前のページに戻る



    エルサレム旅日記

                       高橋三千代

            目    次
 

(1)  出発〜聖墳墓教会 etc.    8月15、16日 
(2)  園の墓・西壁                17日 
(3) ヴィアドロローサ(十字架の道行き)     18日 
(4)  オリーヴ山                 19日 
(5)  再び 聖墳墓教会、ムリスタン通り      20日 
(6)  エルサレム第二神殿時代の模型、
   ヤド・ヴァシェム、ベツレヘム
        21日


(7)  神殿の丘、イスラム博物館          22日 
(8)  ナザレ、カペナウム、ガリラヤ湖、ヨルダン川 23日
(9)  マサダ、死海                24日
(10)  マハネ・イェフダ・マーケット
     金曜日のグレート・シナゴーグ
       25日 
(11)  シオンの山                 26日 
(12)  イスラエル博物館、バイブルランド博物館   27日

 
(13)  ダビデの町、ロックフェラー博物館      28日 
(14)  アイン・カレム               29日 
(15)  アルメニア教会と博物館、聖墳墓教会     30日 
(16)  マグダラのマリアの教会           31日 
(17)  帰 国               9月1日〜2日

 
    結 び                    

巻 末  「神と富」  (説教プリント)   9月10日 



(1)  出発〜聖墳墓教会 etc.
             1995年8月15(火)〜16日(水)

 私のような者がシリア、ヨルダンの旅を含めて4回も聖地を訪ねることが出来るなんて誰が考えられたでしょう。世が世ならばという言葉がありましたが、今の世ならこそ、そして、何よりも主の御許しあればこその今回の旅でした。しかも19日という日数!
 成田からロンドンまで、12時間足らず、ロンドンからテルアビブまで5時間余りの長旅です。満員らしく席は、左の窓側の一番前に青木さん、陣内さん、古市さんの三人と右窓の通路側に私、禁煙席がとれず後方の喫煙席に高橋と分かれました。全日空のスクリーンが刻々と高度、速度、外気温、近くの地名(新潟、奥尻、礼文、ニコライエフスクナアムーレ等)知らせてくれるのが楽しみです。窓の外の景色をと思ってもあいにく翼の上、角度が変わった時に見るとずっと雲海のようでした。途中で青木さんが窓際の席に代わった下さったので外を楽しめて幸いでした。ロンドン上空は晴れていて、あれはテームズ川かしら? など思ううちに着陸。バスで出発の建物まで行きました。随分長い通路を動く歩道で行って漸くELAL航空の入り口に着きましたが、ドアに鍵が掛かった上に赤いリボンで締め切ってありました。片側はずっと事務所のような部屋が並んでいます。通路の窓側からは建物や通路が見えるだけ、中央部にはお酒の免税店が一軒あるほかは何もなく、これがヒースロー空港かしら?と思うほど殺風景な場所でした。出発時間まで約4時間、三列に並んだソファに陣取った私たちの回りに、段々と集まって来る人々が見ていて本当に楽しめます。家族連れの子供たちが生き生きと可愛く、古市さんはお孫さんを思い出してか早速お相手に忙しい。長い待ち時間には、持参の飴や全日空から持って来たおつまみや、お水なども役にたちました。 やっと扉が開いて、並んで中に入ると金属探知の門をくぐり、一人一人、訊問、日本語の質問用紙も用意されていて、こまかく答え、皆パスして広い待合室へ行こうとすると呼び止められました。スーツケースを調べるので、持ち物は全部ここへ置いて行くようにというので「それでは代わる代わる番をしましょう」と言っていると一緒に行くようにとのこと。「パスポートも何もかも入っているんですよ」と高橋が言うと「此所は世界で一番安全な場所だから安心して行くように」との返事、余りの自信に半ば呆れて恐る恐る鞄の鍵だけ持って一寸した体育館位の広さの待合室の反対側の階段を下りて特別に作られた小部屋で一人ずつ、既に着いていた荷物の綿密な検査を受けました。戻って見ると手荷物は皆、元のまま無事でした。何だかひどくくたびれた感じがしました。やっと搭乗となって、おめでとうと言いたいような気がしました。 今までとはお国柄の違いか、大変ザワついた機内の様子、行ったり来たり、家にいる時の様な調子で話し合う人達、やがて離陸の時もシートベルトのチェックもざっとで、歩き回っていても大して気にしない様子が、全日空とは大違い。何時の間にか夜が更けて、映画の始まる頃には静かになりました。それでも飲み物を取りにいったり、何時も何人か静かながら動き回っています。そんなことにも何故か心楽しく、うとうとと過ごすうちに、窓の外にはテルアビブの町の灯が美しく見えてきました。予定通り、午前2時45分到着。沢山の出迎えの人達が賑やかで深夜とは思えません。シェルート(乗合いマイクロバス)もすぐに見付かりました。一緒になった相客は、10才くらいの娘を連れた家族で、英国旅行帰りの気持ちのよい人達でした。 街灯に照らされた木々にも、ああ、来たのだ!と感無量。 先ずその家族の家に、それから上ったり、下ったりの道を行き、午前5時近く、新市街のエルサレムタワーホテルに着きました。 眉間に皺を寄せたオッカナイおじさんがフロントにいて、「一人部屋3つと、ツィンが一つですね?」という。早速、高橋の交渉が始まります。「違う、一人で使うツインルームが3つと二人の部屋が一つだ」と。それでもすぐにわかったらしく。鍵を渡すときには、いくらか表情が和らいだように見えました。
 101が青木さん、103が私たち、203が陣内さん、210が古市さん。1階(他の店が入っていて実は3階)と2階なので、期待していた見晴らしはありませんが、これから17日間すごす家なのだと、見回します。早速お風呂に入り、荷物をほどいて棚や引き出しに整理し、朝食の7時までにはまだ時間があるのでベッドに寝転んで、高橋が考えたその日の予定などを聞きながら、ワクワクしてすごします。朝食の時間が近付き、お祈りをしてから、下へおりると、朝になってフロントの人も変わり、高橋と去年おなじみの顔がぞくぞく表れて、もう部屋の番号まで覚えて待っていてくれました。 ロビーで皆さんと落ち合って食堂へ、バイキングの壁に寄せた第一のテーブルには、丸いパンと白と黒のスライスしたパン(回転しながら焼ける大きなトースターで好みに焼ける)、胡麻の入った三角のビスケット、スクランブル・エッグが暖められ、茹で卵も、冷たくて堅いのと熱い半熟、冷たいオレンジとリンゴのジュース、メロンを適当に切ったもの。メインのテーブルには食べやすく切った人参、厚い輪切りの胡瓜、赤と橙色と緑の大きなピーマンのこれも厚い輪切り、刻み野菜のサラダが二種、すっぱいお魚、機内食のようなパックのバタとマーガリンと、大きな器に練った美味しいチョコレート、果物のチーズ合え、何種類かのチーズを調和の良い果物で飾ったもの二、三種、コーンフレークとミルクが毎日用意されていました。ハムなどの肉類は掟のためでしょうか全然ないのも面白く思いました。夫々のテーブルには紅茶とコーヒーのバッグ、ポットのお湯、調味料が備えられています。そのお野菜の美味しいこと! 感激して皆、何度かお代わりに立ちました。大満足で外へ出ますと、 ああ、何と言う風! 日頃教えられた"プニューマ"という言葉が思わず出てきます。「これが、エルサレムの風だ!」と高橋、こんな気持ちのよい空気は生まれて始めて、の感激を以て暫く佇みました。それから朝の散歩。ベンイェフダー通りへ出て、暫く行くと、キング・ジョージ通りとの交差点の向こう側に「タリタ クミ」の記念碑があります。思わず「カメラを持ってこなかった」と叫んでしまいました。「何度も来るよ」と慰められて、暫く眺めて歩き出します。「夜の賑わいの時に来ると全然違った所のようですよ」などと、いろいろ話を聞きながら。 近くのお店でその日のお水を買って、10時に集まることにして、夫々部屋へ。 暫くするとルームサービスのムハンメドさんが部屋にきて、挨拶と、いろいろサジェストしてくれました。例えば、昨年なかったセイフティ金庫も、1日1ドルですが、各部屋で使うことはない、一つを5人で使えばよい、など。明朝、使い方の講習をしてくれる由(パスポートもチェックの交換以外は必要がなく、持ち歩く心配がないので助かりました) あとでお盆にグラスやスプーン、お砂糖までつけて持ってきてくれました。(これが後になって大活躍)
 いよいよ第一日目のはじまり、 聖墳墓教会へ…

