Genesis y:24 唯、母親として
"Mother is the first other."


始業式の朝。暖かい日差しを予感させる中、 アスカは久しぶりに中学校の制服に身をつつみ、 シンジの家のドアの前に立っていた。

「ん ‥‥」

昨日は本部での事情聴取やら ID カードの書き換えやらで丸一日潰れ、 シンジとは顔をあわせていない。
一度は取り出した鍵をしまい、呼び鈴を見つめる。

「すぅ ‥‥、 はあ ‥‥」

深呼吸ひとつ。
今、この場所に立つ意味、意義を再確認する。
何かが動きだす予感の中で、これはまだ未だに変えるべき名分がたっていないこと、 それだけ確かに分かっていれば良い、アスカはそう思った。

「‥‥ よし」

そして睨みつけていた呼び鈴に手を伸ばす。

ぴんぽーん ‥‥

ここまでは同じ。
それでも扉の向こうが今までと同じである保証はどこにもなく、 アスカはどことなく緊張感を漂わせながら、戸が開くのを待った。

「アスカちゃん、おはよう」
「おはようございます」

ユイが顔を出す。その微笑みに肩の力も抜けた。 アスカがユイに招き入れられて家の中に入ると、シンジはすでに食卓についていた。 パンを片手にしたまま、アスカと目が合う。

「あ、アスカ、おはよ」

ドアの前での緊張は何だったのだろうか、アスカは少しふてくされた。 表面だけのことかもしれないにせよ、なにも変わった様子のない二人。

「なんであんたが起きてんのよ ‥‥?」
「あ、だって、‥‥ えーと、ごめん」

シンジが起きている場合に恒例化したやりとりを続ける。
その裏でアスカは思う。 もちろん彼女がシンジを起こしにいくという習慣は例の実験以後のことで、 これも実験の影響の一つには違いない。
しかしアスカには、これを頭から否定する気は無かった。 実験が終った後にユイから頼まれて起こしにきている訳であり、 実験からの影響というなら止めるのはいつでもできる。 結局は「自分がどうしたいのか」という点に帰結されるだけのこと、

「‥‥ なんでこれでいけないのよ」

パンを慌てて飲みこんでいるシンジを眺めながら、アスカは思った。
ぼうっとしているアスカの前に、ユイが紅茶を置く。
微笑むユイに礼を言ってそのカップを取り上げる。‥‥ これはほとんど無意識に。

ふとシンジをみつめると、シンジがアスカの手のカップをみつめている。 その眼は笑っていない。 アスカも少し思い返してみて、その意味に気付き、 シンジに反抗するように平然と飲み干す。

シンジが目の前のパンをすべて片付けたのを一瞥し、 カップを置いたアスカはユイに振り向いて微笑む。

「ごちそうさまでした。 ‥‥ ほら、シンジ、行くわよ!」
「あ、まってよ、‥‥‥ いってきます」
「いってきます!」
「いってらっしゃい」

再びいつもながらの風景がそこに再現されていた。
心の中は別として。


「‥‥ 実験終了時の環境激変のショックの処置は難関だった。
肯定的なものの見方を継続させるのは、 今回の被験者ほどに精神に手を入れた場合、不可能と言ってよかった。 精神の再建そのものが「実験の後遺症」の一つであって、‥‥」

「被験者 Sohryu, A. L. ‥‥ つまりアスカちゃんの場合。
当時、私の能力も不安視されていた時のことではあるが、 拒食症で衰弱死に至ることが確実視されていただけに、 『セカンドチルドレンを再生する』といった大義名分に反論できる者は どこにもいなかった ‥‥」

「LCL 内への干渉ができることは以前から分かっていた。
精神汚染という現象がそれである。 私は赤木博士の報告書に目を通しただけだが、 第十六使徒「アルミサエル」がファーストチルドレン(綾波レイ; P-001-b) に対してエントリープラグごしの安定な干渉に成功したらしい。 現在はアルミサエルが行なった干渉経路は塞がれ、 この方法による外部からの干渉は防御されている。
これに対して、第十五使徒「アラエル」がセカンドチルドレン(惣流アスカ) に対して行なった干渉は未だ解明されていない。
いまのところ、 人が干渉できるのは、LCL 内でシンクロ率が十分に高い場合に限られ、 当時シンクロ率の低かったアスカに対して空間を隔てて干渉が行なわれたことは 驚異に値するとともに、将来の形而上生物工学の先行きの明るさを 暗示させるものである」

