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(13) ダビデの町
                                          1995年8月28日(月)

 昨日も明け方に思ったことですが、エルサレムへ来て何日と数えていたのが何時の間にかエルサレムにいるのは、あと何日となって来ました。日本から何も連絡がない(お互いに)のは無事でいる証拠と心からの感謝を捧げました。留守にした二つの日曜日も終えて、もう次の日曜は日本で迎えるのだと思うと何だかあっという間の感じがします。同行の方々も元気で通させて頂きました。川崎では学園の夏期講習も、もう明日までで終り、二学期は9月3日から開始の予定です。生徒達も皆、良い夏休みをして元気で始める事が許されるように、旅も終りまで、すべてお守り下さいと祈ります。
 今日はダビデの町を訪れる予定です。朝食の後、私どもの部屋に集まってオリエンテーション。サムエル記、歴代誌、列王記、イザヤ書、ヨハネ伝等から、関係の個所を学び、特にイザヤ書7章3、4節の「あなたの息子のシャル・ヤシュブを連れて行き、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい『落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない』」との御言葉が取り次がれたあの場所へ行くのだと思うと心がときめきます。「落ち着いて静かにし、恐れるな」の言葉を何度心にとなえたことか、どれほど助けを頂いたことか計り知れない程です。三度もその場に立たせて頂ける喜びは例え様もありません。(実際は初めての時は無我夢中でそのような言葉とも結び付かなかったのですが)。 いつものように9時に集まり、糞門までタクシーでと丁度来たのを呼び止めました。ユダヤ人のタクシーの運転手は「糞門」がよく分からないらしい。高橋が地図で教えると直ぐに分かって、新門−ダマスカス門−ヘロデ門の外側の大通りを通って、ライオン門の傍の道を走って糞門に着きました(25シェケル)。車を下りてウオーレンのシャフト(95年のプリント元旦号「言葉の力」、9月17日号「ダビデの町」参照)に向かいます。この道を歩くのは初めてで、山間の道を行く風情です。やがて小さな鉄格子の門があり、鍵が締まっていました。開く時間は過ぎていましたが「その内に開くでしょう」とこちらものんきに、その辺りのドライフラワーになったアザミやほかの植物を楽しんでいると、一団の人達がやってきました。まだ開けに来る気配はありませんが、その人達と話しながら待ちます。イタリアからの人達で皆なかなか朗らかです。「アラブ時間だ」と高橋が言うと、どっと笑い声があがります。その内にずっと下の方にイスラエルの兵隊さんたちの一団がギホンの方から上って来たのが見えました。その中の一人がこちらの方を見ながら、近くの家に入って行ったと思うと間もなく一人のお爺さんが鍵を手にして出てくるのが見えました。「ああ、やっと開けてくれるようね」とゆっくり坂道を上ってくるその人を待ちます。おもむろに鍵をあけて「さあ、どうぞ」と。がやがやと入り交じって入るとイタリアの人達は早速石垣の側に集まって説明を聴き始めました。私たちは今朝聞いたことを思い出しながら、エブス人の城壁、その上のダビデの時代の城壁や復元された家屋、ハスモン朝時代の城壁などを実際に見ながら説明を受けます。「竪穴」の方へ向かおうと山道を下りていくとイスラエルの兵士たちが(女性が多い)石段に腰掛けて先輩の兵士から説明を聞いていましたが、さっと道を開けて通してくれました。ありがとうと、通り抜けてウオーレンの竪穴の入り口へ、入場料(3シェケル)を払って螺旋階段を下りていきます。一つの部屋になっていて、この場を調査した人達の写真や当時の状況などの展示があります。もう一段下に下りるとイスラエルの兵士たちが何人か上がって来ました。今度は男性たちですが、皆フーフー息をきらしています。それを見て青木さんも陣内さんも「これ以上は行かない」由、三人で奥まで入りました。薄暗い明りが所々についていますが、暗くてとても危ないので懐中電灯を照らしながらそろそろ進みます。青い鉄パイプの手摺につかまって下りていくとそれ以上は入れないところに仕切りの手摺があります。どこまで深いのか恐ろしいほどの暗い穴でした。結局そこからは綱でバケツを下ろして、ギホンの泉から引いて来た水を汲み上げることになっていたようです。それにしても昔の水汲みの仕事は重労働でした。しかし、その竪穴からダビデの兵士たちが侵入してエブス人の要塞を陥としたとはとても信じられない位です。「ダビデとバテシバ」の小説ではバテシバの父親がダビデに内緒でこの出口の番をしている兵士を手なずけて三人で侵入しダビデの軍の手引きをした、となっていたのも思い出します。ほっと息をついて引き返します。途中で「ここまででいいです」と止まってしまわれた古市さんの所まで来て、振り返って写真を撮りました。鉄の階段に足音が響くだけで静かです。こんなところから水を汲み上げるなんて、水に恵まれた私たちにはとても考えられないことです。岩の道はすべるでしょうし、どんな思いで上ったのだろうと考えます。更に上って皆さんと一緒になりましたが、ゆっくりだったせいか、だれも息をはづませてはいません。あの若い兵隊さん達は、そんなに急いでいたようでもなかったのに、きっとそれまでが強行軍だったのかも知れません。外へ出て入り口の表示などカメラに納めて、いよいよギホンの泉に向かいます。一番後から見えた古市さんが、日本人の三人連れの旅行者と、お話ししてから、追い付いてみえました。ギホンの泉に行くと言ったら、「本当にいらっしゃるのですか?」と何だか気掛かりそうだった由、高橋は「あれは旅行社の吉見さんのお話の方々じゃないのかな」と言って、そのまま気にもとめずに歩き出しました。陽射しが強くて暑いけれどエルサレムは汗ばむことが殆どないのは有り難いことです。途中からアラブ人が「ガイドする」とついてきます。高橋が何時ものように「私がガイドだ」というと「自分がギホンの泉の鍵を持っている」と言います。取り合わないでいると後から来たイタリア人の方へ行きました。私たちはそのままどんどん進んで行きます。やがてギホンの泉の前の広場に出ました。以前開いていた売店は締まっていて、ひっそりしていると思う間もなく、一頭のロバを連れた5、6人の子供達が現われました。「来た」という感じで見ていると果たして「ロバに乗れ」の「ワン ダラー」(1ドル下さい)の「ガイドする」のとうるさいこと。広場を横切って「さあ、ギホンの泉だ」とその方を見て驚きました。泉の入口の鉄格子の前に錆だらけのドラム缶が置いてあります。その間も子供たちはうるさくつきまとって離れません。とてもイザヤの言葉に感慨をもてる雰囲気ではありません。その内に例のイタリア人の一行がやって来ました。さっきのガイドがついています。子供たちは追い払われ、やっと私たちも中を見ることができました。見たところ何だかごみがあったり、大分汚れた感じがします。水かさも今は多いようです。高橋はできればシロアムまで中を辿って行けたらと濡れる準備もしてきたのですが、とても無理な様子、そのまま外のキデロンの谷間の道をいくことにしました。砂が濛々とたっていて陽射しがきつく、短い距離が長く感じられます。やっと右側に目当てのミナレット(イスラム教の塔)が見えて、シロアムの池の側に来ました。「王の庭園」が左側に、木々の茂った緑地が美しい。ここにも何人ものアラブ人が入口でたむろしています。イタリアの人々も来て一緒に入りました。「日本人を入れるな」とかいろんなことを言っています。それでも何とか側まで行けました。イタリア人たちの説明が始まるので、私たちはそこそこに外へ出ました。「王の庭園」を眺めていると、そこまでついてきた中学生位の男の子が、高橋に「お金を払ってくれ」と言います。「何のために?」「ぼくたちは此所を掃除しています」「ではいくら?」「一人につき2ドル」「バカバカしい額だ」「ではいくらなら払ってくれますか?」「一人につき1シェケルなら」「それでOK」お金を受け取ると、ようやく少年らしい笑顔になって握手をしました。上の通りでタクシーを待ちながら、高橋はその辺りのことをいろいろ話してくれました。 キデロンの谷間にあるその通りから歩いて上るのは大変だなあ、と思っていると折よくタクシーが来ました。今度はロックフェラー博物館に向かいます。高台にあるこの博物館の前の見晴らしの素敵な事! ヘブライ大学の塔が大分近く見え、オリーヴ山もずっと右の方に見えます。珍しいのや、可愛い花が沢山咲いていて暫く眺めてから中に入ります。大きな建物で中々立派に展示されています。順序に従って見ていくと数世紀宛に分けてその時代の物を展示した部屋が続きます。カルメル山で発見された九万年以上も前の古器から銅器時代、鉄器時代の遺物がある由、J・D・ロックフェラーの資金援助で、英国が建設したパレスチナ最初の考古学博物館と聞いて、来て見ることができて幸いだったと思いました。部屋ごとの仕切りはないので、ずっと先まで見通せます。ところどころ部屋の間には皮の柔らかいクッションのベンチがあり、休みながらゆっくり見学できます。一番奥のベンチには一人の年取った職員がいて、それとなくガードしているようです。日常生活に使われたようなものから、美術品、お墓のものに至るまで大変興味深く見られます。絵などもあって一通り見終わると随分勉強したように思えました。美しい中庭を見ていると、「六日戦争の時にはヨルダンに統治されていて、この庭が兵士たちの遺骸で埋まった」と聞いて何処にも大変なことがあったのだと、今の静かさを持ち続けることができるように、と祈らずにはいられません。外へ出てダマスカス門まで歩きます。右側には、来て間もなく行った「園の墓」の山が見えました。丁度イスラムのお祈りの時間に近いらしく、沢山の人がダマスカス門に向かって歩いています。門の手前でタクシーを拾い、ホテルに帰りました(1時過ぎ)。夕方ロビーでウォーレンの竪穴の所で出会ったガイドさんに会いました。やはり吉見さんのお話の小出さんたちと案内なさっているトモコ・ステインさんという現地のガイドでいらっしゃる由、「今日はどこへいかれましたか」「ダビデの町〜ウオーレンのシャフト〜ギホンの泉〜シロアムの池〜ロックフェラー博物館です」「ギホンの泉とシロアムの池の辺りは危険なので、ガイド仲間は避けています」(後日旅行社の吉見さんにその話をしたら、ギホンの泉とシロアムの池、糞門の辺りとオリーヴ山の上も盗難やいざこざがあるとのこと)何ごともなく済んだ事を感謝しました。私たちは暫くお話ししてから分かれて夫々部屋へ戻り、遅い昼食の後、4時から買い物にでかけます。昨日のデパートに行き、おかずを買う時、温めて貰うのに便利だからとタッパーのような容器を買いました。もうあと僅かな日数だけれどと銘々ほかのものと一緒に買って御馳走を仕入れて戻りました。帰ってロビーで開けて見たら容器の一つが壊れていました。もう一度行って取り替えて来なければ、と皆で出掛けようとすると古市さんが「私が行ってきましょう」と気軽にそれを受け取って、さっと出ていらっしゃいました。「それは大変!申し訳ありません」と見送って部屋に戻って「あら!大変!古市さんはちゃんとデパートに着けるかしら、あの方全然言葉が」と迂闊にお願いしてしまったのに慌ててしまいました。追い掛けようと思いましたが、うまく会えなかったらミイラとりがミイラになってしまう恐れが多分にあると思い返し、暫く待ってみることにしました。何も手に付かずにいると、やがて元気に帰ってみえました。「ああ、よかった」と胸撫で下ろしたことです。でも考えて見れば一人でお店に出掛けて楽しくお買い物をなさったこともあった、とその勇気をたたえました。けれども慣れて来るとこんなことも起こるのだと自戒の種ができました。夕食は皆で今日は青木さんの持っていらしたアルファー米とサラダ、チキン、ブドーその他で美味しく頂きました。アルファー米は私も一つ持って来て前に使いましたが、袋に入っていて熱湯を袋に指定した線まで入れて十分程待つだけで、かなり美味しく出来上がります。3人分とありますが、女性なら他に一寸した補助的なものがあれば5人でも十分です。便利な物が出来て楽しさが増します。そのあと又、ベン・イェフダー通りへ出掛け何時もの店でマンゴーやいちごの生ジュースを楽しみました。その店でお水を買って帰りました。音楽も何時もの人達が出ていて町は賑やかで、皆、楽しそうにしています。いよいよ後4日目には出発です。残りの日々も充実したものとなりますように。楽しかった一日を感謝して休みました。  
(14)  アイン・カレム