 ヤッフォー門までは「やはりタクシーを使わないととても無理でしょう」と去年歩き通した高橋はホテルの前から先ず料金を約束して定員四人なので3人が乗り、あとから古市さんと高橋が別に行きました。門前で下りるとすぐに二人も着きました。私たちのはアラブの人で、10シェケルでしたが、後のはユダヤ人でメーター料金だといって9ドルをとられた由、これがウソで、後で分かったことですが、他にはメーター制のタクシーはありませんでした。いろいろの事があるものです。
 ヤッフォー門のすぐ側のクリスチャン インフォメーション センターへ寄り、地図や来年のカレンダー、絵葉書などを買い、今回はじめてのシェケルコインでお釣を受け取りました。外へ出て、何だかドキドキするような気持ちでクリスチャン・クォーター・ロードのローマ時代の石畳の道を行き、聖墳墓教会の外のオマール・モスクの入り口を見、暫く行くとホーリーセプルチュアと書かれた入り口(脇に聖ヘレナ通りの標識あり)から入ります。入ってすぐに今朝配られた資料で、様々な年代で変化して来たこの教会のことを学びます。今まで学んだことどもと考え合わせて、どんな理解が得られるか楽しみです。あたりを見回すと本当にいろいろの国の人が好き好きの格好で立ったり腰を掛けたり楽しそうに行ったり来たりしています。建物に入ってすぐ右側の石の階段を上がります。そこがゴルゴダです。まずマリアさまの足元で釘付けされる主を描いた絵が正面にある「釘付けの祭壇」剣を胸に受けた像のある「悲しみのマリアの祭壇」「十字架の死の祭壇」、94年プリントの"聖墳墓教会"に「此処に座って考えをめぐらすことが好きでした」と書かれていた作り付けのベンチもありました。祈るために、ひとときの憩いのためになど様々でしょうが、ツァーの場合はそれどころではありません。すぐに行ってしまう人々に遅れまいとすると、あとで見るために大急ぎでカメラを向けなければなりません。一生に一度と思う人も沢山いるでしょう。そんな中でも膝まづいて祈る人も多くいました。手を組んだり、頭を下げたり、十字を切ったり、一途な目をして前へ進み、手でふれ、キスをするなど、いろいろです。ふと日本の神社の前を思い浮かべました。二礼して手を合わせ〓〓を打って一礼して…といった決まりものは見当たりません。皆で一緒に参拝と言うのと、主と我の関係に恵まれたものとの相違でしょうか、内からほとばしり出る動作は美しいと感じました。人は皆、多くを背負って生かされています。この場へ来ることが出来ただけでもどれほど感謝か知れないと思っている人が殆どだと思います。私は以前、このようなきらびやかに飾られた祭壇や絵や像を無用のものと思っていました。けれども人は自分の育った環境、国の歴史などからも価値観の違いは大きいでしょう。皆、主を記念するために最上を捧げたいという思いが、一生懸命な心が、こうさせるのでしょうと考えると一概に否定もできなくなりました。その下にあるもの、見えなくなっているものに心を向けることが出来れば幸いだと考えました。そんなことを考えている間にもいくつかの団体が入っては出ていきます。やがて私達も立上がり、段を下りて一階に行きました。右へ回ると小さな会堂があったり、先ほどの祭壇の下にあった石の下の部分が囲いをして展示されています。復活のイエスがマグダラのマリアに現われた場所を記念する「マグダラのマリアの聖堂」があり、そこではミサがありました。次は地下にある「聖ヘレナの聖堂」でしたが、あいにく入り口はテープで塞がれていました。下を見ると大掃除中のようです。又次の機会にしましょうと、先へ進みます。ドームの真下の「イエスのお墓」は狭いのでわずかの人数しか入れません。このときは大変長い列ができていました。それで此所も次の機会に…。この建物の入り口(来る時は直ぐに二階へ行きましたが)の正面上方には主が十字架から下ろされる所の大きな絵があり、その前に美しい香料の器や花で飾られた「塗油の石」があります。ここでも左手を胸に当て右手でそっと触れる人、キスをする人、黙して祈る人が、後を絶ちません。もう一度ゴルゴダに上がり、暫くあのベンチにいてから、次にくる日を楽しみに外へ出ました。来た時と反対側の開いた門の扉の外はムリスタン通りに通じています。 この通りを歩いて見ました。先ず右側にルーテル教会があり、ロータリーの様になった中央にムリスタン・ファウンテンがあります。ムリスタンとはペルシャ語で病院を意味し、十字軍時代には千を超えるベッド数の病院や、旅人の宿泊施設があり、ローマ時代のエルサレムの中心地だった由、通りの端の方の一画にその記念碑があります。その通りのお店で冷蔵庫から出したてのオレンジを簡単な器械でギュッといくつも絞ってくれるジュースと、あのナンのようなパン(ピタという由)にシシカバブを入れて貰ってお昼にしました。お野菜もたっぷり入っていて本当に美味しく頂きました。

 突然、驚くべきことが起こりました。頭上から轟く様に鐘が鳴り出したのです。聖墳墓教会の鐘の音です。胸を打つように響きます。聞き惚れていると、他の教会の鐘の音もそれに和するように聞こえてきます。不思議です。主に呼び掛けて頂いているように思えます。以前アシジで聞いた鐘を思い出しました。あの時は静かな夕方でウムブリアの平野を見渡せる高台での素晴らしい一時でした。今は、このエルサレムに着いたその日に、聖墳墓教会のすぐ近くで、お昼のお食事を頂きながらこのような、お恵みに浴して、言葉には尽くせない感動が与えられました。
 新たな元気を得て、今度は、ダビデ通りを経て、ヘロデの城砦の中にあるエルサレム歴史博物館を見て、城砦の上をめぐり、通称ダビデの塔と言われるファサエルの塔の土台(といっても結構高い)に皆揃って上まで上ることが出来ました。方向を示した模型もあって、見晴らし良く、これから見に行ける建物をのぞめて楽しい一時でした。中庭のような所はハスモン時代の遺構が発掘されたものだそうです。
 ヤッフォー門から今度は五人一緒にタクシーで帰りました。ロビーで陣内さんが天才的な能力で、皆のその日の費用を計算して下さり、精算し合って一旦部屋へ。少し休んでから、7時に今度は夕食にでかけます。朝行ったベン・イェフダー通りは、その時の話のように通りは人で溢れ、年取った人から赤ちゃんまで皆、活き活きした顔で散歩したり、通りに並べられたテーブルでお食事を楽しんだり、音楽を奏でる人の回りに集まったり、お店も明るく活気に満ちています。こんな雰囲気は他所では味わえないと思いました。中華のお店で焼きそばを頂いて、暫く散歩している内に奇麗なケーキのお店のウィンドウで「あ、アイスクリームが美味しそう!」と言いながら通り過ぎると、すぐ隣に、ありました、アイスクリームの専門店が…入口を入るとガラス張りのショーケースの中にずらりと色とりどりに20種類以上も並んでいます。ケースの上にはコーンカップが大中小積み上げられています。中が日本の普通のソフトクリームのサイズです。好みで大きさを選び、好きなお味のを入れて貰いますが、見ているとどんな組み合わせでもおかまいなし、あれとあれと一緒にして大丈夫かしら?と他人事ながら心配になるようなのもあります。二人の姉妹は大きなカップに私たちは小さなカップに入れてもらいました。最初なので無難にヴァニラとマーブルを頼みました。それを持ってレジに行きお勘定をして外に出ます。いい年をしたおばさん達が嬉しそうになめなめ歩いていても誰も気にしません。こんなことにも楽しさ百倍で美味しいデザートを味わいながら街の雰囲気にひたり、ホテルの近くのお店で明日のお水を買って戻り、エルサレムの第一日目は終わりました。
まるで数百年、数千年単位でタイムトンネルを往ったり来たりしたような感じの一日でした。未明に着いたその日にと思うと尚更、深い感謝に満たされます。


(2)   園の墓・西壁 etc.

                                     1995年8月17日(木)
 朝食後、ホテルのすぐ前にある独立公園に行って見ました。昨日帰りの車から見て工事中で砂だらけな事は分っていましたが奥まで全面的に整備中で入れません。ギリギリのふちを通って、あとで高橋が到着の事とバスツアーの申込に行くヤツール社(旅行社)の場所を見て帰りました。9時にムハンメドさんが金庫の使い方を「お講義」に来てくれました。うまくいかなかった湯沸器も別のコンセントで使えるようにしてくれました。高橋はそれからヤツール社へ行き、21日午後、半日ツアーでヤドヴァシェムとベツレヘムへ。23日、1日ツアーでエリコ、ナザレ、ガリラヤへ。24日も1日ツアーでマサダと死海へ。ユナイテッド・ツアーのバスを予約して来てくれました。ヤツール社では、去年の担当者はミリアムさんで、今年の担当者はヌリスさんの由、お二人とも親切なユダヤ人女性だそうです。

