Genesis y:23 歪められしもの
"I shall never forget."


第三新東京市に入ってアルは思う。 同じ LCL 化都市でも、僅かに空気が違う。 まだ人々の様子におそるおそるという雰囲気の残る新ミュンヘン市と、 もはや「外」に居るのとなんら違いを見出せない第三新東京市。 これは近い将来の新ミュンヘン市の状態でもあるだろう。

「『人は慣れるものである』ということかな?」

暫く車を走らせたアルはそれらしいマンションの前で停める。

「‥‥ ここかい?」

見上げながら二人に尋ねた。
日本の街のマンションにしてはゆったりとしている。 12 階建てのマンションに灯る明かりの数は少ない。 日が暮れるには早く、灯を点けていない家庭がある上に、 誰もまだ帰っていない家も多いとしても、 まだまだ空き部屋が多いということらしい。

「うん。ありがと」
「ありがとうございます」

アスカとシンジの肯定の返事に、アルも車から降りた。 レイは当然のようにすでに降りている。 アスカが目線で指し示す部屋を追って、アルは少し肩を落した。 アスカの家の窓にもちろん灯はついていないが、 その隣のシンジの家にも人が居るようではない。 これはアルの思惑とやや違った。

「まだ碇博士は研究所?」

上を見上げたままアルがシンジに問いかけるでもなしに問う。 病院かもしれないという返事に アルが振り向いたその速度は、 いつものさりげなさ、よりは少し速かったかもしれない。

「病気か怪我でも?」
「えーと、仕事で ‥‥」
「あれ、医者だったっけ?」
「良く知りませんが、多分、そうだと思います」

形而上生物学が専門であって、医学はそうではなかったはず。 病院という医療の現場で単純な応用が効くようなものでもない。 アルは少し考え込んだ。

「‥‥ 素早い」

研究所での成果にせよ何にせよ、 碇ユイの再生とともに復活したノウハウがたったの半年で実用化段階、 そして民間への転用。
その速度にアルは内心、驚いていた。 そして、自分が知らなかったことにも驚いていた。 つまりドイツ支部にはまだ伝わっていない、ということを意味する。

「正々堂々とやってるようなのに。
怠慢じゃないのか ‥‥? それとも、僕の勘違いか?」

仕事のリストに入れておく。
過大評価でないとすれば LCL 化都市に続くネルフの技術の民間転用、実用化は早晩、 話のタネにのぼってくる。 そこに思い至って、アルはおもわず天を仰いだ。

「あー、もしかして、しばらく帰れないんだろうか ‥‥」

常駐局員は別にいるはずだと思う。しかし自らの位置を鑑みるに、 仕事が天から降って来ることは間違いなかった。


アル達と別れ、シンジとアスカの二人はマンションの入口をくぐった。

「二ヶ月ぶりね」

エレベーターに乗り込み、アスカが [11 階] のボタンを押す。

「時々、掃除はしといたから」
「‥‥ ふうん。ありがと」
「夕飯、どうするの? 家、来る?」
「おばさまは?」
「‥‥ 遅くなるって」
「そ、う。」

エレベーターのドアが開く。

「ん、そっち行くね」

家のドアを開ければ懐かしい空気が広がる。たった二ヶ月前のこととはいえ。 夕食についてのことなど、些細な習慣に至るまで、 時間軸が曲がり、一気に二ヶ月前と繋がる。
玄関で靴を脱ぐこと一つとっても違和感のない出来事。

「でも、無いものも、ある ‥‥」

一歩入ったところで立ち止まり、視線を落した。
標的にされた弐号機がどうなったか、シンジからは大したことは聞けなかった。 シンジが空港に向かった時点では、原型をとどめないほど大破、 回収作業はたいして進んでいない、ということだった。 作戦そのものが半日前のこととて、 回収作業が本格化した筈のころにはもうシンジが進展を知れるところに居なかった、 という一点に望みをつなぐしかない。

