李白

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李白が生まれたのは、シルクロードを往来する商家。キルギス共和和国のトクマクあたりと言うことですから、天山山脈の北・イシク・クル湖のあたりか。五才の時、中国・四川省江油(成都の北西140km)に移住したとの事。江油には李白記念館があります。幼少より諸子百家の書を読破し明晰であったらしい。長じて、剣術を学び、任侠の士と交友したり、神仙世界にあこがれ道教の修行をし、道教の僧や隠者とも交際したり、司馬相如をまねて賦を作ったり、蜀の国の名勝を訪れて、自由奔放に生きている。二十五才の時、経世の志やみがたく、己を培ってくれた蜀の地を旅立つのです。
峨眉山の月に重ねて別れたあの人の顔を想いながら、いよいよ船旅の難所である三峡へ。「峨眉山月」にその心情が謳われています。
早いもので、希望に満ちているような朝日に彩られた雲がかかっていた白帝城を、今朝、後にしたのに、遠く離れた江陵の地に、この小さな舟は一日で下って行ってしまうのだ。静かな渓谷の両岸に猿の聲が響き渡っていたが、もう聞こえて来ない。そういえば、多くの山の間をこの舟は通りぬけて来た。故郷の人々と会えないことを想うとさびしいが、志もある。「白帝城」
李白は、三峡を経て、洞庭湖の近くの長沙や南京市(金陵)など江南の各地に遊んだ後、三十四才(734年頃)までは、武漢の西北100kmの位置する安陸市に居を構え、一男一女を授かっています。
李白は、更に放浪の旅にでる。
安陸を離れ、山西の太原に遊び、泰山の南、えん州に寓居し徂徠山にこもり"竹渓の六逸"にかぞえられたりして、自由気ままな時を過ごしたが、故郷を遠く離れ、志あれども縁なく、思わず故郷を思う。「静夜思」
山東からの帰途、立ち寄った洛陽でのこと。どこからともなく、ひそやかに笛の音が聞こえてくる。おりしも、春風に乗り、洛陽の街に響き渡る。今晩のこの曲は、別れの歌である折柳曲である。しみじみとしたこの曲を聴いて故郷を思い出さない人がいるだろうか。誰しも私と同じように故郷を思い出してしまうだろう。「春夜聞笛」
泰山(秦の始皇帝や漢の武帝が封禅の儀式を行ったという山東省の山)や杭州などに遊ぶうち、交友仲間である道教の僧・ゴイン(呉(竹かんむりに均)の紹介で、ようやく朝廷に召し抱えられる機縁を得ます。長安で「翰林供奉」の職を得たのです。実に蜀を出てから17年後(742年)李白42才の秋、志を果したのです。折りしも、玄宗皇帝の前に絶世の美女「楊貴妃」が現れた頃。
長安では、得意満面、豪放磊落な気質の李白は、酒を飲み二日酔いになりながらも詩を詠じ、この世を謳歌します。「清平調詞」3首--@ABが作られている。
しかしながら、杜甫に”酒中の仙”と言わしめたほど自由奔放に、玄宗皇帝のもとで詩歌を詠じた宮廷生活も、讒言などもあり長くは続かず、744年都を追放されることになり、李白は失意を味わうことになります。
長安を離れ、杜甫や高適との出会いのあった洛陽を経て、梁宋、斉魯と遊び、金陵(南京)へ下り、蘇州、幽州と各地を歩いています。金陵の地は三国時代の呉王孫権の都。秦淮河が長江に注ぐ辺りの白鷺洲が見渡せる「鳳凰臺」を訪れ、呉宮の小道も草花に埋もれる栄枯盛衰と都を追われた我が身。玄宗皇帝の側近達の讒言さえなければと長安の都へ想いを馳せています。また、呉越の地は、呉王夫差と越王勾践の激戦の場。臥薪嘗胆の故事があります。「越中懐古」「蘇臺覽古」
李白は、宮廷を追われてから、もう十年(755年)。しかし、まだ帰参が許されず、長安を思う気持ちには強いものがあります。しかし、白髪が多くなる自分と歩を合せるかのように、次第に世が傾いて行くような予感・愁いを感じています。秋浦では「秋浦十七首」。宣城(南京市の南120km・太湖の西120km)に放浪の旅をしていた頃(李白55才)の作に、「望天門山」などがあります。
その頃、節度使であった安禄山は契丹を撃破して力を伸張しており、楊貴妃のいとこで玄宗皇帝の取り巻きであった楊国忠の言いがかりに兵を発したのです。安史の乱の始まりです。白居易の「長恨歌」にも歌われています。
李白は玄宗の子である永王李りんの勤皇軍に参加したのですが、兄の粛宗が皇帝に即位して後、永王が詔勅に従わなかったため、不運にも逆賊となり、獄に繋がれ夜郎に流されます。しかし、多くの友人の請願もあり、夜郎へ行く途中759年、恩赦で釈放されました。釈放の知らせは「白帝城」においてであり、李白の詩は、この時の自由の身になり、心も軽く、長江の下流へ向かう心はやる様を詠んだものとも言われています。この後、李白は岳陽、漢陽、宣城の各地に遊び、762年12月、李陽冰宅にて一生を終えています。62才、病没。