 10時50分にホテルの前でタクシーを拾いました。ユダヤ人の運転手で「園の墓」の所在を知らなかったので、地図を示すと、分かりました。ダマスカス門の前を通って園の墓へ。「もう一つのゴルゴダ」といわれている所です。整然とした入口から入って順路通りに右側へ進みます。美しい花々や、実のなった木々が良く手入れされて実に気持ちのよい小道を行き、「ぶどう絞り所」を見、左右の木々を楽しみながら「何と素晴らしい散歩道」と感動しつつ尚進んでいくと、「どくろの丘」があります。19世紀に、イギリスのチャールズ・ゴードン将軍がここに来て、その岩を、その上に十字架が立てられた「カルバリ」と断定して以来、「ゴードンのカルバリ」と呼ばれるようになったそうです。「されこうべ」に似ていると言われると、そのように見える「岩」に暫く見入ってから少し戻って分かれ道を辿ります。所々にベンチを並べて小さい集会が出来る場所が作られています。やがて「地下貯水槽」。随分大きなもののようです。一部を覗くことができました。近くのやや大きな集会の場所ではどこの国の人々でしょう讃美を歌い、祈り、感謝を捧げていました。その脇をそーっと通り抜けると、お墓がありました。「イエスの墓」です。そこには「あの方は ここには おられない…」との表示が出ています。そうなのです! この瞬間にも、主は、私たち一人一人と共にいて下さるのです。日本にいる主にある友たちの中にも! たとえようもない大きさで…。でも昨日の飾り立てた賑やかな所と同じ出来事を記念する場所の対比が大きくて、自分としては陽の当たる緑に囲まれた、こちらを願う気持ちは強いけれど、向こうも今の建物がなかったらどんなだったでしょうとも考えます。しばしの間、祈りつつそこですごし、きれいな売店に寄り、私は記念の絵葉書やオリーブの木で作ったメズーサを求めました。初めて聖地を訪ねた時の事です。最後の晩餐の部屋の前の道で待っていましたら、そこの家に入ろうとした正統派の人が門の脇についていた物にキスをして入っていきました。すかさずその頃、現地のガイドでいらした吉見崇一氏が手にした聖書をあけて申命記6章を読み、あれはメズーサというもので、中に「シェマーの祈り」が入れてあり、ユダヤ人の家や部屋などの入口に必ずつけてあること、「ホテルの部屋にもきっとついてるから見てごらんなさい」と、話して下さいました。それまで聖書で同じ個所を何度か読んだはずなのに大して気にもとめていませんでした。こんなに大事な個所を迂闊なことと、その旅で一番印象に残ったことでした。それから「シェマーの祈り」は私の心に刻み込まれました。そんなことから今度はメズーサを一つ欲しいと考えていたのです。大きさもデザインも好ましく、この「園の墓」で手に入ったことは嬉しい限りです。この場所は、さすがにイギリスの心ある人達により管理されている所と感心します。入口に近い、ベンチの少し並んだ所で私たちも「美しの白百合」などを歌って讃美を捧げました。心に残る至福のひとときでした。そうしている内に遠慮がちにほほえんで傍らに立った男の方が、時間になったことを告げました。素晴らしい午前中を過ごせたことを喜び、その人達にさよならを言って、外に出ました。「園の墓」はごみごみしたアラブ人地区の真ん中にあって、「天園」のように清らかで美しい場所でした。                                   すぐ近くのダマスカス門の前はいつも大勢の人達がいます。ベドウィンの小母さん達が色々のものを売っています。陣内さんがサッと寄って高橋と二人で美味しそうな緑や濃い紫のぶどうと、可愛いいちじくを沢山買いました。ダマスカス門を通って旧市街に入り、アラブ人でゴッタ返すエルワド通りを歩いて、西壁への出口のアーチの下にある石のベンチ(ここはイエスさまの時代には「神殿の丘」と「上の町」をつなぐ橋の下で、頭上のアーチは有名な「ウィルソン・アーチ」の延長のアーチだそうです。誰でも自由に座ったりできる何でもないような場所が、驚くような歴史を秘めているのに感じ入ります)結構人通りもあるのですが、そこでスークで買ったパンとオレンジジュースで昼食、さっきのいちじくも試食しました。熟れたのは甘くて実に美味しく素敵なランチタイムでした。一休みしてから西壁に向かいます。
 西壁の前の男性の側では丁度バル・ミツバの式をしていて歌声や、喚声があがり賑やかでした。青木さんは、港教会の辻尾さんが「西壁で私の分もお祈りしてきて下さい」と仰言り、お約束したからとのことで私も御一緒に、しっかり壁に触れて祈りました。女性の側の中程にある美しいビロードのテーブルクロスを掛けたテーブルの上の雑然と置かれた自由に使える聖書も、真新しく、きれいなのが殆どだったのに感心しました。強い陽射しのもとでも皆、長い時間を祈りに過ごしているようでした。バル・ミツバの様子もよく見ることができました。男性側と女性側のしきりの所には母親や一族の女性たちが沢山集まって声援を送っています。13歳になる男の子はなかなかハンサムでした。朗読したり、皆で歌ったりしては大人の一人一人と抱き合い、双方の上気した頬が美しく、当事者はもちろん、見ている者も大変感動させられます。その子にも、きっと一生忘れられない大事な時になるでしょう。 西壁の広場から石段を上がって新しく発掘されたローマ時代の大通り「カルドウ」の列柱を見、柱に触れて見たりして水槽の所で右側に少し段を下りると、壁の上方にマデバの地図が展示してありました。六世紀のモザイク地図で、ヨルダン川東の町、マデバのギリシャ正教会々堂の床下で発見された由緒ある地図だそうです。それには現存する最古のエルサレムの町のたたずまいが描かれています。有名なこの地図は絵葉書にもなっていて中々美しいものです。また上の通りへ出て、きれいなお店を次々と覗きながら、その道を左へ曲がると、ダビデ通りに出ます。もうお馴染みになったようなこの通りでも、お買い物を楽しみつつ、ヤッフォー門へ、それからまたタクシーで帰りました。その後はゆっくり休んだり、自由の時間をすごしました。私たちは昨日買った絵葉書を沢山書きました。夕食はベン・イェフダ街で、お食後に昼間のぶどうを夫々のお部屋で頂きました。未熟なのは後日にとっておきましょう。
 明日は金曜日で夕方からシャバットです。どんな一日になるでしょう。

 下のは「園の墓」の入口で貰った日本語の案内書にでている略図です。


(3)  ヴィアドロローサ (十字架の道行き)

                             1995年8月18日(金)