「‥‥ は」

ため息が洩れる。
それにシンジのこと。 空港のことがちらと頭の隅をかすめる。
アスカは窓の外にふと視線を移した。 まだ明るい。 しかし日没から暗くなるそのなり方は高緯度のドイツより速い。

「‥‥ さっさとやらなきゃ」

きっと顔をあげ、リビングに入る。 夕食の前にやっておくべきことは一杯ある。 掃除の他にも、たとえば ドイツに置きっぱなしにした物の代わりになるもの を買ってこなければならない。
ざっと見回しただけでも、足りないものに二、三思い当たった。

「‥‥ そういや、もうカード使っていいのよね」

もちろん居場所を隠しておく必要も、もう無い。


「何こんなところで寝てんのよ」

リビングの床に座りこんで壁にもたれて眠っているシンジを発見したのは、 7 時をまわり、外もすっかり暗くなってからだった。
電気もつけずに何やってるかと思えば、夕食の用意もない。 買物から戻ってきた時にちらと不審におもったものの、放っておけばこの始末。

「このバカ」

軽く睨みつけてシンジの顔をのぞきこむ。
叩き起こすべきだと思う。叩き起こさねばならない。‥‥ が。

「‥‥ いっか」

つと表情を緩め、シンジの隣に腰を降ろす。 眠りこんでいるのを横目で確かめて、ぴったりと寄り添い身体を預ける。
シンジの体温が心地よい。 アスカはそのまま目を閉じた。


コテン

そんな感じでシンジの左胸の上に落ちて来たものがあり、 その拍子にシンジは薄目を開けた。
栗色の髪の毛が目に留まる。 アスカの、頭 ?

「あれ? ‥‥ え、えと、アスカ?」

ちょっと名を呼んでみる。返事はない。
アスカの下敷になった左腕を持ち上げようとして、やめる。
かわりに右手をアスカの髪にのばし掛けて、これも途中で止める。

「そうだ、晩御飯 ‥‥」

それだけつぶやいて、シンジはまた眠りに落ちた。アスカを胸の上に置いたまま。



再びシンジが目を開けると、アスカの重みは消えていた。

「あれ?」

アスカが居たような ‥‥ と思って左右を見回せば、真正面。 椅子の背もたれを抱えこんでその上に顎をのせたアスカがシンジを見つめている。

「バカ」

微笑むアスカ。
シンジは少し自分の顔が赤くなるのを感じる。

「‥‥ おはよ」
「‥‥ 作ってあるわよ?」
「‥‥ あ! ごめん!」

ようやく目が覚める。換気扇の音、それにカレーのにおい。 シンジは慌てて立ち上がった。
すまなさそうにするシンジを眺め、アスカが背もたれから身を起こして真剣な顔に戻った。

「それはいいから。それより、一つ訊きたいことがあるんだけど」
「‥‥ 何?」

そこでシンジの腹の虫が小さく鳴る。
アスカが吹き出した。

「いいわ、食べてからにしましょ」

アスカが目で鍋を示し、シンジはキッチンに向かう。 時計を見ると 10 時近い。シンジは改めて空腹を感じた。 気が抜けて座り込んだところでそのままずっと眠りこんでしまったということらしい。 シンジは鍋を温めなおし、二人分のカレーをよそい、テーブルに並べた。

「‥‥ いただきます」


食後に出されたジャスミンティーの湯飲みを見つめ、アスカは黙りこんでいた。 シンジは知らないでやっているにちがいない、そしてほとんど能書きだけだと 自分に言い聞かせつつ、その効能の幾つかを思い浮かべ少し赤くなっていた。
間違いなく意識しすぎだとそれを振り払ってシンジを見上げ、その瞳の暗さに瞠目する。 いつもなら、普段の自分でないのを不思議がって眺めている姿がそこにあるはず。 そしてアスカが顔を上げると同時にその翳は消え、 普段の無表情なぼけっとしたシンジに戻る。
アスカは眉を顰めた。 最前の空港のことが思い出される。 目だけでそれを追求すると、シンジが妙な具合にうろたえだした。

