Genesis y:20 二つの想いの狭間
"A is not A', is it?"


バラバラバラバラバラ ‥‥‥
朝焼けの中をヘリが通りすぎて行く。
空はクリアに晴れわたり、雲はない。
太陽が昇るより先に輝き出した富士山も今は陽に当たった赤みも抜け始め、 そろそろ本来の色彩を取り戻してきていた。
ヘリの爆音に合わせて、ミサトは双眼鏡を上に向ける。
そのマークはネルフのものではなかった。

「戦自に話、ついてるんだ」
「‥‥ ディスク一枚ってとこですね」

陽が昇り、 眼下に広がる山々の形が見えるようになって地図を取り出して眺めていた時田は 地図に目を凝らしたままミサトに答えた。

「あたしの?」
「適当に黒塗りしましたがね」
「へえ、ロハじゃ無いんだ」
「そりゃ、ネルフはいざとなれば、戦自に命令できるんでしょうが、 うちと戦自はお互いに金だせー、口だすなー、なんてやりとり、 しょっ中やってる間柄なんですから」

さすがに超法規的組織の人間だっただけのことはある。
ミサトの意外そうな声に時田は苦笑した。
日本重科学工業共同体も、戦略自衛隊も、 元ネルフの人間からすると同じようなものであるらしい。
時田は視線を上げて山の形を確認し、話を戻した。

「太陽の下に零号機ですか?
ここからじゃ見えませんけど、その奥に弐号機、
‥‥ で、あの辺に初号機」

時田が地図と照合して、それらしい見当に指すのに合わせて、 ミサトは双眼鏡でその方向を凝視した。

「‥‥ 初号機は見えるわね。零号機も、見えるはずだけど ‥‥」
「見えてもシルエットだけでしょう」

足元から東に連なる峰の一つに零号機がある筈だが、 ちょうど太陽が昇って来ている方角。

「そうね」
「それにしても、おおざっぱな作戦ですね。 普通、成層圏から落ちて来るものを受け止めよう、とは考えませんよ」
「‥‥ あたしも一回やったのよ」
「うまくいったんですか?」

微かにむっとするミサトに気付かないふりをして、 時田は興味津々といった表情で尋ねた。

「まあね。勘と AT フィールドのおかげね」
「勘と AT フィールドねぇ ‥‥」

時田は顔をしかめた。
こんどはミサトがからかう番になる。

「そういえば、昔、大きなこと言ってたけど、AT フィールド出来たの?」
「‥‥ まだですよ。
葛城さんのデータが手に入りましたから、もう大丈夫だと思いますが」
「たいしたもの入ってなかったと思うけど」

どれが意味のあるデータか分からなかったというのが実情だった。
それらしいものを適当に全部あさったが、 真に重要なものがそういったものに紛れ込んでいるとは考えにくい。

「使徒とか、心がどうとかいうエヴァンゲリオンのような 訳の分からんものでない、ただの人間が作れる、ま、何か装置を 隠しもっていたんでしょうが、その程度のことで作れる、ということが 分かっただけでも十分ですよ」
「そうなの?」
「材料が無い、というのはやっぱり話になりませんからね。
原爆開発の二の舞いはごめんですが、コア無しで出来ることなら話は別です。
‥‥ セカンドインパクト前、 第二次世界大戦中に日本も原爆の研究やってたんですが、 笑えることにウランが無かったんですよね」
「‥‥ コアが無くても、AT フィールドが出来るなら、 コアを無理に手にいれなくてもいい?」
「ああ、そうじゃなくて、手に入らない何かが要るかもしれない、 というのは研究の士気を落とすんです。
‥‥ ま、すでに答えが分かってるのを後追いするだけというのも、 実を言えばあまり気分良くないですが、 答えがあることが分かるととたんに元気になる人もいますしね」
「あたしがここにいるのに、独占されてる?」
「エヴァンゲリオンって何ですか?」
「‥‥」
「我々も全部知ってるという訳じゃないってことですよ」