 朝いつも早い陣内さんが、中々下りて見えません。珍しくお寝坊か、散歩にでもいらしたのでしょうと、お食事を始めました。十分たっても見えません。同じ階の古市さんが「心配だから見てきます」と立って行かれました。元気な方だしめったな事はないでしょうなどと言っているうちに、戻って見えて「行ってよかったですよ。夕べからお風呂場から出られないでいらしたのでホテルの人を呼んでドアをあけて貰いました。すぐ支度して下りて見えるでしょう」と聞いて皆びっくりしてしまいました。やがて何時もと変わらない笑顔で小走りに近付かれるのを見て本当に皆ホッとしました。立て付けが悪く、締まらなかったドアが突然、堅くしまってしまい、押しても引いてもビクともせず、どうすることもできず、散々叩いたり叫んだりしたけれど、誰も気付かず、朝になるまで駄目だと思い、湯船にタオルを敷いて何とかすごされた由、そういえば昨夜、釘を打つ音にしては柔らかい感じの音が暫くしていたと思い出してもあとの祭り、陣内さんだからこそ、そんな状態で我慢なされたので、私ならどうなっていたかと、皆で同情したり、感心したり、でもお元気でいて下さって、本当に感謝でした。その日の予定も結構歩くものでしたが「大丈夫」と言って普通になさっていました。
 8時に集まりライオン門へ、夕方出発する「十字架の道行き」の予備勉強をするわけです。ライオン門を外からよく見て、回りの様子も心に留めて門を入ります。「聖母マリアの生まれた家」は未だあいていません。次にある「聖アンナ教会」に行き、美しいお庭を通り、教会へ、聖母マリアの母、アンナとまだ幼いマリアの像が本当に美しい。素朴な親しみやすい聖堂で、しばしの祈り、そして外へ出るとすぐ「ベテスダの池」があります。1983年に来た時とはすっかり様子が違って発掘が随分進んでいます。まだその工事中の所もありますが、段を上がって高い所から回りをぐるっと回れるようになっています。時の推移を思いつつ、細かな説明に興味深く歩きました。ここでイエスさまに癒された〓〓えが、折角主に声をかけられながらも、それと悟ることができず、池の水のことに心をとられていた、そんな罪からどうか私たちをお救い下さいと願わずにいられません。(ヨハネ福音書5章1〜18) 帰りには、入り口近くの木陰に机と椅子を置いて売店ができていました。「こんなのがありますよ」と勧めてくれたのは、日本語のヴィアドロローサのパンフレットでした。数枚の絵葉書とそれを求めて外へ出ました。「十字架の道行き」の出発点オマリエ小学校の入り口を見てから、「笞打ちの教会」へ。門口の階段を下りると奇麗なお庭を隔てて、右側が「笞打ちの教会」で、正面はプライベイトの研究室が並んでいて、左側に、博物館と書かれた第二神殿時代のエルサレムの町の小さな模型の展示があり、その奥が「宣告の聖堂」です。正面には主が十字架に付けられるために出て行かれるところの絵、その左にいばらの冠の主の立像、右は十字架を負って歩まれる主の像が、右の壁には女性たちに話しておられる絵と一つ一つ心に迫ります。静かで美しい場所です。その床はローマ時代の敷石でした。エッケホモ教会の地下の敷石にそれが繋がっていると聞き、驚きました。一番うしろのベンチに座って、祈った後、休んでいる内にも数組の団体が入っては出ていきました。そこで暫く時を過ごしてから、今度はここでローマ総督ピラトが十字架を運ぶイエスを指して「〓〓〓〓〓人を」と叫んだことを記念して建てられた「エッケホモの教会」に行き、地下にあるローマ人が「ストルティオン」(雀の池)と呼んだ巨大な貯水池の、その深く暗い〓〓を見入りました。その昔、アントニア城塞の給水施設として造られた堀だったそうです。〓〓に出て、ローマ兵が石に刻んだゲームのあとを、複雑な思いで辿り、十字架を負われた主の絵のある祭壇のところで、佇んだあと、売店から出口への標識に従って行きましたら、売店はもう大分前に閉鎖していたようで、出口は鍵やフェンスで閉じられていました。それで又もとへ戻り、外に出ました。こんな大事な場所なのに入り口もごく当たり前の家のドアのようで、小さなプレートに刻まれた表札程度のしるしがあるだけです。日本だったら…と考えてしまいます。エッケ・ホモのアーチをもう一度よくみて、くぐってから振り返ります。そこにはそのアーチの上でさえ普通の今の人の暮らしがありました。エルサレムに来て何時も思うのですが、何千年も前と今と渾然としていて何の不思議も感じないでいられる珍しい所です。
 エルワドの通りに出た突き当たりのお店で何時もの絞りたてのジュースを頂いている時、道の向こう側で売っていた美味しそうなパンを陣内さんが買って来て下さいました。新聞の切れ端に包んだ灰緑の粉をつけて頂くとほんのり塩っぱくて実に美味しく、今日もまた楽しいお昼食でした。あとで「地球の歩き方」を見ると「このパンはベーガレーと言って日本でベーグルと呼ばれているゴマ付きの歯応えのあるドーナッツ型のパン、屋台で山積みされており、買うとザータールという解毒作用のあるスパイスをつけてくれる」とありました。
 今、丁度その時間なのかモスクへお祈りに行く人達が道一杯に通って行きます。女性は長い色とりどりの衣装を着て、真っ白な布を被り、一人で、或いは家族連れでサッサッと歩いて行きます。あとからあとから引きも切らず、何か食べながらの人も、楽しそうに話しながら行く人も様々で、見ていて夢のような気がしてきました。さっきのパン屋さんの隣に小学校上級位の男の子がきれいなサンダルの店を出していました。父親のような人がこちらから注意して見ているようでしたが、入れ替わり立ち代わり前に立つお客を懸命に説得している様子を微笑ましく見ていましたら、その内に古市さんが何時の間にか出ていって、他の人達と一緒に楽しんでから三足、嬉しそうに買って見えました。娘さんとお嫁さんと御自分のだそうです。きっとよい思い出になるでしょう。十字架の道行きは三時過ぎとの事で、大分そこで時間を潰し、また先ほどの道を戻りました。
 オマール小学校の下の売店で出発時間を確かめると4時ごろだそうです。その店の男の子は可愛く大変よく気が付いて良い子でしたので、皆で「エルサレム」の本など夫々買いました。父親も出てきて一家をあげて商売熱心です。けれどもいやな感じは少しもありませんでした。まだ随分時間があります。ほかへ回って疲れてもいけないしと、もう一度先に行った「笞打ちの教会」へ行き、その静かな聖堂で休ませて貰いました。柱の陰のベンチの上でウトウトすることもできました。大分たって、もうマリアの生まれた家も開いているでしょうと、出掛けました。行って見ると、やはり開いていました。入っていくと男の人が出てきて料金がいると言いました。「お幾ら?」と聞くと、一人5シェケルと言います。それはおかしいというと、「1シェケル」それならと案内を頼みました。地下へ行き、洞窟のようなところにマリアが生まれた記念の、一寸した祭壇がしつらえてあり、蝋燭をあげるようにと勧めます。それではと蝋燭に火を点して立てました。入り口へ戻る階段の下で何かを厳かに持って来たと思ったら「オリーヴ油です」と一人づつ振り掛けてくれました。ほんのり良い香りがして一寸嬉しくなりました。二階への階段に座って一休み、その人は奥の方へ引っ込んだと思うと魔法瓶とグラスを一つ持って来て順番にナミナミとお水をくれます。先ほどジュースを飲み、そのあとも持参の水を飲んでいた私たちには少々つらい「お付き合い」でした。飲み終わるのを人の良い顔でジッと待っているのを見ると、むげに断ることもできません。やがてお礼を言ってそこを出ましたが、まだ時間は大してすぎていません。ライオン門へ出て「城壁を少し歩きましょうか」と行ってみましたが、そこからは出口になっていて、入ることはできません。遊んでいた子供たちが「木に上れば大丈夫だよ」とやって見せてくれますが、とても無理、前に見ておいた公園へいってみましょうと又少し戻ります。腰掛けるのに丁度良い石の縁取りがあり、木陰になっていました。簡単なジャングルジムのようなのがあって三人の兄弟らしい子供たちが遊んでいました。この辺の人達は皆サービス精神が旺盛です。その子たちも何かしら芸当のようなことをしては、こちらを向いてニコニコしています。そこでくつろいで、ゆっくり過ごしました。エルサレムの街の所々にある公営のお手洗いがそこにもあったので、行ってみました。制服を来た人が付いていて、きれいにお掃除し、気持ちのよいものです。チップもいりません。安心なよいサーヴィスだと感心しました。
 やっと時間が来て、小学校へ行きました。まだ人は僅かしかいません。入口に近い広場の端にベンチが並んでいます。高橋はずっと一回りしてきて、「あの建物の奥の窓からの景色が素晴らしいですよ」とのことで急いで交替で行って見ました。細い鉄格子のはまった窓からは黄金ドームや、エルアクサのドームが間近に見え、遠くの塔なども見えて素晴らしい眺めでした。何枚かカメラに収めて戻ります。沢山の人になって来ました。ブラザーやシスターもぞくぞく集まって見えます。団体もお揃いの帽子を被った人々だけでも何組か、老若男女、様々の皮膚の色、服装があります。その内に歌が始まり、いよいよ出発。神父さんたちが先に立ちます、十字架は持っていません。皆黙々と歩き出します。歩みは割にテンポが早いようです。ステーション毎に立ち止まり歌う声が美しいのですが、思ったより声が低くうっかりしていると気が付かないのではと思うほどです。エルワドの通りに来た頃には、驚いた事に自転車は申すに及ばず、車がブーブー警笛を鳴らして、何の遠慮もなく、突っ込んで来ます。さまざまな人種の所は本当に大変だ!と、つくづく思いました。やがて第8ステーションの所で引き返し聖墳墓教会へ。そのまま、皆自由に自分の行くべきところに散って行きます。私たちは中に入り一回りして、今日は開いていた「聖ヘレナの聖堂」へ、石段の両側の、ビザンチン時代にヨーロッパから来た巡礼が刻んだ十字架の数の多さに圧倒される思いがします。どんなに苦労してここに辿り着いたのでしょう。聖ヘレナの聖堂の、床のモザイクの落ち着いた色合いが美しい。静かで素朴な聖堂です。正面右側の、十字架を抱いた聖ヘレナの絵の下の階段を下りるとヘレナが、主の十字架を発見した場所といわれる洞窟です。十字架発見の場所の標として、今見ても斬新な感じの、十字架をデザインした石が床より少し高くして嵌め込まれています。その頃のあたりの様子はどんなだったでしょう。高齢の聖ヘレナのひたむきな思いが偲ばれます。94年12月のプリント「昇天教会」に出ていた…「紀元三二六年のある日のことであった。アエリア・カピトリーナ(エルサレム)の入口で馬を降り、大地に口付けする旅人の一行があった。その指導者と思われる人物は、高齢の貴婦人であった。市内に入った婦人は、旅の疲れも忘れて早速キリスト〓〓場所を尋ねて回るのであった。彼女の心は感動で震え、目は少女のようにキラキラとかがやいていた。婦人の名をヘレナといった。ローマ帝国の新しい支配者となり、首都をコンスタンティノーブル即ちかつてのビザンティウムに移したコンスタンティノス大帝の母であった」(池田裕) 皇母ヘレナの到来によってエルサレムはキリスト教徒の聖地となり、各地に聖堂がたてられ、ビザンチン文化の花が咲き競いました。彼女は主イエスが死んで復活されたゴルゴダの丘へ行き、ハドリアヌス帝によって建てられたヴィーナス神殿を取り除き、そこに聖墳墓教会を建てました。今日その教会の地下にヘレナを記念するアルメニアの教会の聖堂があります。その聖堂へ降りて行く石段の側壁に、昔、巡礼者たちが刻んだ無数の小さい十字架が見られます。その十字架を指でなぞると、幾山河を越えて聖地に辿り着いた巡礼者達の感動が全身に伝わってきます。ヘレナ聖堂まで来る観光客は少ないので、私は片隅のベンチにじっと座っていたものでした。… という〓〓思います。巡礼の刻んだ十字架の階段を上り「コプトの聖堂」を経てドームの真下「聖墳墓」に行きます。この時は幸いにも二三人しかいなくて、直ぐに入ることができました。神父様でしょうか一人づつ招き入れてお世話をしています。潜るようにして入り口を入ると、その狭い場所一杯の棺です。イエス様はこのお墓に埋葬され、三日目に復活されたことを思うと、とても不思議な感じがします。沢山の蝋燭で飾られたその石棺にそっとふれて見ました。もう後の人が待っています。急いで出ました。前室になっている「天使の聖堂」をよく見ます。アナスタシス(復活)とこの辺りを呼ぶという説明に何か救われる思いがします。そのことがあって以来、全世界のキリスト教徒にとって、この小さい場所が世界の中心地なのです。それを示すシンボルとして、十字の切り込みのある「へそ」の形をした丸い石をのせた金と白で飾られた大きな杯「世界のへそ」と、同じ位の大きさの、沢山立てられる「蝋燭立て」が並べて置いてありました。「アナスタシス」の直ぐ傍に、「マグダラのマリアの聖堂」とその奥に「主の顕現の聖堂」があります。まだ夢心地のまま外に出ました。
 その日はまた、ダビデ通りからヤッフォー門へ出て、シャバットに備えて夕食のために先程味をしめたパンとお水を買い、例の如くタクシーで帰りました。ホテルの入り口の売店ももう閉まっていました。因みにイスラエルの一日は日没から日没までとなっているそうです。従ってシャバットも明日の夕方まで続くのだそうです。
 夕食には日本から持って来たお味噌汁や、梅干し、お海苔、乾燥葱、カップのきつねうどん、朝の固ゆで卵、それに例のパンにあの粉をつけて、という御馳走でパーティーをしました。
 朝のことも忘れてしまいそうに、いろいろの経験をした一日でした。