                   1995年8月29日(火)
 
 外では秋の気配を覚えるのに、どういう訳か部屋の中が蒸し暑くなってきたように思えます。朝も今まで入れなかった冷房を軽く入れたくなりました。毎朝二人でお祈りしてからロビーに下りるのですが最近は特にエレヴェーターが混むようなので裏階段を使います。フロントの所で忙しくしているアルメニア人のヴァーチュー氏や、部屋係りのアラブ人のムハンメドさんやラシッドさんたちと出会うと直ぐに大きな笑い声が響きます。楽しい朝の風景です。この朝のお食事も、もうあと僅かと思うと残り惜しい気がします。昨日お目にかかった小出さんが、会釈して直ぐ近くのテーブルにつかれました。食後、高橋はそのテーブルに行って暫くお話してきました。今日はレンタカーでシナイ半島の聖カテリナ修道院に向かわれる由、中々大変な道中でしょうと思います。私たちはエルサレムの西方七キロほどの所にあるアイン・カレムに向かいます。受胎告知を受けた後、マリアがユダの山里に住むエリザベツを訪問したことを記念する教会です。何時ものように交渉して50シェケルで行くというタクシーで出掛けました。
 ルカ福音書1章39〜40節には
そのころ、マリアは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリザベツにあいさつした。
 と、こともなげに、サラリと書かれています。今、やっと私たちも、その道が厳しく、距離も並ならぬものなのに気付いて、途中エルサレムを外れる頃から話題がその時のマリアさんが、どんな風にして行ったのでしょうと言う事に集中しました。エルサレムからでもこんなにあるのに、とてもその頃の独り旅は考えられません。ヨセフだって質素な暮らしをしていて、そんなに家を空けられる筈がないのでは? ロバに乗って行ったのかしら? 身重ではそれも大変ね。等々。それぞれが色々考えて楽しい一時でした。イスラエル博物館〜ヤド・ヴァシェム〜ヘルツェルの丘を通り過ぎて、小さい町に入ります。そしてその山際の大変景色の良い所に来て「ここが聖母マリアの訪問教会です」とのことで車を下りました。山の麓で車をおりたのですが、「そこだ」と聞いた立派な家の所に行くと、そこには「プライヴェイト」の表示があります。きっともう少し先でしょうと坂を上がりました。何軒かの家に皆、同じ表示が出ています。それがないと間違えて私たちのような他から来た人達が入って行くのでしょう。少し行くと一人のおばあさんが、そろそろと道端にお店を出す準備をしていました。これはこのさきに教会がある証し、と尚も行きます。やがてその丘の上に着きました。左側に大きな鉄の奇麗な門があり、その先に形の良い塔が見えます。右は谷になっていて、実に美しい眺めです。「ずっと先に見える、こちらのと殆ど同じ形の尖塔はバプテスマのヨハネの生まれ育った家の教会でしょう」と示されて、後で行くのが楽しみになりました。写真を撮ってから門を入ります。右側に広く長い壁があり、その前は奇麗な花壇にサボテンや熱帯的な花が咲いています。壁にはズラリと美しいタイルが嵌め込まれていて、主の祈りの教会にあったような形式で「〓〓〓〓讃歌」が50か国語で展示されています。中頃に日本語のもありました。私が覚えているのとは違った翻訳でしたが、此所にもちゃんと自分の国のがあるのを見るのは嬉しいことです。左側は奥に塔があり、その側の建物の上の方に、大きな「訪問途上のマリア」の絵があります。沢山の天使に守られてロバに乗った美しいマリアさまです。「ああ、こんな風だったのね」と誰方かから嘆声が漏れました。その下の階はアーチ型に柱が並んで回廊になっていて、その奥は一階の聖堂でその正面の左側に小さな祭壇があり、十字架を中心に清楚な飾り付けがしてあります。その右側には古代の洞穴があり、それらの上に大きな「年取ったエリザベツと若く美しいマリア」が手を取り合って挨拶している壁画があります。美しく心和む絵を見て、ふと右側を見ると、これは兵士たちによって嬰児たちが殺され、イエスを抱いたマリアが天使にうながされて逃げて行く場面! ああ、と美しいものに酔っていた心が引き締められます。こんなにも美しく表現されるマリアの心がどんなだったでしょうと思うと、聖墳墓教会の胸に剣を刺されたマリアの像を思い出しました。そう言えば受胎の時も、イエス様がお生まれになった時も、このようにロバで旅をなさっていたのだ、と改めて知らされた思いがしました。回廊から外に出ると、幾つかの花壇が並んでいて、それぞれに可愛い花や、実を付けたサボテンや、珍しい植物が丁寧に手入れされて、見る者を楽しませてくれます。ゆっくりそれらを眺めてから建物に沿って二階への階段を上ります。先程の外の壁画のあったところが聖堂で今度は正面祭壇の上に大きな天使や聖人に囲まれたマリアの絵があります。右には聖書の場面のいくつかの絵が、左側はステンド・グラスを通して射し込む光が美しい。静かなその場でしばし祈りの時を過ごし、外に出ると、階段の上からの景色もまた見事です。下におりて、もう一度、お花を見ていると黒人の神父が見えました(プリント「マリアとエリザベツ」12月17日号にあるように…「気持ちのよい教会ですね。私たちは日本から来たプロテスタント教会のクリスチャンですが、あなたのお国はどちらですか?」「アフリカのガーナです。私たちは皆、主にあって兄弟姉妹ですよ」「アーメン。おっしゃる通りです。御一緒に記念写真を撮ってもよろしいですか?」「さ、どうぞ」と言って大きな手を広げてくれました…)
 こんなやり取りの後、女性皆が入って一緒に高橋に写真を撮って貰いました。庭師の人も同じように黒人でしたので「きっとこのフランシスコ派の教会はガーナ人に管理を委せているのだろう」と高橋がつぶやきました。面白い事は「ここのトイレでエルサレムに来てはじめて沢山の蚊を見た」と使った人の話でした。その隣の小さなドアの側に絵葉書などがあります。マグニフィカートの日本語のなどを買ってこの教会とお別れ、聖書の此の個所は特にクリスマスにはよく読むところですけれど、これからはきっとずっと懐かしくなることでしょう。来たときの山道を下ります。先ほどのお婆さんのお店も、もう奇麗に並んでいました。布でできたマリア人形が色々な衣装、表情で、中には赤ちゃんのイエスさまを抱いているのもあります。古市さんはまだお子さんのない御長女にお土産にと悪戯っぽく可愛いのを選んでおいでです。谷の一番低い所に着くと、そこには「マリアの泉」があります。湧き水のようで、三方がアーチの石造りの正面が奥深く掘られていて、お水がチョロチョロ流れ出ています。そっと手に受けて見ましたが飲むのはやめました。その上にはミナレットのような小さい塔があります。ブーゲンビリアが美しく咲いています。そこを離れて大きな通りを横切り、尚も行くと訪問教会から見えた塔が直ぐ側に見えました。「バプテスマのヨハネの誕生の教会」です。中々堂々とした建物で、入口に二人のシスターがいたので、入って見学できますかと聞きますと「どうぞ」と言ってくれました。入って直ぐの右側の壁には「〓〓〓〓〓〓〓〓がやはり世界各国語で書かれたタイルのプレートが並んでいます。大きな聖堂に入ると美しいマリア像が中心の祭壇があり、その左側の洞窟の中に、上の方にはイエス様を抱いたマリアとヨセフと、ザカリヤ夫妻たちの絵があり、その下の床面には浮き彫りをほどこした大理石が黒い枠の中に嵌め込まれています。分からない言葉で何か刻んだ大理石の厚板を見て、高橋に「何が書かれているのでしょう」と聞くと、ラテン語で「ここに主の先駆者誕生せり」とある由、あのヨハネの一生を思い形容し難い感慨を覚えます。右側には皮ごろもを着て、杖を持ったバプテスマのヨハネとザカリヤとエリザベツの像があり、その表情には心ひかれるものを感じました。カメラを向けるとシャーっという音と共にフィルムが戻り始めました。こんな時に、と「ここが好きなので撮っておいて頂戴」と高橋に頼みました。(予備のフィルムを持って来るのを忘れていたからです) その時、今まで沢山の教会を見て、きらびやかなのや清楚なのや祭壇や飾り付けを以前のように余計な物を見る感じではなく、博物館の展示を見るような気持ちで見ている自分に気が付きました。本を読むことのない人々が殆どだった頃に、どれほど人の心を引き付けたことでしょう、そしてまた親身になって一生懸命その姿を再現しようと真剣に関わった人達のことを改めて感謝をもって見るようになっているのです。それらの絵や像には殆ど作者の名前は出ていません。表に出ることなく自分の信仰告白を残していった人々が素晴らしく思えました。そんなことを考えながら明るい陽射しの中に出ました。此所までは普通の旅では中々来ることはできないと思えます。そう思うと見るものが皆、懐かしいものに感じて振り返りつつ行きました。
 先程の通りに出ますと、またイスラエルの兵士たちの一団に出会いました。娘さんが多くガヤガヤと楽しそうに賑やかです。道の向こう側に渡ってそこで円陣を作って座り、何かを待つ様子、それを見た陣内さんは「写真を撮って」とそこへ行き、一緒になってこちらに向かってポーズ。急いで青木さんも加わって喜んで大騒ぎの兵隊さんたちと楽しい一時でした。やがてやって来たタクシーでヤッフォー門へ(50シェケル)途中、運転手は日本のお寿司が大好きで、ニューヨークでよく食べたと話します。高橋がまぐろ、えび、たこ、いかとお寿司の種類を数え上げると、だんだんコーフンしてきて、手をハンドルから離さんばかりで、ハラハラしてしまいます。それにしてもエルサレムのタクシー運転手は面白い人が多く、車に乗るのが楽しみです。 青木さんと陣内さんがお気に入りのスカートを買い足したいから、とスーク(市場)によるためにダビデ通りに向かいます。一日の内にこんなに違った雰囲気の所に来られるのも此所ならではと思いました。ここまで来たのだから、と聖墳墓教会に寄ります。何度来てもまた来たくなる不思議な場所です。二階に上がり、あのベンチで暫く過ごし、一回りしてから町に出て、一緒にあれこれ見て回りました。皆さんのお土産も大体揃って、またヤッフォー門からタクシーでホテルに戻ります。12時30分に着きました。ゆっくり色々考えたり、読み物をしたり、休息の時を過ごし、4時に夕食の買い出しに出掛け、チキンその他を買って来て6時に夕食。7時30分から8時30分までベンイェフダー通りを散歩して楽しくこの日も終えました。


