藤原正彦著 『若き数学者のアメリカ』
 

                     
2012-03-25
(作品は、藤原正彦著 『若き数学者のアメリカ』 新潮社による。)

        

1977年(昭和52年)11月刊行。

・物書きの力は、読者をどれだけ最後まで引きつけられるかだと、父(新田次郎)の言葉を語るのを、NHKのラジオ深夜便で耳にし、興味を持った。アメリカ滞在の何年かの日記を見て、雑誌の編集者が本にしましょうという話になったという。今は数学者と物書きの二足のわらじを履く著者。
 1972年(昭和47年)夏-1973年 ミシガン大学で1年間研究生活。
 1973-1975年(昭和50年)までコロラド大学で2年間助教授にまつわる話をエッセイとして纏められたものである。

読後感:
 

 読み出してこれは面白いと引き付けられる。初めての海外旅行、しかも1年間のアメリカミシガン大学での研究生活と、2年間にわたるコロラド大学での助教授生活での日常が語られる。丁度旅行記か何かのように、経験する場面場面を実に普通の人の眼で見、感じ、行動するさまがそこにはある。著者の物を見る眼の確かさ、感性がひしひしと感じられる。
 
 細かなところにまで目が届き、心理を読み、洞察することがあらゆることに対してなされ、しかも共感を呼ぶ。外国に来て疎外感があり、日本人としての反発心、負けず嫌い、そんなところが随所に顔を出し、意に反して言葉を発したり、行動したり。そんな内心を吐露して読者を引き付ける。実に素敵で面白く、優しい思いやりのある人格が醸し出されている。こんな文章を書けたら素敵だ。

 例えば、教授の給与の差がどうして生まれているのか、教授の評価方法、論文の質と量の問題、教授の就職難、助教授になっての授業風景、アメリカと日本の学生の教育の違い、学園風景から、初めての海外旅行での疎外感など、アメリカの様子が実に身近に感じられる。しかもいかにも日本人の気質を表しながら。

 更に最後の方では、現代のアメリカの状態に通じる悩めるアメリカ人の生きざま、日本人としてどのようにアメリカに溶けこめば良いかが暗示されている。取り上げられるテーマ一つひとつが、読み物としてグイグイ最後までひっぱっていく原動力のような気がする。

 編集者がこの日記を見て本にしようと言ったということがよく判る。

印象に残る表現:

◇ハワイ―――私の第一歩

・ハワイ税関でのこと 
 スーツケースに貼り付けておいた日の丸と、ミシガン大学教授数学教室、藤原正彦、と英語で書かれた名札を見た税官吏が、「日本からミシガン大学にいらっしゃるお医者さんですか」と聞き、説明も面倒だからうなずいたら、それでおしまいだった。あまりにあっけないので少々心配になり、出口に立っていた航空会社の制服姿の日系らしい娘さんに、素早く頭の中で英作文をしてから、
「そこでは全然開けなかったんですが、もう全部済んだのですか」
と、恐る恐る聞いてみた。
「はい、そうです。あなたは正直そうな顔をしているので開けなかったのでしょう」
といって、ニコッとした。


◇太陽のない季節

 アメリカにも日本と同様に、美しい物はいくらもあった。グランドキャニオンの壮大な美しさ。ミシガン北部の紅葉の見事さ。無数にある湖の水の青さ。地平線にゆっくりと沈む赤い夕陽。どれも美しいと思った。絵としてみたら日本の物より数段上と思われるものもあった。しかし、不思議なことに、感動したことは一度もなかった。思い出せなかった。「優しさ」を目覚めさせてくれることは決してなかった。何がこの違いをもたらしたのだろうか。

「アメリカには涙がない」ということに思い至った。土壌に涙がにじんでいなかった。それに反して日本には(中略)
 私は日本で美しいものを見ても、それが単に絵のように美しかったから感動したわけではなかったらしかった。その美しさには常に、昔からの数え切れない人々の涙が実際にあるいは詩歌などを通して心情的に滲(にじ)んでいた。私は、これらすべての涙をその風景の中に、足下の土壌に、辺(あた)りを包む光と空気の中に、瞬間的に感知し、感動していたに違いなかった。
 こう考えてくると、アメリカに歴史のないことが致命的に思えてきた。

◇アメリカ、そして私

 大学院博士課程で教育学を専攻するジェーン、彼女に言わせると最近の学生は、「すべてに幻滅している」のだ。
 たとえ目標や理想を掲げて進もうとしても現代の巨大な社会機構においてはどうにもなるまい。よくてドン・キホーテの二の舞だ。従って人生に大目的などを見出し、そのためにあくせく努力するのは無意味だと考える。彼等は出世物語には飽き飽きしたし、政治、経済、学生運動、地域運動等にも飽きてしまった。
 
 もう手に触れるもの以外に信用しようとしないのだ。関心を持っているものと言えば自分およびそこからごく近い所にあるものだけだ。成績、恋人、家族、酒、マリファナ、音楽、スポーツなどだ。いわゆる幸福をそれほど追求しようとも思わない。そんなものは手で触られないものだから初めから信用していないのだ。

 その一方では、同じ理由から学業にだけ精を出す学生も多い。彼らは特別な大志を抱いているわけではなく、有利な就職をして、経済的に安定することが先決だとごく現実的に割り切って考えているだけだ。

(中略)
 自信を失い、目標を失ったアメリカ人は彷(さまよ)う。そして、その彷徨をより深刻なものにするのは彼らには故郷がないということであろう。彼らのすべてはそれがヨーロッパであれ、アジア、アフリカであれ、一度は故郷の地には決別した人々である。

 ここに言う故郷とは、故郷の「地」だけではなく、そこに存在する歴史、文化、伝統などすべてを含めた広い概念である。

  
余談:

 この本の図書館での予約も結構あるようで、自分が読んでいる内にも2件の予約が入っていた。どうやってこの本のことを知ったのだろうか?

背景画は、本中にあるコロラド大学数学研究室のフォト利用。