Genesis y:19 追う者と追われる者
"Doubt!"


「帰っちゃ駄目ってなんでよ? こっちの工事は全部おわったんでしょ?」
「新ミュンヘン市の? もう完全に機能してるがね。
気候をいじってるから、その点はまだ様子見だ。
それに、17 年ぶりの祭だぞ。お前も見ていけ」

アスカはアレクに憮然とした表情を返した。

「‥‥ そんなの興味ないわ」

祭そのものは嫌いではなかったけれど、 心に刺を残したままでは楽しめる筈がなかった。
槍のこと。
ただ、猶予の 2 週間を過ぎたにもかかわらず、落下の話は未だに聞かない。


その日、 アスカがたまたま髪留めのインターフェースクリップを 着けていないのを知ったアルは、アスカの部屋に侵入した。

「いやあ、これが置けるまでは気が気じゃなかったからなぁ」

手にあるのは盗聴器、発振器。

「さて、どこかな?」

髪留めを探す‥‥ までもなく机の上。
外すか留めていくか、迷ったというところだろうか? それをポケットにしまい、同じ場所に盗聴器、発振器を置く。
3 課特製。
インターフェースクリップと同じ形。
形、重さ、表面仕上げだけでなく、重心、 そのまわりのモーメントまで本物に合わせてある。
新ミュンヘン市が完成するまでは、 インターフェースクリップを盗聴器と交換する訳にはもちろんいかなかった。

「さて、これ、余った ‥‥」

別の、ごく普通の盗聴器を取り出して目の前にかざす。
ドイツにアスカが来た時に身につけていたコートにつけることにする。
他に選択基準もない。
ただ、いずれにせよ。

「日本に向かうときはインターフェースクリップ、 つけてくだろうからね」

ざっと部屋を見回して不自然なところがないのを確認してから、 アルはそっと部屋を出た。


「え、どういうことです? 気候管理、まだ不安定なんですか? そういうことは聞いてませんが ‥‥」
「念のためだよ。そういうことにしておいてくれないか?」
「気候管理が万全でなきゃ、移行なんてしませんよ?」
「万が一というのは考えなくてよいのかね?」
「そりゃそうですけど、‥‥ なんで保健局のあなたが口だすんです?」
「一般市民の不安の代表、とでも思っていてくれんか?」


朝 9 時。
入って来ていた連絡を見て、アルは目を見開いた。

「明日ねぇ ‥‥
あれ? よくないなあ ‥‥ これだと今日の飛行機で間に合っちゃう」

今日明日の予定表をウインドウに表示させる。

「黙っていた方が簡単ではあるが ‥‥」

軽く頭を振って、アルは電話を取り上げた。アレクの所へ繋ぐ。

「おはようございます。惣流博士でしょうか? アルです」
『アル君? なんだね』
「今日ですね、もし時間があるようでしたら、適当な名目をつけて、 アスカを食事にでも誘っといて頂けるとありがたいのですが、 どうでしょうか?」
『‥‥ それはかまわんが、
このあいだ、君が言ったことと違うんじゃないかね?』

言葉に微かに揶揄する調子がある。
先日、 どうにもアスカと話が通じないのをアレクに愚痴られた時にアルが非干渉、 不介入の原則を宣言し、話を切り上げてしまったことを言っているらしい。
宣言した方は忘れていたが、聞いた方は覚えていたという訳である。
いかにも面倒そうなことに口を挟むアルではなかったし、 翌日、アスカの生い立ちを覗き見て、宣言が正しかったことを確信してから、 きれいさっぱり忘れていた。
頭の中で舌打ち一つ。

「僕は、 あなたがた父娘の関係について口を出すつもりは今も無いですよ。 これを機会にするなりなんなりするのは博士の自由ですが」
『‥‥ なら理由を尋いていいかね?
君が自分のポリシーを曲げてまで、 口を挟んで来るというのはよほどのことがあるのだろう?
しかもそれが娘に関係してくることらしい。 私には尋ねる権利があると思うのだが』