15 年以上のデータの蓄積の差はいかにも大きかった。

「で、ロンギヌスの槍とかいうシロモノ、AT フィールドで防げるんですか?」
「日向君はそういう計算のようね。
‥‥ 一度、槍が AT フィールドを貫いたこともあるんだけど」

というより、ミサトは防いだところを見たことがない。

「ということは、別の勝算がある?」
「リツコもマヤもいないし、技術的に何か新しく出来た、とは思えないんだけどね」
「ま、それを知るためにここにいるんですが」

ミサトは再び箱根の山々に目を戻した。
金時山。作戦地点の強羅から約 4 km ほどのところに二人は居た。
強羅を走る早川の上流にあたり、 目の前の早川の河川敷にそって視線を下流に動かすと強羅に辿りつく。
作戦区域外から強羅を望めるのはここと強羅を挟んで 反対側の二子山くらいのものだった。
強羅を含む火口原の左手の箱根外輪山の峰々に零号機の明神岳、弐号機の明星岳が連なり、 正面に早雲山、初号機の箱根神山、 そして眼下から神山を巻くようにして右手に広がる湿原と 奥の芦ノ湖の間に旧市が顔を出している。

「旧市はまだ眠っているか ‥‥」

まだ朝早いこと、 新市移行で部分的に廃虚のまま放置されたことから遠望される旧市に活気はない。
むしろ正面のいつもなら閑散としている筈の強羅の方にざわついた空気が感じられる。

「ところで、 ここ、やたらに作戦地点から離れてるけど、観測隊は?」
「こんなに離れているのは我々だけです。
それでも、作戦が失敗してクレーターが出来た時には この足下くらいまでは穴になりますよ」

それからしばらくして、閃光が強羅を貫いた。


「レイっ!」

爆風がおさまり、再び双眼鏡を手にしたミサトが叫ぶ。

「クレーターにしては予想より小さいな」

この作戦のために沼地化されていた強羅の地面がすっかり乾き、赤い土を見せている。
箱根山はその形を変え、三日月状に欠けた。
もともと盆地であった強羅は、 今や氷河衰退後のごとく U 字谷、カールになっている。
そして早雲山の手前にあったはずの小さい丘がまるごと消え去った。

「周囲への影響はたいしたことはない。作戦は ‥‥ うまくいったのか?」

出来上がった穴がクレーターでなく、U 字谷の印象を受けるのは、 その外側に土砂が降り積もっていないからだった。
クレーター外縁にあたる明神岳も神山も緑のままの姿を見せている。
そのクレーターの中心に槍が深々と突き立ち、 その傍らにエヴァンゲリオンと思しき影一つ。

「‥‥ えーと、あれは初号機というやつでしたか?」

のんびりとした時田の声。

「行くわよっ!」

時田に怒鳴ってミサトは車に乗り込んだ。
時田も続いて車に戻り、そしてミサトに告げる。

「どこへ?」

唇を噛みしめ、ミサトはハンドルにつっぷした。

「‥‥ そうね。いまさら、あそこへは行けないわね ‥‥
ごめんなさい、」

ミサトは顔をあげた。

「第二東京にもう戻っていいんでしょ?」
「我々がここにいてもやることはないですからね。運転よろしく。
私はいろいろやることがありますから」

そう告げて、時田は電話をかけ始めた。

それを横目で眺め、ミサトは先程の出来事を思い返していた。
マコトが事前に何を考えていたかはともかく、結果として以前と同じく、 エヴァ三体の AT フィールドで槍を支える格好になった訳である。
もちろん、ロンギヌスの槍は AT フィールドをものともせずそれを貫き、 槍正面に立った零、弐号機 ‥‥ もっともこの辺は肉眼ではよく見えなかったが、 結果からみて、 この二体を槍は地面に突きたてたということなのだろうとミサトは考えた。
おそらくはクッション用の LCL の沼地は見たところ全て蒸発してしまったらしい。 どれほど意味があったことか?