"ヴィアドロローサとは"(ベテスダの池の所で求めたパンフレットによる)
 エルサレム旧市街北東にあるエッケ・ホモ教会と聖墳墓教会とを結ぶ曲りくねった小路は、ヴィアドロローサ(悲しみの道)と呼ばれている。
 イエスが、ピラト官邸のあったアントニアの要塞で死刑判決を受け、十字架を担いで処刑のおこなわれたゴルゴタの丘まで歩いたと信じられているルートである。この道に沿って、イエスにまつわる出来事を記念した14のステーション(留)が設けられ、それぞれに教会あるいは修道院が建てられている。キリスト教徒にとってもっとも聖なる道である。
(各留にアラビア数字で番号が付けられ、夫々に簡単ないわれの表示がある)
1、イエス死刑判決を受ける アントニアの塔の側、オマリエ小学校。
2、イエス十字架を担ぐ   笞打ちの教会。  〜エッケ・ホモ教会〜
3、イエス十字架の重みに倒れる エルワド通りに入ってすぐ左手ポーランドのカトリック教会。
4、母マリアがイエスを見る アルメニア教会の脇。
5、クレネ人シモン、イエスに代わって十字架を担ぐ エルワド通りを右に折れると上り坂になる左角フランシスコ礼拝堂。
6、ベロニカ、イエスの顔を拭う イエスの小さき姉妹会修道院、七枝燭台。
7、イエス2度目に倒れる イエスの死刑判決文が門に貼り出されたことから判決の門と呼ばれる。
8、イエス、エルサレムの娘達を慰める ギリシャ正教の修道院。
9、イエス、3度目に倒れる コプト派総主教府入口脇の壁の一部をなす柱。
10、イエス、衣を脱がされる ゴルゴダの丘。
〜10−14は聖墳墓教会の中〜
11、イエス、十字架に釘付けにされる 釘付けの祭壇。
12、イエス、十字架上で息を引き取る ギリシャ正教の十字架の死の祭壇。
13、イエス、十字架から降ろされる  「塗油の石」
14、イエス、墓に葬られる      「主の墓」
 若者は言った"驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない"


(4)  オリーヴ山

                                          1995年8月19日(土)

 今日は、オリーヴ山の頂きから麓まで「オリーヴ山の坂道」を降って教会を尋ねる予定です。8時に外へ出ると、丁度綺麗なワゴンのタクシーが来ました。ゆったりとよい気分で出掛けます。何時もながら運転手と高橋の会話が面白い。アリという名前の運転手も興に乗って来ると、ハンドルから手を離して両手をふって話し出します。どういう訳か、不安感がありません。結構混んでいる道路でも…これは一体どういうことなのでしょう、旅人の異常心理でしょうか? こんな考えもホンの一瞬。すぐに外の景色に関心が向いてしまいます。山頂まで30シェケルと安くすみました。
 オリーヴ山頂に着くと、まだ早いせいか人は少なく、ラクダも一頭だけでした。朝のオリーヴ山からの景色、特に黄金のモスクが朝日に光って素晴らしいからと、時間を選んだ甲斐があって、本当に何とも言えない美しさ! それに気持ちのよい風! 遠くまでよく見えます。西の山の向こうは丁度、地中海の上ではと思える辺りに、雲が紫色に見える以外はすっきりとした青空で、あれがシオンの山、ダビデの町、エルアクサと黄金のドーム、ライオン門、キデロンの谷、手前には沢山の教会やお墓、今日これから訪ねる一つ一つを確かめるように見つめます。オリーヴ山にまた来ることができた! 主の歩まれた、弟子たちが、ダビデがと数えだすときりがないほど、聖書によく出て来るお山です。今朝読んで来た、94年の説教プリント「オリーヴ山」に出ていた心打つ事柄
…オリーヴ山は、主イエスの足跡が多く印されている場所で、彼の足跡のある場所に、記念として教会が建てられています。山頂から山麓にかけて「昇天教会」「主の祈りの教会」「主の泣き給うた教会」「マグダラのマリアの教会」少し離れて「ガリラヤ人の教会」そして二つの修道院。この山はキリスト教徒の聖地です。
 オリーヴ山におけるダビデ王と主イエスは、千年の歳月を隔てて、類似的でもあり、対照的でもあります。ダビデは愛する息子に背かれ、裏切られて、王位を追われ、「頭を覆い、はだしで泣きながら、オリーヴ山の坂道を上って」、都落ちしました。主イエスは、オリーヴ山の下り坂にさしかかり、視界が開けて、キデロンの谷間の向こうに、城壁をめぐらした神殿の丘の上に建つ豪華な神殿の景観を眺めた時、声を上げて泣いて言われました。「もしお前が今日にでも、平和に至る道を知りさえすれば! しかしそれは今、お前の目から隠されている。敵が来て…」(ルカ19・41) 主イエスは愛するエルサレムの悲劇的な運命を予感して、声を上げて泣かれました。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。丁度めんどりが翼の下にひなを集めるように、私はお前の子たちを幾たび集めようとしたことか…」…
を思いつつ、尚もエルサレム・ストーンが美しい街の様子を眺めます。エルサレムでは建物は皆、エルサレム・ストーンを使う事になっているそうです。やや黄色がかった淡いピンクのこの石は朝日に浮かび上がって素晴らしい景観を呈します。ずっと向こうにはYMCAの塔が、その右側に旧シティー・タワー・ホテルの建物が見えます。高いこの建物は私たちのホテルのすぐ側でよい目印になります。88年に山本七平先生御夫妻と確かこのホテルの最上階のレストランで丁度今と真反対の景色を見ながらお昼を頂いた記憶があります(その頃は栄えていたのに今は殆ど廃墟のようで、今にも落ちてきそうな、はずれかかった窓の様子を下を通る時にはハラハラ見上げる現状です)その旅でオリーヴ山にきた時は観光客と物売りの人が溢れるようで、掻き分けるようにして眺め、この街の両側から見ることが出来たわけです。
そして山本先生は今はこのオリーヴ山のどこかを基地として天の御用に御忙しくなさっておいでのことでしょう。先生の御希望でこの山に御遺灰を納められたと伺いました。そのことも私たちに一層このお山を近しいものとされています。今日ここに立ったことは生涯忘れられないことでしょう。
もう一度眺め渡して「主の祈りの教会」へ歩みを進めます。エレオナと呼ばれる「われらの父よ」の教会です。途中で年配のカトリックの老神父に出会いました。「主の祈りの教会へ行くのはこの道でしたね」と高橋が聞くと言葉がよく分からない様子ながら何か丁寧に話してから行き過ぎました。少し行くと入口があります。ここにも自称ガイドや物売りがたむろしていますが、それほどしつこくありません。中に入るとお庭の松の木に大きな松ぼっくりが沢山できていました。各国語の主の祈りの嵌め込まれた回廊を進みます。丁度礼拝中で、聖堂には入れないので正面の左側にある日本語の主の祈りは、じかに見ることはできませんが、聖堂内にあるものの模型が小さいながら柱に掛かっていました。広い前庭には石で出来たソファのような椅子が作り付けになっています。威張った格好で、そこに座った高橋をカメラに納めて、そのあたりの小さな石や松ぼっくりを記念に拾ってから、〓〓〓〓へ向かいます。一人の番人がいて、拝観料一人2シェケルを払って入ります。今はイスラム教のモスクになっていて、その中に「昇天したイエスの足跡」があります。何と言う大きな! でも何か残ったものがないときっと気が済まないのでしょう。それに蝋燭を上げろと言うのを断って、モスクの側で暫く休んで外へでました。
 いよいよ「オリーヴ山の坂道」にかかります。主が下りて行かれたこの坂道を、少し下り「主の涙の教会」へ、その途中、古代のお墓を見ることができました。「主の涙」をかたどったと言われる美しい聖堂に坂を下りながら段々近付くのが嬉しくなります。ドミヌス・フレビットという名を昨年初めて覚えてから懐かしい思いでいた所です。お庭に入り、さあ聖堂へと入ろうとしますと、多くの人が中にいて、これから礼拝をする様子、ガイドがいて「すみませーん」と締切りにしてしまいました。韓国の団体の様子です。それではと、もう一度一回りして、この教会の黄金のモスクの見える窓で昨年ガイドのユダさんが言った「私はこの聖堂と、ここから眺めるエルサレムの光景が大好きです」という言葉を思い出しながら、外からその清楚な飾り窓を見上げました。そして、ここで涙された主に思いを馳せつつ、さらに下りの道を行きます。マグダラのマリアの教会(あの玉葱の塔のロシア教会)はお休みで、しっかり門が締まっています。何曜日の何時から何時までと、ほんの僅かしか開けない所が多いようです。いよいよゲッセマネの教会に近ずくと、ワゴン車に一杯お土産物を飾って何台かの店がでていて、沢山の人がたむろしています。特にここは盛んなようです。バスやタクシーの往き来も絶え間がありません。入り口を入ると、外の喧騒を忘れます。昔からのオリーヴの木や、何時も美しいお花で一杯のお庭には、ブーゲンビリアが華やかに咲き、ジャスミンがほのかな香りをただよわせて遠くからの訪問者たちを迎えてくれます。「御苦悶のバジリカ」と言われるこの聖堂に、主のあれほどのお苦しみの場所で、今、私たちは平安に、感謝に溢れて立っています。あの夜、主が寄って祈られたという岩が大切に美しく置かれた祭壇で、どこの国の人々か礼拝を捧げています。静かに讃美を歌い、祈ってから、開けられた仕切りから一人づつ退場、その後、一般の人も祭壇に入ることができました。そっと岩に触ったり、祈ったりして出てくると、間もなくまた閉じられました。よい時に来ることができて感謝でした。窓からの柔らかい光を受けて、この岩は静かに何時も変わりなく、この場でどれほど多くの人々を迎え送ったことでしょう。この様に主によって清められ、高められる不思議を深く心にとめて、オリーヴの園にでました。鐘の塔があり、その下に小さい「祈られる主」のレリーフがありました。丁度一番古いと思われるオリーヴの木の側です。この教会も正午には閉じられます。それから「処女マリアの墓の教会」へ、この教会は地下にある洞窟の教会です。〓〓くなるような建物です。中ではアルメニアのクリスチャン達が礼拝中で一杯の人でした。そのため修道士たちの後姿と蝋燭の明りとお香の煙りが印象に残っています。次にその教会を出て直ぐ左手をしばらく行くと「裏切りの洞窟教会」ここでも礼拝中でしたが間もなく終り、静かに見ることができました。主の回りで悲しむ弟子たちの絵が正面に、その下の大理石の机の下の左右に「眠りこける二人の弟子」の像があります。このような場にこのような姿を、何時までも見せていなければならないこの二人が気の毒に思えると同時に、こうして人間の弱さを知らせて頂ける感謝をも覚えます。
 こんなに、沢山の所をゆっくり見ることができたのに、まだお昼前、信じられない気がします。ゲッセマネ教会の前にある「エリコ街道」に戻ると、パトカーが事故を調査中で混み合っていました。そこでタクシーを拾うと、私達が5人と運転手を含めて6人になるので規則違反になるため、運転手は警官に見付からないように工夫したのを面白く思いました。タクシーが走り出し、ロックフェラー博物館の所を左へ曲がるべきなのに、直行するので、高橋が「この道は違う、エルサレム・タワーホテルだよ」と言うと運転手は「エルサレム・ヴィレッジだと思った」と言い、大回りしてホテルに帰りました。こんな時にも料金は同じ始めに約束した額です。11時50分着。いつものようにロビーで精算してから部屋で一息、陣内さんのお部屋で、昨夜のような昼食をとり、夜のお食事まで自由時間。私たちは葉書を書いたり、暫くこれから行く場所のものを読んだり、お昼寝をしたりして過ごしました。エルサレムでお昼寝なんて、そんな勿体ないこと出来るわけがないでしょう、と言っていましたのに… 贅沢なこと!
7時になってベン・イェフダ通りへ出て、中華の炒飯で夕食を頂いた後、キング・ジョージ通りの小公園まで散歩、この小公園にも寄付した人の名がレリーフに刻まれていました。気持ちのよい夕風を楽しんで、お水を買って帰りました。