「新第三新東京市(現 第三新東京市) の完成とともに行なわれた都市規模精神干渉実験の成功は、 外部からの精神干渉が実用化段階に入ったことを示していた」

「理論上、同時に多数の人々の心に干渉できることは知られていたが、 それが実用になるかどうかは別問題である。 洗脳プログラムにはバグが潜むだろうし、干渉には雑音が混じる。 時間が経つにつれ、誤差が指数的に大きくなっていくことは、 いかにもありそうなことだった」

「記憶の想起性と記憶相互の論理関係の自己修復能力が 誤差の拡大を抑える方向に働き、その効果が有意であることが確認されたのは、 この実験の成果である。
人は、自分の思考、感情、記憶に多少の疑問が生じたとしても、 周囲の人々の経験、記憶、記録に合わせて自らの記憶を再調整する。
『裸の王様』効果と名付けられたこの性質は、 破綻に至るまでの時間を、実に 9.7 倍に引き延ばした。 その引き延ばし率も事前の推算値の誤差範囲に収まり、 基本理論の検証は済んだと考えていいだろう ‥‥」


ドアの音にふとヒカリが振り返ると、そこにはアスカの姿があった。 黒板消しの手を止め、親友を見つめる。 目を丸くするヒカリにアスカが微笑みかけ、手を上げる。

「ヒカリぃ、おはよ!」
「‥‥ アスカ!? お帰り!」
「ただいま! 元気してた?!」
「向こうはどうだった?」
「ものすごっく退屈だった!」

アスカの後から教室に入って、 シンジも席についた。前の席のケンスケが椅子ごと振り返る。 新しい教室での席の配置はとりあえず名簿順ということになっていた。

「惣流、帰ってきてたんだな」
「うん。おとといか、その前くらいに」
「ていうと、やっぱり元箱根の爆発絡みでか。‥‥ 相変わらず大変なんだな」
「‥‥ うん」

組替えは無い。
その理由にシンジは少し寒気を感じた。
フォース、フィフス。そして、この教室の中から将来のシックス。
もう何もなければ良いと思う。

「トウジは?」
「ああ、あいつはまだだ」
「へぇ、珍しいね」
「‥‥ 全くだ。シンジより遅いなんてな」

シンジは苦笑を返した。 教室の教卓の横では、まだアスカとヒカリの立ち話が続いている。


「レイちゃんからさきほど驚くべき電話があった。 『力を使っていいか』というものである ‥‥
私は 20 秒だけ警報の回線を切ることでそれに答えた」


今日は学校が終るのは早い。 アスカは独り本部へと向かう途中にあった。 ドイツとの交渉、ことによっては処分が決まるまでは日参しろと言われている。 幾つかの理由からアスカはその成行きを楽観していた。
「アスカのために動く人達がいる」こと、 それはもともとアスカが頼みにすることがなかったもの。 思索範囲が広がり、思考は柔軟になり、

「いいじゃない、これで」

今日、何度目かのつぶやき。
立ち止まった拍子に風が舞い、アスカの制服のスカートを舞い上げる。
上を見上げれば、空は蒼い。‥‥ 偽物の空。
この街には絶対君主が居るのだと、アスカはあらためて思う。 反抗する者の記憶、感情を奪うことができるなら、 確かにその権力は計り知れない。

しかし、シンジと違い、アスカは一度はユイを許していた。 半年もの間、事件であると認識しなかったシンジと違い、 アスカの場合は 当初からこれは「洗脳」の名で呼ぶべきものであることを知っていた。