弐号機には人は乗っていなかったのだろうからよしとしても、 零号機に乗っていたはずのレイはどうなったのか?

フィフスの少年の事件からみて、真の実力は使徒単体に匹敵すると思われる綾波レイ。
レイ本人が槍の直撃を受けたのならともかく、そうで無い場合は ‥‥ ?
さきほど自分がやろうとしていたことを思い出してミサトは嘲った。
月軌道から落下してきた槍の位置エネルギー全てをその身に受け、 AT フィールドによる防御に失敗し、 クレーターのできたその中心で身に纏っていたエヴァ零号機が木端微塵になっている状況で、 なお生きているようなモノを助けにいこうとしていたのだから。
もし人だったのなら、あの状況なら死んで ‥‥
と、ここまで考えたところでミサトは、この考え方が一種、 魔女裁判になっていることに気付いた。

「ごめん、レイ」

レイが使徒だと決ったわけではない。 生きていたら使徒だと決めつけることはできないし、 死んでいたら実は人だったんだと安心するなどというのは論外と言う他はなかった。
レイに死んで欲しいわけではないのだから。

「レイ。あなたにも幸せになる権利がある。‥‥ 使徒でないならば」

綾波レイ、彼女は生粋の人間ではないとして、では何なのか?
AT フィールドを張れる、ということはどういうことを意味するのか?

渚カヲルが使徒であり、つまり人でないのは即物的に言えば AT フィールドが張れるからだった。
碇ユイが言うようにもし「誰にでもつくれる」ものであるなら、 それが人と使徒を区別するものとならないのなら。
渚カヲル本人が事を起こすまでは使徒だと分からなかったのだから、 少なくとも解剖学的所見では人間と同一の筈であり、 渚カヲル、綾波レイ、それに碇ユイは「AT フィールドが張れる『人間』」 という枠で一つに括ることができる。
この観点からは、たとえレイが AT フィールドを張れようと無実でありえる。

ただ、まだ問題は残る。
定義の仕方は難しいが、 AT フィールドをつくれるのは使徒に近しい心? をもつ者のみに限るのかもしれない。
搭乗者の心理状態によってエヴァの挙動が大きく変わるところをつぶさに眺めてきた ミサトは、なんらかの形で「心」が関係する、ということを信じていた。

ミサトはここで再び横の時田を盗み見た。

「心」を軽視する傾向にある時田シロウ以下のチームにもし造ることができるようなら、 AT フィールドを張れるということ自体はそれほど特殊な意味を持たなくなる。
レイが人間であってもおかしくないということになる、かもしれない。
碇ユイもつくれるのだから、この方針の見通しが暗い訳ではなかった。

ところで、 エヴァや使徒のその最大の特徴は AT フィールドという防御にあり、 攻撃方法やその形状にあるわけではない。 どの使徒も攻撃手段はそれほど理不尽なものではなく、 ディラックの海を造った一体と、 アスカに精神攻撃を仕掛けた一体を除けばミサトの理解の範疇にあったし、 形に至っては千差万別である。
ディラックの海については、原理は違うかもしれないにせよ、 新防衛システムと似たようなものだろうし、 精神攻撃についても 新市構築の際にアスカに仕掛けられた強烈な洗脳の方が 一般的にはよっぽど酷いことのように思える。
そしてエヴァの攻撃手段について言えば あまりに原始的すぎて毎回苦労させられていた。

「リツコはまあったく、ろくな武器、造ってくれないんだから ‥‥」

かつての苦労を思い起こしてミサトは心の中で苦笑した。
こうして使徒の問題も、 つきつめれば常に「AT フィールドとは何か?」という問題に還元される。
それも、発生機序ただ一点のみであると言ってよかった。
その物理的性質はかなり良く分かっているし、 たいした対抗策が無い、ということ以上にはミサトは興味がない。