親権というものについて一度は辞書を引いてみるべきだ、 と思わないでもない。

「今日、ことによっては、アスカが抜け出す可能性があるんで、 ちょっとでも保険はかけとこうと思いまして。
あなたが彼女を拘束していただけると、 僕はたいへん助かるんですよ」
『なんて奴だ ‥‥ 私を監視員のかわりに使おうというのか?』
「いえ、単に利害の一致ってやつです ‥‥ と思って頂けませんか?」
『それはそうなんだがな ‥‥ 分かった』

受話器から耳を離してそれを見つめる。 この程度で話を受けるとは思わなかった。
これほど押しに弱い人物が、 娘に関してあちこちで無理を通している姿、なかなか想像が難しい。

「ああ、それと。本部に槍が落ちて来る前に、 彼女が日本に向かうんでなければ、 博士はそれで良かったんですよね?」

この間の話にでてきたアレクの動機、ただし多分に表向きのそれ、を使って、 もう一つ保険をかける。ただし今度は逆の意味の。

『ああ。槍が落ちた後も、引き留めたいものだがな。個人的にはな ‥‥』

必要な言質はとった。

「伊吹博士の帰国と同時に向こうへ帰る、 というのは僕には止めようがありませんからね。
引き留めるんなら、ちゃんと自分でやって下さいよ」
『復活祭にさそってさえ返事をせん。私にどうしろというんだ ‥‥』

そんなことまで知るものか!
アルは適当に切るタイミングを見つけて受話器を置く。

「逆効果になることばかりやってるからな。自業自得だと思うけどね」

すでにアスカには用が無い筈なのにドイツに引き留められているのは、 基本的にはアレクがあちこちに手をまわしているからだ、 ということをアルは知っていた。
それも、いっそ感心する程の精力さで。


「完成祝いということで、今晩、どこか食べに行かんか?」

一向に自分の気持ちを考えてくれないアレクに腹も立てていたけれど。

「‥‥ いいわよ」

今日、一日くらいは。アスカはそう思った。
早急に帰るつもりでいることだけは、分からせなければならない。


『娘が OK したぞ。君が何かやってくれたのかね?』

そんな心当たりはまったくない。

「いえ、僕は何もしてませんよ。 ‥‥ もうすこし御自分を信頼されてみたらどうです?」

無事、保険が掛かったことへのお礼としてのアドバイス。

「たとえば、僕がなぜ、今日アスカが飛び出すと思ったか ‥‥ アスカが何を考えているか、考えたことあるんですか?」

ややむっとしたらしい。

『‥‥ 君に言われるまでもない』

そんなこと言ってる間は何も変わるまい、 と思わないでもなかったが、これ以上は過干渉にあたる。 そう思ってアルは電話を置いて、立ち上がった。

「さて、話してくるか」

背を伸ばす。
打てる手は一通り打った。

「黙っていられれば一番、楽なんだがね ‥‥」

これは、その後のことを考えると放棄する他ない。
アスカの行動が想像の範囲内に留まるようにすること。 それは、限りなく最優先事項に近かった。

ロケットのところまで連れていけ、という言葉をアルは思い出す。
あの時はダミーの警戒の緩い、 ということはある程度は安全な代替案でごまかすことができた。
しかし何時も何時もそういう都合の良いものがすぐに出て来るとは限らない。


コンコンコンコンコン!
妙に煩いノック。こういう礼儀知らずは彼しかいない。

「そのノック煩い! アル! いい加減止めてよね!」

ドアに向けて怒鳴る。

「名乗る分が省けていいじゃないか」

ふざけた返事がかえってくる。
このやりとりの時間があれば名乗る時間もとれる、と毎回アスカは思う。 実際、急ぐ時にはまともなノックになっている。
人を不愉快にさせることだけは妙に上手な奴であることを、 再認識させられるノックだった。
面と向かって怒鳴るべくドアに向かうが、 しかしノブを掴む前に僅かに怯む。
アルの知らせが良い知らせだったことは少なかったから。