(15) アルメニアの教会と博物館

                   1995年8月30日(水)
 もう明後日になってしまった出発に備えて、帰りの飛行機の確認をしなければならないので、今朝は高橋がヤツール社へ頼みに行く予定です。
 朝食後、皆でホテルの近くの独立公園から何時か行った墓地、それからその反対側の出口からベン・シラの通りに出て、アグロンの通りからシェラトン・ホテルに沿うようにキング・ジョージ通りにでてエルサレム・プラサの前を奇麗に花や実をつけている木や草を見ながら歩いていると、向こうからナザレに行った時のガイドのヴィッキーさんがあの時のように颯爽と歩いて見えました。「まあ!」とどちらも驚いてニコニコ挨拶し、一緒に高橋に写真を撮ってもらって「ごきげんよう」と別れました。ゆっくりの散歩を楽しんでホテルの近くのマクドナルドの側まで来ると、お巡りさんが沢山でていて大声で交通規制しています。何時もの道は通れないので遠回りをして帰りました。何か事件があったようです。私たちはお昼まで部屋ですごし、高橋はヤツール社へ、お荷物につける記念のタッグを旅行社で貰いたいと、陣内さんも一緒にお出掛けです。午後にはアルメニアの教会と博物館に行く予定です。アルメニア教会は一週に一度三時から30分しか開いていない由なので、その時間に合わせて出掛けることになっています。お昼に頂くものを準備してヤツール社から帰るのを待つ間に、戸棚の中を整理し、そろそろ荷造りの準備をしました。帰って来た二人の話ではヤツール社で、去年の係りのミリアムさんにも会えたし、今年のヌリスさんも中々親切な人で、五人揃っているので、62ドルで行けるスペシャル・タクシーの方がよいと勧められこと。シェルートは旅行者用マイクロ・バスで、予約をしてある乗客を拾いながら空港へいくので、時間がかかりますが、スペシャル・タクシーだと専用なので時間的に節約できるということで、それを予約して来た由、もう安心です。タッグも丁度よいのをくれたそうで、一つづつ片付いていくようです。
 それぞれ昼食の後、例の通りタクシーで一時半にヤッフォー門につき、門を背に右の方に行きます。細い通りに車が入って中々大変な道です。この辺りはアルメニアン・クォーターだそうです。エルサレムの旧市街には四つの地区があり、ユダヤ人地区、アラブ人地区、アルメニア人地区、キリスト教徒地区に分かれていて、夫々特徴があって興味をそそられます。陶器を作りながら売る店があったり、少し他の所と変わった雰囲気があります。暫く行くと左側にアルメニア派の「聖ヤコブ大聖堂」があり、その前で何人かの人が出入りしています。皆教会に関係のある人のようです。通り過ぎて尚も行くと、シオン門に近い所に「マルディシャン博物館」が右側にありました。入口に荒れた感じのエルサレムの写真があり、その前にガラスのケースに陶器で出来た絵や聖句の小さな飾り物などが並んでいます。井戸のポンプや古い道具類が奇麗に並べてあり、ふいごのようなものが壁にかかっています。白髪のおじいさんが番をしていて、お土産を売ったり、入場券を売ったりしていました。青い入場券にはエドワードとヘレン・マルディシャン博物館とあり、5シェケルです。直ぐに植え込みと石畳の素敵な中庭とそれを取り巻く一階と二階の二層のアーチが六つか七つ並んでいて、その内側の回廊に続いてお部屋があります。左に蔦の絡んだ壁に沿って石段があり、そこから二階へあがります。下と同じような回廊を隔てて教室のような部屋が幾つもあって、一部屋ずつ見て行くようになっています。アルメニア人とエルサレムの関わりや、歴史、出来事や関係のある人々の写真や事跡など、良く整理されていて興味深く見られます。アルメニア人とエルサレムの関わりは古いものです。アルメニアは昔、ウラル海からアララト山まで領する大国でしたが、今は小さい国になっています。アルメニアの国が歴史上最初のキリスト教国になった栄誉をもっています。アルメニア派の教会は、ギリシャ正教会と大変に近い関係にあるそうです。博物館の各部屋に窓がありその窓枠越しに見える景色が素晴らしいものでした。シオンの丘の「眠れるマリアの教会」の塔が見える窓や、別の所からは、城壁が直ぐ近くにあって、城壁巡りをしているカップルが見えました。あれも楽しそうですが、さぞ暑いことでしょう。一通り見終わって、まだ三時前なので二階のベンチでお水を飲んだり、お喋りをしたりして過ごしました。少し前から奇麗な讃美歌が聞こえています。アルメニアの教会から聞こえてくるのかしらなどと言いながら暫く楽しんで聞きました。大分してから下に下りて中庭を回り、良く手入れされた植え込みの植物を見たり、並べられた昔の品々を観賞したり、一番奥にあるキリスト像や絵などを見て、心楽しく過ごしてから入口へ戻りました(一階の部屋は殆どプライヴェイトでした)。するとあのおじいさんが、テープレコーダーでさっきの讃美歌をながしていて「お土産にいかが?」と言います。「なーんだ」と一寸ガッカリしましたけれど、結構楽しんだのでよかったことにしておきましょう。さよならをして外へ。来る時に見た教会へ行くと、何人か外で待っているようでした。私たちも待ちました。その内に人の動きがあって、中に入ろうとすると「聖堂には神学校の集まりがあるので今日は入れない」とのこと。中庭までならというので、それに従いました。暗い廊下を通って中庭に出るとそこから大聖堂の正面をみることができます。その正面のアーチの中に聖画があり、奇麗にデザインされた金色の鉄格子が庭との境にめぐらしてあります。建物の壁やドアなどにも、いわくありげな彫刻がほどこされていて、それがその場にマッチしていて美しいので、内部はどんなにか、と思いつつその教会をあとにしました。
 クリスチャン・クォーターを通ります。寂れて殺伐とした感じの道で所々から教会の塔やミナレットが見えるとホッとするような道でした。そこを過ぎると聖墳墓教会へ出ます。今回もう最後と言う時にまた此所に来ることができて幸いでした。今日は今まで見なかった所も見ましょうと丁寧に一回りしました。聖ヘレナ聖堂から出て直ぐ左にある「嘲笑の聖堂」、右に行って「聖衣の分割聖堂」、これらは今までも何時も前を通っていた所です。一番大きなギリシャ教会聖堂(最初の日に行きました)の隣にある広い場所には「聖処女のアーチ」とされる柱やアーチの部分が展示してあります。その奥に、何か非常に雰囲気の違って見える所がありました。さっきの分割聖堂の並びに当たる場所ですが、今日初めての所です。「キリストの獄屋」といわれている由、石室で控えの間のような小さな部屋の奥に更に何とも言い様のない部屋があり、そこに主イエスをいれたということです。小さな蝋燭が一本点っていて、本当にわびしい、心が寒くなるような所です。私たち人間のしたこと、いいえ、今でもこのように扱っている私たち人間の在り方を申し訳なく、思わず涙を飲み込みました。許しを乞う心でしばしの時を過ごしました。此所を訪れる最後の日に、この場を見せられたことに一層感慨を深くして、私には衝撃的だったこの場を去ります。(写真を何枚か撮ったはずなのに、帰ってから出来上がった中に、どういうわけか、一枚も見当たりませんでした) 雑踏の外へ出てダビデ通りから戻ります。ヤッフォー門からまたタクシーでホテルまで、ついでにマクドナルドに寄ってテイク・アウェイでハンバーガーとポテトを買って帰りました。ホテルに着いて、高橋はフロントのヴァーチューさんと話し、私たちは何時ものようにロビーでその日の精算をしていると、毎日、誰か側に座っている外国の人達が面白そうに見ています。実際私など本当に感心するばかりですが、陣内さんは天才的です。その日に掛ったもの、「誰が何処でいくら出したから誰が誰にいくら返せば良い」とすらすら出てくるのが不思議です。若し私がこれをやったら毎日メモの束を抱えて電卓で長い時間かかってしまうでしょうに、実に助かります。あと一日ですが、本当に御苦労さまでした。
 後で聞いたところでは、ヴァーチューさんに「今日はお前さんの教会と、博物館に行ってきたよ」と言うと、あのいつも冗談ばかり言って、ふざけている彼が「人々は親切だったか。それが一番大切なことだからね」と聞くので、「みんなとても親切だったよ」と言うと、「それは良かった」と喜んでくれたと、高橋はすっかり感心しています。本当にこちらの人達の反応は、大人も子供も素晴らしいと思います。
 大分混んでいるエレヴェーターを待ってやっと乗り込みました。私たちと他に二、三人一緒です。ごく普通にボタンを押すと動き出したエレヴェーターは一階でも二階でも止まりません。「どうしたんでしょう、誰かきっと上で押してるのね」などと言う内に、どんどん上に上がり、一番上に来たと思うと「ガタン」と止まって、またスーッと下りはじめました。これは変だ!と、私は高所と閉所恐怖症なのでどんな僅かな時間でもエレヴェーターに乗った時には、必ず外との連絡方法を見る習性がありましたので、着いた日から見ていたアラームのボタンを懸命に押しました。凄い音でベルがなります。皆はドアをドンドン叩いたり、叫んだりしています。まもなく「ドスン」と一番下で止まりました。外でドヤドヤと足音がし、直ぐに鍵の開く音がしてヴァーチュー氏が開けてくれました。ロビーの階より少し下にずれた所だったので、出るのには困りませんでしたので助かりました。ヴァーチュー氏は真剣な顔をして高橋に様子を尋ね、あちこち覗いて見ています。皆、寄ってきていましたけれど、大して驚く様子もなく平気で隣のエレヴェーターを使っています。とにかく無事で済んだ事を感謝し、来てすぐでなくて、気分的にまだよかったと話し合いました。あれこれ試しているホテルの人達を残して階段を上がって部屋に行きました。
 買って来たハンバーガー等で夕食を済ませ、予定通りですが、その日はもう外には出ず、部屋で荷物の整理や、お土産の点検などして過ごし、いよいよ迫った出発に感慨深く、楽しくいろいろ思い返したり、明日のことを考えたり、少し読んだりしてから、二人でお祈りし常に守られている感謝を改めて心に留めて休みました。