子供に無理に戦わせるのも、 戦術的には 使徒の AT フィールドへの対抗策として エヴァが曲がりなりにも AT フィールドを使える、ただそれだけの理由にすぎない。
エヴァ以外に AT フィールドを張れる、あるいはどうにか出来るものがあるならば、 使徒との戦いにこれほど苦労することはなかった。
‥‥ 碇司令はまた別のことを考えていたかもしれないにせよ。

それともう一つ、ネルフの戦力の問題。

その貧弱な攻撃能力にもかかわらず。
たかが一枚の AT フィールドの一点突破に日本中の電気をつぎこむ必要がある、 あるいは今やネルフの手に戻ったロンギヌスの槍でしか貫けない、 そういった防御力を独占しているというだけで ネルフの軍事力は計り知れないものになっていた。

今、ネルフが押し進める「人類補完計画」。
碇ユイの言う人類補完計画の、その題目にはやや説得力があるものの、 個人の尊厳をいっさい無視して進められる計画がまともなものである筈が無く、 いざという時、 それが間違ったものであった時に、それを止めるだけの力をミサトは欲していた。
超法規的組織のネルフを抑える権力を持つ機関は存在しない (あっても無視するかもしれない)。
ネルフの碇司令の動きは中からでは止められない。 ましてや個人で止められるものでもない。
そう考えて、ミサトは日本重科学工業共同体に手持ちのデータを持ち込んだ。 法的な問題はミサトの手に負えないとしても、 軍事的に対抗する力を準備する必要がミサトにはあった。

「新しくどこかがエヴァンゲリオン造ってくれるのが一番、話が早いんだけど」

ただ、適格者は全てネルフが押えているだろうことは容易に想像がついたし、 ミサトには、エヴァンゲリオンに乗る子供達に代理戦争をさせるつもりもなかった。


「通信途絶! 回復まで推定 20 秒!」
「第三新東京市は?!」
「新市との通信回線、今、回復 ‥‥」
「現地とのデータ回線、復帰」
「新市の全機能 ‥‥ 確認しました、 約 1 分前に地震を検知した他は異常ありません」
「エヴァの被害を報告しろ」
「零号機、弐号機、反応ありません、初号機は ‥‥ 大破、機能 60% ダウン」
「零号機? 綾波レイは?」
「現地の映像、回復します!」

メインスクリーンにクレーターが映し出された。
槍を沈めるはずの LCL の沼がすっかり乾き、その赤土の上に槍が刺さる。
槍の周りには零号機、弐号機の破片、残骸、かけら。
しかもその総量はどうみても、零号機、弐号機の全量に足りない。
初号機も前面拘束具が割れ、コアが露出している。

「う、」
「救援隊急げ!」
「な、何が起きたんだ?」
「弐号機のリプログラミングは何と?」
「時間が足りませんでしたので、槍に体当りするようにと、だけ」
「初号機との連絡は?」
「とれません。シンジ君、初号機から降りてますね。 エントリープラグに反応ありません。直接呼び出します‥‥」

その惨状にネルフ本部が動き出したその時、司令塔が揺れた。

「何だっ!」
「槍がまだ生きてるのか!?」

緊張が走る。すぐにとれる対抗手段は何もない。
エヴァは大破した初号機しかない。N2 爆雷も意味があるかどうか。

「地震 ‥‥ マグニチュード 3.4, 震源は ‥‥ 新横須賀市湯本です」
「温泉の上にクレーター作ったからな。水蒸気爆発くらいは覚悟しとかないとな」

冬月の落ち着いた言葉に一人を除いて動揺は収まった。

「しまった! シンジ君の回収急いで下さい!」

マコトが青くなって叫ぶ。
初号機から降りてクレーターの中を歩いているのではなかっただろうか?