「バカシンジ。人の話、ぜんぜん聞いてないんだから」

退院したその日のうちにユイを追求し、それ以上のことはしないと約束させた。 退院祝いの宴会だったから、シンジはその場にいたはずだった。

「‥‥ 今ごろになって、なんであんたが怒るのよ」

それが自分に与えた影響が悪くは無かったと考えたからこそ、 その場で許すことができている。 そしてそれは今も変わらない、筈だ。

「我思う。故に、我在り」

考えているのが自分でないなら自分はどこに在るのか。

「シンジ ‥‥ 分かってる? どういうことだか ‥‥」

一度は許したのだと、ゆえに追求するのは間違いだと言うこともできる。 この考えには、しかし表と裏がある。 本当は、自分が「恐い」から、あとからつけた理由にすぎないかもしれない。 考えたくないこと、思考に聖域が存在することも、もう分かっている。 半年前、いや今も、‥‥ アスカにとって、思い出したくもない事件ではあるのだ。 それをシンジが揺さぶった。

アスカ自身がとじこめた記憶の一つ。 エヴァ再搭乗テストの呼び出しがかかった日の、 再び乗れることが分かる前の、あの日の悪夢。 結果的にエヴァに乗れることが分かったために棚上げになった、 再び堕ちていく感覚。

ふと思考を辿りなおして不思議に思う。 自分はけっしてそう長く考えこむタイプではない。

「シンジの影響かしら、ね」

複雑に絡み合う原因と結果。

「それだけ切り分けるなんて」

アスカは自分のマンションの方角をちらと睨み、 そして歩き出した。 本部でなく、レイのマンションに向かって。 頭の中でユイの言葉を反芻しながら ‥‥

‥‥ 忘れないで、それもまた自分だということを ‥‥

久しぶりにレイのマンションの前に立った時、 アスカは相変わらずの廃虚にため息をついた。 レイのこういう感覚だけは慣れるものではない。 日本に来た時、 まかりまちがえばこういった所に放りこまれていたと思う度にぞっとさせられる。 旧市のそれは特に酷かった。

「あら、アスカ」
「‥‥‥‥ !」

呼び鈴が鳴る前から何か違和感を感じていた、 それはドアが開いてレイが顔を出した時に明らかになった。
いつのまにか奇麗に内装が調えられている。家具の少なさは変わりないようだったが、 主が居ない時にも廃虚だとは思われそうにない、生活している人間の存在感があった。

「どう?」

レイの方は、そういうアスカの表情を楽しそうに眺めている。

「へえ、いつのまに ‥‥」

アスカの感嘆に満足げに笑みをみせるレイ。

「今朝、ね」
「今朝?」
「今朝、私がやったの。良いって言ってたし」
「ようやく心を入れ換えたって訳ね」
「‥‥ そんなことしてない」

一瞬にして表情が硬くなったレイに心の中で首を傾げ、 その理由にすぐ思いあたり少しうんざりして、

「‥‥ 比喩よ、比喩。
まったく、学校休んで何やってんのかと思ったら ‥‥」

部屋の片付けなどしてた訳か。そう眼で問うアスカに、

「すぐにやりたかったの」
「昨日までなら学校休みだったのに」
「思いついたの昨夜だし、許可は今朝だし」
「あ、‥‥ そう。あんたのセンスも他の人並になって、喜ばしいことだわ」
「じゃ、紅茶、いれるから、待ってて」

アスカは、まだちょっと周りを見回しながら椅子に腰かけた。 みたところ以前との大きな違いは壁全体に白い壁紙が張ってあることを除けば 部屋の中央に置かれた小さい丸いテーブルと椅子二つ。
特に、椅子が二つあること。

「‥‥ レイ」
「なに」

お湯の様子に眼を向けたまま、レイが応える。

「あんたさぁ、‥‥ うちに来ない? 遊びに、でなくて、 一緒に住もう、って話なんだけど」

レイが振り返った。その表情にはわずかに驚いた色。

「椅子、埋まんないんだ」

本来一家族、一世帯で住む為の今のアスカの家は独りで住むにはかなり大きい。
ぽろっとでた思いつきながら、アスカにはそんなに悪くない考えに思えた。 よそから文句の出そうなことも思いつかない。特に問題は無いはず。

