1995年8月22日(火)
昨夜、心配を掛けた高橋が元気に下りて行ったのを見て、皆さん喜んで下さいました。今朝も葛湯と紅茶とパンを少し位にして、それでも朝食が頂けました。その皆さんは、昨晩のあの風の中、ベン・イェフダー街にお出掛けでした由、外は「風が強いなと思う程度でそれ程にも思わなかった」と聞いて、そんなものかしらと思いました。きっと風はビルの位置や形などで増幅されるのでしょう。「火曜日は博物館は夕方からと書いてあったので…」と話し始めると、陣内さんも「私もそれを読んで、言おうと思っていたところ」の由、「神殿の丘」にすることに皆さんの賛成を得ました。急な事で、何時もの一夜漬けの下調べはできませんでしたが、あの辺りのことを思い浮かべながらのお食事。このホテルも団体が随分多いようです。夜着いて、朝早めの食事をして、そのままバスに乗り込んで行く人々を見ながら、今までの旅を思い出します。色々な国の習慣から、パンとコーヒーだけの人、シリアルを主にとる人などさまざまです。子供連れも多いのに、大きな声を出す子はいません。十才位の男の子はパンに練ったチョコレートをパンの厚さの倍くらい盛り上げて食べています。もう少し大きいかと思える子は一人で下りてきて、エレベーターを上ったり下りたりしているようす。見ていると本当に面白い。時間まで夫々部屋へ戻り、私達は散歩に出掛けました。ホテルのあるヒレル通りを左に。道を隔てたお隣にきれいなお庭のあるお邸があります。小さな表示にドイツ人のホスピスと出ています。このような表示の建物が折りに触れて目に付きます。この道がベンシラ通りになると道幅が急に広くなり、右側が広く開けて公園になっています。赤い実のなっている木々がしげり、歩道の植え込みには、日本にあるのの三倍位の大きさの露草が一杯咲いています。風の止み間を待って、高橋がシャッターを押しました。YMCAの塔やシェラトンホテルなどが大きく見えます。公園が墓地に続いていて、下りていく石段があります。前方に「図説エルサレム」に出ていた「マルムーク朝の霊廟」によく似た形の古いお墓があります。側に行っても、書かれたものは何もありません。後ろに回って見ると中が見えました。石の箱のようなものが沢山ありました。どんな人々が関わっていたのでしょう。イスラエルでは植物のある所には必ず細いホースが引かれていて、可憐に咲く野の花や、木々を潤しています。水の豊かな日本では考えられない細やかな心入れを感じます。お墓の間の道を抜けて、独立公園との間の道をとってホテルに帰りました。部屋に戻り、ゆっくり支度をしてから出掛けます。
糞門(ダング・ゲイト)までタクシー(20シェケル)。今日も運転手はダング・ゲイトを知りませんでした。別の呼び名があるのでしょうか。何時ものようにお喋りの合間に道案内をして、やがて着きます。私は神殿の丘に此所から入るのは初めてで(以前は二度共、西壁の脇の階段から入りました)何だか駅の改札口の感じの入口で一応荷物の点検があります。中に入ると一軒の小屋があり、そこでエルアクサと博物館と岩のドームと三枚つながった切符を買います(22シェケル)。辺りは松の木が沢山あって、広々とした静かな気持ちのよい所です。直ぐ右側がエルアクサ(銀)のモスク。私は中に入るのは初めてです。荷物の番に高橋が残り、荷物とカメラと靴を置いて、入口で切符に破り目をいれて貰い、いよいよ入場、モスクの上までの高い天井、大理石の列柱、そして先ず目に付いたのは、通路を除いて一面に、お祈りのための一人一人のスペースが白く、あのお尻を上げたお祈りの時の形に型抜きされた緑のカーペットでした。ビアドロローサにいった日に見たあの礼拝に行く人波を思い出し、なるほどこうすれば一番無駄なくぎっしりつめこむことができる、と感心してしまいました。此所は男性のみの祈りの場と聞いています。あたりは、ステンドグラスからの明りの具合も周りの装飾も、落ち着いた素晴らしいものです。一回りして高橋と代わります。一緒に入れたらもっと学べるのにと一寸残念でした。そこから「岩のモスク」に向かいます。途中で青木さんが、この前にいらした時のことなど話して下さいました。身を清める水場をすぎ、石段を上がる頃には大分人も増えて来ました。今度は建物から大分離れた他の人に邪魔にならない所に荷物や靴を置き、やはり高橋が残って4人で入ります。私は勉強のためにコピーした綴じた紙を持っていましたら、切符に破れめを入れる時、すっと取り上げ、目を通してから返してくれました。中に敷き詰めた絨毯は殆ど真新しいものが多く、奇麗です。ドームからその周囲のステンドグラス、そして柱、何処を見ても美しく豪華です。暫く辺りを見回してから「岩(エッ・サフラ)」に近寄ります。奇麗なしっかりした柵に囲まれた「岩」は厳かに見えます。この聖岩は3,000
年昔に、エブス人アラウナの麦打ち場でしたが、ダビデはそこを銀50シェケルで買い取り、その岩の上に祭壇をつくりました。その後、ソロモン王がそこに神殿を建てました。その後、幾変遷を経て、今日、イスラム教の神殿「岩のドーム」の真下にあるのです。伝説によると、アブラハムがイサクを燔祭に献げようとしたのもここだとか。エルサレムの歴史はこの岩を中心に展開してきました。一隅に小さい飾り立てたほこらのようなものがあります。「マホメットの足跡」と言われている部分で丁度手を入れられる位置に小窓があり、訪れる人は皆そこに手を入れて石に触れていました。私たちも入れてみましたら、出した時、ほのかな素敵な香りが手についていました。私たちは嬉しくなって、待つ人のいないのを幸い、何度も入れて見ました。二三か所、電灯でてらされている所がありますが、その説明はヘブル語らしく私達には読めません。「天使ガブリエルの掌の跡」だとか「水盤」だとか本には出ています。洞穴の入口から段を下ります。大きな石の部屋で、ドームを見上げられる天窓があります。水を溜めていたのではないかと思われると聞きました。上にあがり、もう一度見返して外に出て、高橋と代わります。待っている間、写真を撮る人、辺りを眺めながら話す人、夫々にその場を楽しんでいます。鎖のドーム、預言者のドーム、昇天のドーム、御霊のドーム。ヨセフのドーム、アルナハウィヤのドームなど、本に出ているだけでも大小沢山のドームがあり、塀の外側の景色も素晴らしく、一つ一ついわれなど知ることができたら楽しいだろうな、と思いました。