「な、何 ‥‥ ?」

その様子をアスカはしばらく眺めていた。
おもむろに口を開く。

「‥‥ シンジ。あんた、何、考えてんの ‥‥ ?」
「何って、‥‥」

シンジが目を逸す。

「あたしに何か隠してる」
「あ」

罪悪感と、辛さと、怒りと哀しさと。

「いい。あたしが知らなくていいことなら、別に言わなくてもいい。
でも今はそれを忘れる訳にはいかないの ‥‥?
それともなに? あたしはあんたのそんな顔ずっと見てなきゃいけないわけぇ?」

最後の言葉だけできるだけ明るく、嫌味をこめる。 つられてシンジの表情にも明るさが戻った。

「あは、‥‥ ごめん ‥‥ ね、アスカ」
「そ、分かれば、いいのよ、分かれば」

見掛けだけでも元に戻れば、二ヶ月の空白を埋めるのに話すことは二人とも沢山あった。
夜更けまで続く笑い声。 しかしそれは以前と違った。 表面はシンジの表情にときおりみられる翳くらいなものだったが、 シンジはガラスケースの中にいるような気分を抑えつけながらだったし、 アスカもまた、 自分が少し演技している、普段よりさらに明るく振舞っていることを自覚していた。 そしてときおり、すっとシンジの瞳が冷静になる。 数えること 10 回に達したところでアスカはテーブルを叩いて立ち上がった。

「紙一枚透かしてみるようなそんな目しないで!
ちゃんとあたしを見てよ ‥‥ !」

シンジの反応は鈍い。 アスカの突然の変容に慣れ切っているシンジは眉を顰めただけ。
アスカは身を乗り出し、テーブルの向こう側の彼の胸倉をつかみ、 無理矢理たぐりよせた。 シンジの下敷になった湯飲みが倒れ、乾いた音を立てる。

「隠すか喋るかどっちかにしてよね!」

腕一つ分の距離にある、シンジの困ったような表情をしばらくそのまま眺めた。
シンジの表情がゆっくりと曇っていく。
不可解な冷たさを保ちつつ見守るようなシンジの瞳。

「シンジには、あたしが帰ってきたことより気になることがあるの ‥‥?
あたしは生きてるシンジにまた逢えて嬉しい。シンジは?
それだけじゃいけないの ‥‥?」

目を伏せ、静かに告げ、身を乗り出して唇を重ねた。そして時が止まる。
ゆっくりと離れ、目を開ける。

「‥‥‥ あたし、帰る」
「‥‥ あ、アスカ」

遠慮がちに声をかけるシンジにアスカは無言で振り返った。

「‥‥ あの、‥‥ ドイツに ‥‥ じゃ、ない、よね」
「あんたバカぁ? 隣によ! 隣に!」

一蹴。
それでも。
「まさか」という表情を作ったシンジのその言葉の裏にある想いは 確かにアスカに伝わった。


アスカが帰った後。

「お風呂 ‥‥」

シンジは風呂のスイッチを入れ、そのまま浴室にへたりこんだ。
アスカとの二度目のキス。
初めてのは、単に窒息しただけだった。
二度目は ‥‥
唇に残った余韻。
シンジは軽く目を瞑った。

「アスカ ‥‥」


家に戻ったアスカは、そのままベッドに倒れこみ、枕を抱えてつぶやいた。

「帰って来て ‥‥ 良かった」

会話は微妙にずれているし、どこか空々しい。 なにかあったらしいことは分かる。 シンジの態度に妙な違和感がある上に、どうもレイがそれを許している。 しかし誰も何も教えてくれそうにないし、 自分から「喋るな」と言った以上、本人に追求できる訳もない。 なにやらものすごく腹立たしかった。しかしそうではあっても、 シンジが最後に絞り出した言葉を思いかえしながらアスカは微笑みを浮かべていた。

