チューリップ・ムック本

Edit by Makoto Honda (Update:9/JUL/00)

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●ミュージック・ジャック チューリップの全て(1973年春 アロー出版社)

 私の知る限り、チューリップに関する最初の特集本。チューリップの出版物は殆どがチューリップ  が所属していた新興楽譜出版社から刊行されているが、この本はアロー出版社という聞いたことも  ない会社からのものである(ちなみにこの出版社は現存していない)。  「ミュージックジャック」は隔月で当時の人気アーティストを特集した企画本であり、過去には泉  谷しげる/佐藤公彦/加藤和彦/あがた森魚/ガロの号があった模様。    この本には発売日が明記されていないが、「心の旅/夢中さ君に(1973年4月20日発売)」が最新シ  ングルとして紹介されていることと、深谷女子高の予餞会(いわゆる卒業謝恩会)での演奏風景が  掲載されていることから推測すると、1973年の1月から2月にかけて制作され、4月初旬に発売され  たものと考えられる。人気がブレークするまさに直前であり、チューリップの歴史を知る上で非常  に貴重な資料と言えよう。    冒頭、日立ショールーム/渋谷ジャンジャン/市川市民会館/深谷女子高でのLIVE写真が掲載され  ている。当時はまだ揃いのステージ衣装ではなく、財津が前髪を切り揃えたカッパ頭で、派手な皮  のライダージャケットを着ているのが笑える。安部はGibson ES-335、吉田はRickenbacker 4005  を既に使用しているが、財津は黒いLes Paul Customコピーモデルを姫野と兼用している。アコギ  は財津がGuild、姫野はYamaha FGである。アンプはFender Twin ReverbとBassman-100。  巻末には「最新シングル」のレコーディング風景の写真が収録されているが、時期的に「心の旅/  夢中さ君に」以外には考えられない。安部以外の4人が1本のマイクでコーラスをダビングしてい  る光景は、チューリップ最大のヒット曲「心の旅」が誕生する瞬間を捕らえたものと思われる。  お部屋拝見コーナーでは、当時は財津のみ一人暮らしで、吉田と安部、姫野と上田が共同生活して  いる写真が掲載されている。しかし不思議なのは、下で紹介しているポッポNo.5では安部と姫野、  吉田と上田というコンビで生活していたという記述があること。それぞれの本の取材時期は半年も  経っていないハズであり、これはどういうことか?  背表紙はTVスタジオでの演奏風景。財津がアコギでメインボーカル、姫野がピアノという構成は  セカンドシングル「一人の部屋」の演奏ではないかと想像される。

●季刊ポッポ No.5 <<特集>>チューリップ/夏色の思い出(1973年10月 新興楽譜出版社)