高橋も戻ってきて、段を下り「銀のドーム」の方へ向かいます。神殿の丘の入口と、銀のドームの中間にある「イスラム博物館」へ向かいます。建物の前に古代の柱などの展示があります。入って直ぐにある血染めの服には心が痛みました。94年のプリント「神殿の丘」Aに出ていた…神殿の丘の上には二つのモスクとイスラム博物館があります。彩色豊かに装丁されたコーランや、美しい古代の陶器、ガラス器、貨幣などが展示されています。中でも幾つかの炊き出し用の大釜は、貧しい人々に対する慈善の行為を証しする感動的な遺物です。しかし博物館の正面入口には血染めの衣服が展示されていて、14名の「殉教者」の名前が掲示されていました。説明書きによると、15年前に礼拝中のモスクに狂信的なユダヤ教徒が乱入して、これらの人々を殺したのです。そして見ていると、教師に引率されてきた小学生たちに博物館員が激しい口調で事件を解説していました。心の痛む情景でした。「ああ、エルサレム、エルサレム!」二千年の昔に主イエスはオリーヴ山から神殿の丘を眺めて慨嘆されました。しかしエルサレムの神殿の丘は一つの象徴であって、今日の人間世界の至るところに主イエスが慨嘆される「神殿の丘」があるのです。…とある通り、見事な数々のコーラン、陶器類、炊き出しの大釜、道具類などを今日はあまり人もいず、静かに見ることができました。外へ出て、もう一度岩のモスクのある広場に向かい、今度は鎖のドームの横から石段を下ります。そこからはオリーヴ山が真正面、素晴らしい景色に、皆で座り込んでしまいました。一休みして歩き出すと、一人の男性がやってきて私たちの様子を窺っているようす、「警戒警報だ」などと言いながら、きれいな並木道を歩いていると、黄金門の内側に来ました。オリーヴ山から見た感じよりもずっと頑丈に出来ています。近付こうとすると、さっきの男が「そこから先へ行ってはいけない」と叫んでいます。それからゆっくりと側まで来て、脇道に入る所に横に渡してある通せん棒をとって「今なら大丈夫だから大急ぎで見て来るように」と言います。何だか変な感じでしたが折角ここまで来たのだからと、すぐ近くまで行って写真を撮ってきました。早く早くと急き立てられて戻ります。途端に「チップを」と。「そら来た」と5シェケル渡すと「サンキュウ」と言うが早いか、もう次の前方から来る人に呼び掛けていました。そこから真っ直ぐの出口に向かいます。これで「神殿の丘」訪問は終わりました。ライオン門の所に出て、ヴィアドロローサ、西壁、カルドー、ダビデ通りと辿り、ハッサンのお店に寄って両替をし、ヤッフォー門から大型タクシー(25シェケル)でホテルへ。この日のお昼は近くのマクドナルドで夫々好みのものをとって、済ませました。明日と明後日は二日続けてバスの一日コースなので、それに備えて午後は自由時間。皆さん元気で夫々一人で買い物にいらした様子。あとでその戦果を見せて下さいました。7時に集まって、ベン・イェフダー街へ、何時もよく流行っているリモン・カフェという店でリモン・スパゲティーを頂きましたが、塩辛く量も多すぎて殆ど残さなければなりませんでした。口直しにアイスクリームを少し食べて、お水を買って帰ります。よく眠れた夜でした。
1995年8月24日(木)
今日もバス旅行です。マサダと死海へ行く予定。何時ものように朝食や色々の準備をして、ロビーで待ちます。今朝も時間通りに来ましたが、僅かしか乗っていません。ゆったり自由に席がとれたと思ったら、ユナイテッド・ツアーの事務所の前で下ろされました。暫く待つようにとのことで乗ってきたバスは行ってしまいました。このキング・デーヴィド・ホテルの前庭には芝生に色々な木が植っています。エルサレムの何処へ行っても街路樹や植え込みに植えてある繊細な葉で赤い実をつけた木、誰かが少しつまんでいじっていると胡椒の香りがしました。胡椒の木なのでしょうか、松、糸杉。松ぼっくりや糸杉ぼっくりを古市さんは楽しそうに拾っておいでです。面白い実が見付かりました。船の帆のような形の淡茶のさやの中にクリーム色の奇麗な可愛い種がお行儀よく並んでいます。皆で小さな一枝づつ拾ってソッと大事にしまい込みました。ふと気が付くと、昨日バスで御一緒だった御夫妻の姿が見えます。アラ!と双方から挨拶、その後、高橋と楽しそうにお話しておいでです。後で聞くとニューメキシコのお医者さんで、日本にもいらしたことがあるので話が弾んだようです。モリア・プラザ・ホテルにお泊りの由。バスは中々こないと思っていたら、一度に3台ぐらい次々に来て止まります。他にも2台程きて、それはそのまま行ってしまいました。やがて一寸離れた所に止まった車に案内されます。5人共、同じ側に席がとれました。今日のガイドは男性で割にぶっきらぼうな感じの人です。手ぶらでお客と見分けがつきません。やっと出発、モンテフィオールの風車がチラッと見えました。エルサレムを出てエリコ街道を行きます。ユダの荒野は人を寄せ付けない厳しさの中に不思議な懐かしさを感じるのはどうしてなのでしょう。春には緑だった山々がベージュと粉を被ったような茶色で羊の足跡の線は、はっきりしています。所々にいるベドウィンの山羊の群れは羊が少ししかいないように見えます。前には羊の群れの中に山羊がほんの少々のように見えたのに? 海抜0米の標識やサマリア人の宿といわれている所も過ぎて、右手のはるか山の上にベドウィンの村ナビ・ムーサ(預言者モーセ)があると、ガイドが教えてくれました。「モーセの死地はヨルダン川の東のネボ山なのに、ベドウィンは自分の村でモーセが死んだと信じている」とのこと。また「ベドウィンは一夫多妻で、仕事は簡単、男性のお客さんの中でベドウィンになりたい人は、手を上げて」なんて冗談を言っています。間もなく遠くに死海を望めるようになる頃には荒野の様子は深く、山々は心に迫ります。こんな所に一人立たされたらどんな気がするでしょうと思うと恐ろしくなります。昔の人達は歩いていたのに私たちはバスで皆と一緒に来て、見ることができます。なんと素晴らしい経験が与えられたことかと、来る度に思います。エリコの町を前方に見て、バスは右に曲り、死海に沿って走ります。左に死海を、右に変化に富んだ山々を望みつつ、「ア!