Genesis λ:2 「レイ、心のむこうに」
Rei I


最初は、きっかけはいつものとおり些細なことだったんだろうな、位に思っていた。

「あんたバカ!?」

アスカと碇君が喧嘩しているのは校舎の屋上。 階段を上がって、外に出ようとしたところで聞き覚えのありすぎる怒鳴り声。 私はコーヒー牛乳のパックを持ったまま、ドアの陰で立ち止まった。
この二人は、別に私がどうこうしなくても年中無休 ── 24 時間営業かどうかは知らない ── で喧嘩している。

「そんなの、シンジに関係ないでしょ!」

今、アスカを怒らせるのはまずいんじゃないかな。 コーヒー牛乳を少し啜りながら思う。 先日の中間試験の結果の発表でアスカが予定外に悪くて、 その愚痴に付き合わされた経験からするに。
去年、トップを走っていたからって、 テスト前に隠れてバイトしてたら国語で碇君に抜かれたって私に怒鳴っても。 やけ食いに走れなかっただけに、まだ、おさまってないんだろう。

と、物凄い勢いでアスカが目の前を駆け抜け、階段を降りて行った。 私のことは目に入らなかった感じ。入口から顔を出して、碇君は? と見れば、

「あ、綾波 ‥‥」

アスカを眼で追っていた彼に見つかってしまった。 あまり悄然としたところはない。本気で肩を震わせている。珍しい。

「あ、あは、あは、‥‥ ごめんねぇ」

とりあえず外へ出て、手を振っておく。 彼とばつの悪そうな顔をして二人で顔を見合わせることになった。

私は彼が出口のところまで来るのを待ち、念を押した。

「聞いてないからね、何にも。
またやってるなあ、って思ったけど、中身までは聞こえなかったから」
「いいよ ‥‥ 別に」

彼は顔も上げずにぼそぼそっと答えた。 あまり信じてなさそうな、どうでもいいことのような。 少し普段の行ないが悪すぎたかもしれないけど、二人に嘘をついたことはない。 少しむっとして、私は階段をふたつみっつ先に降りて、下から覗きこんだ。

「‥‥ 私のこと、そういう風に思ってる ‥‥?」
「あ、ごめん、そうじゃなくって、」

立ち止まってようやく私を見つめる。

「説明要らないかなって、‥‥ ごめん」
「説明 ‥‥?」

また階段を降りはじめる。私が先、彼が一歩後ろ。 上から光が斜めに射し、彼の影の中を歩く。

「アスカが分からなくて。嘘ついてるし」
「嘘?」
「うん。ここんとこ帰り遅いのに、どこにも行ってないっていうし」

はいはい。‥‥ つまり、その程度の秘密も今までは無かったと。 なんかもう、コメントする気も失せてきた。 トン! 二三段残っていたのを踊り場まで飛び降りて、振り返った。

「あなた、明日香の幼馴染みなんでしょ?」

恋人って明言するかどうかはともかく。
2 ヶ月ちかく揺さぶりをかけているのに、未だに否定し続けていた。 もっとも、ヒカリに言わせれば、私のほうも相当に粘り強い、ということになるらしい。 彼はそのまま下まで一つずつ踏み締めて降りて来る。

「うん」
「それなのに、信じられないの?」
「あたりまえだよ! そんなの!」

パシッ!
私はおもわず碇君の頬を叩いていた。
私にはそんな人、どこにもいないのに。

「あ、綾波 ‥‥」

私が他人を叩いたのは、‥‥ 初めてかな。 彼の方は、目を丸くしている。もちろん。
振り返ってみれば、彼がここまで強く言うのは珍しい。 「信じてあげようね?」「うん(シブシブ)」、位の流れのつもりだったんだけど。
‥‥ そうか。羨ましかったんだな、と少し胸がつまる。 最初の日、碇君にぶつかった時。 彼の側にかけよったアスカを無意識のうちに見ないようにしてたのは ‥‥ 私のことも誰かに心配して欲しかったんだ。
ほっぺを手で押えたまま、彼が口を開ける。