(5)  再び聖墳墓教会

                                        1995年8月20日(日)

 エルサレム初めての日曜日、4時ごろ目が覚めて、まだ暗い空を見ているうちに、「もうそろそろ川崎では礼拝の始まるころ」と、皆さん元気で川崎も、港も、上落合も、お集まりですようにと、お祈りしました。ここではどんな日になるでしょう。 9時に出発して、聖墳墓教会へ行きます。例の通りヤッフォー門までタクシーで、それからもう慣れた道を教会へ、何時ものように二階へ上がります。カルバリの聖堂(ゴルゴダ)は今日も沢山の人が来ています。私達は三度目になります。何だか夢のよう、あのベンチで、夫々に祈ります。このような恵みの日々を与えられる感謝が溢れます。日本にいる、あの人この人、一人一人を思い、お支えを願います。今の日本の現状も、このイスラエルの情勢も、どちらを向いても難しいことばかりの時、すべての「情報」から遠ざかってこのようにして過ごせることに深い感謝を覚え、暫くお祈りして、階段を下りて、殉教者聖堂(ギリシャ正教)に行き、丁度守られていた礼拝に参加しました。聖墳墓教会の中で一番大きい聖堂の、真ん中の通路の中央部には香炉や、蝋燭立てなど飾られていて、その両側には、人がぎっしり立っています。正面の祭壇は奥行きが深く中頃で四角い窓のある仕切りがあり、その前にも奥にも着飾った僧服の人がしずしずと動き回っています。祭壇の左脇には一段高い特別の席があり、そこには黒っぽい服と冠りものをつけた地位の高そうな人が座っています。讃美の歌の間にも次から次へと祭壇の奥から手に何かを捧げて来てはその前に膝を突きます。するとその人は慇懃にそれに対して十字を切ります。進み出た人は丁寧に礼をしてまた奥へ、何度かそのようにして、やがて奥から十字架を先頭に聖体、お香など捧げ持った行列が通路の飾りをぐるりと回るように、人々の前を行進し、参列の人達はそれにかるく礼をしています。また奥へ戻り、礼拝は終りました。今日は本当に夢の中にいるような気持ちです。
それからマグダラのマリアの聖堂の脇にある「顕現の教会」へ行きました。ここでも礼拝がもたれていました。韓国の人達らしい一団で会堂はほぼ一杯、まもなく礼拝は終り、皆、出て行ったので、椅子に掛けて黙祷、正面の祭壇は簡単なものでしたが、左右の壁には小さな影絵のような「十字架の道行き」の群像があります。左から右へ連続絵巻のように作られています。心ひかれて、丁度カメラのフィルムが切れていたので、一度出てからまた高橋のカメラでそれを撮りに戻り、「マグダラのマリアの聖堂」に出た途端「顕現の教会」の扉は又締まってしまいました。礼拝の時以外は締まっている様子です。またもや良い時に恵まれました。「聖ヘレナ聖堂」(アルメニア)、「聖十字架発見の聖堂」(ラテン)、「アナスターシス」(ロタンダ)と一回りして一旦外に出て、すぐ右側の建物に入ります。「40人殉教の聖堂」は礼拝中で入れず、「聖ヨハンネス聖堂」に。丁度礼拝が終り子供たちの聖体拝領のときでした。皆、奇麗な日曜日の服を着て、大人しく列をつくって待っています。大きな日本のお菓子パン位のパンを頂いて、食べながら戻ってくる子、しっかり抱えて来る子、色々ですが、親はどこにいるのか、小さな子も相当長い列の間も一人でキチンと立って待っているのに感心しました。中には大きな子が一番小さな子の前に割り込んで、すましているのもいましたが周囲にいる筈の親は知らん顔です。終って出て来た時には、ちゃんと迎えに来ていましたので一部始終見ていたことは確かです。可愛い子供達の生き生きした目を思いつつ外に出ました。
 ムリスタン通りからカルドーの方へ、バーントハウスという紀元70年にローマ軍に焼かれた上流のユダヤ人の家の焼け跡の展示を見るつもりで行ったのですが、此の時間はスペイン語で説明していて、英語のは大分後になるとの事で中止し、すぐ近くの「広い壁」の遺跡を見て、「ウォール博物館」を探します。街角の小さな道案内板に矢印がついているのを辿って行くと、素敵な楽の音が聞こえて来ました。行ってみると、御夫婦らしい奇麗な中年の女性がヴァイオリンを弾き、男性がアコーディオンを合わせていました。聞き慣れた曲が次々と演奏されました。「屋根の上のヴァイオリン弾き」の中のや、「黒い瞳」等々…暫く聞いてから歩き出しました。例の正統派の黒い服の人が家族と共にいたので、高橋は博物館への道を聞きました。「私は英語を話せません。イーディッシュ語なら」と恥ずかしそうにほほえんでいます。しかしとても親しげな様子なので、高橋は「サンキュー」と言い、握手し、二人の小さな娘さんとも握手をして別れて来ました。私達は、そこに出ている野外のレストランの様子などを見ながら待っていました。すると、そのテーブルの一つについていた年輩の夫妻の男性が高橋に話し掛けています。そして道も教えて下さった様です。あとで聞くと「あなたは少しミスをしました。男性はたとえ幼い子供とでも女性と握手をしてはいけないのです」と忠告して下さった由、私達が教わった方向を歩き出して四つ角で曲がろうとすると、見ていたその方は飛んで来て真っ直ぐに行くように教えて下さいました。御親切に対して皆で丁寧にお礼をいうとニッコリして戻って行かれました。それからそれらしいと思える建物があったのですが、入口が分かりません。通り過ぎて暫く行くと石段があり、そこから見える景色が思いがけない素晴らしいものでした。オリーヴ山、金銀のモスクなどカメラに納めて、近くの建物の、低い植え込みの縁石に腰掛けて、お水や、おせんべいなどの、おやつを頂いて一休みしている内に何人かが何かを探しながら歩いて来ては戻って行きます。私達と同じ行く先なのでは、など話している内に、その中の一人が、その通りの並びの右側に入って行きました。あれかも知れない、と行ってみるとドアが開いていて、まさにそれが博物館の入口でした。何度か通り過ぎたのにドアが締まっていて分からなかったのです。すぐ左側に机を置いて若い男性が座っていました。入館料を払うと切符に一寸破り目を入れて返してくれました。そしてパンフレットはと高橋が聞くと、「何語の?」と聞いて英語のをと答えると立っていって一枚だけ持って来て「これを見て下さい。終わったら戻して下さい」とのこと。中に入るとエルサレムの神殿の模型や、昔の風景の模型や、道具などが、あるものは機械で操作して、遊びながら学べるように工夫されたものがありました。子供を連れた親が、こまごまと説明しています。イスラエルではあちこちで、よくこんな光景を見掛けます。真剣な調子で一つ一つ随分長く話していますが、子供も静かに見入ってよく聞いているのが素晴らしいとおもいました。切符以外に記念品はありませんでしたが、貸してくれたパンフレットを返してから外へ出ました。あの音楽家たちは今度はイスラエルの民謡を演奏していました。「黄金のエルサレム」を演奏した時、陣内さんも、青木さんも側に出ていらしたので、高橋が写真を撮りました。お礼を前に置かれた箱に入れて余韻を楽しみつつ歩き出しました。
 それからカルドー、ダビデ通りを経てヤッフォー門の手前にある、去年高橋がずっと利用していた両替屋のハッサンのお店へ寄ります。着いた日にも、それから此所を通る度に寄る店です。年輩の人を想像していましたが、まだ若い人でした。勢いよくピョンピョンと跳ね上げるようにしてお札を数えるのが手品のようで面白く、褒めて上げたら「サンキュー」と得意そうにしていました。客はひきもきらず繁盛しています。
 ちなみに今回の旅の準備に私が円をドルに替えた時はチェックでなくキャッシュにしても1ドル85円だったのが今は97円位、約百円とすると、シェケルでは約3シェケルになります。ハッサンの店では1ドルが2・95シェケルなのでホテルなど(2・75シェケル)より有利です。 そのお隣の店で胡麻のパンを買ってから、何時ものようにタクシー乗り場で料金を交渉の後、ホテルに戻りました。お昼は陣内さんのお部屋で、さきほどのパンと、朝取