ワジ(涸川)だ」とか「羊だ」などと人々の言葉が段々短くなるようです。時々キブツでしょうか、灌漑をして農園になっている所があります。瞬きの間も惜しいように砂漠の光景に引き込まれます。急に人の気配を感じる場所に来たと思ったら、ぐっとバスが曲がって坂道を上り止まりました。「クムラン」と読めるのでルートになかったけれど、行けるのかしらと一瞬思いましたが、クムランの売店でした。奇麗なお店に、死海の泥や塩、その他を含んだ石鹸や化粧品、健康食品に入浴剤などが沢山並んでいます。せめてもとクムランのパンフレット(英語と日本語版)と、石鹸を少し買いました。高橋は教会の聖餐用にバイブル・ブレッドを買っています。時間がきて、バスへ。いよいよマサダの要塞が見えてきました。しばらく走ってマサダのターミナルに着きました。此の日も沢山の人です。この暑さの中で「蛇の道」を行く人がいます。「蛇の道」は、ふもとからウネウネと頂上までたどる道で、昔の人はその道によってこの砦を上下したものでした。時間と体力の不足している現代人はロープウエイに乗ります。その順番を待ち、三台目に乗れました。満員です。定員等あるのかしらと思うほど。ゆっくり上りますが皆、背が高くて私たちは外を見ることは出来ない位。ゴトンと着いて「ああ暑かった」とお水に手が出ます。いつもは冷たいポットのお水もぬるくなっています。ふと見ると、マサダでお馴染みの「か〓〓」が欄干にとまっています。段々を上がり日向に出ると、さすが!と思う暑さ。パラソルを持って来てよかったと思いました。青木さんも持っていらっしゃいましたが、他の人は大丈夫でしょうか。先ず北の宮殿に向かいます。ガイドもいますが自由行動の様子です。私たちは用意した資料を参考にしながら、ボツボツ順番に見て歩きました。上段テラスから下を見、下に下りるのは止めて、大浴室を見て、いくつかの建物の跡を見、西の門に向かいました。
以前、山本七平先生御夫妻と砦の西側のローマ軍が攻略用に作った白い斜道のこの道から入った時、途中でユダヤ人過激派(ゼロータイ)とローマ軍との戦いのことなどお話しを聞いた後、手摺に止まっていた「かけ烏」を見て可愛いと思いましたが、それにカメラを向けていらした方に気付き、お邪魔にならないように、ヒョイと後退りをした途端、石に躓いて転び、頭を打ってしまい、皆さんに心配をかけた記念?の場所です。幸い、一寸血が出ただけで済んでホッとしましたが、あの頃まだ珍しかった携帯用の頭に巻くバンドになった氷嚢を貸して下さったり、冷たいタオルを貸して下さったり、親切にして頂いた事は忘れられない思い出です。
此所から見える、前に映画「マサダ」で使った「ローマ軍の兵器」の展示が今も健在でした。あの近くでバスを下りて上ってきたのだと、懐かしく、その時伺ったこの場の細かい感動的なお話を思い出しました。西の宮殿には「聖書を写した部屋」など大切な部分があります。よく見て次へ。割に近くにある次の建物の跡までも随分遠いように思えるほど厳しい暑さです。やっと半分位まできたようですが、とても南の方までは時間的にも無理なので、東に向かって幾つかの建物を回ってロープウエイの方に向かいます。日陰に入るとホッとして又元気が出るようです。死海が霞んで見えます。山本先生がよく「死海は視界が悪いといいますが、本当に何時も…」と仰言っていました。駅の隅にまたさっきの烏が盛んに餌をつついています。一杯の人を運んで来たケーブルに乗って下ります。帰りは往きほどには混まず、外も見えました。バスに戻り、死海へ向かいます。来る時も見ましたが変わった角を持つ鹿のような「野山羊」(かもしれない)がいました。今度は死海を右に見て暫く行くとエン・ゲディに着きます。少し先に古代のエン・ゲディがあり、逃亡中のダビデが立ち寄った所だそうです。死海の見えない所にある建物の前でバスは止まりました。入口の左に売店、右側から入ると更に右は脱衣場とシャワー室、左側は一面のガラス窓になっていて外が見られます。デッキチェアや椅子が自由に使えるように置いてあります。陣内さんは楽しみにしていらした「浮きに行く」準備に右側へ、他の人は左に別れました。見回して一番落ち着けそうな場所に椅子を出して外を眺めます。死海は見えません。こちら側は二階になっていて、ずっと長い通路の先に階段があり、その下の正面にある真水のプールでは、子供を交えて沢山の人が遊んでいます。その左側に遊園地の駅のような長いテントがあって、見ていると死海へ行く起動車のような列車が行ったり来たりして人々を運んでいます。私たちは先にお昼にしましょうと売り場を偵察に行くと、一階はレストランで、二階にはスナックや飲み物を売る店があります。いろいろ見て一番無難そうなツナサンドとコーラにきめました。30センチはたっぷりある長いパンに一杯のツナサラダが入っています。一生懸命食べたけれど半分にもなりません。とうとう降参してお終いにしました。その内に陣内さんがニコニコして「浮いた浮いた三回」と元気よく戻ってみえました。シャワーをあびてサッパリしてから同じ様にお昼をなさり、様子を伺いました。一緒に行けたら写真を撮れたのに…と残念におもいました。暫く休んで売店を一寸覗いて外に。あのドクターたちともまた出会いました。バスに戻って帰途につきます。帰りも、この荒野をよく見ておきたいと窓から目を離せません。湖の向こうの右の方にモアブの山々が霞んで見えます。この前の旅行の時は、あの何処かにネボ山があって、死海を、イスラエルを、モーセを思いながら見たのでした。やがて死海ともお別れ、エリコ街道に入ります。帰りは随分早いような気がします。一番早くドクターのモリア・ホテルに寄りました。さよならを言って下りていかれます。昨日に比べて随分早く、まだ強い陽射しです。五時ホテル着。部屋に入ってびっくり仰天! なんと部屋中が砂漠の中に置かれたように砂だらけ… どうしたら良いのか、呆然としてしまいます。高橋は早速フロントへ掃除を頼みに行きました。この間からホテルの玄関が砂だらけで水を撒いて掃除していました。それは、エルサレムの建物は此所で産出する薄いピンク色のエルサレム・ストーンを使うことになっていますが、それが茶色に汚れてくると、縄に板を通したような簡単なゴンドラに乗ってカリカリと削って奇麗にするのです。