ポール・マッカートニー卿、アイルランドの古城で再婚(2)

由緒ある古城と多彩な一族



 ポール・マッカートニー卿が挙式の場所に選んだアイルランドの鄙び
た小村グラスロウ(Glaslough or Glasslough)の所在地は、アイルランド
共和国の北部、モナガン州モナガン郡Monaghan)にある。
北アイルランドとの国境に近い無名の小村であった。

 それが一変した。村民が誇らしげに、
「われわれは明日へ向かって、素晴らしい一日を過ごせた」
「これで『グラスロウってどこ?』といわれることはなくなる」
というように、もはや有名な村になった。

"We've got one excellent day ahead of us tomorrow."
"From this day forward, even in our own little country here,
no-one will be saying 'Where's Glaslough?'

 さて、ポール・マッカートニー卿が挙式したグラスロウのレズリー城と
レズリー一族の歴史、ならびに当主レズリー準男爵のプロフィールを、
6月10日のBBC News World の報道や史書を引用しながら紹介しよう。



1 レズリー家とフン族の大王アッティラ

 伝説ではレズリー家の祖先はフン族の大王アッティラという。

 紀元前3世紀末から約500年間、「匈奴」と呼ばれたモンゴリアの騎馬
民族は中央アジア一帯で勢力を伸ばし、南はベトナムの北部、東は中
国の北部を脅かしていた。秦の始皇帝がその対策として「万里の長城」
の建造に着手したことでも、その脅威がわかる。

 西に進んだ匈奴はフン族(Huns)と呼ばれ、ヴォルガ川やドン川以東の
ステップ地帯に暮らしていた。4世紀後半、フン族は西に移動した。
375年、黒海の北部に住んでいた東ゴート族を服属させた。

 恐怖を感じた西ゴート族は、大挙してドナウ川を渡り、ローマ帝国の
領内に逃げた。これを契機として、欧州一円に『ゲルマン民族の大移
動』が始まった。

(注)ゲルマン民族の大移動とアングロ・サクソンの関係は、
   「見よ、あの彗星を」第1部 王位転々第1章 ヴァイキング跳梁
   また、当時のローマ帝国とゴート族の関係は、
   第28回標題:シェークスピアの“Titus Andronicus”(あらすじ)
   を参照ください。

 東ゴートを制圧したフン族は、ドナウ川の中流にあるパンノニアを拠
点にして勢力を拡大した。406年頃産まれたアッティラは、434年、兄弟
のブレダとともに叔父の跡をついで即位したが、445年ブレダを倒し独
裁の王となった。

 451年、フン・スラブ・ゲルマンなどの大軍を率いて西欧に侵入した。
これに対して西ローマ・西ゴート・ブルグンド・フランクの諸国は連合軍
を組成し、フランス北部カタラウヌム(Catalaunum)の戦いでアッティラ
大王軍を撃退した。
(NATOとソ連東欧の対立を想起する原型は、この当時からあった!)

 アッティラ大王は、翌452年イタリアに侵入、時のローマ教皇レオ1世
と会見後撤退した。
 アッティラ大王は、西欧では残虐な王として伝えられているが、実像
は質素厳格な遊牧民であったという。

 アッティラ大王が453年に没すると、フン帝国は瓦解した。
大王の血を引く一族が、流れ流れてまずはスコットランドに来た。
一族は、多彩な人材を産んでいる。

2 マーガレット王妃を助けたレズリー卿

 ノルマンディー公ウィリアムの戴冠とその統治に、身の不安を感じた
アングロサクソン正統王家のエドガー・エセリング王子とマーガレット姫
の一家は、イングランドから逃亡した。しかし嵐のためスコットランドに
漂着した。

(注)「われ国を建つ」(続ノルマン征服記)第3部 薊の国
   第9章 大脱走(1)
   第9章 大脱走(2)
   を参照ください。

 マーガレット姫は、スコットランド王マルコム3世と結婚し、スコットラン
ドに文明開花をもたらした。(詳細は近日連載予定)

 そのマーガレット王妃に誠心誠意仕えたのが、バーソロミュー・レズリ
ー卿(Bartholomew Leslie 1067-1121 )であった。

3 アイルランドの城主になった「戦う司教」
 
 Glasloughにある現在の城館がレズリー家の所有になったのは1665
年という。当時一族には「戦う司教」ジョン・レズリー("Fighting Bishop"
John Leslie 1571-1671 )がいた。

   17世紀のイングランドは、政治と宗教の混乱期であった。聖職者が
剣を持たねばならない厳しい背景があった。
1660年当時のアイルランドとイングランドの時代背景を概説しよう。

 英国で王制が11年間途絶えた時期がある。
ピューリタン(清教徒)のオリヴァー・クロムウェルは、有名な鉄騎兵を
率いてカトリック系の王党派に勝利し、時の王チャールズ1世を処刑し
た。自ら護民官となり、共和制の政治を行なった。世にいうピューリタ
ン(清教徒)革命(1649-1660)である。