「でも、ね。ほんとは、ね。シンジがそうやって悩んでくれるから、
あたしは信じていられる」

たとえどんなにそうは見えなくても、今アスカによってたつものはない。 使徒との戦いが終り、多少のごたごたを除けばアスカにやることはもはや無い。
なまじなんでも出来るという自信だけはあったから、砂漠に放りだされた気分になっていた。 どちらを向いても同じ風景、しかしどちらかに足を進めないことには何も始まらないが、 強烈な自信に基づく即断即決の多かったアスカは悩み方を知らない。
シンジは手掛かりを与えてくれる貴重な存在であり、 蜃気楼でないことが分かっている数少ないオアシスだった。
もちろんシンジを他人の苦しみを全てその身に受けるキリストにするつもりはなかった。 全てを他人に預けるのはアスカのプライドが許さない、それがシンジである場合は特に。 そしてそれ以上に ‥‥
ふとベッドの上に座り直し、アスカは考え込んだ。

「‥‥ 勝手が違う」

ここしばらくドイツに居て、 アルの部屋におしかければどうにかなったのにすっかり慣れ切っていた。 情報源として(妙に有能だった)、 相談相手として(もっともあまり相談したことはない)、 単なる八当たりの相手として(けっこうよくやった)、 アルの存在は大きかったが、 不案内な本部でアルが情報通の筈もなかった。


翌朝。
シンジを叩き起こすべく 隣の家に乗り込んだところで当人はベッドの上に居なかった。
起きている様子はない。 朝食を食べた様子どころか、昨夜のカレーの皿が水に浸されたままになっている。 食べずにどこかにでかけたにしても、それはシンジらしくないし、そもそも靴がある。 家中探し回ってみれば、風呂場で座り込んで寝ていた。
昨夜といい今朝といい、アスカはシンジの変調に驚いて、 かつぎあげてベッドまで引きずっていった後、 とりあえずユイに連絡をいれたところでシンジが目を覚ました。

「あ、アスカ ‥‥ おはよ」

半分、寝たままの顔でゆっくりと半身を起こすシンジ。

「あんた何やってんのよ? 風呂場なんかで寝たりしたら、風邪ひくだけでしょうが」
「えーと、‥‥ あぁ、そうか ‥‥」

着替えていない自分自身を見下ろしつつ、シンジが答える。
まるで時差ボケのような様子にアスカは呆れた。
過労か知恵熱。それがユイの予想で、 確かにユイのいうように、ともかく病気ということではないらしい。 しかし、「過労」というのはともかく、 「知恵熱」というのは珍しくユイにしては冗談として面白くない。

「シンジしばらく寝てていいって。おばさまには許可もらったし」

「おばさま」という言葉にシンジの体が打たれたように反応する。
アスカは眉を顰めた。

「なーに、あんた、おばさまと喧嘩でもしてんの?
そういえば、おばさまの方も、なんとなくおかしかったけど」
「‥‥」

シンジが目をそらす。
少しむっとしたアスカ。

「ま、いいけどね。あたしには関係ないことなんでしょお?」
「あの、‥‥ その、‥‥ ごめん」
「あんたね ‥‥ ぜんっぜん! 分かってないわよ。
あたしはあんたの心労増やすためにここに居るんじゃない。
エヴァパイロットのエースはあんたに取られたっていっても、
この惣流 アスカ ラングレー、 あんたに護ってもらうつもりなんかないからね」
「違う ‥‥ アスカ ‥‥ 僕は、誰なんだろう ‥‥?」
「‥‥ あんた、その冗談ちっとも面白くないわよ」
「うん ‥‥」