(16) マグダラのマリアの教会
                   1995年8月31日(木)
 ああ、いよいよエルサレム最後の一日の夜が明けようとしています。静かな朝です。段々と明るくなってくる空を見ながら、いろいろ思い返して見ました。他のことを一切考えずにエルサレムに集中できるなんて想像もつかないことでした。本当に不思議な所だと思います。そうしようと努めたり、身構えたりは全然なかったのに、呑気者のせいもあるのでしょうけれど…。何も他の事に煩わされずに、安心して過ごせたことは本当に感謝です。今にして思えば、この旅が具体的になって来るまえから、常に濃やかな導きの御手を感じて来ました。 六時になり、身支度を終えて、感謝に溢れて二人で祈りの時をもち、今日しなければならない事などを整えます。よく気をつけて世話をしてくれたムハンメドさんや、ラシッドさんに心ばかりのお礼を用意したり、お食事の時、もう一度どうしても行きたい所、したい事があるかどうか、皆さんに確かめたり、最後の日らしい朝を過ごしました。
 今朝はオリーヴ山の中腹にある、火曜日と木曜日の10時から11時半までしか開かないあの黄金の玉葱型の塔の「マグダラのマリアの教会」(ロシア正教会)を訪れる予定です。早めにホテルからいつものようにタクシーで出掛けます。シオンの山を通るあたりから、車窓から見えるオリーヴ山を望みますと、本当に枚挙に暇がない程の特色のある重要な建物を見ることが出来ます。それらを見ていて、その殆んどを実際に訪れることが出来たと、信じられないような気がして感無量!です。ヒンノムの谷、ギホンの泉を通過して、ヨシャパテの谷で降ります(30シェケルでした)。ここは人影が無く、こんな明るい朝でも何だか薄気味のわるい場所です。タクシーを降りるとすぐに、一人の背の高いアラブ人の青年が近付いて来て、例のように「ガイドしましょう」「私がガイドなんだよ」「それではガード(警備)しましょう」「いくらだ」「20シェケル」「ダメだ、15ならば」「OK]ということになりました。「この辺はアラブ人の縄張りなので、いくらかお金を取られるのは仕方がない。彼らの顔も立ててやらないと」と高橋が笑っています。例によって高橋がからかい「あの向こうに見える三つ並んだ建造物はなにかね」「ゼカリヤの墓、ヘジル家の墓、アブサロムの碑」「その通りだ、君は賢いね」。などとやりとりしています。その上の方にユダヤ人の墓地があります。「確か『ベン・ハー』の映画で、らい病人たちがさまよい歩いたのはこの谷間だ」と聞くとこんなに明るく暑いのに、うそ寒さを覚えます。いろいろ話ながら、岩と砂の砂漠のような谷あいを歩きます。容赦のない陽射しが照り付けますが、いくらか風もあって助かります。右は岩肌ながら、なだらかなスロープになっていて正面にはほんの少し「玉葱の塔」の教会が覗いています。左は岩のゴツゴツした斜面の上に家々が建ち並んでいます。暫く行くと崩れるのを防ぐためか低い石垣ができています。その内に、両側の山の上に、左の方に糸杉が、右の方には松が何本も生えているのが見えてきました。足のお丈夫でない青木さんをそっと気遣いますが、お元気に歩いていらっしゃる様子に安心しました。この旅に杖をお持ちだったのが本当によかったと思いました。「前方にゲッセマネの教会が見えて来た」と喚声があがります。右側の斜面が何やら曰くありげになってきたと思うとそれが「ゼカリヤの墓」といわれているお墓でした。そこまでずっと楽しく付いてきた青年は「私はここ迄」と、挨拶して帰っていきました。角に突き出たように「アブサロムの塔」が現われ、その大きさに驚きました。私もそうでしたが、青木さんも「前にきた時には遠くの方のバスの窓から眺めただけだったので、こんなに大きいとは思わなかった!」と何度も感心しておいでです。直ぐ前に来て改めて見上げ、「やはり来て見た甲斐があった」と話し合いました。「ヘジル家の墓」も大きなビルのようです。アブサロムの塔の下で「聖地の道しるべ」の本に出ていた「父ダビデに反逆したアブサロムは、わがままな子供の象徴となりました。今日もイスラエルでは、わがままな子供たちをここに連れて来て、この墓に石を投げ付け、『ごらん、これが反逆するものの末路だよ』と言い聞かせるそうです」とあったのを思い出します。自分に対しクーデターを起こしたアブサロムがヨアブ将軍によって殺されたときのダビデの悲嘆の様子を94年11月27日のプリント「オリーヴ山」で−
 神に愛された人ダビデの生涯はまさに内憂外患の連続でした。晩年になって、王の後継者の選択が取り沙汰される時期が来た時、愛する息子アブサロムによってクーデターが起こされ、ダビデ王と家臣たちは慌ただしく都落ちしました。ダビデは悲嘆にくれて、裸足で泣きながらキデロンの谷を渡り、オリーヴ山の坂道を上って行きました。敵に対しては強い戦士であったダビデも、息子にたいしては弱い父親でした。一行は大急ぎでオリーヴ山を越えて、ユダの荒野を横切り、エリコ街道を通ってヨルダン川方面へと落ちのびて行きました。しかしやがてクーデターが失敗に終わり、反逆の息子アブサロムは、ダビデの意に反して、ヨアブ将軍によって殺害されてしまいました。その知らせを聞いた時、「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った、『わが子アブサロムよ、わが息子よ!
わが子アブサロムよ。私がお前に代わって死ねばよかった! アブサロム、わが息子よ、わが息子よ!」(サムエル記下19・1)−
 とありましたが、あの強かったダビデを、このように悲しませたこの人はどんな人だったのでしょう? 大変ハンサムだったようですが、随分自意識が強かったのかも知れない、などと思いながらその塔を見返ります。道の両側が真新しい石垣になって、左側は斜面の上の方まで、下に降りて来る道やその周囲を整備工事中です。その正面にまた「玉葱」の塔が前よりも大きく木の上に見えてきました。ゲッセマネの教会も大分近く見えてきて、いよいよヨシャパテの谷ともお別れです。車の通りの激しいエリコ街道に出て、向こう側に渡ると、左に黄金門、ライオン門(ステパノ門)の側に「ステパノの教会」も見えます。ゲッセマネの教会の塀の上にブーゲンビリアの真っ盛りの花、それに続くジャスミンの白い花も美しいのを楽しみながら、その塀にそって行きます。まだ時間は大丈夫なので、この「万国民の教会」にもう一度寄ることができます。相変わらず入り口は混雑しています。かきわけるようにして中に入りますと、団体と団体との合間は静かです。塀に沿った先程のブーゲンビリアの隣の白い清楚なジャスミンの、ほのかな香りが清らかで素晴らしい雰囲気です。右側がそれで、左はオリーヴの畑、その根元にも奇麗なお花が一杯咲いていて、天国のようです。この場で主イエス様があんな苦しい時を過ごされたのに、と此所を訪れる度に「私たちを本当に愛して来て下さった」と言う思いが深められます。礼拝堂に入り、あの「岩」のある正面に向かって写真を撮り、しばし祈りの時をすごして、またお庭にでます。複雑な形の鐘楼を見上げ、その下の方にあるレリーフなどを丹念に見てオリーヴの古木の前で記念写真を撮り、受け継がれて来たこれらの木々と語り合いたい思いで暫く佇んでから、ゆっくりと出口に向かいます。
