「見よ、あの彗星を」
ノルマン征服記
第1章 ヴァイキング跳梁
西暦紀元4世紀の央頃、中央アジア一帯に住んでいた遊牧騎馬民族
のフン族が、突然狂気のごとく西へ進入し、ゲルマン民族の一派であ
る東ゴート族を屈服させた。
これを見た西ゴート族は375年、ドナウ川を渡り大挙して西へ西へと
逃げ始めた。
これが引き金となって、他のゲルマン民族も西へと移動を開始した。
世に名高い「ゲルマン民族の大移動」である。
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デンマーク辺りに住んでいたゲルマン民族の一派である、アングロ人、
サクソン人たちも、これに押されるように5世紀の頃海を渡り、当時ブ
リタニアと呼ばれていた現在の大ブリテン島に進入し、先住民のケル
ト人を征服、アングロ・サクソン7王国を建国した。
この時、アングロ・サクソン人に征服され、荒涼たる北部山岳地帯や、
西部高原あるいは島の南端に追われたケルト人の子孫が、スコットラ
ンド、ウェールズ、アイルランドやコーンウォール地方の人々である。
いまなお続くアングロ・サクソンとケルトの根深い民族抗争は、このゲ
ルマン民族の大移動に端を発している。
829年、アングロ・サクソン7王国を統一し、イングランドの基礎を創った
エグバート王の孫、アルフレッド大王は英明かつ剛勇で、外敵の侵害
を防ぎ国民的英雄として尊敬されていた。
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しかしながらアルフレッド大王の死後は統率力のある王が出なかった。
北ゲルマン民族の一派であるデンマーク・ヴァイキングはデーン人と呼
ばれ、北海に面した中東部地方を侵略し定住するものもいた。
10世紀末から11世紀初頭にかけては、北欧のヴァイキングや英仏
の諸侯など群雄が割拠し、弱体化したイングランド王位を虎視たんた
んと狙っていた。
なかでもデンマーク王スウェインはたびたびイングランドに来襲し、残
忍な殺戮と略奪を繰り返した。
時のイングランド王エセルレッド2世は、アングロサクソンの名君アル
フレッド大王の後裔ながら無能で、ヴァイキングとの戦に敗れては多
額の賠償金を云うがままに支払い、国民に無分別王と馬鹿にされて
いた。
1013年
スウェイン王は逞しく育った息子カヌートを連れ、北海の波涛を越えて
攻め込み、ロンドンへと破竹の進撃をしてきた。
エセルレッド2世は王妃エマの故郷ノルマンディー公国の首都ルーア
ンに亡命した。
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ヴァイキングのデンマーク王スウェインがイングランド王を兼ねることと
なった。
ところがスウェイン王は、田舎町の寺院の前で、突然落馬し、そのまま
絶命した。僅か6週間のイングランド王であった。
カヌートたちは一旦、デンマークに引き揚げた。
「恐ろしいヴァイキングよりも、暗愚でもアングロサクソンの王がまだま
しだ」と、有力者たちはエセルレッド2世をノルマンディから帰国させ、
再び王位につかせた。
しかし1015年、カヌートは「必ずイングランド王になってみせる」と、攻
め込んできた。
1016年4月、悲運のエセルレッド2世は病死。
イングランド王位継承者エドマンド剛勇王は、その年11月、悪臣ステ
レオナに謀殺された。
エドマンド剛勇王の王子たちは母の縁を頼りにハンガリー王室に亡命
した。
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アングロ・サクソンの賢人会議で、日和見主義の長老たちは、デンマ
ーク・ヴァイキングのカヌートをイングランド王に推戴した。
カヌート王は美貌の前王妃エマを、自らの王妃とした。
カヌート王23歳、王妃エマは30歳であった。
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カヌート王はその後母国のデンマーク王とノルウェー王をも継承し、
北海を完全に制覇して「カヌート大王」と呼ばれた。
従来北欧のヴァイキングは、オーディーンを主神とする多神教の信者
であった。
しかし、カヌート大王はキリスト教に帰依し、ローマ教皇庁からも信頼
を得ることとなり、名実ともにイングランドの支配者となった。
系図
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第2章 王妃エマの周辺
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