それが町のあちこちでされていて、その削り滓が砂の山になっているのですが、その日丁度私たちの部屋の上を削ったらしいのです。もともと窓の調子が悪く、開かずの窓だったのに隙間というのは恐ろしいものだと感心してしまいました。そっとカバンの上を拭き、鏡の前のテーブルや、ベッドサイドのテーブルの上一杯に置いた本やなにかを何とか使えるようにし、お掃除の人を待ちましたが中々来ません。とにかくシャワーを浴びて、他の方は大丈夫だったかしらと、約束の時間に陣内家に集まりました。幸い皆さんの所は大したことではなさそうで、陣内さんの部屋は私たちの真上ですが埃はあったけれど、それほどではなかった様子に安心しました。青木さんはお部屋で休まれるとのことで、4人でお湯を一杯沸かして夕食、私はお昼のツナサンドがひびいて何となく重い感じで控え目にしました。ゆっくりお食事をして部屋へ戻ったら、お掃除が済んでいて大体気持ちよくなっています。どうやらルームサービスの人は、私たちが外へ行くのを待っていた様子です。
夜、陣内さんとベン・イエフダー通りへ散歩に出ました。その時、キャシュ・ポイントという「ノー コミッション」と表示のある両替所を見付けて入って見ました。百ドルが298シェケルで換えてくれるので、295シェケルのハッサンの所より有利です(ホテルでは275シェケル)ここは近くて便利だしと、場所を覚えました。お店の人も堂々としていて、きちんと伝票をくれました。明日は二度目のシャバットです。朝の内にマーケットへ買い物に出掛ける予定です。今日も感謝の一日でした。荒野の畏怖を覚える素晴らしさを思いつつ眠りに就きました。
マサダ−MASSADA−
エン・ゲディの南約17Km、死海沿岸にそそり立つ高さ400mの山で、アラム語で要塞と言う意味、遠くから見ると孤島のようで四方が絶壁で頂上が平らなまさに天然の要害であることから名付けられた。
聖書によれば、サウル王から逃れて荒野をさ迷ったダビデもこの要害にいたという。(サムエル記上23:14)
その後、紀元前42年、ハスモン家の大祭司ヨナタンがこの自然の要害を要塞化した。紀元前25年にはヘロデ王がこの要害に宮殿や見張り塔を作り、さらに強化した。歴史的に重要になったのは、紀元66〜73年にかけてローマに対するユダヤ反乱軍の舞台となったからである。
紀元70年にはエルサレムの神殿も破壊され、その後3年間、この要害にエリエゼル・ベン・ヤイールの指揮のもと女性、子供を含めた約
960人のユダヤ反乱軍が立て籠もり、ローマ軍と最後まで戦い続けた。これに対してシルヴィア将軍の率いるローマ軍は、この要塞の回りを8つの駐屯地で囲んだ。その数は約1万人と言われている。この徹底したローマ軍の攻撃にユダヤ人は捕虜となって辱められるより、自決の道を選び、唯一なる神にその生涯を捧げた。ただ洞窟に2人の婦人と5人の子供たちが身を隠して生き残っていただけであった。
このマサダには、荒野に降る少量の雨水をすべて確保出来るように、岩をくりぬいて造られた大規模な給水施設が12槽もあり、総計約4万トンもの水を貯水できるしくみになっている。その他、北の崖には3段式の宮殿があり、他にローマ式浴場、パレスチナ最古のシナゴーグの跡やミクヴェ(沐浴用水槽)なども発見されている。
イスラエル・ガイド(ミルトス社)より
非常に感動的なこの出来事についての詳細は、ヨセフスの「ユダヤ戦記」(山本書店発行)をお読みくださるようお薦めいたします。
1995年8月26日(土)
何だか寒い感じがして起き出しました。「今夜もう一枚毛布を貰えるかしら」と高橋に話すと、直ぐメモを書いてくれましたので出掛ける前にベッドに置いておきました。
今日はシオンの山を訪ねる日です。川崎の私たちの教会では94年10月30日の「神殿の丘」のお話を聞いた頃からダビデについて学んで来ました。今日はその「ダビデの墓」を訪れる予定です。毎朝ワクワクしながら準備をして、満たされて感謝一杯で一日が終わる。何と言う恵みでしょう! 唯々感謝あるのみです。 外へ出ましたが、暫くタクシーが来ません。こんな日も珍しいと話していましたら、やっときたと思った途端、外国人と日本人の奥さんの二人連れが約束していたもののようでした。その奥さんは私たちに一寸挨拶して乗っていかれました。次に来たタクシーに「シオン門までいくら?」というと「30シェケル」と言います。25シェケル、と値切りましたが、結局30シェケルで乗りました。彼の言い分は「今日はシャバット(安息日)なので、大回りしなければならない」とのこと、なるほど城壁を大回りしてダビデの墓のまん前で止めてくれました。これは良かったと「また会いましょう」と言い合って別れました。アラブ人でラミー・ラバイと名乗る面白い人です。入口を入ると、太い四角い石の柱に「十戒」を模したプレートがあり、正面の壁に、緑の葉の鉢を前にメノラーの奇麗なレリーフを嵌め込んだ飾りがあります。写真を撮っていると奥のほうから、おもむろに一人の男性がやって来ました。このことは94年の「神と富」(巻末参照)にある通りです。そのあとが高橋の記憶と私のそれと一致しない部分があります。そのアラブ人私設ガイドから離れて、正面の飾りをもう一度見て、右に曲がります。つながった建物の下が通路になっています。そこから広い運動場のような広場にでる間際にキッパを冠った可愛い10歳位の少年が腰掛けていました。高橋がそばに行って「ダビデの墓はどこ?」と尋ねると、後ろの方から先ほどの男が「日本人には教えるな」と叫んでいます。でもその子は手で「あちら…」と示してくれました。お礼をいってその方に行くと聖堂の入口があり、ユダヤ教の礼拝が丁度終わったところのようでした。畳二枚位の廊下の、右側と正面にドアがあり、正面のドアが開いていて、人が出入りしていました。一寸中へ入った高橋が「ここではない」と又外に出ると先程の少年が走って来て、右側のドアのハンドルに手を触れて「ここだよ」と言うので「入れるの?」と聞くと、うなづきました。中々やさしくて、しっかりしていて素敵な少年だと思いつつ、高橋に話すと早速そのドアの方へ行き「彼に1ドルあげて…」といいます。急いで1ドル出して渡そうとすると、手を振って断わり「僕はいいから此所へ入れて」と傍らの献金用のポストを指しました。