Genesis λ:4 「瞬間、心、重ねて」
Do you love me?


2 ヶ月ほど前にあった中間テストでシンジが壊滅的に悪かった、それがコトの発端だった。
半分くらいはあたしのせいかもしれない。 テストの直前くらいから始めたバイトで、シンジとのテスト勉強はほとんど出来なかったから。 あたしの出来も良くはなく、理由を知っているママも結果を見て、少し顔をひきつらせていた。 まあ、国語に多少難があるけれど、あたしは問題ない。 多分シンジも問題にするにはあたらない。前回のは理由も分かっている訳だし。
問題なのは、‥‥ そのことをネタにするミサトと、それに乗ったレイだった。

「べっつにねぇ、ここまでしなくてもいいと思うけど?」
「え、うん、そうだよね、アスカは大丈夫なの?」

シンジがリビングのテーブルに上から持って降りて来た筆記用具とスタンドを置く。

「あたし? 大丈夫にきまってるじゃん。
それをミサトが ‥‥ なにが『教えるのってすごく勉強になるのよね』よ!」

スタンドのコンセントを繋ぎ、ライトがつくかどうか確認する。

「ならない? 僕もそう思うけど」
「なるわよ! なるけど、そんなのただの口実なの! ミサトには」
「うん、それは分かるけど」
「ほら、さっさとやるわよ!」

教科書とノートを開く。
あたしは今、シンジの家庭教師として彼の家におじゃましていた。 1 年の時にも何回かやったことで別に不満はないけれど、 それを指示されるというのにあたしは腹を立てていた。 それ自体が不粋な邪魔もの以外のなにものでもなく感じていた。

「こうなったら何としてもレイやミサトを見返してやるのよ!」
「‥‥ そんなに言わなくても ‥‥ 綾波に言い負かされたの、そんなに ‥‥」
「なぁに甘いこと言ってんのよ!
傷つけられたプライドは、 10 倍にして返してやるのよっ!」


テーブルを叩いてその振動でスタンドを床に落すこと数回、 テーブルの上で倒れること十回ほどであたし達は今日の分の勉強を終えた。 シンジの飲み込みは良く、それに何があっても深刻な喧嘩にはなりにくい こういう時間をあたしはけっこう気に入っていた。

テーブルの上を片付けた後は夕食の準備。
シンジの両親も出かけた先から帰りが遅くなるとのことで、あたしが料理していた。 シンジの料理の腕もたいしたもので、最初は彼がやると言い張っていたけれど、 第二東京市への出張でママは今日は帰ってこず、 ついでにという訳であたしは 2 週間ぶりにシンジの家での夕食だったので。
そんな訳で、あたしはざっと先程までのことを頭の中で反芻しながら、 次第に強くなる雨音にあわせるかのようにテンプラを揚げていた。
シンジの家のキッチンは、あたしの家のとほとんど同じで今は眼をつぶっていても使える。

「で、何時ごろだって ‥‥?」
「9 時すぎくらいって言ってた」
「多めに作っといた方がいいかなあ」
「んー、どうだろ、余ったら明日でも食べるけど ‥‥」
「じゃ、全部やっとくね。‥‥ っと、これのお皿だしてくれるー」

背後の戸棚を指す。

「はい」
「んでさ、この雨で飛行機、飛ぶの?」
「向うは大丈夫、なんじゃないかな ‥‥ だめかな?」

彼の両親はいま北海道だった。 台風は中部から北陸へ抜けていくという予報で、太平洋側を通る飛行機には関係ないはずだけど、 それはもちろん天気予報が細部まで的中した場合の話。

「アスカん家は今日は ‥‥」
「第二東京だけど、今日は向こうに泊まりだから交通機関は関係ないわね」
「最悪、明後日になれば台風も抜けるし、新幹線もあるし。一日や二日帰って来なくったって」
「じゃ、あんたが全部食べるのね? これ」
「うん」

シンジの返事には、ためらいが全くなかった。 箸捌きが少し軽くなったのは、あたしの体の影になってシンジからは見えていないと思う。


夕食を終え、玄関口まで出てみると、外は豪雨。それ以外に形容しようのない雨。 外灯に照らされる雨粒は、まるでガラスの撹拌棒のよう。

「ら」
「‥‥ 凄い雨 ‥‥」
「直撃かな ‥‥」
「そうだね ‥‥」

シーズンには少し早い台風は結局、第三新東京市を直撃することにきめたらしい。 となりのあたしの家の玄関口まで約 30m の道のりながら、 まるで地の果てまで行くような心構えが要りそうだった。 すでに道路は河になっている。