「アスカ。‥‥ 変」
「何がよ」
「なんで私に尋くの? すごく弱気」
「‥‥ 来るの? 来ないの?」
「寂しいの?」
「寂しい? まさか。そういうあんたこそどうなのよ。
なんでいつのまにか、客を迎えられる部屋になってんの?」

アスカは やかんに手を掛けたまま見下ろしているレイを無表情に見上げた。

「明日、このベッドから起き出す私が私でないかもしれない。
だから私のことを知っていた人がいてほしい、」

レイはしばらく言葉を探している風だったが、ため息をついて、

「どう言えばいいか分からない」
「の割には人付き合い悪いわよね、前より。大昔よりはマシだけど。
‥‥ そう急には変われない、か ‥‥
だったら、やっぱ、あんた、うちに来なさいよ」

紅茶をふたつテーブルに並べ、レイが無言でアスカの前に座る。
そしてそのままアスカを軽く睨むようにして見つめた。
アスカはカップをとり、それに眼を落して、

「‥‥ 言わないとフェアじゃないって?
ちょっと恐いのよ。いろいろとね。
ちょっとやそっとじゃ態度を変えないあんたに居てくれるとあたしは嬉しい」
「‥‥ 碇君から聞いたの?」
「そう。レイも知ってるんだ」

なげやりに問うアスカにレイが無表情のまま頷く。

「レイ。確かあんたは別なのよね?
だから、もしかして ‥‥ もしかすると、あたしとシンジが、 どうかなった時に。あんたに出来ることをしてほしい。
どんなだか全然わかんないと思うけど、何が起こるか分かんないから、 しょうがないわよね。
‥‥ 今日は、ほんとはそれ、言いに来たんだ」
「何を、するの?」
「何も。何もしないわ。あたしは。でも多分、‥‥」


「被験者 Ikari, S. ‥‥ つまりシンジの場合、
罪悪感はさらに少なくてすんだ。
彼に行なわれた調整は、本質的には他の大多数の人々のそれと同じだった ‥‥」


シンジはベッドの上で壁にもたれていた。
すでに陽は落ちかけている。
アスカが本部から戻るのはそろそろかもしれない。
母親が戻るにはまだ少しあるだろう。

「どうしよう ‥‥」

レイが学校を休んだため、彼は相談できる相手がいなかった。
この場合の洗脳解除とは、文章でいえば誤字を直して行く作業にほぼ相当した。 誤字が少なければ前後の文脈から直し方はすぐに分かるかもしれないが、 誤字を含んだ文章そのものが意味をもつような、誤字を含んでいるとは気付かないほど スムースに理解できてしまうような文章の場合。
あるいは誤字が多すぎて文脈がまったく取れない場合。

「でもやらなきゃいけないだ」

本当にそうか? と重ねて問われれば、彼も自信は無かった。 ただ知りたかっただけかもしれない。

周りの状況その他を一切考えず最も端的にまとめればシンジはアスカが好きだった。
そして普通なら問題にならないが、今は問題になるのが、 「それは何時からか?」という問いだった。 シンジが自覚したのは、彼にとって思い出せるかぎり半年前の実験中のことである。 もちろん終了直後に一度はリセットされた。その時の混乱は鮮明に記憶されている。 彼にとってはそれで終りのつもりだった。 それ以上のことを誰も彼に告げなかったから、疑いもしなかった。 今も残るものがあるなどということは。
再び無かったことにされる恐怖感、 それはなまじ「無かったことにされた」記憶があるだけにより深かった。

「でも逃げちゃだめなんだ」

すでに気付いてしまった以上、もとには戻れない。 二人の前に何の後ろめたさもなく立つために、 そしてこのこと全体を計画した両親に立ち向かうために。

もっとも、実際にシンジにできることはそんなに多くない。 特にユイの支援がない場合、確かな記憶を辿るていどのことしかできそうになかった。 シンジは壁に身体を預け、眼を閉じ、ゆっくりと記憶を遡って行った。