 道を右にとり坂道を行き、左側にあるきれいな門を潜りますと、よく手入れされた花壇や植え込みを縫うように石段があり、それを登り切ると、広場の左にあの金色の大きな一つを中心に四隅に小さい五つの玉葱型を配した塔が青い空に映えて実に美しく聳えています。アフリカから来たらしい大勢の一団が静かに見て回っています。建物の外の階段から聖堂に入りますと、正面に「イエスの母マリアが主イエスの死後、ピラトによる不当な裁判をローマのティベリウス皇帝に上訴し、このためピラトが追放されたという伝説」による大きな絵が、左には「主イエスに赦されるマグダラのマリア」の絵があります。この教会の名称は「マグダラのマリア教会」、そしてイエスの母マリアとロシア皇帝アレキサンダー三世の母后マリアとの三人のマリアを記念して建てられたそうです。こんなエピソードを聞き、この沢山の蝋燭などで飾られた奇麗な聖堂にいると夢のような気がします。下に戻りましたが、下の階には入れません。広場のベンチで辺りを眺めると正面に黄金のドームと黄金門が見え、エルサレムの町が、そして遠く鶏鳴教会まで、シオンの丘もダビデの町も見渡せます。さっきのヨシャパテの谷も、アブサロムの塔もよく見えます。こことは何と異なった雰囲気でしょう。とてもこんなに近い所とは思えません。振り向くと、先ほどのアフリカの人達の衣装が素晴らしい。男の人は殆ど普通の格好でしたが、女性は夫々大変凝った抽象的な色柄の民族衣装を纏っていて、中には聖書に出てくる場面を染め出したのを来ている人もいます。昔の日本の人達が季節や出掛ける先に合わせて着物を誂えたように、きっと楽しみに考えて染めさせるのでしょう。皆で展覧会を見るような気分を味わいました。言葉はフランス語のようです。余りそばによってじろじろ見るわけにもいかないのが残念でした。聖堂の向かい側にある小さな売店で、絵葉書を見ていると、青い花で飾られた本当に美しいマグダラのマリアの絵葉書がありました。別の絵葉書の説明によると、どうやら下の階の棺の側にある絵を撮った様です。絵葉書になっていないコダックの絵葉書大に伸ばした写真でした。それと何枚かの絵葉書を買って記念にします。締まる時間きりぎりまで木陰のベンチで過ごし、もう一度ぐるりと回って外に出ます。タクシーに乗ろうとするとお巡りさんが向こうにいるからと少し位置をずらせて止めてくれました。中型に五人で乗るので見付かったら困るわけです。後ろの席に四人で乗るのもこれでお終いです。楽しいドライヴでホテルに戻りました。12時でした。 ロビーの手前の売店が昨日から締まっていると思ったら今日はもうすっかり片付いて別の人がいます。ロビーで例のように精算をしていると、何時もの中年のユダヤ人の女性が戻ってきました。早速、皆で行って高橋が「おやめになるの?」と聞くと、「そうなのです。いろいろありがとう」とのこと「今度は何をなさるの?」「まだ決まっていません」とうっすら涙ぐんでいます。「それは残念だけれど、あなたに会えてよかった。どうぞお元気で」と皆で写真を撮りました。この売店にも沢山思い出があります。始めて来た時には切手を買ったのですが、その時も親切でしたが「もうこれだけで、おしまいです。申し訳ないけれどあとはすぐそこの郵便局へ行って下さい」というので、どうして次を仕入れないのかしらと話し合っていたのでした。また、ほんの二、三日前のことですが、皆さん、イスラエルのステッカーが欲しいと文房具屋は申すに及ばず方々のお店で聞いて見ても見付かりませんでした。次の日、古市さんが「ここの売店にありましたよ」と買っていらしたのを見せて下さいました。それで早速皆で行って見ますと、どうして気が付かなかったのか、カウンターの前に台紙に挟んで沢山吊してありました。夫々好きなのを選んでいると、高橋が「方々探し回っていたのですよ、これは『青い鳥』の話と同じですね、幸せの青い鳥は、遠方に求めるけれど、本当は直ぐ近くにあるというあのお話」というと「まあ、本当に、その通りですね」と目を輝かしてとても嬉しそうに笑っていました。ダビデの星の国旗のや沢山の種類を集めて楽しい一時を過ごしたことでした。眼鏡を掛けた優しい人でした。高橋が去年来たときは若い元気なアラブ人の女性だったそうなので一年ぐらいで変わるのかも知れません。小さな出会いと別れでした。 午後は私たちの部屋で皆でお話をしてすごしました。何だか近くで物凄い音、どうやらニューミュージックのライヴのようです。皆さんが部屋に引き上げられると直ぐにムハンメドさんが挨拶にきました。発つ時間をきいて「その時間にはいないので、どうぞお元気で、また来てください」と暫く話して行きました。その後で今度はラシッドさんがきて「私は来年の夏には定年で、もうここにはいないが、ぜひ家に遊びに来て下さい。ムハンメドが場所を知っているから」と行って奇麗な小さい金属のコースターのセットをくれました。それから「フロントに『ラシッドはよくやっている』と手紙で書いて渡して下さい」と言います。この人は室内の掃除やベッド・メイクが役目ですが、仕事も雑で、開いた部屋でテレビを見ながらタバコを吸ってよくサボッているのを見掛けたのに、とおかしくなりました。「明朝は荷物の心配はしないで、五人とも私がロビーに下ろしますから」と約束してくれました。
 夕食は三人の方がガイドのお礼にと、あの中華のお店で御馳走してくださいました。私もそちらに入るべきなのに、と申し訳なく思いました。お食後に何時もの御贔屓の店で、せめてもの私たちからのお返しにと、マンゴやいちごや西瓜などのジュースを夫々選んで頂きました。お名残惜しいお味です。散歩をしていると今まで一度も見掛けなかった小柄な白髪の老婦人が、か細い声で、しかし中々上手にオペラのアリアなどを歌っているのに出会いました。街路樹の囲いの石に腰掛けて暫く聞いていましたが、随分長い間休みなく歌い続けています。無理な大声を出さないにしても大したものだと思いました。きっと昔は大向こうを喜ばせた人なのでしょう。僅かづつお礼を置いて、離れました。何時ものアコーディオンのおじいさんも元気で楽しげに演奏していました。ここにもお別れのしるしを置いて、よい想い出ができたことを喜びます。大きな四辻のギターで歌う若者の回りはこの日も賑やかです。両替のお店ももう用がなくなりました。よく立ち寄ったお店を懐かしく覗いたりして楽しい時を過ごしました。ベン・イェフダー通りでの、こんな気楽さとももうお別れです。マクドナルドの所まで来ると夕方聞いたあの物凄い騒音の元は隣の映画館の屋上で、ライヴをやっているからと分かりました。部屋に帰っても一向に止みそうにありません。そんな中でお祈りし、「しょうがないね、だれも文句を言わないのかな」とベッドに入ります。10時を過ぎた頃、やっと大分音を小さくしたので助かりました。エルサレム最後の夜が更けて行きます。