「綾波は、綾波も、アスカとよく喧嘩してるよね ‥‥
信じられるの? そういう時 ‥‥」
「信じるとか、そういうことは言わない。
でも、私から手を放したりはしない。
‥‥ 私には、他になにもないもの」

知ってる? 叩くほど他人に踏み込めたのって、初めてなんだよ?
顔を見られないよう、階段に足を踏み出した。彼はまだその場に立ちすくんでいる。

「‥‥ 強いんだ」
「アスカだって言えないことの一つや二つ、あるでしょ?
碇君だって、アスカに『好きだ』って言ってないんだし」
「‥‥ って、綾波ぃ、‥‥!」

4 階まで降り立ち、振り返って、

「あはっ、じゃあねぇ!」

手を振って走りだした。


走り出した。そのつもりだった。教室は 2 階だし、 位置的に階段を 2 階に降りて、そこから廊下を行くのが教室までの最短路で、 だからこそ 4 階の廊下から回るルートを選んだんだけど。

「ちゃお」

曲がったところで葛城先生が壁にもたれていて、あやうく衝突するところだった。 先生は手を振って苦笑いしつつ少し冷汗。

「‥‥ ビール、あるとよかったですね」
「‥‥ そうね。こんどからこのへん徘徊する時はビール持ってこよっと」
「ござ敷いて集音器置いて?」
「そうそう。ビデオもセットしたりして」
「で、葛城先生が校内で酔っ払って寝ているところを写すんですよね?」
「あ、でも寝ているとこはリツコには見せないでね」
「一緒に住んでて、それ、無理ですって」
「出来るだけ努力してみてね ‥‥」

先生が一つ息を吐いた。

「リツコがね、子供、引き取ったって聞いた時は驚いたけど、‥‥
でも、うまくやってるみたいに思ってたんだけど」
「別に、困ってません」
「‥‥ まあ、いいか。 リツコのことで愚痴りたくなったら、いつでもいらっしゃい。 リツコの弱みの一つや二つ、あたしも知りたいしぃ」
「はい」
「リツコが無表情でいるか、狂ったように何かに熱中しているか、 それ以外の ‥‥ 笑ってるの、見たことあるのって、 レイ、あなた位しかいないんだから、‥‥」
「‥‥」
「それにしても、ちょっち意外だったわあ」
「何がです?」
「いや、てっきりシンジ君狙いかと先生は思ってたわ」
「せんせ、それならもっとうまくやりますって」
「そうねぇ、やっぱり中学生なのねぇ、可愛いっ! って見てたのよね。
落し方教えてあげなきゃダメかな? って思ってたんだけど」
「実績は?」

私が冷たく一つ指摘すると、先生はあっさりと絶句した。
その程度で口ごもらないで下さい、先生 ‥‥


夕飯の買物を終えてマンションに戻ると赤木博士はもう帰ってきていた。 私は冷蔵庫に食べ物を放りこんだ後、自分の部屋に戻り、ベッドの上に横になった。 部屋の中にはベッドと自分専用の冷蔵庫、 小さな収納ボックスがある位で殺風景きわまりなかったけれど、 当分はこのままだろう。
この街に越して 2 ヶ月、引越しのダンボールの半分以上がまだ梱包を解かれておらず、 部屋の内装工事も終っていない。
部屋の内装はコンピューターの配管やらで壁そのものが取り外されたりした上、 赤木博士の細かい注文で工事が長引いていた。 そのため部屋の中に家具などをぽんぽん固定することも出来ず、 荷物は仮に倉庫と決めた部屋に全部押し込んだところ、 床面積でなく部屋の体積で勘定してその空間の半分を埋めつくしていた。
転校初日、制服を探すのに時間を食い、学校までの道をトーストをくわえたまま 走って碇君と衝突したのは今思い出してみてもけっこう恥ずかしかった。