「‥‥ で、何の用?」

声は怒ったままにできた。
アルの表情からは何も読み取れない。

「本部の方で、槍を相手の作戦が動き出したぞ」

遂に。

「結局、槍を、どうするんですって?」

少し震えた。
アルは戸口に凭れている。見られたかどうかは分からない。

「弐号機をおとりにして第三新東京市から外させるらしい。 そういうことができるなら、発想はまあまあだな」

完全に他人事の口調。

「あ、あたしの弐号機!」

人が居ない間に勝手に!
アスカは一瞬、槍のことを忘れてアルに掴みかかった。

「諦めるんだな。それで街と人が助かるなら、アスカはそれでいいんだろう?」

アスカの手を外させ、アルが答える。

「それはそうだけど ‥‥ 成功率は?」
「54.1% だそうだ」
「へえ、誰が立てたか知らないけど、やるじゃない。 そんな数字、初めて聞くわ」

その千分の一位は覚悟していた。
とはいえ、それでも、たった 54.1%

「安心したか?」

アルの声にも、表情にも、人を安心させるものはない。
こちらを窺う表情と淡々とした声。

二つに一つ。
アスカは俯いた。安心とまではいかない。二つに一つなら。
はるかに零の多い作戦ばかりだったため、
自分が関係していたなら安心できる数字ではあるのだけれど、
見ているだけとなると、微妙なところではあった。

「で、作戦はいつ?」

アルの視線を捉えて尋ねる。

「明日、こちらの時間で午後 2 時から地域空域の封鎖、
作戦開始は午後 8 時。
‥‥ 名前はアルノール作戦、だってさ」

微かに微笑んでいるアルを、アスカはじっと見つめた。
ドイツに戻って来てから、アルを振り回したという自覚はあった。
とすれば、作戦前に日本につく最後の飛行機になる、
今日の第三新東京市行きの飛行機に向かうかどうか のチェックは厳しく入っているだろう。

「もちろん、今日発の飛行機だと作戦に間に合うが、 そんなのに乗らないようにね」

考え込んでいるところへ、アルが釘を刺す。
それに今日はアレクから食事の誘いがあった。
疑心暗鬼に捕らわれる。これは偶然か?

「どうした? アスカ」
「作戦の話がこっちに伝わったのは何時?」
「今日の明け方に来てた」
「‥‥ あんた今日、今まで何してたの?」
「おいおい、
諜報部の人間にそういう事を訊いてまともな答が返って来ると思うのか?
いろいろ仕事はあるんだって」
「それは、まあ、そうね」

今日はいい。
明日は、作戦のさなかは ‥‥ 何かしていない訳にはいかない。
アスカは心を決めた。
その様子を見て、アルも今日一日の監視のことを思わざるを得なかった。


午後 5 時。
飛行機がまもなく飛び立つ時刻。

「違ったかな ‥‥?」

出かけるアスカ、アレクの二人の姿。
今からアレクを捲いても、もう間に合わない。

「まあ、飛び出さないなら、その方が僕も楽だ」

引き留めるだけならともかく、 その後始末は面倒だ、ということに決っていたから。

「保険の意味、あったというところかね」


翌日。

アスカは荷物をまとめた。
荷物を持っていては、阻止されるのが分かり切っていたから、 旅行といった格好では出られない。
ドイツに持って来た荷物のほとんどを置いていかなければならないが、
あとで送ってもらう時のことを考えてまとめておく。

「これでいいかしら ‥‥?」

日本に着けば、さぞかし暑いことだろうと思うが、 ドイツに居る間は薄着でいる訳にはいかない。
こちらに来た時に着ていたコートを羽織る。
時計は午後 3 時。

「日本では、もう始まってるのね。あたしも、作戦開始」

部屋を出た。

「一週間、保安局から逃げ切った腕、みせたげるわよ、アル ‥‥」

あまり記憶になかったが、さまよい歩いて一週間、 捕まらなかったという事実自体はミサトから聞かされていた。
シンジでさえ 2 日捕まらなかったと聞く。今日は、ほんの半日、 捕まらなければ日本にたどり着ける。
問題になるのは空港。それまではただの散歩にすぎない。