今は忘れているアスカとの関係、ただそれだけを辿った。 それ以外はたいして重要なことではない。


「‥‥ に好意を抱いていたことは知っている。 しかし、遅かれ早かれ実験中に次第に惹かれていく、 といったことになるのは、 ほとんど確実ではあった」

「実験の後遺症をできるだけ減らすために シンジは引き離しておくべきだったかもしれない。 シンジを第二東京に避難させ、彼女を養女ということにして 手もとにおくことも考えられた。実験の精度はこの方がむしろ良い。 しかしその場合には私はアスカの再生に自信が持てなかった。 実験内外を繋ぐ絆として、シンジしか使えるものがなかったのだ ‥‥」

「代わりにエヴァ弐号機が使えれば事態は遥かに簡明なものだったはずだ。
しかし、それが出来る位なら、 そもそも対使徒戦であれほどまでに苦戦することもなかったとも言える」


「 ‥‥ ンジ、シンジってば!」

シンジがどこかせっぱつまった風のあるその声にうっすらと眼を開けた時、 彼は眼の前に居るのが誰なのか認識できなかった。

「何よ?」

およそ 1 年という時間を頭の中で進めて眼の前の人物がアスカであると理解し、 心配そうに、そして不思議そうに見つめる彼女にかろうじて笑みを返した。

「アスカ ‥‥」
「『アスカ ‥‥』じゃないっての。なにやってんのよ。 額に油汗流しながら胃おさえて」

アスカには肝心なことを言うのは何故か少しためらわれた。
歯をくいしばっての苦悶の表情。 虫垂炎とは手で押えている場所が違うようだが、 ちょうどそれに近い苦痛を堪えるような。声一つたてず、 じっとうずくまるその格好は見ている方にまで胃の痛みが伝染しそうなほどだった。

「病院、行った方が良いんじゃないの?」

妙に眼の焦点の合っていないシンジを眺めながら彼女がそう言うと、 彼はベッドの上から身を起こしてみせた。

「‥‥ 病気、じゃないから。大丈夫。ほら ‥‥」
「そう?」
「うん ‥‥ ちょっとシャワー、浴びてくるね」

そう告げてシャツ一枚手に持ち部屋から出て行くシンジの後ろ姿を アスカは暫く睨んでいた。 シンジの態度に不満というよりは、僅かに心を横切った考えに対して腹を立てていた。
シンジが文字通り以外の意味を言葉や行動に持たせた記憶は、アスカには無い。 本来アスカもそういう傾向にあるが、言いたくないこともある訳で、 そういう時は二重三重の寓意をもたせることもある。 正しく伝わることはめったにないが。
ここしばらくそういうことばかりしていたから、 ついシンジ相手にまで裏読みしてしまった。
それはむしろ、自分の精神状態を告げるものといえた。

「レイもか ‥‥ そういえば」

言いたいことは必ず口にするが、言う必要がないことや言いたくないことは 一切口に出さない。その単純なこと彼女自身やシンジに劣らない、

「っと」

考える方向がずれている。僅かに逃げが入っている自分の思考、 アスカが苦みを噛みしめていると、 シンジがさっぱりした風情で部屋に戻って来た。 それを見上げ、

「で、何だったのよ」
「うん ‥‥」

アスカの硬い表情に、こちらもリラックスした様子から瞬時に翳のさすシンジ。

「もとには戻せないって、母さんは言うんだ。
だから、もうしょうがないんだけど、 でも、やっぱり、‥‥ せめて ‥‥ 」
「で、何をしたの?」
「昔はどうだったのかって記憶を辿った ‥‥」
「時間を逆に回して昔に戻ってったわけね。昔に戻りたい訳?」
「そうじゃない、そうじゃないけど、 でも、しょうがないじゃないか。
母さんの手が入らなかったところまで戻るしか、 分かってることはないんだから」

どうしてもパンドラの箱を開けたいらしい。 そう思った時にはアスカは思いきりシンジの頬をひっぱたいていた。

「それくらい知ってるわよ! 分かってないのはあんたよ!
あんた! ほんとに分かってんの! 自分で何言ってんだか!」
「うん。分かってる。アスカ、‥‥ その、
嫌な思い出かもしれないけど、でも ‥‥ その」