(6)  エルサレム第二神殿時代の模型、
           ヤド・ヴァシェム、ベツレヘム

                   1995年8月21日(日)

 朝になって起き出す頃には、高橋の具合も大分落ち着いた様子で「何とか大丈夫」と聞いて一安心。この日もお祈りしてから下におりました。お食事も、控え目ながらとることができました。何時も持って出るお水の代わりにスリムボトルに今日はお湯を貰い、それをもって出掛けることにしました。午前中に第二神殿時代(紀元前五三八年〜紀元後七〇年)のエルサレムの都の50分の1に縮小された精密な模型を見に行き、午後はユナイテッド・ツアーのバスでエルサレム郊外にあるホロコースト記念のヤド・ヴァシェムとベツレヘムを訪れる予定です。一昨日、オリーヴ山まで行ったタクシーのアリが、予約をさせてというので今日朝9時に、と言ったのに、時間が来てもやって来ません。5、6分過ぎた頃、高橋が電話すると、体調が悪くて行けないという由、それなら連絡すれば良いのに、と早速外へ出て別の車で行きました。ホーリーランドホテルまでアリは往復60ドルと言ったのに、このユダヤ人の運転手は「片道35シェケルとチップを」と格段に安く、私達にはこのほうがラッキーでした。この人も面白い好人物でした。ホーリーランドホテルまでと言うと、別の方向へ行こうとするので高橋が注意すると、「ああモデルの方ですか、もう一つホーリーランドホテルがあるんです」と…。その朝、エルサレムの北部でバスが爆破され死傷者がでたと聞いて驚きました。「あんなことをするアラブ人の頭には石が詰まっているのだ」など、いろいろの事を話しながら行きます。「帰る時には迎えに来る」というので、一時間後を約束し、「若し来るのが10分遅れたら行ってしまうから」と言って、別れました。
 木のこんもり茂った入口で、若いイスラエルの兵隊の一団に会いました。切符を買って、それに続いて入ります。明るい陽射し一杯の広い模型の町が目の前に広がります。先ず一回りしてから、主立った所を写真を撮りながら、丁寧に見て回ります。此の日、私の一番印象に残ったのはカルバリの丘でした。聖墳墓教会や園の墓を訪ねたばかりと言う事もあるでしょうが、城壁の外に少し盛り上がったような所、あそこに十字架が、と思うと心に迫るものを感じます。寂しい所だったのでしょう。目を移すと、私達がその土台に上ったファサエルの塔、ベテスダの池、神殿(この立派な場所はよそよそしい感じがします)黄金門の形も今とは違いました。歩みを進めて、シロアムの池、ダビデの町、上の町、下の町、ウィルソンやロビンソンアーチ、西壁、ダビデの墓、ヘロデの宮殿などいろいろ教わりながら、今までに知っていたことや、読んだことと合わせて、想像も広がっていくのを覚えます。ふと立ち止まると暑さがせまってきました。日陰でお水を飲み、配られた飴を頂いて息をつきます。高橋は大丈夫そうに見えます。このままよくされますように…。売店でパンフレット(5ケ国語、英米仏伊日)や絵葉書を買っている内に時間がきました。その辺りからの景色をみてから出て行きます。先ほどの道に出て木陰に腰掛けて、タクシーを待ちます。5分ぐらい遅れてやって来ました。「日本人を乗せて稼いできました」と御機嫌。賑やかに話しながら、割に長い道程もアッという間です。エルサレムで最高級のキング・ディヴィドホテルの玄関につけます。これも高橋のジョークの一つ。まだお昼にも間があるので、その辺りを散歩しました。高級店が並んでいて、シーンとしたこのような場所特有のよそよそしさに、やっぱり「ベンイェフダー街が良い」と言うことになりました。そのホテルの直ぐ向かいにYMCAの立派な建物があります。エルサレムの何処からでも見える高い塔には大きな「セラピム」(イザヤ書6章に出てくる天使で、飯島先生の「牧歌」誌に出てくるレストランの名前になっている)の像の彫刻があります。広い前庭には、噴水もあり、大きな松や糸杉が木陰を作り、お花もあって、よい環境を作っています。いつかこの脇の建物にイスラエルの歌を聞きに来て本当に楽しかったことを思い出します。あの時も、山本七平先生がお元気で本当に素晴らしい旅でした。本館の内部も一寸見に入ります。YMCAの会員になると、殆ど世界中の町にある施設で手軽に泊まれるので、ここを宿にしている人も多いようです。一階部分を見て、地下のお手洗いを利用し外に出てすぐの、広いポーチの半分を占めているビーチパラソルの何本か立ったレストランの席に着きます。夫々、チキンやハンバーガーを、高橋は野菜のサンドイッチ(殆ど残しましたが)を頼み、アイスコーヒーやレモンティーを楽しんだ後、暫く雑談して過ごしました。雀が沢山いて、立って行った人の後のテーブルで懸命にパン屑かなにかつついています。その様子が可愛くて皆で見とれてしまいました。お給仕のアルバイトの娘さんと一寸言葉を交わしてから、先程の前庭に出て、バスの時間を待ちます。まだ大分あるのでゆっくり休んでこれからに備えます。松や糸杉のボックリが沢山落ちているのを拾ったり、珍しい小さな花を見付けたり楽しい一時でした。道路の向かい側のバスの事務所の前に何人か人が立ち始めたので、私達も腰を上げました。どうやらその人達は別の事だったようで行ってしまいました。高橋が事務所で聞いて見ると、「待っていて下さい」とのこと。エルサレムの旧市街と今の大きくなった市内が裏表になった便利な地図を4枚だけくれた由、二人はカップルだったからでしょう。暫く待つと、一台のバスが止まりました。沢山人が乗っています。ガイドが下りて来て、事務所に入り、直ぐ出てきて私達を案内しました。一日ツアーで他を回って来た人達と一緒になるようです。此所から乗る人は他にはいません。青木さんと陣内さん、高橋と私、そして一番前の助手席に古市さんと席がきまります。ガイドはあまり説明も多くはなく、淡々としている中年の女性です。暫くするとヘルツェル(ユダヤ建国の父と言われている人でこの丘にお墓がある由)という字が目立つようになり「ヘルツェルの丘の入口」という所があって、まもなくヤド・ヴァシェムに着きました。ガイドの「本館で余り時間を取り過ぎると、大変素晴らしい子供館を見逃してしまうことになると、残念ですから気をつけて下さい」との言葉を心にとめてバスを下りました。バスターミナルから真っ直ぐの道路の両端と、真ん中に二列の並木路があり、それらが第二次世界大戦中ユダヤ人の命を救った異邦人を記念する「正義の人の並木路」で一本ずつに国名と名前のついた札が添えてあります。ポーランドと書かれたのが圧倒的に多いようです。残念ながら「六千人の命のビザ」を出して尊い命を救った日本の外交官、杉原千畝さんのを探す時間はありません。「犠牲者と勇士たちの記念本部」に着きます。正面の真っ黒の背景に鈍い金属の彫刻が言い知れぬ力をもって迫ります。「記憶の壁」と聞きました。先日川崎でも開かれた展覧会で見た以上の記念の品々が展示されています。何度見ても深い悲しみに沈んでしまいます。写真を伴ったワルシャワ・ゲットーの下水道や橋の模型を潜り、痛ましい写真の数々を見て戻り、外に出ます。陽射しが殊の外強く感じられます。引き続き「正義の人の並木路」を行き、「勇士の柱」「静かな嘆き」などの像を見て、「記憶のホール」ヘ。ごろごろした石を積んだ壁の間に大きな抽象的な彫刻が嵌め込まれています。一歩中に入ると広い、薄暗い灰色の床に置かれた壊れた器の中に「永遠の火」が燃えていて、一か所小さく開けられた天井の明かり取りからの光が床に嵌め込まれた強制収容所のあった地名を浮き上がらせています。非常に厳粛な雰囲気です。又、別の建物へ。「シナゴーグ」簡素な様子が人々が満ちていたであろう時を思わせ一層寂しさを増します。子供館の時間を思い、その建物を探します。コルチャック先生の像があります。何時か映画で見たり、本で読んだりした場面を心に甦らせて、子供館へ。此所のことについては、昨年、高橋が帰って来て最初の日曜日にお話した「ヤド ヴァシェム」のプリントにあるように、「子供館の外には、20本の途中で折れた柱が立っていて、人生の中途で命を断ち切られた百五十万人の子供たちを象徴化していました。子供館の内部は真暗で、手摺につかまって移動する中、天上には無数の明りが点され、幼子の写真が示され、厳かな声で、殺された子供たちの名前と年齢と出身地が呼び上げられていました。