「呼び出し音は正常なんですが、返事ありません」
「壊れてるのか? 使える回線は他に無いのか?」

スクリーンにシンジの姿が捉えられた。
そのむかう方向に、エントリープラグ。

「あれは、零号機の?」


シンジはエントリープラグの残骸に手をかけた。
前は無事だった。今回も ‥‥ !
祈るようにして、ハッチに手をかける。熱くはないが歪んで堅い。
綾波の声も無い。何が起きているのかと思うと気が急くのに、 手首の通信機の呼び出し音は冷静に鳴り響く。

「うるさい!」

その声とともに、ハッチが回る。

「あやなみっ!」

エントリープラグの破損のわりには見たところ怪我はないようにシンジは思う。
ただ、骨折は分からないし、頬や額の水滴は LCL ではなく、汗のようにも見える。 顔色もなんとも言いがたい。
心無しか普段よりさらに血の気が失せているだろうか、 朝日の斜光は山の影に入ったプラグの中まで届かず、これもよく分からない。
シンジには、レイの唇の色がやや暗いような気がした。

「綾波 ‥‥ ?」
「碇君 ‥‥ ? よかった ‥‥」

ここでようやく通信機が鳴っていたのを思い出したシンジは、本部に連絡をいれた。

「綾波も無事です!」

通信機の向こうに喚声が上がる。

「それと、‥‥ 街は?」

走ってきたところはクレーターにしか見えない。
ロンギヌスの槍もあった。作戦は失敗だろうか。あの瞬間、 何が起きたのかシンジにも良く分かっていなかった。
零号機が割り込んで来て、AT フィールドが展開され ‥‥ ?

「新市は無事だ! しかし君達の居る場所の方が危ない、すぐ迎えをやる」

マコトの声。

「綾波、やった! みんな無事だ!」

シンジがレイに振りかえると、

「そう ‥‥ よかった ‥‥」

レイが目を閉じる。その声は、安堵ながら弱々しい。そう、まるで ‥‥
シンジはいぶかしんだ。

「綾波?」
「‥‥」
「あ、あやなみ!?」

体調をモニタできるプラグスーツの構造が、この時は仇になった。
胸に耳をあてることも手首を取ることもできない。
シンジはレイの首の動脈に指を当てた。
予感と違い、かろうじて脈はある。

「まだ生きてる」

通信機に向かってシンジは声をあげた。

「綾波が! 早くして!」
「意識不明にならないように適当に処置しておいて!」

突然、通信機からユイの声。

「そんな、だって、もうっ」


ありうべからざる新市の地震によってロンギヌスの槍の落下を知り、 ユイは新市封鎖を解いた。
本部のデータを読み始めたころには、 既にレイの体調モニタからは全くデータが流れてきていなかった。 エントリープラグから担ぎ出されたレイの顔がスクリーンに映しだされて、 新市のユイは集中治療室の準備を指示したが、 現状が分からないのでは治療の用意どころかシンジにアドバイスも難しい。
ユイは本部に尋ねた。

「レイの体調モニタ、なんとかならないの?」
「医療班が着くまであと 1 分ですから ‥‥」
「1 分!? チアノーゼ起こしかけてるのよ、心臓くらい止まってもいいけど、脳が」

シンジの銃創の瞬間治療を皮切りとして、 新市での治療技術は不完全ながら魔法の域に達しつつあった。 ただし本人の意識があるかぎり。
逆に、本人が自分を自分自身と消極的にも認識しない状態にある場合、 そもそも新市に入ること自体が危険だった。 つまり、自身の新市内の再構築失敗、ひいては消滅の危険が伴う。

最も高度の治療を要する者ほど、治療を受けられない。
この図式に思い至るたびに、ユイは神の手の存在を感じないわけにはいかなかった。
無制限の治療技術は、確実に地球を破滅に追い込むであろうから。
しかし今は、その神の手が恨めしかった。

「医療班、到着しました!」

その声に、ユイはモニタに視線を戻した。
レイの体調モニタの回線が次々に回復していく。
そのデータはレイが意識を戻していること、 血圧の低下、重度の不整脈を示していた。 その他、血液中の酸素濃度低下、炭酸、乳酸の増加。