「って、言われてもなあ ‥‥ せめて服につけた盗聴器 を見つけ出してから言ってくれないかな。そういうことは」

アスカの姿が消えたのを知ったアルはイヤホンをはめ直した。
まだ近くに居る。

「髪留めの発振器、盗聴器まで見破れ、とは言わないからさ」

イヤホンから漏れて来るアスカの決意を聞きながらつぶやく。
アスカの位置は、アルの前方およそ 50m ほどらしい。

「そのまま空港 ‥‥ かい?
せめてもうちょっと旅行業者に寄り道するとか、 僕を捲く努力するとか、いろいろあると思うんだけどなあ」

まっすぐに空港に向かっている。

「ほんとに監視されてると思ってんのかね」

離れすぎて護衛の意味が無いのでもうすこし近くによることにする。

「だいたい、なんで出るのに 昨日じゃないんだ? ‥‥ 多少、意表は突かれたけど」

確かに昨日とは比べるべくもなく監視は甘い。 空港までは大人しくついていき、 空港でポケットからオペラグラスを取り出した。
航空券を持っていないことは分かっているので、 まずは発券カウンターを見ていれば良い。
アスカが、どちらの売場にも向かっていないことは耳をすましていれば分かる。
近い側の売場自体と、遠い方の売場への通路を同時に監視できる位置に構えた。


途中で業者に寄って、航空券を買えないのは痛いとアスカは思う。
自分で使うことができないということになっている以上、 買ったそばから奪られる。
これだと空港での滞在時間がどうしても長くなる。

「でもさすがに、これは仕方ないわね」

すると、空港では航空券を買って、搭乗手続きをして、搭乗ゲートをくぐって、 飛行機に乗って、という手順を踏むことになる。

「券を買うのと、搭乗手続きが同じカウンターにないのよねぇ ‥‥ あの空港は」

隣のカウンターの係の人に頼まなくてはならない。
実は、 空港までに買ってしまって逃げるのとたいして変わらないだろうか?
得失を考えているうちに空港に無事、着いた。
ここまでは妨害がない。
後ろを振り返るが、それらしい人影も無い。

「監視は、されてんのよね ‥‥」

すでに監視を捲いてしまっている場合。
その場合は、いずれにせよ飛行機に乗ることができるから、 監視はいるけれど、まだ見逃されていると思う方が安全。

「まずは航空券、買わないと」

売場の反対側にまわり、階を一つ上がってターミナル入口の人の流れを見る。
発券カウンターの監視は、誰でも思いつく。
買うためにはしばらくその前にいなければならないのだから。

「あれかな?」

ふたつの売場両方を押える位置に、どうやらアルとおぼしき人。

「まあ、ここしかないものね」

しばらく眺めていると、動いた。

「場所を変えるの? いまなら買えるかしら」

アスカはカウンターへ降りていった。


「あ、まずいや」

監視に都合のよい場所だけを探していた。
この場所は、今アスカが居る方向から丸見えの筈。
場所を変える。

「んー、見つかっちゃったかな?」

しばらく首を捻っていると、 これまた正直に発券カウンターにアスカが現れた。

「入口から遠い方にいくとか、もう少し考えろよ ‥‥」

オペラグラスでその様子を眺めていると、とんでもないことをやろうとしている。
カードを取り出している。

「おいおい、‥‥ カードで券なんか買うなよ ‥‥」

と、その声が聞こえたようにアスカの手が止まった。

「そうそう。ちゃんと現金で ‥‥ って、あれ?」


アルがいったん姿を消した場所の脇で、 オペラグラスをかまえている人が居るのを正面の飾り鏡で発見した。

「こんなところでオペラグラスなんか使ったら目立つでしょうに ‥‥」

見えないように笑うと同時に、何時でも走れる用意。
カウンターで飛行機の状況を聞きながら、 その姿をぼんやりと眺めていると、捕まえる気がないように見える。

券を買おうとしてカードを取り出すと、アルの空気が一変した。
おもわず体が力が入る。‥‥ が、落ち着いてよく見ると、呆れている、らしい。
さすがに遠くてよくわからない。
手に持った自分のカードを眺めると、マークこそないがネルフ発行のもの。
確かに航空券でも買えば一発で連絡が行くだろう。
捕まる前に飛行機が出ればすむ話だとはいえ。