(17) 帰 国
                   1995年9月 1日(金)
 月が変わりました。出発の日です。17日間お世話になったこの部屋も、今度はどんな人を迎えるのでしょう。素晴らしい日々でした。帰りの旅もどうかすべて守られて、明後日の日曜日には久し振りに川崎教会で皆さんと礼拝を捧げることが許されますようにと願います。起きて見ると高橋が右手を庇うような様子をしています。寝違いか右肩のあたりが痛い由「ヴェポラッブでも塗っておく?」「いらない、何とかなるだろう」と何時もの調子。着替えも一寸ぎこちなく見えます。それでも一緒に荷造りもすませて戸棚や引き出しが元通りになっているのを確かめて、この部屋での最後のお祈りをし、ロビーに降ります。皆さんと落ち合い、今朝もお変わりないのが感謝です。ここの朝食ともこれでお別れ、一つ一つ味わって頂きました。部屋に戻るとラシッドさんが待っていて、何時もよりずっとすばやい動作で荷物を集め、「お元気で、来年も来て下さい。そして家にも寄ってください」と挨拶しています。下りて行ったと思うと、フロントの若い人が二、三人「荷物を下ろしましょう」と来てくれました。「今ラシッドが取りに来てくれた」というと、さっと手荷物をもって一緒に下りてくれました。ロビーで顔馴染みの人達と挨拶している内に、年輩のユダヤ人の運転手のスペシャル・タクシーが迎えに来ました。玄関への通りすがりに見ると、あの売店はスマートな帽子などがならんで前とはすっかり違ったものになっていました。若い女性と中年の男性が陳列に余念がないようです。一日でこんなにも変わるかと思うほどです。私たちには前の方が便利だったようです。一日に何度も出入りしたヒレル通りを見回してからタクシーに乗り込みます。荷物も後ろに余裕をもって入り、シートも三列でゆったりしています。予定通り八時の出発。懐かしい道をキング・ジョージ通りに出て、タリタ・クミの記念碑の前を通りヤッファ通りに出、マハネ・イェフダの側を抜けて行きます。まもなくエルサレムの町を後に、郊外の通りをひた走ります。一九四八年の独立戦争の戦車や装甲車の残骸が所々に見えます。このゆるやかな下り坂は「シェフェラー」と言って、昔から山地の民族と、平地の民族の戦場になっていた場所だそうです。「日よ、とどまれ、ギブオンの上に、 月よ、とどまれ、アヤロンの谷に」(ヨシュア記10・12)とヨシュアが言った古戦場はこの辺りとか。そして平地に出ると、そこはシャロンの野です。畑の広がった見通しの良い場所からはずっと遠くの町が望めます。植林されたオリーヴの木でしょうか、赤茶けて広範囲に枯れている所がありました。ゆるやかな起伏の多い、緑も多い野原が続きます。着いた時は夜だったのでこの道の景色は見られなかったのですが、帰りには楽しめました。急に町らしくなって、40分でテルアヴィヴ空港に着きました。運転手が荷物を下ろし、高橋が痛む肩を庇いながら手伝っています。チップを渡して別れました。建物の中に入ると、灰色の壁に囲まれた広い場所に大勢の人が群れていて、ざわっとした中に何本かの人の列ができています。ヘブル語の表示が殆どでよく分かりませんが、出発時刻のそれらしい所に並びます。暫くするとピチピチした若い娘の検査官がグループかと聞きに来ました。「リーダーは?」と言うので高橋が出ますと少し離れた所に連れて行き、何か話しています。次に私が呼ばれました。次々に荷物のこと、これから何処へ行くのか、イスラエルでは何をしたか、スケジュールを見て、グループで他の団体と一緒に行動したことがあったか、それは何回か、誰にも品物を頼まれなかったか、荷造りは自分でしたか等々。中々厳しく、でも答える度に頷いて、ねぎらうように優しくニッコリしてくれます。不思議にももっと長くても良いような感じがするほど、嫌な思いはありません。それでも終わるとホッとしました。列の順番を守っていた高橋は「無事に終わったナ」と笑っています。他の三人は皆日本語のカードと奮闘中です。ようやく済ませて、ああ大変だった、と集まります。段々混んで来て二列だったのが四、五列になってきます。後ろの方にいた四人の家族がそろそろと私たちの前に割り込んできます。どこにもずうずうしい人はいるものね、といやな感じでしたが、先ほどの検査官が三人位でやってきて、私たちに荷台の方に来るように言いました。気まずくなる前で「ああ良かった」と言って、兼ねて覚悟の荷物検査に望みます。一人ずつ台の上に荷物を載せて鍵を開け、開いて見せるのです。大勢の人の前でスーツケースを開けるのは嫌なものです。でも手早く目と手の感触だけで、中を掻き回すようなことはなくOKになりました。台の上に載せるときも、下ろす時も、高橋は颯爽と皆の分をやっています。大丈夫なのかしら、と心配になります。終わってほっとして今度は搭乗券を貰う列に並びます。ここは僅かな人数です。このカウンターでも若い女性がぶっきらぼうに見えるのに、一寸日本語を使って見たり中々お愛想がよく、「良い旅を」と荷物を奥に滑らせて搭乗券を渡します。まだ時間はたっぷりあります。階段をあがり、待ち合いのホールに出ると、辺りは一変して奇麗に明るいショッピング・センターになっています。イスラエルの大事な産業のダイアモンドのお店をはじめ、奇麗に並べたスイスのチョコレートの量り売り、飲み物や食べ物の店も、勿論お土産品も、奥の方には本屋もあって一応何でも揃うようです。景色の良さそうな所に並んだ椅子を根拠地に代わり番こに散歩をします。チョコレートやお菓子を買って見えた方がわけて下さいました。何処へ行くにも持っていたお水も、乗ってしまえばもう必要ないのでお別れです。私は本屋で絵葉書を買いたしたり、お土産の店で今までの日々を品物を見ながら思い返したりして、いい時間を過ごせました。思いなしか高橋は少し元気がないようです。ブラブラ歩き回っています。やがて時間がきていよいよ搭乗です。必要な書類を手にぞろぞろと列につきます。(11時30分出発) ELAL航空にはスチュワードが多いようです。私たちはスクリーンの前の二列目の席で、古市さんは通路を隔てた席になりました。一番前の席には赤ちゃん連れが二組いてスチュワードが、小さなベビーベッドを前の壁から出して世話をしています。左端の窓側の席は横列の番号が一段前に出ているので古市さんは一列前の感じになります。同じ列に見える席には女の子と男の子が二人、三人兄弟が座っていました。すぐ隣になった陣内さんに、男の子が話し掛けて来ました。日本人だということや帰る所などを話したあとに会話が難しくなり、高橋と席を入れ替わります。「この男の子は感心よ、私に『ヘブライ語は分かるか、英語は分かるか』と聞いて、私がよく分からないと見ると、とてもゆっくり、やさしい英語で話してくれるの」と陣内さん。「それは大したもの」と高橋は張り切ります。ロンドンに住んでいて、夏休みに祖父母の所に行き、帰る所だそうです。「ロンドンに着いたらお父さんが迎えにきている」と嬉しそうに話します。お母さんは病気だそうです。実に良い子たちのようで、中一のお姉さんは小さい弟の面倒を良く見ています。二年だというその子も絵を描いたり、本を読んだり、話したり静かにしています。四年の男の子は高橋と楽しそうに話したり、日記のようなものを書いたり、三人でゲームをしたり、楽しんでいます。この飛行機にはスクリーンでの場所の表示がないのが一寸寂しく、写し出される画面はイスラエルの観光案内が殆どで、映画もドタバタです。その内に古市さんは、前の赤ちゃんと仲良しになって、難しい顔をしたお爺さん越しに相手を始めていると、そのお爺さんは席を代わってくれています。もう遠慮がいらなくなってその可愛い赤ちゃんのお友達になって楽しんでおいでです。