シンジの部屋からでて、アスカは一息ついた。 やはり負担を掛けているような気はする。 しかし、何故そういうことになるのかがいまいち分からない。 昔、ヒカリにいろいろ言われたけれど、日本に戻ってからの行動に 問題は ‥‥ ないはず、ないと思う。
実はけっこう勇気の要った昨夜のあれも、 シンジには大した意味があったようではない。

「‥‥ バカシンジ」


昼過ぎ。
シンジは穏やかな顔で目を閉じている。
アスカが床に座り込んで、それを眺めている。
シンジが口を開ける。
彼は目の前にアスカが居ることを忘れていた ‥‥

「半年前のあれは ‥‥ 今の僕は僕なんだろうか?
どこが違うんだろう ‥‥ どうやったら、分かる ‥‥?
もとに戻した、と母さんは、‥‥ まえは、 ‥‥ アスカがこんなに近くにいてくれたことはなかった ‥‥ と思う、違う、 そうじゃない、僕が、思うんだ ‥‥」

ふと目を開けたシンジがアスカに気付く。
アスカが納得のいった表情をつくるのを、 自分の失言を思い返しながらシンジはぼんやり眺めていた。

「あんた、今ごろ何を、‥‥」


「あたしはシンジと違う。
あのことが無ければ、あたしは今ここにいない。 だから、おばさまが心の奥底で何を考えていたかに関係なく、 あたしはおばさまに感謝してられる。
シンジ。ほんとに実験の影響を全部消そうと思うなら、 記憶も消さないといけないわ。
‥‥ あんた、忘れたいの?」
「え、と、それは」
「あたしは、忘れたくない。
シンジにとっちゃ、ほんものまがいの一ヶ月だったでしょうけど、
あたしにとっては、正真正銘の嘘偽りそのままの一ヶ月。
それでも ‥‥ あたしはあの出来事を許していられるわよ。
たしかにあの時のあたしは、あたしじゃないわ。
だいたいママが生きてたら今のあたしは無いもの」

顔を起こし、背を壁につけて上を向いた。

「一ヶ月の休暇はでも楽しかった。その前後は思い出したくもないけど、
あのひとつき、楽しかったことは今でも思い出せる。
あたしでないあたしが、夢の中で跳ね回っている。
現実と思い込んでいたのがやっぱり現実だったから ‥‥」

回想にふけっていたアスカが、ふと現実に返る。 少し怒ったような顔でシンジを見つめた。

「あんたやっぱりあれは夢だったって言うつもり ‥‥?」
「夢が夢なら ‥‥ 良かったのに。何で現実に繋がってるんだろう。
‥‥ アスカ。だめだよ、それじゃだめなんだ。
母さんの手が何処まで伸びているのか、それが分からないかぎりは ‥‥
どんなにそれが心地よくても、それはほんとじゃいけないんだ」

一つの現実の否定。その向うには、今の自分との関係の否定が見え隠れする。
何よりも、シンジが自分で何を言っているのか自覚していないこと自体が アスカは悔しかった。
胸に鈍い痛みが走る。
何故そう思うようになったのか、そのきっかけはまだ分からない。 しかし、それはもう、些細なことでしかなかった。

「なんでそれじゃいけないのよ!
なかったことにしたいほど嫌だったの?!
シンジだって!
あたしは知ってるのよ。あんた、けっこう楽しんでたでしょ?」
「‥‥ なんで?」
「あんたバカ?
なんで実験の前はちゃんと朝、起きてたのに実験の最中だけ あたしに起こされ続けてたのよ?
居心地よかったんじゃないの? あの世界で寝惚けてるのって」
「母さんがやった、とか ‥‥」
「自分の胸に手、当ててちゃんと考えた方がいいわよ。
エヴァとかもろもろのこと、いっさい考えなくていいって言われたら、 あんたずっと寝続けてるタイプじゃないの?
あんたもともと司令に言われたからエヴァに乗ってたんでしょ?」
「うん ‥‥」
「朝すぐに目が醒める程、 あんた緊張しつづけてんのよ。ずっと。自分でも気がつかないほど!」