「アルが呆れるのも無理ないか ‥‥ ということは見逃してくれるのかしら?」

サイフを取り出して中を確認するが、 もともとカードで買うつもりだったため少し足りない。
アスカは後ろを振り返った。アルと思しき人はまだそこに居る。
なにげにそちらへ歩き出すと、その脇の植木鉢裏、 向こうむきに置いてあるソファに隠れた。
鉢をまわって、ソファーの前に立つ。
アルがそれに座って紙袋に手を突っ込んでがさごそ何かやっている。
頭の上から声をかけた。

「アル。お金貸して」
「あら?」

アルがこちらを見上げるのを、アスカは軽く睨む。

「早く」
「‥‥ 監視についてる人に、逃走資金借りに来るなよ ‥‥ キャッシュコーナーならあそこにあるぞ」

呆れた声でアルが右手奥の壁際のコーナーを指し示した。

「‥‥ なんで捕まえないの?
見逃してくれるんなら、お金貸してくれてもいいじゃない?」
「公式には、空港に散歩に来てることになるだろうからなあ ‥‥」

ゆっくりとソファーに体を沈めたアルの答。
開きなおっている。

「券を買ったら、何に使うか訊くさ。それまではアスカの自由だよ」
「‥‥ やな奴」

しかし今はキャッシュコーナーに向かうしか方法は無かった。
アルがとりあえずは応援を頼むつもりがないのなら、 自分から余計な追っ手を増やす訳にもいかない。


アスカがコーナーに向かうのを、微笑みながらアルは見守った。

「第一ラウンドはなかなか楽しかったが、 まさかこれで終りなんてことはないよな?」

ごく素直にキャッシュコーナーから、カウンターへ戻っている。
無事、航空券を買ったらしいところでアルはカウンターに向かった。
チェックインカウンターは発券カウンターの隣。
飛びついて手続きを始めるようでも、確実に止められる。
走って捕まえに行く必要は無かった。
しかし、アスカが逃げない。カウンターに凭れ、こちらを見ている。

「ちゃんともう一幕あるらしい。何を見せてくれるのかな ‥‥ ?」

アスカの眼を見つめたまま近付く。

「さて、アスカ、その券はどうなされるおつもりで?」

軽く尋ねる。

「ちょっと日本までお散歩に」

軽い返事。

「市外へ出る理由として、散歩は認められませんね。お帰りねがえますか?」

そして軽く要請。

「あんたの尾行、下手だってばらすわよ」

睨んだ顔で低い声。脅しているつもりらしい。

「どうぞ、御自由に。券を渡してくれるかな。払い戻ししてくるから」

悔しそうな顔。これが切札か。それを無視して、アルは手を出した。

「‥‥ はい」

アスカがアルにすれ違うようにして、券をアルの手に置いていく。
券を受け取ったアルはカウンターへ向き直って告げた。

「これ、払い戻しお願いします」

カウンターの係が眼をぱちくりさせていた。


アルが自分に背を向けたのをみて、アスカはつぶやいた。

「アルも甘いわねえ ‥‥」

自分が視野に入っていない。カウンターは視野に入っているので、 確かに航空券を買う事はできないけれど。
ゆっくりと、アスカはアルからは死角になるチェックインカウンターに向かった。
気は焦るが、さすがにアルに聞こえるところで手続きができる訳がない。

「お願い!」

小さい声のまま、いきおいよく航空券をカウンターに叩きつける。

「お荷物は?」
「無いから、早く!」
「お席は?」
「禁煙席ならどこだっていいわよ!」

じれる。アルがいつ気がつくか。ゲートをくぐるまでは安心できない。
ことによっては、飛行機を止められてしまう可能性もないでもないけれど、 それの対策はさすがにアスカには思いつかなかったので、無視する。
その時は、その時。

「よいお旅を」
「ありがとう!」

目の前に置かれた搭乗券をひっつかんでゲートへ急ぐ。
アルの姿はまだ見えない。


背後のアスカの気配が動く。

「まだ、諦めないか」

第三ラウンド開始ということか。
しかし目の前の発券カウンターが使えないなら、 その向こうの売場ということで、それはここから 100m 先。
さらに、その裏にあるチェックインカウンターまで行かなくてはならない。
とりあえず、払い戻しをうける。