「これなら ‥‥ こちらでいけそうね」

ほっとしたついでにシンジのデータを眺めれば、 心拍数増加、発汗、血圧の上昇、体温の上昇。

「あら? どしたのあの子」


シンジは応急処置、緊急医療の話を必死になって思い出そうとしたが、 生死に無頓着だった一年前に聞いたそんな話が頭に入っているはずはなかった。
声をかける位しかできない。

「綾波っ!」
「碇君 ‥‥」
「気が付いた? よかった ‥‥ 寝ちゃだめだって、母さんが」
「も ‥‥ 駄目 ‥‥ そういえば ‥‥ もう、次の私は居ないんだっけ ‥‥」

かすかに唇を歪める。
諦めたとも、自嘲ともとれるその儚い笑いにシンジはレイを抱きしめた。

「そんな笑い方しちゃだめだ!
‥‥ そりゃ笑えばいいと思うよって前に言ったけど、
そんな笑い方しないで ‥‥」
「それ ‥‥ 知らない ‥‥」
「そっか、ごめん、綾波、って、綾波っ!」

再び目を開けるレイ。

「さよなら ‥‥ でいいのよね‥‥‥ 碇君 ‥‥
一つだけ ‥‥ 訊いていい? ‥‥ 」
「元気になったら聞くから」
「ずるい ‥‥」

青黒い顔のまま口を尖らすレイを見てシンジも微笑む。

「‥‥ 大丈夫?」

ヘリの音。

「ほら、来たよ!」
「‥‥っ」
「え、何?」
「碇君、好き ‥‥」
「あ、あやなみ!?」

その時、ヘリが着地した。


ヘリに乗る二人を映したスクリーンを眺めながら、冬月はゲンドウにつぶやいた。

「‥‥ パイロットは生き残っても、これで初号機だけになったな。
さすがに、もう無理だろう」

スクリーンに目を戻す。現地の状況はコアどころではない。
不自然なほど見通しが良く、何か残っていることを期待する気にもならない。

「雨が降れば第四芦ノ湖かね」

いつのまにか空は曇っている。

「箱根温泉郷は全滅か ‥‥ 近場で良かったんだがな ‥‥」

一つ呟いて気を取り直し、下のマコトに報告を促した。

「地下のマグマの様子はどうなってる?」
「今の所は特に問題ないようです」
「そうか」
「あ、それと」
「何かね?」
「第二新東京市、松代への直通回線が全て落ちました。
今は新富士市経由にしていますが、盗聴の恐れがあります」
「ケーブルの真上だったからな」
「はい」

チルドレンの治療を除いて、急ぐべきことはもうない。 ようやく本部も落ち着きを取り戻していた。


結局、レイは新市に入ったところで再び気絶し、 その状態で病院にかつぎ込まれた。

「綾波は! 綾波は ‥‥」

シンジは ICU 室に足早に向かうユイを見つけた。

「‥‥ もう、大丈夫よ。必ず、治す‥‥ 死んでさえなければ。 心配しなくても大丈夫。 私は奇跡を起こす係なのよ」

青白い顔をしているシンジにユイは微笑みかけ、

「そんな係があるの?」

ぎこちなくシンジも笑みを返した。

「シンジの傷が治ったのって十分奇跡だと思わない?」
「じゃあ、綾波も大丈夫なんだね?」
「‥‥ まだ、生きてればね。死んだ人間は、ちょっとね ‥‥」

関係者以外立ち入り禁止のドアをユイが開けると同時に声が掛かる。

「蘇生しました!」
「じゃ、行ってくるわ」

一度だけシンジを振り返ってユイは中へ消えた。


病室で目を覚ましたレイは軽い吐き気を堪えてため息をついた。

「そう。‥‥ 私、まだ、生きてるの」

作戦の後、死ぬかもしれないと思ったことは覚えていた。
今の自分が生まれてからまだ半年にもならず、 生まれたばかりの自分の混乱はしっかりと記憶にあった。
そして今はその時のような混乱はない。
だから、この自分は昨日までの自分と同じ自分であるはずだった。