「ほら、あんた、送りなさいよね」
「‥‥ はい、傘」

シンジから渡された傘を持って、 一歩踏み出しかけようとしたところで雨足が急に強くなる。 その場に踏み出しかけた足を引っ込め、シンジに向いて

「ちょっと! なんで急に強くなったりするのよ!」
「そんなこと僕に言われたって ‥‥」

シンジも天を見上げる。
道はすでに河でも溢れたのかというような洪水状態になりつつある。 2,3 歩進むだけでたぶん靴は意味をなさなくなるだろう。 傘も関係なさそうだ。

「途中、濡れないところってあったっけ ‥‥」
「えーと、‥‥ 雨宿りできそうなところ、‥‥ 無かったかなあ ‥‥」
「これって、止まないわよね ‥‥」
「うん ‥‥」
「雨合羽 ‥‥ ある?」
「父さんのがあったかな ‥‥ 要る?」
「ん ‥‥ これはちょっと ‥‥」

たいして期待もせず、シンジが納戸をひっかきまわすのを玄関口でぼんやりと眺めた。 バケツをひっくりかえした雨ならそろそろ底をついてもよさそうなのに、 雨はさらに一段と強くなっていく。
シンジが手を止めて振り返る。

「アスカ、駄目だ、分かんないや」
「そ。じゃ、いいわ、このまま行く」

シンジに別れを告げてその 1 分後。 あたしはシンジの家でびっしょり濡れて震えていた。

「気持ち悪い ‥‥」
「とりあえず風呂、沸いてるよ。入って、洗濯したら?」
「‥‥ そうする」

窓から外を恨めしげに眺める。 あたしは僅か 5m たらず道に出たところでひっ返してしまっていた。 シンジの後についていって脱衣室へ。 ぐっしょり濡れた服を洗濯機に放りこみ、あたしはお風呂に入った。
湯舟に浸かりながら、

「どうせ濡れるんなら、‥‥ 無理にまっすぐ帰っても良かったかも ‥‥」

軒下から眺めたこの豪雨は確かに凄かった。 でも雨の中に 2,3 歩、踏み出して体験した豪雨は予想以上に激しく、 それはたちまちのうちに意気消沈させるのに十分だった。

「でも、あれか ‥‥ 風呂、沸かす前に風邪ひいてたな ‥‥」

シンジの用意の良さに心の中で感謝する。 洗濯物はそのまま乾燥機に放りこみ、もう一度風呂へ入り直す。

「アイロンかけらんないなあ ‥‥ やだなあ ‥‥」

襟も柔らかい服だからそれほど目立たないけど嫌なことには変わりない。


結局、

「でもあたしん家はあそこなのよ! あんな眼の前にあるのに!」
「この雨じゃ、1m も 100m も一緒だよ ‥‥」
「じゃどうすんのよ!」
「‥‥ 泊まってく?」
「‥‥ 今、何考えた?」
「ち、違うよ、そうじゃなくて、その、」
「分かってるわよ。でも、そうするしかないみたいね」

というやりとりの後、あたしはシンジの家に泊まることになった。
ついでに勉強の続きを始める ‥‥ が、能率は最低で、さっさと寝ることにした。 そして何故か ── 売り言葉に買い言葉だったんだろうなあ、 けど始まりはなんだったっけ? ── 二人ともリビングの床に布団を敷いて寝ることになった。
もちろんシンジの部屋にはシンジが寝るためのベッドがあるし、この家には客間もあって、 そこに布団を敷いて寝ることもできる。が、それは使われない。
あたしの寝間着はシンジから T シャツとトレーナーのズボンを借りた。

「じゃ、これジェリコの壁ね」

そう告げてあたしが二人の布団の間に立てたのは、シンジのお父さんが持っていたつい立て。

「え、うん」

不要領ながらシンジも頷く。
電気を消す。外の外灯から、雨の様子が見える。

「おやすみ」
「おやすみなさい」
「早く寝るのよ」
「うん」

雨音、そして風の音。静かさを強調するようにして聞こえてくる風の音。

「‥‥」
「‥‥」
「寝た?」
「まだ。 ‥‥ ねえ、アスカ、ジェリコの壁って? ‥‥ その、意味はなんとなくわかるんだけど」
「‥‥ あんた映画みたことなかったのね ‥‥ いい。 説明、面倒。意味、分かってんでしょ?」
「うん」
「‥‥ 雨、あいかわらずね」
「うん」

