Genesis y:21 嘘と信じること
"You know she is my sister, I suggest ..."


シンジの表情が真剣なものに変わる。

「綾波。‥‥‥ また来る」
「碇君?」

レイのいぶかる声も聞かずに、シンジは部屋を出て、 廊下を少し行ったところの仮眠室と名前を変えられた病室のドアを叩いた。
そこでは、空いている病室を使ってユイが休んでいた。
シンジが入って来たのを見てユイが身体を起こす。

「母さん」
「レイちゃんの様子はどうだった?」
「うん。もう体の方はけっこう大丈夫そうだったよ。母さんは?」
「単なる疲労だけだから、たいしたことないわ」

レイの治療を終えて出て来たユイはこの部屋に運び込まれていた。
立って歩けないほどに疲労していたということらしい。
しばらくシンジは目を伏せていたが、意を決したように顔をあげた。


シンジの思い詰めたような表情をユイは初めて見たように思い、 首を傾げてその先を促す。

「母さん」
「何?」
「12 月の実験の時に ‥‥ 僕の心どれ位いじったの?」

ユイはひとつ息を吐いた。
シンジのこの質問はユイにとっては、あるていど予期していた質問ではあった。
ただ、この、疲れきった時に訊いてほしいことでは無かっただけで。
ユイはシンジを見据えて答えた。

「どれくらいと言われても、答えようがないわね。
アスカちゃんとネルフ、 エヴァンゲリオンのあたりの記憶を換えただけよ」

肩をすくめてシンジに尋ね返す。

「で、どしたの急に?」

シンジの拳に力がこもる。

「綾波の、僕の、アスカのも! 今の僕達の心は、感情は、 どれくらい母さんの手が入ってるの?!」
「そんな大声ださないの。ここは病院なんだから」

軽く手を振ってシンジの口をつぐませた。
ようやっと辿り着いたと、ユイは思う。疲れが音も立てずに抜けていく。
先の質問とは似ているようで大きく違う、 これはシンジの心理における道標となるべき問いかけ。
ただ、きちんと説明するまえに解決しておくべきことがまだ一つあった。

「どういう答が聞きたい?
新市を作る時に変えて、今もそのまま ‥‥
新市を作る時に変えたけど、終ったら戻した ‥‥
実験の時には触らなかった ‥‥
どう答えて欲しい ‥‥ ?」
「どういうこと?」
「シンジは今、母さんのことを疑っている ‥‥
こういう時に、シンジに都合の良い答えが返って来たとして、
それをシンジは信じられる?
あるいは、シンジに都合の悪い答えが返って来たとして、
それをシンジはどうするつもり?」
「母さん ‥‥」

ユイは、とまどうシンジを無視して言葉を繋いだ。

「言っとくけど、 いまのシンジたちの心がどうあれ、私は二度と触る気は無いわよ」
「今のままに放っておくわけ? いじってたとしても?」
「そう。いじってたとしても。だから、不満があるなら自分で直しなさい。 自分の心の問題でしょ。それくらい自分でなんとかできるでしょ?」

半ば冗談口で言うユイに、シンジの瞳に怒気が混じる。

「母さんっ! 綾波は、このことで綾波はずっと、ずっと悩んでた、 ほっとくって、ほっといていいって言うの!」
「だから、静かにしなさい。
‥‥ レイちゃんの心は、私はぜんぜん触ってない。
もちろん私のサルベージの不手際や技術的な限界やらいろいろあったと思うけど、 シンジが問題にしたいのはそういうことじゃないでしょ?」
「そんなことじゃない ‥‥ それに、それを信じろって言うの?」

静かな、冷やかなシンジの声。
シンジの右手が何かを求めるように握られたり開かれたりするのを ちらと眺め、ユイも冷たく言い放った。

「信じなくていいわよ。まだ。
シンジに悪いようにはしない、そういう意味でなら、 シンジは母さんのことを信じてくれてもいいわ。
でも、それをシンジが理解できなかったら? 私が何のために、何をするのか、 一々シンジに言う訳ないんだから、‥‥
余計な期待を人にかけて、その期待が裏切られたからといって、 責められるのは迷惑よ」