その赤ちゃんもとても可愛い女の子で、私たちとも椅子の背ごしにお水のカップをやりとりしたり、高橋は特に気に入られたようです。席に入っていたイスラエル・マガジンを見ていると三千年記念の催しなどが詳しく出ています。一日だけのいわゆる記念日ではなく、一年位い続く記念行事のようです。簡単なお食事が出た後、ロンドンに近くなってきました。皆ざわざわと動き始めます。家族連れが多いので中々大変です。ロンドンの上空に来たとき、さっきの子供たちが「ああ、お父さんが見えた!」と大笑いしています。ニコニコと嬉しそうです。高橋が「お母さんの御病気が早くよくなるといいね」というと「ありがとう、僕もそう願っています」と良い返事が返って来ます。高橋は本当に素晴らしい子供たちだと感心しています。勿論私たちも同感。予定通り15時すぎに着いて、皆で挨拶し合って別れます。通路に出てみて驚きました。まるで日本のお花見の後のような狼藉ぶり。機内でこれほど汚したのを初めて見ました。 ヒースロー空港は本当に広いようです。珍しいマークの機が沢山見られます。バスで全日空のでるターミナルへ行きます。着いて早速トイレに寄って驚きました。他のヨーロッパの国でもイスラエルでもトイレット・ペーパーは幅の狭い慎ましいものなのに此所ではスコッティを使っています。しかもスペアを一杯置いて。あとで青木さんも「さすがァ」と。ここなら宣伝効果抜群でしょう。出発のゲイトを確かめようとしましたが、まだ中々先のようすです。ELALの出発ロビーとは打って変わって素晴らしいお店がぎっしり並んでいます。明るく華やかで気持ち良く待つことができそうです。注意して見ると私たちでも知っている有名なお店が軒を連ねています。荷物番のために交替で散歩を楽しみました。レストランは勿論、美容室まで、店に並ぶ品数も豊富です。一番奥にハロッズのお店もあります。本屋で姪の孫の好きなディズニーの小さな絵本を買ったり珍しい陳列を眺めたり楽しく過ごします。近くにゲーム機があり、子供たちが入れ替わり立ち代わりやって来ます。目の色を変えて飛び付いて割り込む子や、お小遣いの心配をしながら考え考えする子や、皆熱心です。どこも同じなんだなと思いました。時々表示を見に行きながら大分待って漸く案内がありました。カウンターに行って搭乗券を貰い、もう荷物の検査も無く只乗り込むだけです。機内に入ると殆ど日本人ばかりでぎっしりのようです。幸い窓側の二列に三人と二人、私たちの隣には大人しい男性がそっと座りました。ほんの少し話しました。スクリーンも角度はよくありませんが何とか見えます。18時発。動き出してスクリーンには滑走路に出て行く様子が写っています。スチュワーデスが綿密にシートベルトや椅子が真っ直ぐになっているか余計な物を持っていないか見て歩き、緊迫した空気が漂います。やっと滑走路につき、おもむろに出発、ロンドンの街が斜めから段々真っ直ぐになり消えて行きます。上空は一面の雲の海、暫く雲を見なかった、と思いました。オックスフォードとロンドンの間、カンタベリーとケンブリッジの間と次々に表示されるのが楽しみ、海に出て、孤を描く雲平線が見事です。アムステルダム、ハンブルグ、コペンハーゲンの南バルチック海上で少し揺れました。お食事がでて、お盆を受け取る段になって高橋の手が痛くて動かせないのを知りました。テルアヴィヴであんなに皆の荷物を上げ下ろししていたのが、響いたのかしらと言うと、「いいとこ見せようと思うもんな」呆れてしまいますが、何とも気の毒。少し労ってあげなければ、と思いました。帰りでまだよかった。左手で頂いているのを同情をもって見守るしかありません。久し振りの日本そばや、ごはんや御馳走などで満腹し、高橋が「ああ、美味しかった!」と大声を出して言ったのを、スチュワーデスが耳聡く飛んで来て、「いかがでいらっしゃいましたか?」と聞きます。「機内食ほどおいしいものはありません」「お気に召してなによりです。ありがとうございます」とびっくりしたように笑っています。近くの人は不思議そうな顔をして二人を見比べています。私たちにとっては本当に二十日振りの日本の味だったのですもの。実感が籠っていたわけです。窓の外は雲の上の夕焼けが実に素晴らしい。暫くの間、日の沈むのを楽しみます。ゴットランド、ヘルシンキ、サンクトペテルブルグ、カリエン、ストックホルムとモスクワの間とお馴染みの町の名が続きます。すっかり暮れた外の飛行機の明りに照らされた部分はまだ雲が一杯です。さっきのあの奇麗な夕焼けも雲の下の地上では見られなかったことに思い当たりました。初めの映画の途中で窓を覗くともう進行方向の空が白んでいます。本当にこの辺りは夜が短いのだなと思いましたが、それよりも飛行機の速度が速いのでしょうか。ニジノーヴゴロドの北、エカテリンバーグの北辺りで二本目の映画、「若草物語」が始まります。高橋も目を覚まして見始めました。私は日本語、高橋は英語で聞いています。新しい作品で所々おや?と思う解釈が目に付きました。時代なのだなあと思います。それでも結構楽しめました。時々そっと窓を持ち上げて見ると段々明るくなってすっかり朝になってきました。早く窓を開けたいとその時を待ちます。お絞りが配られて、やっと朝の態勢になりました。リフレッシュメントと称する朝御飯がでましたけれど殆ど残してしまいました。来る時その長さのために覚えてしまったニコライエフスクナアムーレの地名が出て来たらもう10時40分近くなっていました。機の高度もシベリア上空では一万メートル以上だったのが九千メートル台になっています。まだ雲が張り詰めていて下は見えません。オホーツク、サハリンそして稚内、札幌、礼文、奥尻、函館といよいよ帰って来た、と実感が湧きます。日本海に出て、新潟の近くから陸に入ります。その頃からやっと下の景色が見え始めました。高度ももう八千メートルです。水戸の上空では「ぐん、ぐん」と間を置いて下りて行くのが分かります。海岸線がはっきり見えます。九十九里のあたりでしょうか、やがて予定通り無事に着地。ほんとうに守られた旅でした。この長い機内での時の後、お疲れだろうけれど、どうぞ皆さんお元気で明日の聖日を、と感謝をこめて祈りました。おりてしまうと落ち着かないでしょうと、お互いにお別れの挨拶をしました。到着ターミナルでは荷物も無事に出て来て、今度は高橋も手伝わずに我慢していました。一番に古市さんの娘さん大野御夫妻が手を振って迎えておられるのに出会いました。すぐに雑踏にまぎれてお互いの所在が分からなくなります。青木さんもお迎えが見えたようです。後ろ姿が確認できて安心しました。陣内さんと三人で荷物を預けようと探しましたが往き掛けに帰りの分もと約束させられた店は出口の直ぐ前と言ったのに、何と一番奥の遠い所でした。やっと手続きをしてスカイライナーに向います。イスラエルで人々が皆、明るい微笑で接していたのにすっかり慣れたせいか空港で働く人達の仏頂面が妙に目に付きます。寂しい国なのだなと感じました。日暮里で乗り換えるとき、スカイライナーの変な揺れで、陣内さんは気分が悪く「暫く休んでいくから」とのことで、心配でしたがそのまま別れて帰りました。ラッシュにはなっていませんが、結構混んでいます。川崎に着き、戻る道も変わりなく、待っていた誠も元気で感謝です。大変暑い夏でした由、久し振りに話も弾みますが、高橋の肩も気になり、近くの薬局へ相談に行きました。子供の時、高田英語学園に来ていた人がお店を継いで薬剤師になっていて親切に飲み薬を勧めてくれました。自分も愛用している由。夜は誠のお料理でカレーを楽しみ、お風呂を喜びました。陣内さんに電話をすると御本人がでられて大丈夫の由、安心しました。皆で感謝のお祈りをして、誠は土曜日毎の横浜のレッスンに出掛け、私達は早く休みました。