「払い戻し手数料分くらいは面白い芝居だったんだけどね。
そろそろ終りかな」

金をしまい、 紙袋から受信器を取り出して、イヤホンを耳にはめ、発振器の現在位置を調べる。
急いで一番うまくいった場合で そろそろ発券カウンターからチェックインカウンターに移る頃。
しかし、

「いつのまに?!」

発振器の方向を知ってアルは驚きの声を上げた。
券を買いにカウンターに戻った様子は無かったにもかかわらず、 なのに、いつのまにか搭乗ゲートをくぐってしまっている。
アルには、それほど時間の余裕を与えたつもりは無かった。

「発振器が外された可能性は無い ‥‥」

搭乗ゲートをくぐってしまっているからには、 手荷物だけの人に発振器を付けなければならない。
そういう人に発振器を気付かれないように取り付ける技量があるとは思えない。

「こともないか?」

手荷物の口やコートのポケットが開いている人がたまたま居たという可能性。
アルは盗聴器受信圏内に急いだ。
まさか盗聴器がばれているとは思わなかった。
これが切札の本命ならば、今ごろは本気で逃げている。
チェックインカウンターは三ヶ所。一人では監視しきれない。
表情が知らず知らずのうちに真剣なものにかわる。

「あれ? これはアスカの声 ‥‥」

アルは立ち止まって耳を押えた。


搭乗ゲートをくぐり、一息ついて、次は手荷物検査。
荷物を持っていないアスカは簡単に通過できるつもりでいた。

ビー

「なによ。これ」

現金その他、金属物と思うものを脇に置く。

ビー

「もう、持ってないわよ!」
「こちらに来てもらえますか」

警備員が手招き。アスカは肩をすくめた。

「はいはい。‥‥ でも、何も持ってないってば」

携帯探知器で調べる係員。

「無いようですね ‥‥ もう一回くぐってもらえますか」

ビー

アスカは少し考え込んだ。
アルが探知器、あるいはアスカの身につけるものに細工した可能性。
その場合にはここを通れないだろう。アルの余裕を、 アスカはようやく理解した気になって青ざめた。

「あ、そうだ」

髪留めの中はたぶん金属製。髪は乱れるけれど仕方がない。

「これでどうかしら」

鳴らなかった。アスカは拍子抜けした。アルとは関係ないらしい。

「‥‥ こんなのに反応しないでよね! 髪直すの大変なんだから!」


手荷物検査のところで揉めている。
搭乗ゲートをくぐったのはアスカ本人であるらしい。
本人が通過してしまっているというのは、 今回に限っては発振器がばれてしまっている、ということより悪い。
引きずりだすこともネルフ権限で出来ないことはないが、許可がいる。
アスカがドイツに居なければならない理由が希薄になっている今、 騒ぎを起こす許可が降りるとは思えなかった。

「これは ‥‥」

考える時間もない。やむを得ず、 アルは支部へ電話をかけ、自分が日本についていく許可をとった。
それと、本部へ電話。迎えをよこすように。
もっとも、今は作戦行動の真最中だから、民間の電話からでは伝言が精一杯。

「こっちの保険まで使うはめになるとはね!」

そんなことを考えながら、 アルは自分も航空券を買って走りかけて、 邪魔になった探知器をみてつぶやいた。

「‥‥ これもあったな」

出発できなくなるならともかく、 着陸時に事故でも起こされてはかなわない。

「仕方ない」

アルは発振器の電波を停めた。


アスカは結局、無事、飛行機の自分の席までたどり着くことができた。
手荷物が無いので毛布と枕だけ確保すれば終り。トランクは使わない。

「‥‥ 日本を出る時は問題にならなかったのよね」

髪留めをつけ直しながらつぶやく。
手荷物検査ゲートでの揉め事には多少、焦りもしたけれど、 ここまで来てしまえば笑い話にしかならない。
インターフェースクリップがけっこう複雑な機器であることを すっかり忘れていた。
昔のミュンヘンの検査よりも今はすこし厳しくなったらしい。
いままでに鳴った記憶はない。
アスカは席を整えて座り直した。さて、のこる問題は ‥‥

