまされないように心の備えをして行きたいものです。

キリスト紀元2004年 9月 20日公開


〈10〉祈る責任と祝福

 
★「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王達と上に立っているすべての人のために、願いと、祈りと、執り成しと、感謝とを捧げなさい。それは私達が、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、私達の救い主である神の御前に良いことであり、また、御心にかなうことである。」1テモテ2:1〜3
 ★「あなたがたはこう祈りなさい、『・・・御心が天で行なわれる通り、地にも行なわれますように』」マタイ6:9〜13

 
 ★筆者自身の反省するところは、すべての人々のため、そして特に王達すなわち国家を治める人々のために今まで執り成しの祈りを捧げる事が少なかったことです。世界の主にある教会のため、また救われる人々が起こされるようにとはいのり続けて来ましたが、国の為政者や自分の周辺のすべての人々のために祈ることは少なかったです。特に、為政者のためには祈らないと自分達の生活に跳ね返って来ますから重大です。今、日本の国が、現小泉政権を含め歴代の為政者の失政のため正に沈没しかかっているのは、我々キリスト者の祈りの不足にも一因があると思われます。上記の主の祈りの一節は、主は私達の祈りを通して地上で御心を行なわれるのであり、私達が祈らないと主は地上で御心を行なってくださらないことを表しています。キリスト者の祈りが重要であるゆえんです。
 ★自分の教会や家族のためには祈ってきた積りですが、後から思うとまだまだ足りなかったと言う感が拭い切れません。今からでも遅くないので、ヤコブのヤボクの渡しでの霊の格闘のような祈り
(創世記32:22〜29)をこれからも続けて行きたいと願っています。
 ★自分達を統治してくれる王を求めたイスラエルの民の前での説教の中で、サムエルは「私は、あなた方のために祈ることをやめて主に罪を犯すことは決してない」(1サムエル12:23)と語りました。人々のために、執り成しの祈りを捧げることは、キリスト者として、家長として、牧師としての責任であると共に、大いなる特権であり、祝福です。そして、祈らないことはキリスト者にとっては罪なのです。人のためばかりでなく、自分のためにも、しかも、大きな問題だけでなく小さな問題のためにも祈ることができ、主にすべてをお委ねできることは誠に幸いです。
 ★ハドソン・テイラーは何でも祈りによって解決できることを学びました。そして、祈る必要のないほど小さな事はないことも医学研修生時代に学びました。彼はある日、病院で熱病患者の死体解剖の助手を務めました。このような仕事は手に小さな傷でもあると命に関わる事態を招くから普段から手を傷つけないように厳しく注意されていました。しかし、彼はこの作業に当たる日の前日、節約のためノートを自分で作りました。そして、針でノートを綴じる時、誤って自分の指を刺してしまったのです。自分では大した傷ではないと思い忘れていましたが、この傷のため彼は瀕死の熱病にかかりました。彼は祈りの結果癒やされたのですが、同時期に同じ病気にかかった他の二人の医学生達は死亡していました。本人が気にしていなかった小さな事柄(傷)が、瀕死の熱病という重大結果を招くことがあることを彼は学びました。
 ★最近の祈りに関する小さな体験を証しします。十数年のプロドライバーとしての経験があるとはいえ、運転は油断が禁物です。事故を避けるためには祈りは欠かせません。路地の信号機のない交差点から交通量の多い国道に出る時、何気なく祈りを忘れて出ようとすると国道を走る車はなかなか道を譲ってくれません。しかし、あらかじめ祈って出る時は必ず国道を走行中の車は快く受け入れてくれます。主なる神は人の心を支配し動かすお方です。
 ★パソコンを操作する時も、祈って主に助けて頂いています。パソコンの指導書を読んでも、プロバイダーやメーカーに相談してもらちが明かなかった操作上の問題が祈った後、心に浮かんだ方法を適用して無事解決したことも何度かあります。
 ★最近、メガネを無くし、祈りつつも半ばあきらめていました。もう十年ほど使ったからそろそろ買い換える時かなあと思っていたのです。祈りつつ、くまなく探したはずの車の中をもう一度探して見ると、思いがけないところにそのメガネが落ちていたのです。
 ★当地に引っ越してきて、最初の悩みの種は、家の前の道路の側溝にかぶせてある鉄板のどぶ板が、車がその上を通るたびにけたたましい騒音を発することでした。近所の以前からの住人達は「困ったもんだ」と言いつつ何の手も打ちません。祈りながら、その町道(今年中に町村合併で市道に昇格します)の管理者の町役場に改修工事の申請を出しました。予算がないの一点張りの町役場に、毎年祈りながら申請書を出すようになってから二年半ほど過ぎました。ある時、急に役場の方針が変わったらしく下請け工事業者がやってきて音の出ない頑丈で真新しいふたを取り付けてくれたのです。感謝!
 ★タクシーを運転していた頃、夜中遠方の知らない土地に行っての帰りに道を間違えて、迷子状態になることがあります。その時、知性の祈りと異言の祈りを唱えながら運転していると正しい道に舞い戻れたことがしばしばありました。
 ★主に祈るのに小さ過ぎて祈る必要のない事柄もなく、大き過ぎて祈れない事柄もないので、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する」
(1テサロニケ5:16〜8)毎日です。

キリスト紀元2005年 1月 20日公開



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