 1973年4月20日に発売された「心の旅」はじわじわと売れ始め、9月10日にオリコン1位に輝いた。  この本の発行日は1973年10月1日。通常、本の発行日付は1ヶ月前であることを考えると、まさに  「心の旅」が1位になったその同じ頃に店頭に並んだものと思われる。  冒頭のステージ写真は、7月14日に東京芝郵便貯金ホールで行われた「心の旅コンサート」の模様  である。ラメ入りのステージ衣装を着てハツラツと演奏している、ブレーク真っ只中のチューリッ  プの姿がまぶしい。財津はFender Telecaster Custom、姫野はGibson Les Paul Specialを手に  している。  本書でのチューリップの扱いはアイドルそのもの。多摩テック(東京郊外にある遊園地)での撮影  は「麦わら帽をかぶって虫取り網を持ち、ゴーカートやメリーゴーランドで遊んでいる」というも  ので、今のジャニーズ・タレントと大差ない。また「もしぼくたちがチューリップでなかったら」  というページでは、財津は時代劇スター、上田はマンガ家、安部はTVディレクター、姫野は犬屋  の店員、吉田はお坊さん(ハゲズラ)というコスプレまでさせられてる。  続く「チューリップ、九州に帰る」のページでは、8月上旬に博多に里帰りした模様をレポートして  いる。財津の母校である西南学園大学のキャンパスや、伝説の音楽喫茶「照和」など、チューリッ  プファンにとっての聖地の姿が貴重である。また、メンバーの家族との写真も微笑ましい。  新曲「夏色のおもいで」のレコーディング風景は、カメラを意識しまくってていかにもわざとらし  い。ただ、財津の直筆と思われる同曲の楽譜が掲載されているのが興味深い。 「チューリップ座談会」では結成に至るまでの各メンバー側のコメントが興味深い。姫野の「財津  は毎日自宅に勧誘に来た」、安部の「財津はイケ好かないヤツであったが、彼のおかげで自分のグ  ループは福岡で認められた」、上田の「海援隊は財津のグループと対立していたが、迷った挙句、  一番最後にチューリップに加入した」等の発言は、今振り返るとチューリップの内部関係を象徴的  に語っていると感じられる。  巻末に関係者からのコメントが掲載されているが、福岡KBC岸川氏の「今だから話せる話」が非  常にディープな内容。財津は東京進出を前にKBCのレギュラーを下り、代わりに安部のハーズメ  ン/姫野のライラックを後釜に推薦したが、結局安部/姫野を引き抜いて上京してしまった。この  際にKBC側に何の断わりも入れなかったことから、チューリップはKBCと断絶状態になってし  まったと言う。つまり、チューリップはデビューしてからしばらくは、地元の主力メディアから見  放された状態だった訳である。「心の旅」で全国区になったこの時期、チューリップのメンバーの  喜びはひとしおであったろうし、またKBC側は複雑な気持ちであったと思われる。

●季刊ポッポ No.12 チューリップ=小さな美しい世界(1975年10月 新興楽譜出版社)

 本誌は阿部克自というカメラマンによる写真集であり、記事等は全く掲載されていない。編集後記  を読むと、このカメラマンこそがチューリップのロゴマークをデザインしたヒトだそうである。  冒頭はコンサートの写真。財津はGibson DoveとRickenbacker 331を、姫野は国産Bunnyブランド  のLes Paul Special(ダブルカッタウェイ)のコピーモデルを、吉田はFender Precision Bassを  使用している。安部と財津のギターアンプ(Fender Twin Reverb)は何故か上下に2段積みされてる。  ステージ左手に生ピアノ、右手にSolinaとHammond Organが設置されており、生ピアノとHammond  の上にはARP Pro-Soloistが各1台ずつ設置されている。    肝心の撮影時期だが、1975年秋の全国縦&横断ツアーとは微妙にステージセットが異なることと、  衣装が長袖であることから、1975年夏前ではないかと思われる。この年の6月8日と9日に中野サン  プラザでコンサートを行っているので、ここでの撮影の可能性が高い。  続くグラビア写真は、黒いタートルネックのセーターを着てのジャケット風のもの、上半身裸で  筋肉を誇示するようなおふざけもの(安部のみ、トイレットペーパーを体に巻かれてミイラ風に  なっている)、海岸を歩く青春もの等である。  メンバー自筆のイラストが2ページ見開きで掲載。財津以外のメンバーのものは、非常にレアと  言えよう。それぞれ個性が出てて興味深い。  以降のページは各メンバーごとのモノクロ写真。楽屋の鏡の鏡に向かってのポーズ、ステージで  の演奏、自宅でくつろぎながら楽器の練習をしている姿、という共通の構成になっている。  ここで注目すべきは、ベッドの上でストラトキャスターを弾いている安部の写真。安部がこのギ  ターを弾いている姿は、後にも先にもこの写真でしか見たことが無い。  最後には再びカラーに戻り、黒タートルネックでのポートレートと海釣りを楽しむメンバーの姿  で幕を閉じている。

●ヤングギター 8/20増刊 チューリップ'77(1976年8月 新興楽譜出版社)