本部に戻ったアルは資料の山に埋もれていた。 彼が日本に渡る都合で諜報ネットワークから切り離されていた半日は、 ネルフ諜報部が最も積極的に活動した期間でもあった。
そして、何が見落とされているのか、どういう優先順位で調べられているのか、 等といった本部のスタンスが不明瞭なことが彼を疲労させていた。
存在する資料はともかく、 資料が存在しないことの意味が分からない。単なる未調査なのか、調べる必要がないのか、 それとも対諜防御が厳しく調べようがないのか。

「うー、さっぱり分からん」

アルは、ついに端末の前につっぷした。
とりあえず理解できたのは一枚のレポート。

「『ネルフ侵攻作戦概要』ねえ ‥‥」

レポートを呼び出し、椅子に座り直す。
アルは筆者に面識があった。葛城ミサト。
ネルフドイツ支部にて、作戦部所属。 本部の作戦部長に抜擢後、対使徒戦闘のほとんどの指揮をとり、これを撃退。 その作戦指揮には理屈に合わない部分が多く、不可解さでは使徒と同レベルではないか、 というところが当時の評価。
味方の被害に頓着しない、有無を言わせない物量作戦を得意とし、 このレポートの作戦もそういう傾向がある ‥‥。
アルはレポートの筋にそって仕事を再開した。

「いかにもミサトさんらしい作戦なんだけどね。
ネルフ以外にこんなもん実行できる度胸のあるところってあるのか ‥‥?」


『シンジどしちゃたんですか! 昨夜なんか、風呂場で寝込んでるんですよ!』

アスカの叫び声が響く電話を耳から離しつつ、ユイは答えた。

「昨日までがきつかったから、気が抜けちゃったのよ。
シンジが言い出した作戦で、ストレス溜ってたんだと思うわ。
過労か、知恵熱だろうし、2, 3 日、看病おねがいしていい?」
『え、ええ、それはかまわないですけど、』
「じゃ、よろしくね」

電話を置く。

「で、パイロットの見通しは?」

それと同時に、後ろから冬月の声がかかる。
厳しい表情の冬月、そのとなりにゲンドウ。

「実のところ、五分五分より悪いです」
「今、初号機パイロットを失うことはできない。これは碇の判断だが ‥‥」

ユイの表情も、冬月の表情も暗い。

「はい。分かっています」

ユイの手には、一度は火をつけて燃やしてしまった「再洗脳プログラム」 の計画書が握られている。 ミサトのネルフ本部攻略計画のレポートが出回り始めた今、何事もなければよし、 万が一、初号機にすべてを託すような事態になった時。 シンジを敵にまわす可能性はゼロにしておかねばならない。

「‥‥ そうか」

ユイの今の返事にもかかわらず、 ユイがこの計画に GO サインを出すのは、 シンジの命か精神かというぎりぎりの二者択一の状態になる時だけだ、 ということは冬月にも分かっていた。 そうでなければそもそも子供達を実験の対象とすることはなかったはずで、 だから、この問答は単なる形式だけのものにすぎない。
たとえばゲンドウが実力で計画を実施に移したとして、 ユイがどこまで協力的かどうか分かったものではない。 ミサトの計画はその点も織り込み済みであって、 「再洗脳プログラム」が発動できるタイミングは無い。 つまり、シンジが追い込まれた時点では外部からは手も足もでなくなっている。
冬月はミサトのレポートの写しを示しながら、ゲンドウに向かって尋ねた。

「‥‥ で、これは実際、どうするんだね。碇」
「ああ。問題無い」

取る手段は分かり切っていた。


第 24 話 子供と大人との軋轢 被告たる碇ユイの想うこと 次回 唯、母親として
[目次] [前へ] [次へ] [日誌]