新田次郎著
                    『八甲田山死の彷徨』





 
                    2012-04-25


(作品は、新田次郎著 『八甲田山死の彷徨』  新潮社による。)

         


 本書 昭和46年(1971年)9月刊行。

 新田次郎:ネットのウィキペディア参考に。

 1912年長野県諏訪市生まれ、小説家であり気象学者。妻は作家の藤原てい。数学者でエッセイストの藤原正彦は次男。
 1932年中央気象台に入庁。富士山観測所に配属。1951年「強力伝」をサンデー毎日大衆文芸に応募、作家活動を始める。1956年「強力伝」で第34回直木賞を受賞。1966年気象庁を退職、「武田信玄」「武田勝頼」等の歴史小説、山岳小説など多数。

主な登場人物:

組織

第八師団参謀長 中林大佐
−第四旅団長 友田春延陸軍少将
 −弘前第 31聯隊長 児島大佐
         第1大隊長 門間少佐
          第2中隊長 徳島大尉
 −青森第 5聯隊長 津村中佐
         第2大隊長 山田少佐
          第5中隊長 神田大尉

弘前歩兵第5聯隊雪中行軍小隊

指揮官 徳島大尉(磊落な男)の小隊編成。
随伴記者として西海勇次郎を含め全38名。
11日間の計画。

青森第31聯隊雪中行軍中隊

指揮官 神田大尉(平民出の優秀な人物)の中隊編成。
プラス山田少佐以下数名の大体本部が随行の総勢210名。
3日間の計画。


物語の概要:
 

 日露が戦争状態に入った場合的の艦隊が津軽海峡及び陸奥湾を封鎖することが想定される。 そのため厳寒、 深雪を冒して軍の移動が可能なるか可能ならしめるためにいかなる方法があるかを研究することを名目に、 弘前と青森の聯隊に競わされることとなる。
 弘前第31聯隊の徳島大尉と青森の神田大尉を指揮官とする二つの雪中行軍が厳寒の八甲田山踏破競争に挑む。 明治35年に遭難があった実録をベースに小説化された物語である


読後感:

 

 この作品を読みたいと思っていたのは、辻原登著の「許されざる者」の中で永野忠康(森宮第十代藩主忠良の長男。陸軍歩兵少佐)とその夫人が登場していて、八甲田山の雪中行軍で次男の忠博中尉が遭難し、兄の忠康少佐が弘前の救援隊の指揮官として捜査にあたたった経歴の人物としてあった。

 この物語は実際にあった事件の正式遭難報告書“遭難始末”や、自衛隊の発行した“陸奥の吹雪”を参考に、取材したものをベースに小説化されているようで登場人物の名前は実際の名前とは異なるものとなっている。

 とはいえ弘前の第31聯隊(徳島大尉指揮官)と青森第5聯隊(一応神田大尉指揮官)の雪中行軍の行動が日にちを追って詳細に記述され、軍の上層部の思惑と実際の実行計画作成から実施に至る不運(?)と言っていいのか理解力、判断力の見識の相違が不幸をもたらした両部隊の結果を少し誇張して描かれているように思えた。

 しかし雪中での描写は迫力に満ち、あたかも実際に吹雪の中を彷徨しているような錯覚を覚えるようでさすが新田次郎という作家なのだと感じ入った。

 小説を読んでいるうちは、弘前の第31聯隊徳島大尉の方が脚光を浴びた感じではあったが、実際世の中での評価は第5聯隊の遭難で多数の死亡者を出した結果、日露戦争を考え軍の寒中装備の全面的改良に貢献することとなり歴史に残る結果となったようで、第31聯隊の成功は陰に隠れたようになったことは皮肉であった。

 そして生き残った11名のその後の生き様、第31聯隊の徳島大尉も日露戦争で散っていった事実は何とも痛ましいものであった。

余談:

 新田次郎の著書をいつか読みたかった。それというのも、新田次郎を父に持つ藤原正彦著のエッセイ「若き数学者のアメリカ」を読んだときに、父親の言った言葉が紹介されていてそれがずっと記憶にあったためで、その検証(?)をしたかった。

 すなわち、うろ覚えだが「作家の力量とは最後まで読者を惹きつけられる文章を書けるかどうかである」と。見事に最後まで引き込まれた作品だった。

背景画は、書籍中に掲載されている両隊が進んだ道順を記した地図。