 結成5周年記念スペシャル。なぜか「TULIP '77」というタイトルだが、発売されたのは76年8月。  ちなみに77年春のコンサートツアーのタイトルが「TULIP '77」であった。  冒頭カラーグラビアは、1976年1月に旅行したエジプト/バンコクでの写真。ターバン状の帽子を  頭にかぶってラクダに乗る姫野、椰子のジュースをストローで飲む安部、大蛇を体に巻きつける  吉田の姿などが面白い。  続いては中野サンプラザで6/4/76と6/4/76に行われた500回記念コンサートの模様。揃いの白い  衣装を着てドライアイスの煙の中で演奏する姿は、「ロックバンド」チューリップの堂々たる風  格を漂わせている。  モノクロ・グラビアはレコーディング風景。吉田が財津のGibson Doveを弾いているシーンがある  ことから、アルバム「MELODY」のレコーディング・セッションではないかと想像される。  (MELODYには「もう一杯のウヰスキィ」「夏の祭り」と、2曲もの吉田曲が収録されている)  「チューリップ目で見る4年の歴史」はデビュー前から500回コンサートに至るまでの歴史を綴る  モノクロ写真集。1972年1月18日、福岡から上京した夜の写真は悲壮感が漂い、いかにも寒々しい。  また、上田がサングラスをかけ始めたのは1972年7月、青山タワーホールでの「チューリップ独演  会」の頃からということが判る。  関係者からのお祝いコメントを挟み、「チューリップ名(迷)言集」。以下に抜粋する。   ・「リンゴ追分の詩と曲の構成に、ジョンレノン的なものを感じる」  :財津   ・「飛び入りのギターが僕よりうまかったら、その人に席をゆずります」:吉田   ・「メンバーチェンジをしないのは、みんな成長期で飽きないからだ」 :安部   ・「夏ほどカマボコの売れない時はない」              :上田   ・「雪は白いなぁ」                        :姫野  「チューリップこぼれ話」は、過去のムック本や財津和夫のエッセイ等から拾った話が中心。  「アビー・ロード・スタジオでポール・マッカートニーと大セッション」は、1976年1月のロンド  ン旅行時に、ポール&WINGSとセッションしてしまったという珍事に関するレポート。  当初はミュージックライフ誌の取材に財津が同席するというだけの話であったが、土壇場でポール  側からキャンセル!あきらめきれない財津は、安部/姫野を引き連れてアビー・ロード・スタジオ  を訪れ、レコーディング中のポールにアポ無しで会見!その上、一緒に演奏までしてしまう。  曲目は「Lady Madonna」「Maybe I'm Amazed」「My Love」。後に財津が語ったところによると  「セッションと言っても、ポールはお遊びでベースをボンボンと弾いた程度」だったらしいが、感  動的な瞬間であったことは間違いない。ちなみにポールがレコーディングしていたのは、後のアル  バム「At The Speed of Sound」。    「チューリップ ツアー狂騒曲」は1976年6月の大阪/名古屋公演の密着取材。移動やホテル/楽屋  での食事等、ファンには興味深い内容が満載。  「チューリップ・サウンドの秘密はこれだ!!」は、PAシステムに関する専門的な情報。信号系  統図やマイク設置図等、当時の音楽雑誌等では殆ど見た事の無い、詳細なデータが満載である。  吉田のBassとSolinaはダイレクトボックス経由でPAに直結している等、チューリップのクリアな  LIVEサウンドの秘密の一部がここで明かされている。  続くメンバー所有楽器に関する情報は、長年の私のバイブル。ただし、説明にはやや間違いが多く、  これまた私を長年悩ませた元凶でもある。ちなみに財津のRickenbacker 331を「ネオンギター」  と呼ぶ事をファンに浸透させたのはこの記事がモトと思われる。  「(秘)チューリップの私生活」は、メンバー自宅の間取りをイラストで紹介したもの。非常に  不思議なのは、「お姉さんと同居中」の割にはベッドがひとつしかない姫野の部屋。  最後はアルバム「MELODY」からの楽譜で、「ふたつの鍵」「もう一杯のウヰスキィ」「ともだち  のあなただから」の4曲。