「有難う」といってそこに入れ、すっかり感激して高橋に話しますと「何と素晴らしい子なのだ」と、皆も口々に喜び合いました。いやなことのあった後だけに本当に天使に出会った感じです。そのドアを開けて中に入るとガランとした部屋があり、次の部屋に入ると、そこはシナゴーグで誰もいません。一方にガッチリとした鉄格子があります。胸のときめく思いでその奥に進みます。そこには部屋の正面一杯に深い緑のビロード(昨年は紫だった由、旅行案内などではえんじのもあるので時々変えるようです)の真ん中に「ダビデの星」の豪華な刺繍のある覆いの掛かった石棺があり、その上にはトーラーやケースに入ったライオンの置物(ユダ族のしるし)や王冠が飾られて、身の締まるような雰囲気です。今、エルサレムの街には至る所にダビデがエルサレムを首都とした三千年記念の旗が翻っています。そして今、私達が此の場所にいるのです。何と不思議なこと! それにしても何と大きな! これではあの大男のゴリアテでもコソッとなるのではと、けしからぬことを考えてしまいました。でも「ダビデ」という、人々の心に今も尚、生き続けるこの名が、どれほど大きいものか。「ダビデの末裔」と主イエスのルーツにされていることだけでも、そして常に神を思い、神に愛されていたダビデを記念するためなら、中味がどうであれ、この大きさでも決して大きすぎることはない、と考えました。94年2月19日のプリント「ダビデの最期」にもあるように死期が近付いた時のダビデが王子ソロモンに残した言葉を思い出します。「私はこの世のすべての者がたどる道に行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ…」 この言葉は私達に与えられた戒めでもあり、私達の最期にも、そのように次の世代に伝えて行きたいものと心から願います。先ほどの控えのシナゴーグに戻ります。そこにあるタペストリーの模様も正面のは濃いえんじのビロードに金の刺繍で十戒とメノラー、右上には濃い緑に金のダビデの星が一つ、落ち着いた素敵な装飾です。その部屋の低い窓の外から観光客の一団が屈んで中を覗いていました。そこからは以前私達も見ましたが棺は見えませんでした。「今日ここに入れたのは私達だけね」と、どなたかがつぶやきました。本当に、あの子のお陰で、ともう一度お礼を言いたくて外に出ましたが、もうあの少年はいませんでした。心に灯が点ったような思いで一旦外へ出て、建物に沿って曲り、二階へ。
最後の晩餐のお部屋です。沢山の外国のツアーの人達でザワめいています。中に入り、窓からの光が柔らかい室内を見回します。殆どの人が出て行き、静かになりました。何も置いていないこの部屋に、あの時はどんな風だったのでしょうと思う反面、私達に注がれた主の愛を強く心に刻みつけられます。背いて行く者、他愛ない者、不安におののく者、主イエスの周囲には御心を安らげる何も見当たりません。それでも一人一人に心を配られ、教え、いたわって下さいました。そして今も…。 私達人間は変わることがありません。けれども主によって人間の罪を知らされ、心を砕かれ、赦しを受けて生かされる自分を知らされることほど、大きな恵みはないと感謝が溢れます。 人それぞれの思いを携えて外に出ます。この近くにあるホロコースト博物館は今日は土曜日でお休みでした。そのまま石の建物の間の道を行きます。間もなく「眠〓〓〓〓〓〓〓会」の尖塔が見えました。真っ青な空にクッキリと美しい。近付くにつれて聖堂も見えて来ます。シオンの丘の目印のようにオリーヴ山からも見えていた先ほどの尖塔と四隅に小さな塔を配した丸形の建物に灰色の屋根が優しい感じに思えます。中に入ると窓のステンドグラスの色合いも女性らしい優しさです。地下に下りますと、広間の真ん中の立派な東屋のような中に、清楚な「眠れるマリア」の像があります。その回りに、いたわるように見下ろす、イヴ、ミリアム、ヤエル、ユディト、ルツ、エステルの六人の聖書に出てくる女性たちが配されていて本当に夢のように美しい。回りの壁も素晴らしい絵で飾られていて、聖母マリアの安らかな眠りを静かに守っているようです。心が和む思いで今度は鶏鳴教会に向かいます。 シオン門をでると左にオリーヴ山が見えます。そこから曲がった道を進みます。今いた「眠れるマリアの教会」が右に見えていたと思ううちに何時の間にか左に見えます。その間にオリーヴ山は勿論、ダビデの町、キデロンの谷などを望み見て、素晴らしい景色を楽しみました。間もなく路傍に「セント・ピーターズ・ガリカントゥ」と四つの言葉で書かれた表示のある所に来ました。二人の姉妹を記念に撮って、先へ進みます。分かれ道の角に不釣合な感じの青い色の小屋があります。これが鶏鳴教会の入場券売り場でした。昨年のように牧師は無料ということでキップを四枚求めます。奇麗にお花を植えた花壇を両側に見て行きますと、左側に門があり、右に低くこの教会の独特の屋根が見えました。左の建物は、昨年高橋が、日本にいらしたシスター・ノエルとブラザー・チャールスに出会った売店だそうです。聖堂の入口に沢山の人がいます。中に入るとドームの十字型のステンドグラスが美しい。同じデザインのステンドグラスの大きなアーチが正面にあり、その中にイエス様を中心にした大きな絵があります。多くの人が出て行って、静かになりました。椅子に掛けて暫く祈りの時を持った後、辺りを見回します。両側の壁と後ろにも同じアーチがあり、夫々に主と弟子たちの様々な場面の絵を縁取っています。それらの両側にも絵があり、それぞれに付けられた表題を読めるともっと嬉しいのにと思いました。地下に下り、幾つかの石の部屋を回り、最も低い所に来ると、そこが石牢でした。イエス様が閉じ込められていらしたかもしれない場所と聞くと、何とも言えない気持ちがします。上に戻り、教会のベランダに出ますと、パノラマのように景色が開けます。東にオリーヴ山、北に神殿の丘、西にシオンの山、南にキデロンの谷と、四方を心ゆくまで眺め、色々の場所を覚え、確認できました。今度はあの考古学的に重要とされるローマ時代の石段です。始めて来たときは教会には入れず、外から建物をチラっと見ただけで、この石段を見学しました。丁度春の季節で可愛い花が沢山咲いていて、お元気だった滝口幹さんが大喜びで摘んでいらしたのを懐かしく思い出します。