「‥‥」

これは全てを思い出したあと、朝起きるたびにまとわりつく恐怖感。
今の自分が死んでしまえばそれで終りと感じているのはレイに いくばくかの安心感をもたらしていたものの、 まだどこかに残っていたかもしれない身体が起き上がったのが今の自分では、 という恐怖が拭い去られた訳ではなかった。
もう、それほど気にしなくなっていたとはいえ、こういう時はまた別だった。

「は ‥‥」

この恐怖を頭の隅に追いやって一息つくと周囲が目に入ってくる。
窓の外の陽は高い。おそらくはまだ昼 ‥‥ すぎ?
あいかわらず無意味に広い病室。そろそろ嫌になってきた、見なれた天井。

「綾波、起きた ‥‥?」

シンジが顔を覗かせた。

「あ、碇君」

目があったとすぐに顔が赤くなったシンジのその理由に思い当たって、 レイは目を逸した。
背後にシンジがベッド脇に椅子を引き寄せて腰かける音。

「‥‥ えっと、あやなみ、元気そう ‥‥ だね」
「ん ‥‥ 気にしなくていいから」
「え ‥‥ でも、そういう ‥‥」
「‥‥ ちょっとこっち来て」

シンジに向き直り、 レイは手だけ布団から出して手招きした。

「な、何?」

シンジが椅子を近付ける。

「ここに頭、置いて」

掛け布団を軽く叩く。

「え、?」
「ほらここ」
「‥‥ うん」
「‥‥ いい子、いい子」

シンジがよく分からない表情のまま、 レイの言う通りに顔を布団の上に伏せたところで、 レイはシンジの髪を撫で始めた。

「あ、あやなみ?」
「碇君、私の、ユイさんの子供でしょ? だから、いい子、いい子 ‥‥」
「綾波、って、ちょっと、え、‥‥ ?」

レイの手が止まり、その手がこわばる。

「‥‥ アスカより早く出会ってれば良かったのに ‥‥」

レイの手から力が抜け、シンジが起き上がると二人の目が合った。

「綾波 ‥‥。アスカより早く会ってるよ ‥‥」
「そういえばそうね。じゃ、私が出遅れたのが敗因」

その頃の自分は、レイはあまり自分のような気がしていなかった。
レイは軽くちゃかすように言いながら、上体を起こして視線を外す。

「そうでもないかも ‥‥ 綾波が気になってたのは確かだし、」

自分の表情が硬くなったのをレイは感じとった。
シンジの声も小さくなる。

「って、あ、その、ごめん」
「いいわ、別に ‥‥」

レイは布団を握り締めた。

「だって、これ、やっぱり私の心なの? ずっとユイさんの心だと思ってた ‥‥
今更、‥‥ 分かったって ‥‥‥」

布団を見つめ続けるレイから微かに嗚咽。

「‥‥ そうでもないよ。綾波。新市に来る時に僕の心もいじられた。
僕だって ‥‥ 自分の心かどうか、よくわかんないもの」
「いまごろ、そういうこと言う!? っつ」

半身を捻りシンジを睨んだ瞬間、身体に激痛が走り、レイは顔をしかめた。

「あ、綾波、大丈夫 ‥‥ なの? 呼ぶ?」
「‥‥ いい ‥‥」

レイはおとなしく横になった。シンジも一息つく。

「だって‥‥ 僕や綾波の気持ちがどうあれ、
兄妹? みたいなものだろ ‥‥ どっちにしたって ‥‥」
「それは知ってる。でも実感なんてなかったもの」

沈黙が拡がる。新市が生まれた頃を思い返す二人。

「ごめん。やっぱりユイさんの想いが残ってるんだと思う。
それに事実は変えられないものね」
「‥‥ うん」


「どうも、綾波レイですか、無事だったようですね」
「そう。ありがとう」

ミサトは厳しい表情のまま、言葉を返した。


第 21 話 自らの心のあり方をシンジはユイに問う。 次回 嘘と信じること
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