●チューリップ'78 ライブ・ショット・イン鈴蘭高原(1978年10月 新興楽譜出版社)

 78年7月26日、岐阜県の「御嶽鈴蘭高原」で開催された初の大型野外コンサートの特集本。  全国からバスツアーを募り、約7000人(8000人としている資料もあり)のファンを動員した。  ちなみにこの場所はスキー場/キャンプ場/ゴルフ場/遊園地/別荘などから成る総合リゾート  施設であり、東海ラジオの傍系会社が開発したもの。  巻頭はLIVEのカラーグラビア。望遠レンズを使って夜間撮影していることもあり、どの写真もピ  ントが甘いのが難点。  続く「SPECIAL REPORT」では、7/23から始まったステージ設営と7/24,25のリハーサル、そして  本番にかけての、時系列のモノクロ写真によるレポートとなっている。  これによると、7/25のリハーサルは14時からの予定であったが、いざ楽器を持った途端に雨で  中断。21時25分にようやく再開したものの、パラつく小雨のためにリハーサルが難航。結局リハ  ーサルが終了したのが午前2時だったとのこと。    当日の前座はARBことアレキサンダー・ラグタイム・バンド。ヴォーカルが後に俳優として名を  馳せる石橋凌、ベースが後にチューリップメンバーとなる宮城伸一朗で、当時は東芝EMIからデ  ビューしたばかりの新人バンドであった。  ARBの演奏スタートは18時半の予定であったが、東京からのバス到着が遅れたため19時20分から  となった。ARBの演奏は30分程度で、その後は「鉄腕アトム」のフィルムが開演までの繋ぎに上  映され、チューリップの演奏が始まったのが20時45分だったという。  曲目の詳細は湯浅氏のページをご参照方。ちなみにアンコールの「Loco-Motion」の時にPAから  音が出なくなるというトラブルが発生し、モニタースピーカーを客先に向けて演奏を続行した。  10分程でPAが回復したため、もう一度アンコール曲をやり直したという。  巻末にはコンサートから数日後のメンバー座談会を収録。各人の主なコメントは以下の通り。   ・上田:緊張のあまり下痢になった。   ・財津:当日にリハーサルができなかったのが心残りだった。   ・安部:地理/費用的制限で、「付き合いで来た」お客さんが皆無で嬉しかった。   ・吉田:カエリ(会場の反響音)がないのが、屋内と全然違っていた。   ・姫野:夜になると(湿気が増えて)シンセのチューニングが狂ってきて苦労した。  また、この座談会で安部が「ギターの音をエフェクターで変えるのはあまり好きではないが、  最近絶対使わなければならないものがフランジャー」と発言しているのが興味深い。  チューリップはアルバム『Up-Side Down』を境に「メローで宇宙的」なサウンドに変化を遂げ  ている。具体的には「財津の歌い方の変化(鼻から抜いたような財津節の確立)」、「エレピ  /ポリフォニック・シンセの多用」、そして「安部のエフェクター使用」がある。  ステージではGibson ES-335をFender Twin-Reverbに直結し、あくまでナチュラルなトーン  で勝負してきた安部であったが、この時期からは随所でフランジャーをかけまくっている。  フランジャーは空間的なうねりを発生させる装置であり、ギター・サウンドに深みをもたらす  ということで70年代後半から80年代前半におけるギタリストの必須アイテムであった。反面、  ピッキングの強弱やフィンガー・ビブラートのニュアンス、更には音そのものの存在感が損な  われるという欠点がある。  安部の場合も例外ではない。この日の演奏を収録した「ライブ!アクト・チューリップ Vol.3」  は過去2作のライブ盤に比べ、いわゆる「エレキ・ギター」の存在感が希薄である。この傾向  は年を経るごとに顕著になり、80年代に至ってはエフェクターを山のように駆使し、シンセサ  イザーと大差ない「作りこみ」のサウンドとなっていくのである。