その時とは、随分周りの様子が変わって、見学に便利に、手摺をつけた道が出来ていたり、石段の周囲は両側とも低い木や草、野の花が一杯だったのに、すっかり整備されて、私など以前の方がよかったように思います。段の上に、イエス様と弟子たちがゲッセマネに向かわれる絵と、神殿警備員達がイエス様を逮捕して、ここ大祭司カヤパ邸に連行して来る絵の二つのプレートが両側にはめこまれていて、人の心を聖書に導くようです。外に出ると石の塀に「主は振り返り、ペテロを見つめられた。そしてペテロは外に出て激しく泣いた」(ルカ22章)の言葉と、「イエスは、かつてはペテロの罪のゆえに悲しみに満たされたが、今、私たちを見詰めておられる。彼は私たちもまた、自分の罪に対する悔い改めの涙を流すことを待ち望んでおられる。私たちがイエスを苦しませたことに対して悔い改めの嘆きが深ければ深いほど、私たちの彼に対する愛が増々強く燃え立ちます」の一文が茶色地にクリーム色の奇麗な書体で英語とドイツ語で記されていました。(心引かれてカメラに収めてきたら、はっきり読み取れるよう、うまく撮れていました)多くを考えて見学した後に、このようなコメントに出会うのも此所ならではと嬉しくなりました。向かい側の売店に寄りましたが、ブラザー・チャールスはいませんでした。オリーヴの木で作られた鶏のブローチやイスラエル料理の本などを買いました。シオン門に戻ると、まるで待ち合わせたかのようにラミーの車が着きました。二人の日本人を下ろして彼はニコニコ笑いながら手招きしています。聞けば、あの二人の日本人を60ドルでベツレヘムまで案内してきた、とのこと。アラ、マアとまた彼の車に、今度は何処へというのでホテルに帰るというと「自分の兄弟がやっているファクトリーを是非見てくれ」といいます。クムランで買った〓〓〓〓Aという化粧品を「お安くします」由、やがてその店に着きました。高台のシオンの山や、オリーヴ山、金と銀のモスクなど広く見渡せるいい場所にあります。奇麗なお店に案内されると弟たちや叔父さんという人達に紹介し、皆で懸命に説明したり、試させたり親切この上ない接待ぶりです。なかなか感じの良い人達なので、夫々買い物をしました。すると一人一人におまけの化粧品をくれました。高橋にまでくれたので「何も買わないのに」というと、「あなたはガイドだから」と言ってみんなで笑っています。飲み物を出されたり、一緒に写真を撮ったりして束の間の交わりを楽しみ、外へ出てそこからの景色を写し、再び車に戻ります。上機嫌でおしゃべりしながら12時30分にホテルに着きました。今日の行程はこれでお終い、すべては順調でした。感謝です。 青木さんのお部屋でカップラーメンとパンなどでお昼を頂きました。青木さんは御持参のダイエット・ラーメンで、私は一寸お腹が頼りなくて葛湯にしました。毎日知らず知らずの食べ過ぎと冷えでしょう。部屋には今朝頼んだ毛布がちゃんと用意されていて大助かりです。午後は自由時間、私たちはお昼寝と読書に過ごし、夜も夫々準備したお食事で、青木さんのお部屋でしたが、お部屋の主は召し上がりませんでした。私ももう一度葛湯にしました。ほかの方々も軽くなさったようです。
7時からシャバット明けで賑わうベンイェフダ通りを散歩しました。沢山の人で賑わっています。ここの人々はこうして生活を楽しんでいるようです。何だか三、四日分位を半日で見学してきたような気がします。素晴らしい一日でした。シオンの山が大好きになりました。
この日のことを思い起こしつつ感謝を捧げ、留守中の皆さんの上に祝福を祈り、明日の礼拝に元気で集まられる事を願って、この一日も終わりました。
1995年8月27日(日)
エルサレムに着いた日、この街を通るバスを見て「乗って見たい!」と子供のように思いました。と言うのは、二輌連結で、お伽話に出てくる「芋虫」のようにユーモラスな動きをする車種が沢山走っていたからです。オレンジ色と白のきれいな車体で行く先の表示はなく、ルートの番号が目印になっています。「イスラエル博物館へ行く時に乗りましょう。9番ので行けますから」と、聞いて楽しみにしていたのが、今日、実現するわけです。朝食の後、用事でお出掛けの陣内さんと高橋を送り出してから、青木さんと古市さんと私は青木姉のお部屋で讃美を捧げ、共に一時を過ごしました。予定通り9時に出掛けます。キング・ジョージ通りのバス停で9番のバスがくるのを待ちます。昨年は3シェケルだったのが、今年は3・2シェケルなので、それぞれ準備をして来ました。間もなくやってきたのは、願い通りの二輌連結ではありませんでしたが、次のを待つ時間が惜しいので、乗ってしまいました。空港で飛行機とターミナル・ビルを結ぶバスのように、床の高さが低いので、乗る時は良いけれど、日本では許可しないのではないかと思いました(事故があった時のことを考えると)。ゴトゴトと大通りから脇道に曲がると緑の庭のあるきれいな住宅の街になり、暫くすると広々として大きく空に向かって視界が開けた感じがする所に来ます。左側にクネセット(国会議事堂)が見えて来て、間もなく博物館前に着きました。前方に切符売り場が先のほうに見えます。開館にはまだ少し時間があるので、議事堂のメノラー(七枝の燭台)が見えるかしらと近くまで行ってみましたが見える所まで行くには時間がたりないようなので諦めました。戻ると丁度時間になりました。九時半に入場券売り場が開き、各自で買いました(二〇シェケル)。そして博物館入口の所で入場券を渡します。去年、高橋に親しく話しかけた係りの「おじさん」はいませんでした。そのおじさんは、去年高橋を見て「コンニチワ」と言うので、高橋は「日本語ができるのですか、でも今は朝だからオハヨウと言うのが正しいのですよ」と教えると、喜んで「オハヨウ」と言って、日本語の案内書をくれたそうです。構内に入ると、正面に小さな建物が見えます。ワイズボード館で、右の方に広い立派な道がずっと続いています。両側に水の流れがあり、その外側は花壇になっていて、色々なお花が奇麗に咲いています。その奥には木々があり散歩にも素敵な道です。歩きながら右を見る〓〓〓〓〓〓〓〓見えます。山本七平先生と来た時には夜だったので本館は照明されていましたけれど、独特の形をしたその屋根は街頭の明りで白く浮き出たように見えていました。