膨れ上がる想いを抑えつけながら、しかしシンジはくちごもった。 本来どうであったかを思いだした今、それを口にするのは公平でない。

「あんたバカ ‥‥?
思い出すのが恐いたって、たかが知れてるわよ ‥‥ あたしが恐いのは、」

アスカの表情を眺めるにつけ、シンジも怯みそうになる。
アスカが「恐い」というそれはシンジの恐怖の源にごく近い。

「でも、‥‥」
「あたしはっ、‥‥ それでも良いって、言ってんのよ。
あたしの、コトでしょ ‥‥? あたしがこれで良いって言ってんだから。
それにシンジは知らないでしょ? 病院で、独りじっとしてる恐さ、 だから、そんなこと言えるのよ ‥‥」

すこし引きかけたアスカに自然と彼の手が伸び、アスカの手を取る。 その感触でようやく決心したように、

「僕を、信じて。んと、信じなくてもいいから、 アスカの、自分の強さを信じてあげて。
アスカ、‥‥ お願いだから、自分のことから逃げないであげて。 僕はアスカを信じてるから ‥‥」
「そんな無責任なこと言わないでよ。 あんなことがあって、 どうして自分を信じていられるのよ。
‥‥‥ あたしなんかを」

アスカがその手からさらに逃げようとするのを、 シンジは力強く握りしめた。アスカが少し驚いたようにその手をみつめる。

「まもるから。
アスカ。‥‥ 僕が、まもるから、絶対にそんなことにはしないから、
僕が嫌なんだよ、もう、」
「あんたねぇ、なに勝手なこと ‥‥ って、ちょっと」

アスカが呆れていたところを彼はそのまま引き寄せ、抱きしめた。

「ごめん、多分、これが最後だから。
アスカが、好きだから。どんな作為も、誰の考えも関係なく、好きだから。
でも、アスカ、‥‥ その、こうしてて、怒ってる?」
「怒ってるわよ」
「でも、アスカ、のけようとしてないよ」

実際、抱かれるままにしている。

「殴られたい訳? あんたは ‥‥」
「それが、アスカなんだと思う。ほんとは。 だから、これが最後」
「てことは、あんたは半殺しの目に合いたいと」

アスカがそっと腕をシンジの背に回す。

「ほんとは、よくない ‥‥ でも、それは仕方ないと思う ‥‥ よ。
でもやっぱり嫌かな ‥‥ こうしていたいし」

と同時にアスカはおもいっきりシンジを突き飛ばした。

「ったく!」
「‥‥ ごめん」

顔を伏せ、謝るシンジにアスカは手を出して、

「腕」
「腕?」
「腕の一本位は覚悟しなさいよね」

シンジが何も言わないのを見て、ベッドに上がり込みシンジの隣に座る。

「ほら、手、貸して」

彼が差し出した腕を小脇に抱え込み、アスカは壁にもたれて目を閉じた。 最初はいぶかったシンジも、アスカの額から汗が流れおちはじめるのをみて、 何が始まったのかを理解した。 アスカの表情が次第に苦渋に満ちたものになっていく。

「アスカ ‥‥」

その心配げなつぶやきは、その想いとは裏腹にごく小さかった。 何者にも邪魔させない、そして邪魔しない。 シンジに出来ることは非常に少なく、それでもそれを全てやるつもりでいた。


『バカシンジがえらそうに ‥‥‥』
『シンジ ‥‥ 逃げてたらだめ ‥‥? 逃げてたら‥‥ 嫌いになる‥‥?
あたしのこと』
『それにシンジ‥‥ もしかすると、あたし、シンジのこと嫌いになるんじゃないの?
シンジはそれでいいの‥‥?』

遡点は現在。次いで、今朝。ヒカリの声が響く。

「あ、もちろん、ヒカリに会いたかったからにきまってるじゃない!」
「‥‥ 碇君は?」
「なんでシンジがでてくんのよ?」
「もう、アスカってば ‥‥ また、逆戻り? 遠距離恋愛はいい雰囲気だったみたいなのに」
「‥‥ 違うわよ」