「さすがにあたしがこの飛行機に乗ったことは知ってるわよね」

なにしろ、この時間帯はこの飛行機しかない。
席にもたれて目をつぶる。
飛行機を止める方法はアスカにもいくらでも思いつく。
管制塔に電話一本で飛行機は止まってしまう。
アルがそのことに気がつかないはずがないから、 あとは彼の判断一つ。

「2 日でいいから!」

新ミュンヘン市のためにアスカをまだ必要とするとしても、 明後日には戻ってこれる。
作戦前ならともかく、作戦後に着くのだから、 アスカに危険が及ぶことはない。

「すぐ戻って来るから ‥‥ お願い」

しばらくして、飛行機が走り出す。
アスカは目を開けた。
まだ、日本に着く前に引き返される可能性はある。
しかし、 アスカがこの便に乗っていることを知っていて出発を遅らせなかったのだから、 いまさらそういうことはほとんどないだろう。

「アル ‥‥ ありがと」

肩の力がようやく抜けた。


シートベルト着用ランプが消える。
アルは飛行機の中を散歩しはじめた。アスカの場所が分からないので、 全部みてまわるしかない。

「はあ ‥‥」

前から順に見て行く。
‥‥ 居た。アスカの隣の通路側の席は空いている。
近付くと、アスカと目が合った。


「あら、アル」

通路の向こうからやってくるアルが困惑の表情を見せているのをみて、 アスカは微笑みかけた。
アルが背もたれに手をかけ、屈んで顔を寄せる。
小声。

「あー、アスカ?」
「今から飛行機をとって返させるの?」

アスカもささやき声。

「‥‥ さすがに、そこまでは出来ない。
この飛行機に乗る前に、支部と本部には連絡を入れておいた。
日本に行く許可はとったよ」
「あたしの勝ちって訳ね」
「‥‥ だな」

身を起こしてアルは嘆息し、隣の席に腰を落とす。

「ところで、どうやった? 券を買う時間は無かった筈だ」

よほど気になっていたらしい、この言い方。
得意気な調子を抑えるのにアスカは苦労した。

「あなたに渡した券を買う時に、二枚同じの買っておいただけよ」
「‥‥ やられた。なるほどな ‥‥」

アルが腕で目を覆っているのを眺めて微笑んでいると、アルの言葉。

「飛行機がとんでる最中に、 飛び降りて逃げるつもりがないんなら、俺は寝るよ。いいか?」

妙なことを心配している。アスカは僅かに首を傾げた。

「どうぞ。さすがにそんなつもりはないから」
「いらんお世話だとは思うが、アスカも寝ておけよ。 日本では夜中だぞ」
「‥‥ 眠れると思ってんの ‥‥?」

理不尽なことを言われたような気がする。

「いや。だから、いらんお世話だとは思ったんだけどね。
向こうに着くのはドイツ時間で午前 6 時。 起き抜けの顔で向こうの連中と顔を会わせたくなければ 寝といた方が良くはないかねぇ」
「‥‥ おやすみ」


アスカが素直に寝るつもりになったのを認めてから、 アルも横になって寝たふり。

「おやすみ」

しばらくして、 アスカの呼吸が睡眠のそれになったのを感じとったアルは目を開けた。
イヤホンを外していた、という単純ミスを思いやる。

「本気で手抜き出来なくなってきてるなあ ‥‥」

アスカに毛布をかけ直す。

「日本の連中はさぞかし、手を焼いてるんだろうねぇ」

話に聞くサードチルドレンの行状と併せて考えるに、 本部の彼らの上司の苦労はあまり想像したくない。

「そういや、ミサトさんだったっけね」

それなら苦労は、‥‥ いや、上司でなく、別の人にかかっていただけか?
時間を見れば槍の落下まで既に 3 時間を割る。
アルは両手を頭の後ろに組んだ。

「この飛行機が着陸できるようなら。
第三新東京市は、まあ無事だってことだ。
無事でないなら、‥‥ そもそもこの飛行機は第三新東京空港に着陸することはない。
寝てても起きてても、手も足も出ないのには変わりないさ。
その時になって、飛行機から飛び降りてくれるなよな」


第 20 話 エヴァ全ての鼓動が今、止まる。 次回、二つの想いの狭間
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