「あれはクムランの洞窟で発見された巻き物の入っていた壺の蓋の形をデザインしたものです」と伺ったその屋根の上に今日は雀が沢山とまっています。何故かホノボノとした感じがします。そこは十時にならなければ開かないので、ずっと先に進みました。左に恐竜の格好をした滑り台が異様な様子で立っています。この館のシンボル・マークの子供の看板が建物の屋根に乗っていて一目で子供館と分かります。多くの子供連れの人々が既に遊んでいます。そこを素通りして、ある間隔をおいて石段になっている道を進み、イサム・ノグチのデザインによる「美術の庭園」を散歩します。有名な彫刻家の名がつけられた彫刻が広い場所に一区画に一つか二つ、中々贅沢な配置で飾られています。ロダンやヘンリー・ムーアなど特に知られたのも幾つかあり、ここだけでも大したものだと思いました。写真を撮ったり暫く楽しんでから十時少し前に「本の殿堂」まで戻ろうと、林の中のような気持ちの良い道を散策気分でお花や植物を楽しみ、快い風に暑さを忘れて歩きました。建物に近付くと先程沢山の雀が止まっていた壺の蓋形の屋根を噴水がぐるりと飾っていました。その脇に真っ黒な高い塀のようなものがあり、屋根の白と塀の黒との対照で、「光の子」と「闇の子」を現わしている由、その下になる「本の殿堂」に入ると、先ずそこには、パピルスに書かれた手紙の断片が幾つかのケースに展示されています。第二次ユダヤ反乱(132〜135)の首領バル・コホバの手紙やその他の手紙類です。山本書店から出ている「バル・コホバ」で読んだそれらの発見に至る息詰まるような苦労と喜びを思い出します。いよいよメインのお部屋です。本当に壺の中に入ったようなデザインで、薄暗くした大きな丸い部屋の真ん中に数段高く、トーラーの巻き物の取っ手を表わしたショーケースがあり、回りの壁面には間隔をおいて細長いショーケースが嵌め込まれていて、前に立ってボタンを押すと明りがつくようになっています。先ず中心に向かい、そっと段をあがり、厳粛な思いでイザヤ書の巻き物の前に立ちました。こんなにも奇麗に保存された事が本当に不思議でなりません。私たち今の世の者たちのために残して下さったお恵みと、襟を正す思いで一つ一つ心に留めて何度か見て回ります。つい先日「イスラエル建国物語」で読んだ、クムランからこれらの巻き物が運び出されて、散逸から守られ、きちんとした研究軌道に乗るまでの、手に汗を握るような出来事を思い出し、始めにこれを書いた人からずっと、どれほどの人々の心を込めた地道な働きがあったことか。そしてそれを守り、導いて下さった御業を感謝せずにいられません。今日見たものすべてがほんの40年ほどの間に発見され、補修、分類、研究され、こんなに分かり易く整理されて、私たちの学びに供されると思うと、うかうかと見過ごすことの多いのが申し訳なく思えます。またイスラエルの国の最も貴重な宝物が、金銀、宝石などではなく、聖書の写本であることに深い感銘を覚えます。それぞれが感慨をもって更に地下に進みます。洞窟のようなデザインの通路の両側のショーケースにバル・コホバの時代の洞窟から発見されたものや生活用品などが展示されています。見終わって外にでると別世界に来たような感じがします。この建物がほかの建物から離れていることが心憎い配慮のように思えました。いきなり他のものに目を移す気にはとてもなれません。強い陽射しの中を本館に向かいます。中に入るとクロークがあり、エスカレーターの側で制服を着た年配の男の人が「カメラをしまって下さい」と人々に丁寧に注意しながら、どんどん行ってしまう高橋を気にしているように見えました。あとでその事を話すと「あ、それじゃ去年切符売り場にいた人かも知れない。そう言えばそんな感じだったがガードマンの制服を着ていたので気が付かなかった」由、帰りに会えれば良いけれど。広々とした展示場に「民族学館」としてユダヤ人の生活を模型で見せています。服装や道具類も中世から段々変わってくるもの、殆ど変わらないもの色々あって、じっくり時間をかけて見られたら面白いでしょうに、と思いつつも楽しく見て回りました。階段の下に現代美術を展示してあるようでしたが、上から見た限りでは私たちにはあまり縁のないもののようで下りるのを止めました。聖書館、考古学館と続いています。時代別にきちんと整理されていて興味が尽きません。転がして押す印章や、装身具、驚くほど美しい器類、お骨を納める箱、武器の類いなど、どんな時にどんな人に使われたのか知ることができたら、と思ってしまいます。以前にも感じた事ですが、何処の博物館でもよく見掛ける風景に、ユダヤ人の親が子供に展示物を指さしながら、熱心に説明していて、子供もまたしっかり聞いている様子を見て感心します。日本では余り見られない風景です。
「ラビ・トケイヤーの校長日記」という本の「家庭教育」の項に、
聖書の『申命記』に神の命令として、「主の言葉をあなたの子や孫に教えなさい」という、ユダヤ人だったら誰でも知っていなければならない有名な言葉が出てくる。聖書の言葉を子に教えることが、親の神に対する聖なる義務でありつづけているのである。
あるいは『箴言』が「子供をその行く道にふさわしいように教えなさい。そうすれば長じてからも、その道を離れることがない」と教えている。聖書のなかには、親が子供を教育する責任を負っていることを諭している言葉が、何回も繰り返して出てくる。
とあるように、今もこのように殆どの普通の家庭で守られているのを知らされた思いがします。