何を揶揄しているのか、シンジにも分かる。

「カヲル君のことを ‥‥ いくら母さんでも ‥‥」
「そう?」

静かなユイの言葉に、シンジは黙りこんだ。
互いに互いの眼をのぞき込み、しばらく時計の音のみが響く。
仮眠室なので無音タイプの時計のはずだが、針が滑らかに移動する低音。
シンジが先に静かに口を開いた。

「僕には悪いようにはしない ‥‥ じゃ、アスカには? 綾波には?
僕がアスカと隣同士ですごしている間、綾波は何故、後から転校して来て、 しかも一人で暮らしているの?
あれが、綾波に悪いようにはしていない、
というなら僕はそれを納得したい」

椅子を引き寄せて腰かけたシンジは、 何かにすがりつくような声を絞り出した。

「‥‥ 遅れてきたのは、 私のサルベージによるショックから旧市で入院してたから。 これ、聞いてなかったかしら?」
「アスカみたいに心だけ来ればよかったんじゃないの?」

その素朴な疑問にユイは苦笑してみせた。
サルベージショックの残ったレイを新市に連れてくれば何が起こるやら ユイは考えたくもなかった。
連れてくるにあたってレイが意識を取り戻しているのは大前提だった。

「いろいろあるんだけど、本当に聞きたい?
一人で暮らしてるのは ‥‥
記憶喪失気味のレイちゃんの環境をあまり変えないように、 って思っただけよ。大した意味ないわ」

ここでいったん、ユイは言葉を切った。

「ところでシンジ、 いずれにしても、実験の前後で私が何やったか、今は話すつもりないからね」
「え」

少し考え込んでいたシンジは驚いて顔を上げた。

「シンジにとっては真実は一つなのよ。
私が何を言おうと、シンジがどう思いたいか、
それだけで私を信じるか、信じないかが決まる。
そんな時に、正直に話せるわけないでしょ?
‥‥ シンジが、も少し覚悟きめてから話すわ」


シンジが出ていった後、ユイはそのまま壁に持たれかけ眼を閉じた。
頭の中でシンジの問いが反響する。

「綾波の、僕の、多分、アスカのも! 今の僕達の心は、感情は、
どれくらい母さんの手が入ってるの?!」
シンジの言葉を思ってユイは微笑んだ。
洗脳によってその感情が変えられている場合、
「その感情が洗脳によるものではないか?」
と疑う、あるいは不安を持つことには絶対にならない。
こういう質問が出るのは、 つまり洗脳の影響がほぼ消えたということを意味していた。
洗脳は手段であって目的ではない。 必要なくなった今はその影響はあるべきではなく、 ユイはようやく肩の荷を下ろした気分を味わっていた。
「綾波の、僕の、多分、アスカのも! 今の僕達の心は、感情は、
どれくらい母さんの手が入ってるの?!」
ただ、これは本来ならしなくていい疑問であり不安であるのも確かだった。 罪悪感あるいは、すまなさといったものもユイにはある。 しかしこの問いに正確に答えることにはたいした意味が無いし、しても仕方がないし、 そしてシンジもすぐには理解しないだろうとユイは思う。

実験が行なわれようと行なわれまいと、実験開始日時でのシンジと 実験終了日時の時点のシンジは同じ人間ではない。 すくなくともある一定の月日が流れた、という事実によって、 同一の心を持つ人物ということはありえない。 実験が行なわれなかった時の実験終了日時の時点のシンジという人物が 現実に存在しなかった以上は、 戻すべき「シンジの心」といったものはどこにもない。 もちろん、

「実験が行なわれなかった場合の、実験終了日時の時点のシンジ」
という人物を適当に作ることは出来るにしても、それも作為の産物には違いない。

二度もユイの手が入ったシンジの心とはいえ、 それをシンジが気に入らないからといって 再度、手を入れて良いものではない。 戻すべき基準が無いのだから、 どのように手を入れても作為が混じる。 調整はシンジ自身が行なわなければならなかった。