「さて」

起き上がって博士の部屋の戸をノック。
博士の部屋の内装も私の部屋と大差はなく、壁に二、三、穴まであけられている。 床をはいずるケーブルと散乱する紙と本の山で床は見えないし、 壁に沿って詰まれた大きなダンボール箱のおかげで壁もほとんど見えない。
机に並べられた仔猫の置物と、夜、明りを消しているこの部屋を覗くと そこかしこに光る LED ランプがまるで猫の眼のように見えることから、 私は内心でこの部屋のことを「猫の部屋」と呼んでいた。

「夕飯、どうします?」
「コーヒーだけでいいわ」
「はい」

コーヒーと栄養補給用のウエハーをおぼんにのせて、 真剣な表情でキーボードを叩き続けている博士の横の机の 上に積み上げられた紙の山の、そのまた上にそっとバランスを取って置く。

「ああ、ありがと」

こちらを見もせずにコーヒーカップを取りつつ、 左手ひとつでタイプし続ける博士。
ちょっとした爆発事故で片手がしばらく使えなかった時以来、 片手でキーボードが打てるようになったらしい。
それを知った時、 「じゃあビーカーが破裂したりして眼がしばらく見えなくなったりしたら、 スクリーン見ずに打てるようになるかもしれないね」と言ってみたこともある。

「学校はどう?」
「問題ありません」
「そう」

私は台所に戻って、自分の分のコーヒーとウエハーを並べ、それを食べた。 今日の夕食用に買ってきた食材は、多分、明日の朝か夜に使うことになるだろう。 博士が閉じこもっている間に食べる夕食がどうやっても美味しくないのに気付いた私は、 そういう時は博士と同じものを食べることにしていた。
幸いなことに家で博士が夕食を抜くことはあまりなく、 ダイエットと思えばそれで別に困ることもない。

コーヒーと紅茶と猫の置物だけで 2 週間を過ごしていようと、
酸素呼吸できる液体を造って 3 時間その中に閉じこもろうと、
組み立てたパソコンに向かって「お母さん‥」と呼びかけていようと、
私を育ててくれている人には違いない。
葛城先生が示唆してくれたような愛情みたいなものがあるかどうかはともかく、 それなりの一体感というものが、そこにあるような気がしていた。


「あ、アスカ?」

その夜、アスカから電話が入った。用件は想像がついたので先に言っておく。

「碇君の愚痴なら今日は聞かないわよぉ」
『なんで知ってんのよ!』
「アスカぁ、年中やってんだし、だいたいそう言えば当たる‥‥
まあ、今日は碇君から愚痴聞かされてるし?」
『‥‥ なんて言ってた?』
「すごく怒ってたよ。私、やだからね、そういうのって」
『‥‥ しょうがないじゃない ‥‥』

受話器を左手に持ちかえる。

「‥‥ 誕生日、もうすぐだもんねぇ」
『なんであんたがそれ知ってんのよ!』
「そんなの、ちょっと調べればすぐ分かりますって ‥‥」

すぐ過敏になるところが可愛い。
葛城先生から聞かされたことは黙っておこう。

「それ、碇君にあげるやつのやつでしょ?」
『ん、演奏会のチケット、最初はママから出してもらったんだけどね、 ちゃんと返すことにして』
「感心感心。でもそれで碇君に怒られて?」
『‥‥ まだ言えないじゃない』
「出来ることあったら、するよ?」
『ありがと、‥‥ ん、この愚痴に付き合ってくれればいいわ』
「だー、それだけは止めてぇー」

・・・


次の日、登校してみれば、二人はもとに戻っていた。
つまんない。


えと、シンジです。
次回は僕が主役らしいです。
「決戦! 第三新東京市第一中学校」
です。がんばります。
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