一通り見学して、入口に戻り、エスカレーターで地下に下ります。くつろげる椅子が沢山並んでいて、売店もあります。そこで夫々好みのスナックと飲み物を買い、ゆっくりお昼にしました。別の売店で絵葉書やパンフレットを買って一階に上ります。入って来た時の制服の「おじさん」はもう見えません。一寸心残りでした。入口に近い「ワイズボード館」に行きます。こじんまりした建物ですが、何処から入るのか分かりません。高橋が入口と思える所で作業をしていた男性に聞くと子供館の方向を教えます。変だなと思いつつそちらへ向かうと、様子を見ていた女性たちが「さっきの所でいいのですよ」と教えてくれました。やはりそうだったのに何かいじわるをされたような気がしました。ありがとうを言って、中に入ると、こじんまりした建物の一部のガラス張りの部屋に小品ながら素晴らしい彫刻が並んでいます。この方面の知識のある人なら先ほどの彫刻庭園共々動けなくなる場所なのではと思いました。ロダンも幾つかあります。イスラエル博物館にはこれでさよならし、強い日差しのの中を、外へ出て左側へ。 今度は「バイブル・ランド博物館」です。入口を入ると、女性と男の人が二、三人いて、切符を買おうとすると、その女性が、何だか言いにくそうにはにかみながら「若し、あなたがたが60歳以上ならシニア料金です」と教えてくれました。「それは有り難い」と16シェケルを10シェケルにして貰ってカメラを預けて中に入ります。カナダの美術収集家のプライベートコレクションの由、お金持ちもこのようにお金を遣ってくれると、素晴らしいと思います。聖書の歴史に興味を持つ人にとっては、この博物館は見逃せません。BC六千年からAD六百年の間のことを、時代にそって展示されていて三番目の部屋ではコンピューターで色々検索できるシステムが設備されているとのこと。20の部屋を順々に見学できます。コンピューターの所では興味に引かれて一寸触るともう動けなくなってしまいそうで、諦めました。エジプトの博物館でも見たようなものも、布や道具類も、石に刻まれたシールやさまざまなレリーフなど、もっともっと見ていたい気持ちと、少しくたびれたような感じが入り交じって、出口に来た時にはホッと息をつきました。ここでも売店に寄ってパンフレットなどを求めて外に出ます。
バスの停留所にいきます。エルサレムのバス停は皆、屋根とベンチがあって陽射しを避けられます。何台か来ましたけれどルートが違うようです。とうとう待ち切れなくて、幸いにもやってきた大型のタクシーで帰ることにしました(ホテルまで25シェケル)。二時半にホテルに着き、休憩の後、女性たちで夕食の買い物に出ました。タリタクミの記念碑の後ろのデパートへ行きます。デパートの入口でも持ち物の検査があります。もう慣れて何とも思わなくなりました。地下に食料品の売り場があると聞いて、私は始めて行ってみました。何とそこにはCOOPの表示があります。生協だったのです。随分いろいろのものがあります。日用品は一応何でも揃うようです。美味しそうな桃、トマト、オレンジなどを買い、小さな瓶詰とかそれぞれ必要なものを買って、帰りに「おかずやさん」に寄ってお魚やチキン、サラダを買って戻り、夕食と後の時間は自由ということにしました。試しにとお魚とチキンを一切れづつ買ったのは正解でした。お魚は「お野菜の甘酢あんかけ」のようですが実に酸っぱい。慣れればいいのでしょうが、酢の物の苦手な高橋はお手上げです。それでもおみおつけなどで、なんとか中和して頂きました。お食後、私たちはまた町に出ました。ベンイェフダーの通りで何時ものアコーディオンのお爺さんの回りに沢山の人が立っています。私たちも一緒に聞いていると、「蝶々、蝶々」などの懐かしい曲を弾いています。中々奇麗です。向かい側に二組の双子の赤ちゃんが夫々双子用の乳母車に乗せられて両親と共に来ていました。片方の一組は一人の赤ちゃんはグッスリ眠り込み、一人はキョトンとした顔をして間もなく眠りそうになっています。もう一組の一人は、はしゃいで曲に合わせて首や手足を振って、いかにも楽しそうにしています。もう一人は、うっとりして気持ち良さそうにお爺さんの方をじっとみて聞いています。何とも可愛くて「カメラを持って来るのだった」と二人で残念がりました。すっかり楽しい気分になって何曲か聞いてチップを置いてその場を離れました。本屋を覗いたりデパートの上の階へ行ったり、賑やかな町の散歩をして帰りました。今日も感謝の一日でした。
ラビ・トケイヤーについて
(Marvun Tokayer) 1936年ニューヨークに生まれるイエシヴァ大学卒業後、1968年に来日、日本ユダヤ教団ラビとなり、
その後滞日十年、現在ニューヨーク州グレートネック在住。
テンプル・イスラエル・ハイスクールの校長を務めた後、現在、全米でもユダヤ人指定の名門校、ノースショア・ヒーブルー・アカデミーの校長。
この本の序文に…私は長い間、ユダヤ人の教育方法について一冊の本を書きたいと願ってきた。
通算すると十年間、私は東京においてユダヤ人社会のラビとして働いたが、滞日中、多くの日本人が私に温かい友情をもって接してくれた。私は日本の友人たちに対して、私なりに恩返しをしたいと願ってきた。この本は私のささやかな贈物である。(略)私は日本社会の最もひ弱い面が、教育にあると思う。日本の教育は21世紀の世界が必要としている、創意に溢れた人材をもはやつくれなくなっている。日本の教育はまるでひと時代前の製品をつくっている古い工場のようなものだ。役立たない製品をつくっている。今後、日本が伸び続けようとするならば、この古い工場のような教育のやり方をスクラップして、新しい時代に適った生き生きとした教育を行わねばならない。(略) 私は東京に住んでいた間に、今は故人となった山本七平氏の知遇を得た。山本氏は日本の論壇で指導的な立場にあった。私はある日、山本氏を山本書店に訪ねた。会社は小さな社屋というよりも小さな一部屋の中にあった。私が山本氏にイザヤ・ベンダサンのペンネームで『日本人とユダヤ人』を著したのではないか、と質問すると、そう認めた上で、悪戯っぽく微笑んで「日本人はユダヤ人が優れていると信じているから、ユダヤ人の名前で書けば多くの人が読むと思いましたよ」と言った。そして「日本社会のありかたに警鐘を鳴らしたかった」と説明した。それから、私に「トケイヤーさん、お願いがあります。一つ、ユダヤ人の立場から、日本の教育を正道に戻す本をぜひ書いてくれませんか」と言った。それ以来、私は日本人のためにユダヤの教育を解説する本を書いてみたい、と思ってきた。私も山本氏と同じように、日本はこれまで教育の力という風を帆に受けて発展してきたが、これからは誤った教育によって抑えつけられて衰退するのではないかと、憂えている。 ある時、やはり古い友人である徳間書店の萩原実氏から、私に校長として苦闘している日記を書かないか、という誘いがあった。山本氏と萩原氏はともに、ユダヤ人の文化と伝統について深い造詣を持っている。本書は、両氏のすすめに応じて筆をとったものである。(略)