知識は、それが間違っていることを知れば、その場で直る。
記憶は、それが夢とでも思えば、そのうち忘れる。
感情だけはそうはいかない。
新しい知識や事実の力を借りることなしに、
嫌いなものを好きになることは難しい。
好きになものを嫌いになるのはさらに難しい。

「綾波の、僕の、多分、アスカのも! 今の僕達の心は、感情は、
どれくらい母さんの手が入ってるの?!」
だからこそ、本人の努力によっても変えることの難しい感情には ユイは直接は手を触れていない。 触れるわけにはいかなかった。

‥‥ しかし、体験した事実の重なりの上に感情は形作られる。
記憶は変えられるが、体験した事実は変えられない。
変えられた記憶によって行動様式は変わり、 したがってその後に経験する内容は変わる。
これによって生まれた感情が作為の結果ではないと言えるものでは無かった。


「碇君、碇、お兄さん、兄さん、お兄ちゃん、 シンジ、シンジ君、シンちゃん、‥‥」

シンジがレイの病室に戻ると、半身起こしてレイが延々と小声でつぶやいている。
血色はいいような気がするが、 その顔付きがまともでないようにシンジは思った。

「な、何なの、綾波?」

シンジの少し怯えた声に気がつき、レイは呟きを止めた。

「うん。ちょっといいこと思いついて」
「な、何?」

レイの悪戯っぽい表情。
レイの提案にせよ、アスカの提案にせよ、 その提案がシンジにとってすぐに受け入れられるものであったことは少ない。
シンジはレイの表情を見て一歩引きかけた。

「私と碇君って、血が繋がっているのよね。
家族みたいなもの、というより家族よね?
で、私だけ一人暮らしって不平等だと思わない?」
「あ、えーと、うん。そうだね」

話の行方はともかく、これはシンジもさっき思ったこと。

「それでね。碇君の家にいっしょに住んでいい?」
「‥‥ 綾波はそれでいいの?」
「なによ。せっかく忘れようとしてるのに、蒸し返さなくてもいいでしょ? いいのよ。家族なんだから、振られても」

レイは目を逸した。

「父さんとのことは ‥‥」

いま訊くことでもないような気もしたので、 シンジは言いかけて止める。

「‥‥ うん。歓迎するよ。母さんには僕から言う」

シンジの呟きを聞き咎め、レイはまずそちらに答えた。

「帰ってきてないんでしょ? 今すぐ考えなきゃいけない?」

事実上、ゲンドウがレイに死ね、と命令したこと。
レイとゲンドウの仲までおかしくなるのはシンジの本意ではなかったので、 ゲンドウがいつ帰ってくるかもしれない家に レイを招いて良いかどうか、シンジにはよく分からなかったが、 すぐに帰ってくるものでもないだろうとシンジは思う。

「ん、だから ‥‥ それはいいよ。別に ‥‥ 綾波が気にすることじゃないよ」
「それから、その『綾波』も止めてね。家族なんだったら、 ちゃんと名前の方で呼んでね」
「あ、綾波?」
「だから!」
「はい! ‥‥ レ、レイ?」
「何? 碇く、じゃなくて ‥‥‥‥ シンジ君?」
「シンジ君、というのも変なような ‥‥」

しかし「シンジ」と呼ばれるのを想像してみて突っ込むのを止める。
こちらも呼ばれ慣れた名前ではあったけれど。

「綾波、じゃなくて、レイ。話が決まったらまた来る」
「うん。期待してるわ」


シンジがユイの部屋に入ると、ユイは電話中だった。
寝るつもりのところを叩き起こされてかなり機嫌が悪そうに見える。
若干、先行きに不安を感じながら、シンジは電話がきれるのを待った。