 朝になり何ごとも無かったように何時もの日曜日が始まります。この日は富田さんが礼拝の証しを担当して下さる予定です。
 ぼつぼつと集まられる皆さんと挨拶を交わすのも本当に嬉しいことです。高橋の手はひどい状態で、相変わらず口は達者ですが、いくらか元気がありません。経験者から「よくなるのに一週間はかかりますよ」と言われて覚悟をきめたようです。埼玉からの古市さんはさすがにお休みでした。
 富田さんはお仕事で出張の帰りに「思わぬ恵み」でレバノンのバァル・ベクの遺跡を見ていらしたことから話され、あとで撮っていらした映画を見せて下さいました。お昼も皆さんのお計らいで楽しく、何も考えずに御好意に甘えての一日を感謝で過ごしました。翌日からは英語学園の二学期が始まります。このように直ぐに元の生活に戻れたことを本当に有り難いことと、心からの感謝を捧げました。その後、高橋の腕も五日(火曜日)には殆ど支障なくなり、こんなに早く癒されたことに感謝を深めました。
 高田英語学園の生徒たちも元気で戻って来て、二学期もよい出発が与えられました。教会も学園もどうか良き歩みを進めてまいれますように…

  上 高橋    下 左から 青木さん、古市さん、私、陣内さん


        結   び

 皆さん、本当に有り難うございました。私達の日程がはっきり決まった時、誠が帰る日と私達の出る日とが同日になってしまい、どうしようかと心配していました。〓〓その時点でもうすっかり仕事がはいっていたし、あれこれ考えていた時、八月の相談会で、森田さんが「心配しないで、私がお留守番します」と言って下さり、桜井さんも、茨木さんも、真柄さんも、大変快く色々役割を御自分から申し出て下さいました。こんなに皆さんの御好意を頂いてと大変感激して準備ができた次第です。留守中の日曜日も20日は誠が、27日を真柄長老が、3日は富田長老が、それぞれが引き受けて下さいました。御病気で心配な方々もお出ででしたし、どうか皆さんよくなられてと祈りました。
 私どものためにお祈り下さった皆さんに心から感謝申し上げます。

 古市さんがイスラエル滞在中に何度も「何処へ行ったのか分からなくなるので後で教えて下さいね」と仰有ったのを思い出し、それならいっそ自分も受けた恵みを忘れないように、と書き始めましたが、長い時をおつきあい下さいました事、ありがとうございます。日も経って、書き足りないことも、間違いもあることと案じますが、高橋に目を通して貰い出来るだけ正確にと心掛けたつもりです。苦手な数字のことや、歴史のことなど大分直してもらいました。御批判頂ければ幸いに存じます。

 着いた翌日の日曜日、青山から日吉の港教会へお元気で出席なさった青木寿子姉から先日お便りを頂きました。
  先生の御愛あふれる御案内で、中々普通では出来ない贅沢な旅をさせて頂き「エルサレム思う存分」の看板以上、何倍もの恵みを乏しい頭の中にシッカと記憶させて頂いた幸せ、そして奥様の「旅日記」本当にありがとうございました。

 こんな拙い旅の記録も皆さんに少しでも楽しんで頂ければ幸いです。そして、聖地へお出掛けの時の参考に幾らかでもお役に立てれば、こんな嬉しい事はありません。心からの感謝をもって…

     1996年 春
              高 橋 三千代



      「 神 と 富 」
 

 自分のために宝を地上に蓄えてはならない。そこでは虫が食い、錆が付き、盗人が押し入って盗み出して行く。むしろ、自分のために宝を天に蓄えなさい。そこでは虫が食わず、錆が付かず、盗人が押し入って盗み出すこともない。君たちの宝のある所に、君たちの心もまたあるのだ。…誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるようになるのだから。君たちは神と富とに兼ね仕えることはできない。
                 マタイ福音書 6章19〜21、24節

 8月15日から9月2日までの19日間、4人の姉妹たちを案内してエルサレム旅行に行って参りました。青木寿子姉。港キリスト教会の会員であり、十数年来の私のプリントの読者であり、友人です。古市美諸姉。川崎教会員で、長年勤続した会社を退職され、娘さん夫婦に励まされての参加でした。陣内わか姉。私の実の姉で、ある宗教団体の活動家でしたが、その内実に愛想を尽かして止め、今は宗教全般の中に真実と救いとを求めています。高橋三千代姉。私の妻で、今回の参加は、長年教会と英語学校のマネジャー役としての労苦に対する主からの賞与であると理解して、感謝しております。
 「5人だけで旅行しているの? それはいい。ビッグ・グループのバス旅行ではエルサレムのよさが何も分からないよ」(ユダヤ人のタクシー運転手)確かに私も以前2度、団体旅行に参加して、あわただしくエルサレムを見て回った記憶はありますが、本当にエルサレムの面白さが分かったのは、去年の一人旅の時でした。個人として土地の人や外国から来た人と会話を交わし、気に入った場所があればゆっくりと時間をかけてそこにたたずむ。紺碧の空。炎暑の太陽。木陰の涼風。朝と夕方に吹く爽やかな風。夕暮れを待ちかねたように大勢の人々が散策するベン・イェフダー街…。
 去年は一人旅でしたので、炎天下のエルサレムを自分の足で歩き回りましたが、今年は姉妹たちの脚力を配慮して、ホテルと目的地の間の往復をタクシーを利用しました。それでもエルサレムの旧市街は石段や坂道が多く、相当の歩行距離になりました。そして苦労の甲斐があって、エルサレムでは、訪ねるべき場所は殆どすべてを訪ね、見るべきものは殆どすべてを見て来ました。それで今後の数年間は、訪ねた場所や見て来たものをいかに自分の内に「消化」するかに費やされるでしょう。もしそうしなければ、貴重な経験が活かされず、単なる楽しい追憶にすぎないものになってしまうでしょう。
 エルサレムは国際的な都市です。ホテルの朝食のテーブルに着いている時も、街路を歩いている時も、様々な国から、様々な言語を話す、様々な皮膚の色の人々に出会います。そしてその一人一人が全く独自の世界をもっていて、全く独自の人生の道を歩いていると考え、自分自身がまさにその中の一人であると思うと、本当に不思議な気がします。
 「ヤッフォー門まで、5人。いくら?」「一人に付、7シェケル」「だめだ、高すぎる」「では5シェケル」「OK]タクシーに乗る時の会話です。料金は定額ではなく、交渉次第です。1ドルが約百円で、約3シェケルです。シェケルというお金の単位は、古代では銀の重量でした。「ダビデは麦打ち場と牛を銀50シェケルで買取り…」(サムエル記下24・24) イスラエルの通貨はシェケルです。アメリカのドルも使えます。日本の円は使えません。言語はヘブライ語ですが、ユダヤ人同士でない限り、英語が共通の言語です。シェケルまたはドルと英語。それさえあればイスラエルで暮らせます。
 「地獄の沙汰も金次第」 外国ではお金が無ければ、何もしてもらえません。お金があれば衣・食・住と様々なサービスを買うことができます。「あなたのお言付けには何でも従います」とホテルのボーイが言ってくれますが、それには「チップを下されば」という但し書きが付いています。様々な相違が錯綜する中で、お金は普遍的な価値であると言えます。飲むにも食うにもタクシーに乗るにも、何事もお金次第です。
 8月26日にシオンの山の「ダビデの墓」を訪れました。入口で一人のアラブ人が挨拶をするので、番人かと思って「拝観料は?」ときいてみると、一人4ドルだと言う。そんな筈はないと言うと、2ドルでいいと言う。怪しいと思ったので、「君は番人ではなく、私設のガイドだろう? 私もガイドだ。この場所はよく知っているから君のガイドは要らないよ」と言って断った。他にも沢山の外国からの団体が、ガイドに連れられて見て回っている。しかし「ダビデの墓」がなかなか見当たらない。実はその日は〓〓〓でした。ユダヤ教徒が集会をしている部屋を覗いた後、入口に座っていた少年にそっと「ダビデの墓はどこなの?」と聞いて見ると、「そこだよ」と傍らの鉄の扉を指さしてくれた。「ありがとう」 その扉をそっと開いて中に入り、後続する婦人たちに、「その子に1ドル上げて」と言って先に進みました。その部屋は空の集会所で、その奥の部屋に入ると、左側に、鉄格子の向こうに、巨大なダビデの石棺がありました。深緑のビロードの布に覆われ、その上に銀製のトーラーの容器や王冠が置かれていて、この上なく威厳に満ちていました。「ここまで、よく来てくれたな」とダビデの霊に語りかけられた感じがして、一瞬、胸が熱くなりました。すると婦人たちが別の感動を伝えてくれました。「あの子はお金を受け取らないで、献金箱を指して、あそこへ入れて、と言ったのよ」 お金に勝る価値あるものを少年は知っていました。彼女たちも又「ダビデの墓」との出会いに感動して、それを凝視していました。それから声を秘めて、「今日これを拝見できたのは私たちだけね」と言いました。しばらくそこにいた後、あの少年にもう一度お礼を言うつもりで入口へ戻ると、彼の姿は既にそこにはありませんでした。「彼は天使だったに違いない」
 確かにこの世ではお金の力は万能であって、お金なしには何事もできないように思われる。しかし主イエスはお金の価値を超えるものに目を注め、それを「宝」として大切にするように勧めておられる。宇宙船が地球の引力圏から脱出するためには巨大なエネルギーを必要とするように、私たちがお金の魔力から自由になるためには、神の御許から来る聖霊の力が必要なのです。「神の国(支配領域)は飲み食いにあらず、聖霊における義と平和と歓喜である」(ローマ書14・17) 現在、銀行の倒産が相ついで起こっており、人々は自分のお金をどこに蓄えておくべきかと戸惑っていますが、主イエスは最も確実な方法を私たちに示しておられます。
 

  1995年 9月10日 礼拝説教
 日本基督会川崎教会 牧師 高橋 秀良