さらに一週間前へ。

「アル! 目を、つぶっていてくれる?」
「嫌だね」

言葉が文字通りを意味しない典型例。
そして碇ユイの声が響く 2 ヶ月前へ。

「帰ったら、うちに来なさい」
「え、ええ ‥‥」

‥‥ まず。それを消した。 そして、一つ戻る。

「本部に来いって」

あの日、呼び出しが掛かった日。1 時間、さかのぼる。

「ま、ね、エヴァに乗れないということが、 どうかなったわけじゃないもんね」

全てを思い出したあの日、あの悪夢の日から、‥‥

「今日、この日に、アスカがここに生まれ出たことを祝うんだ」

それは夢の中の。祝うべきその日に自分は病床にいた。

「大好きだよ ‥‥」

語った本人も多分忘れている。そして再び現実へ。

「動かないのよぉ ‥‥」

恐れていた現実。とどめをさされた瞬間。

「嫌いっ! 嫌いっ! みんな、大っきらい!」

あがいていたころの、まだ気力が残っていたころの。
だからこそ、この時点では誰の介入もない。
だから、ここが出発点。

『あと半日遡るのは、‥‥ いいでしょ、別に』

精神と記憶の壁がそこにある。
そして記憶を、想いを辿りなおす。
いつどこでだれがどのようにして何を感じ、どう思ったか。
「さえない男」が「無敵のシンジ様」に変わったさらにその先で、 嫉妬、反発、憎しみがいつ消えたのか、 いまもあるとすればどのような形をとっている筈なのか。 今はもう感じない、その想いが消えたのはどのようにしてか。
現状を否定するためではない、現状を肯定するために、知っておくべきこと。
過去の事実は変えられない、今の感情も変えられない。
この先、自らの想いと行動の全ての責任を自身で取るためにこそ、 干渉したユイに責任転嫁しないためにこそ、思いだすと言ってよかった。


「こうして、精神干渉実験の、最後のステージが終了した。 現在、碇シンジ、惣流アスカの両名は旧住所を離れ、 綾波レイが『改築』したマンションの、 彼女の部屋の両隣 2 軒に移っている」

「アスカちゃんがいきなり引っ越しの挨拶に来た時は驚いたものだ ‥‥ たぶん、表面は平静にあれこれ面倒をみてやれたと思う。 私は、ただ、最後にひとつだけ聞きたかった言葉が聞けたことに満足するしか ないのだろう ‥‥」


「おばさま。あたしを、元気づけてくれたことは、とても感謝しています。
‥‥ おばさまの前ですけど、この」

アスカは隣のシンジに目をむけた。

「シンジはまったく友達がいのない奴でしたし。
方法はどうあれ、‥‥ というより、 あたしは、あたしを助ける方法を思いつきませんでしたから、 あたしに方法をどうこう言う資格はないと思いますけど ‥‥」

それとともにユイに正面から視線を合わせる。 彼女の瞳のゆらぎが、 もしあればそれがどんなに些細であれ見逃すまいと。

「でも、それが正しくないことも承知の上、と思います」

ユイは肯定も否定もしない。

「あたしは、‥‥ まだ、あなたが私達を愛してくれていると、信じています。
ただ、もうすこし、あたしも冷静になる時間が欲しい。
だから、‥‥ 私達は、あなたから少し離れます。
ファーストが‥‥ レイが、住む場所を用意してくれました」

ユイを通さず、間髪を入れずに引っ越すにはそれしかなかった。

「私達は、そちらに移ります。‥‥ ごめんなさい。
エヴァに乗らないと、そう言ってる訳じゃありません。
だから、かまいませんね?
短い間ですが、お世話になりました。ありがとうございました」
「一つだけ。‥‥ 私のことをどう思ってる?」
「大好きです。今も」

ほとんど表情を変えない、 一種、覚悟していたかのようなユイの問いに即答し、
その時の彼女の表情に走ったものを少なくともアスカは捉えたと思った。


第 25 話
事実と真実の狭間に揺れる思惑。
「敵」として信頼するからこそできることもあった。
次回
信頼の名の下に

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