私はこの瞬間ほど芸術の力に圧倒されたことはありません。真の芸術とは、真似事ではなく、事実の中から真実を啓示する力であると思います。事実に直面しただれもが、そこから真実を見出だしているわけではありません。事実の中から真実を抽出して文章に書き留めたり、絵画や彫刻に具象化するためには、創造的な想像力とそれに見合う技術とが必要なのです。人生の中途でその命を断ち切られた子供達は、芸術作品を通して、戦争の罪を告発する証人として甦っているのです。いたいけな子供の顔写真を見、その名が呼び上げられ、真暗な天空に無数の灯を見上げた時、戦争の罪を憎み「我ら罪を犯したり」との悔い改めの思いに涙が溢れ、その涙が私の心に浄化を与えているのを実感しました。芸術もここまで来ると、宗教の領域に入ります。…」とあった今朝読んで来た言葉が一番ふさわしく思えます。只、今年は去年と違って、暗い天上に子供の写真は出ず、名前が読み上げられていただけでした。暗い中に一歩踏み込んだ時、高い山の中の月のない深夜に星空を見るような気がしました。そして今、いろいろのことが起こる世の中で、二歩目には何があるか全く分からない、このような場所に不安なく足を踏み入れることが出来るのは、皆の心に悔い改めの心が沸き上がっているからなのでは、と思いました。夫々受けた感動に言葉もなく外に出ます。野外の多くの彫刻や展示を見ながら、並木道を戻ります。売店でパンフレット(日本語)と絵葉書を買って、バスに戻りました。すると、ガイドが先に乗った私に何故か「此所へ座って下さい」と前の古市さんの席を指します。理由が分からないけれど、間違ったのかもしれません。言われるままに荷物をとってきて、古市さんと入れ替わりました。一人離れていらしたのを案じていた所で丁度幸いでした。中々戻ってこない人をガイドが迎えにいきます。見ていると一緒に戻ってきながら、また売店によって飲み物等買っています。時間は大分過ぎているのにガイドも大変です。
 やっと出発、途中で、「もうすぐ右側に見えるのがラケルの墓」というのでカメラを構えて待ちました。工事中の様子であまりはっきりしませんが、低いドームが塀の向こうに見えた、と思う内に通り過ぎてしまいます。何とか撮れていると良いけれど。創世記の35章16節から「ラケルの死」について「一同がベテルを出発し、エフラタまで行くにはまだかなりの道のりがある時に、ラケルが産気づいたが、難産であったラケルが産みの苦しみをしている時、助産婦は彼女に「心配ありません。今度も男の子ですよ」と言った。ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき、その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付けたが、父はこれをベニヤミン(幸いの子)と呼んだ」とあるのを後で高橋から知らされて、旅の途中でこんなめにあったラケルに同情を禁じ得ません。                         間もなくベツレヘムの町が見えてきました。西瓜をゴロゴロ並べたお店があったと思うと、急に古い町並みに入り、見覚えのある「飼い葉桶」広場に着いてバスを下り、ガッチリとした石壁の聖誕教会の小さな入口に向かいます。薄暗い聖堂の中で、大きく2、3か所、まるで工事場のように床が剥いであります。そこには床から1m近く下にモザイクが残っています。ビザンチン時代によくあった様式の物の由です。礼拝堂の正面の脇の石段を下りると「聖誕の洞窟」があります。イスラエルに関する本に必ずある写真でお馴染みの白い大理石に大きな銀の星が嵌め込まれた聖誕記念の場所、山本七平先生が笑いながら「お生まれになったイエス様を此所から此所(星から僅か離れた器の所)へ移したそうです」と仰言っていたのを思い出します。確か二度ほど可笑しそうに繰り返していらしたのを覚えています。この教会の修道院にあるヒエロニムスの書斎を先生はお好きでした。今回も何とか寄りたいと願ったのですが、果たせませんでした。急いでバスに戻らされて、ガイドが「あとで又時間があります」というので、一縷の望みを抱いたのですが結局お土産やさんに連れていかれ、そのままでした。帰りのバスでは眠っていたらしく、目が覚めるともうエルサレムの市中でした。他のお客はテルアビブ辺りかららしく私たちが一番先にホテルに送られました。4時45分ホテル着。
 高橋は具合がよくなく、元気がありません。夕食は失礼して、部屋で持って来た葛湯を頂いて、休みます。私も食べ過ぎ気分なので朝のパンを一つ頂いて休みました。長い一日でした。やがて鼾をかきはじめたのに、ホッとして何時の間にか眠ったようです。ふと目が覚めると、外は大変な風、日本の台風のようです。まだ8時過ぎ、皆さんはどうなさったかと考えていると高橋も目を覚まし「ビッショリ汗をかいた」とパジャマを取り替えました。熱があったようです。「この風はハムシーンかな」などと話す間も怖いように吹き付けています。一寸眠れそうもありません。高橋も「地球の歩き方」など読み始めました。まもなく「こりゃ駄目だ」と。どうしたのかと思うと、あす行く予定のイスラエル博物館は、火曜日は16時から22時まで開館とあります。「代わりを何処にするか考えなくてはならないが、『神殿の丘』にしよう」ということになりました。きっと、皆さんも賛成して下さるでしょう。などと話すうちに、何時の間にか風も殆ど治まった様子、10時を過ぎています。その内どちらからともなく、また眠ってしまいました。
 次に目覚めた時は4時すぎでした。高橋は「よく眠ってすっかり良くなった。もう大丈夫、感謝だ!」と大元気。本当に嬉しい。お風呂へ行ったと思ったら、もうパジャマを洗濯して干して来た由、「奥さん失業だわ」と思いました。こちらに来てから、毎日自分の物は帰ってお風呂に入った時さっさと洗ってしまうのです。お水のボトルは何時もリュックに入れて二人分、持ってくれるし、私は大助かりだけれど…。申し訳ない事です。6時近くまで、ゆっくりして、感謝のお祈りをし、下におりました。                                                             

って置いた茹で卵やバターそのほか、美味しくなったブドウなどで簡単なお昼を頂き、あとは自由時間、夜、7時に集まって今日はホテルの左側(何時もは右へ)に道をとって出掛けます。途中の空き地で、日本の路上でもよくあるような露店が市をなしていました。アクセサリーや、いわゆる生活便利品など…一寸覗いてから、通りへ出ます。ベンイェフダー街に出る途中にオステリヤ・パパスというお店があり、ここがよさそうと、外のテーブルの一つにつきました。一寸風が強いめですが心地良い所です。パスタ・マッシュルーム&クリームソースというのを注文しました。やがてその店で働く可愛い娘さんが、きれいな日本語で話し掛けて来ました。モーリさんといって、ヘブライ大学で日本語を専攻している由、中々日本語を話す機会がないのが悩み、とのこと、こういう人を企業でも、役所でもドシドシ起用すればよいのに、と残念な気がします。お食事も量は多いけれど、美味しく頂けました。この店には又来ましょう、とモーリさんに送られて、楽しく散歩に…
 帰りに高橋がお水を買って帰るというので一足先に帰りました。間もなく戻った高橋はお水とピュアミルクと書かれたハーフサイズの牛乳の紙パックを買ってきて下さいました。毎日朝と就寝前に牛乳を頂く習慣の私たちは此の所、朝はシリアルと一緒に頂けますが夜のがなくて一寸寂しかったので早速頂きました。確か一、二日前、他の方々も同じものを買っていらしたようでした。大きなグラスに、なみなみと二人分、一口飲んで「これは随分強い感じのヨーグルトじゃないか」と、もう一度箱を見直しても間違いなくミルクとなっています。高橋は全部頂きましたが、私はとても続きません。勿体ないけれど半分以上流してしまいました。その明け方から、高橋は、せっせとお手洗いに通うことになりました。初めの時、すぐ正露丸を飲みました。その日は午前も午後も遠出を予定していますので大丈夫かしらと心配です。どうぞ早く元気になれますように、回復を祈りつつ、朝を待ちました。