 クロムウェルは、アイルランドのカトリック教徒を厳しく弾圧し、土地
を剥奪した。
 冷酷なクロムウェルの共和制は長く続かず、クロムウェルの死後、
イングランドの国民は王制復古を求めた。

 1660年、チャールズ1世の息子チャールズ2世が即位し、イングランド
は再び王制に復古した。

 彼は1649年に父がクロムウェルに処刑された後、1651年にスクーン
で戴冠し、スコットランド王に即位していた。同年、イングランド王位奪
還の戦いをクロムウェルに仕掛け、ウースターの戦いに敗れて、再び
フランスに亡命していた。

 イングランド王位に就いたチャールズ2世は、クロムウェルの死体を
掘り起こし、その首を絞首刑にして曝し首にした。ウースターの戦いに
参加し弾圧されていたスコットランドやアイルランドの貴族を復権させ
た。

(注)ピューリタン(清教徒)革命(1649-1660)とクロムウェルについて
   は、後日「UKを知ろう」に掲載予定です。

 1665年にレズリー家が城主になっていることは、一族がクロムウェル
に対し戦ったことを示している。

 憶良氏の調査によれば、スコットランドのレヴン(エディンバラの少し
北部)の領主、アレキサンダー・レズリー伯(Earl of Leven)の甥になる
デヴィッド・レズリー卿(David Leslie d.1682)もクロムウェルに反抗した。
彼は1650年に、エディンバラの東部ダンバーで敗れている。

 デヴィッド・レズリー卿は捕虜になり、クロムウェルによってウースタ
ーに連行され、その後ロンドン塔に投獄された。彼がロンドン塔から出
獄できたのは、王制復古になった時である。

 チャールズ2世は、クロムウェルに反抗して投獄されていたデヴィッド・
レズリー卿を復権し、ニューワークの領主に任命している。

4 多彩な人材を輩出
 
 チャールズ・レズリー卿(Charles Leslie 1650-1722 )の時代もまたイ
ングランド王位の変化が激しかった。

 チャールズ2世の弟でカトリック教徒のジェームズが王位に就き、ジ
ェームズ2世(1685-1688)となった。遊び人だった兄チャールズ2世は
宗教的には態度を曖昧にしていたが、ジェームズ2世はカトリック教徒
を優遇した。
 そのため国教派(プロテスタント)はオランダのオレンジ公ウィリアム
と妃のメアリー2世(英王室血統)を迎える陰謀を図った。

 詳細は略すが、ジェームズ2世の腹心ジョン・チャーチル将軍(チャ
ーチル元首相の祖先)の裏切りで、ジェームズ2世の軍団は自滅し、
オレンジ公ウィリアムと妃のメアリー2世は無血上陸。共同君臨(Joint
Sovereigns)した。いわゆる名誉革命(1688)である。

 チャールズ・レズリー卿は、極めて辛口の政治批判が好きだったよう
だ。度が過ぎて国事犯として投獄されたという。
 彼がどの王の怒りを受けたか不分明であるが、骨太の貴族筋である。
「アイルランドの愛国者」といわれているところを見ると、オレンジ公ウィ
リアム3世と妃のメアリー2世を皮肉ったのではあるまいか。

 チャールズ・パウェル・レズリー卿(Charles Powell Leslie 1731-1800 )
はウェリントン将軍(Wellington1769-1852)を育てた指導教官であった
ことで有名である。

 1815年、ウェリントン将軍はナポレオンをワーテルロー(ウォータルー
Waterloo)の戦いで破り、その勲功で公爵を叙勲。後に首相として活躍
している。
 国教派のウェリントン将軍は、自論を抑え、首相としての公的立場で
カトリック教徒解放令に署名したという。

5 ディスコ・ダンス大好きな現レズリー準男爵

 現当主ジョン・レズリー卿は準男爵として4代目。80代の老人。1994
年にアイルランドに帰国するまでは、ローマに40年居住している。当地
ではディスコ・ダンス好きとして著名という。かなり気の若い方のようだ。

The octogenarian fourth baronet Sir John Leslie, who lived in Rome
for four decades before returning to live in the castle in 1994,
is known in Ireland for his love of disco-dancing.

 レズリー準男爵の妹アニタ・レズリーキングさんは、第2次大戦中は
救急車の運転手をしながら伝記作家であったそうだ。

 弟のデスモンドさんは、大戦中ドイツのメッサーシュミットと空中戦を
展開したことで有名なスピッツファイアのパイロット。戦後は謎の物体
UFOの研究家で「飛行物体着陸す」”Flying Saucers Have Landed”と
いう著書があるそうだ。
 兄弟揃って話題を提供する方々らしい。

 BBCはマッカートニー卿の再婚にかこつけて、結構面白い話題を
提供してくれるから楽しい。
 次回は古城にまつわる伝説と怪談を紹介しよう。勿論ネタはBBC
です。(生真面目優等生NHKさんも頑張ってね・・・といいたいですね)


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