シンジに背を向けるように寝返り。

「おやすみ」
「おやすみ ‥‥」
「‥‥」
「‥‥」
「‥‥」
「アスカ」
「なあに」
「こうして寝るのって、久しぶりだね」
「ん ‥‥ 壁、無かったけどね」
「‥‥ うん」
「おやすみ」
「おやすみ」

お互い手を伸ばせば多分とどく距離、でも壁一枚へだててずっと遠い位置に、 あたし達は居た。


「む? さむ ‥‥ あれにしよ
ん、あ、いい、ぽかぽか ‥‥」


「ああああああ、アスカぁ !!!!?」

翌日、耳もとのとんでもない大音量であたしは叩き起こされた。

「んー、なによぉ ‥‥ もちょっと静かにしてよぉ ‥‥‥‥ って、あ ‥‥ きゃあ!」

眠い眼をこすりながら、見るとシンジが眼の前。 布団をひっつかんでかきよせ、そのまま後ろへ跳ね飛んで座り直す。

「な、なんであんたが、って、あ、壁、壁、あんた、昨日の約束!」
「違う、僕じゃない、アスカがこっち来たんだっ!」

手に掴んでいるのはシンジの布団。ついたてはあたしが寝ていたはずの布団の方に倒れている。 そういえば、昨夜、寒くてなんだかあったかいところに入ってまるくなったような。
シンジの表情を探る。 もちろん驚きの感情は出ている。それ以外は ‥‥?
しばらくそのまま見つめ合った。 ゆっくりと疚しさの影がシンジの顔を覆い始める。

「‥‥ ねぇ、シンジ、キスしよっか?」

少しつついてみる。

「え、‥‥ 何?」
「キスよ、キス、したことないでしょ? 昨夜の除いて」
「うん。‥‥ じゃなくて、昨夜もそんなことしてないってば」
「じゃ、しよ」
「どうして」
「あんただけ知ってるなんてずるいからよ」
「‥‥」

この際、昨夜なにがあったかなんてどうでもよくなってきた。 ‥‥ 半分くらいはあんまり良くないけど。
シンジの表情のどんな些細な変化もぜんぶ見逃すまいと、じっと見つめる。

「それとも、恐い?」
「恐かないよ、キスくらい」

すこしむっとしたらしい。 変なとこで可愛い。

「歯、磨いてるわよね」
「うん」

立ち上がって、

「じゃ、いくわよ」

シンジに近付いたところで、

「鼻息がこそばゆいから、息しないで」

シンジの鼻をつまみ、息を止めて唇を重ね合わせて眼を閉じる。 その体勢で約十秒 ‥‥ 息が苦しくなったところでシンジから離れ、つまんでいた指を放した。
なんとなくシンジの顔が見ていられなくてそのまま洗面所に走り、 適当に理由をつけるためシンジにまで聞こえるようにうがいする。
そして、その場に崩れ落ちた。 あたしは洗面台の縁にかろうじて左手をひっかけ、 右手は床につけて洗面台にもたれるようにして身体を支えた。

「‥‥ キス、しちゃったんだ」

心臓の鼓動に合わせて、洗面台の陶器の冷たさが伝わる。 思いだそうとすると、心臓の鼓動はさらに速くなる。おかげでどんなだったかよく思い出せない。

「アスカ? どしたの?」

シンジが洗面所の入口から声。 縁につかまりながらゆっくりと立ち上がって、

「なんでもない、ちょっと滑っただけ」

彼に背を向けたまま、あたしはそう答えた。 聞きたいことはあった。訊きたいこともいっぱいある。いまなら尋けそうな気がする、 ただ、どんな答えが返ってきても、あたしが耐えられそうになかった。 いろんな意味で。 あたしが黙り込んでいるとシンジが、

「アスカ、‥‥ あのさ ‥‥ その、」
「黙って! 何も言わないで ‥‥」

お腹から振り絞るようにして、それだけ吐き出した。
なんとなくシンジの落胆と、気がくじけていく雰囲気が背後から伝わって来た。 でもあたしも立っているのがやっとで振り返って釈明なんて出来そうになかった。


結局、勉強の方はさっぱり記憶に残っていない勉強会だったけれど、 皮肉なことにカンニングが疑われるほどそっくりな答案を期末テストで書いて二人で満点を取った教科があった。 それは、この日にやった筈の数学と物理だった。


もうすぐ体育祭なんだけど、碇君かわいそう ‥‥
次回。
「命の価値は」
碇君、命でお金は買えないのよ?
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