「で、シンジ、こんどは何?」

さすがにもう眠るつもりはないらしい。
単に上体を起こしたのではなく、 ベッドの端に腰かけ直した姿を見てシンジはそう思った。

「綾波が一緒に住みたいって。かまわないかな?」
「アスカちゃんのことは?」
「なんでここにアスカがでてくるのさ ‥‥
綾波は僕の、姉か妹 ‥‥ じゃなくて叔母なのかな?」

シンジはとまどって口ごもった。
クローンに親族上の名前がついている筈もない。

「‥‥ 止めときなさい。
あの人 ‥‥ 父さんとレイちゃんのことは?
自分だって父さんのことが良く分からないのに、 人のこと取り持とうなんて、おこがましくない?」
「父さん、帰って来ないじゃないか」
「で、シンジは何もしなくていいと、そう言う訳ね?」
「‥‥」
「それにシンジは、今自分の気持ちが信用できないんじゃなかったの?
そんなことで、アスカちゃん説得できるの?」
「だから、アスカは関係ないって ‥‥
‥‥ 槍のことでも思ったけど ‥‥ 誰がが死ぬのは嫌なんだ。
それと同じくらい、誰かが不幸になるのも嫌だ。
‥‥‥‥‥‥‥ 綾波に、でも出来る事はこれくらいし」
「シンジ! そういう風に考えるのなら同居は止めなさい!
‥‥ シンジ。あなた、レイちゃんが同居してきたとして、
そのあと、 レイちゃんをどういう目で見るつもりでいるの?
不幸な生い立ちをもった子?」
「‥‥」
「家族として見ることができないなら同居は止めなさい。
「‥‥」
「それに、それが二人への ‥‥ レイちゃんとアスカちゃんへの最低限の礼儀でもあるわ。
この話はシンジの気持ちの整理がつくまで無かったことにしなさい」
「ん ‥‥」
「それと、アスカちゃんが帰ってくるから、空港に迎えに行ってらっしゃい」

うなだれたシンジに、ユイが先程の電話の内容を告げた。


「綾波、じゃなくて、
レイ。ごめん。母さん説得出来なかった」

シンジはレイの病室に戻るなり、レイに謝った。

「え? ユイさんが反対?」

レイにとっても、これは予想外だった。

「うん ‥‥ 僕がレイを家族として見ることが出来ないうちは駄目だって」
「はは」

レイは苦笑した。

「みすかされてる、わけね ‥‥ うん。分かった。
確かに無理かも ‥‥ 」

心が荒れている今だから、独りでいたくなかったにせよ、 一緒に居たいと思うその提案は さらに自分を追い詰めることになるだろうと知っていての提案だった。
シンジがユイに何を言われたか、とは別に、 ユイがレイに伝えたかったことをレイはそう理解した。

「ごめん。‥‥ レイ。まだ独り暮らしさせちゃうことになりそうで」
「でもレイって呼んでくれる訳ね」
「うん。せめて形だけでも」
「じゃ、私も兄さんって呼ぶ?」
「僕のが年上なの?」
「最初の私が生まれた時、 碇君 3 つか 4 つだったんでしょ? だから『お兄さん』」
「んー、さすがにそれは ‥‥ シンジでいいよ」
「それはそれで問題がありそう ‥‥」

レイはアスカの顔を思い浮かべた。
わざわざ邪魔する意味はとくにない。むしろ、それこそがレイの心に触る。

「『シンジ君』にしとくね」
「で、僕はちょっと空港行ってくるから」
「?」
「アスカ、帰ってくるんだって」
「あ、私も行く」
「え、身体は ‥‥?」
「もう大丈夫!」
「‥‥ って、そんな無茶なぁ」

レイが大怪我を負っておそらくは生死の境を さまよってからまだ半日も経っていない。
銃創を治しただけで数日寝込んだ自分のことを思い出してシンジは抗議した。
しかし、確かに外傷は無いのはもちろんのこと、 すでに元気一杯の風情。

「いいのかなあ ‥‥」

そんなシンジのつぶやきも気にせずに、その場でレイは着替え始めた。
シンジは慌てて病室を飛び出した。


第 22 話 空港にて、アスカと再会するレイ、シンジ。 次回 赤い、眼
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